越えてきたドニエストル川に掛かる橋
ウクライナとモルドバ共和国間の国境

聖ミハイールの黄金ドーム修道院,
11世紀に創設された大聖堂は、キエフ大公家ならびにキエフ大公国の守護天使たるミハイール(ミカエルのウクライナ語読み)にちなんで聖ミハイール黄金ドーム大聖堂とよばれ、中世キエフの最も大きな教会の一つでした。1934年から1936年にかけて大聖堂や鐘楼などの建物は共産党政府機関を建設するために破壊され、文化財ならびに貴重品はロシアのモスクワやレニングラードの博物館に渡されました。現在の建物は、すべてウクライナ独立後の1997年から2000年にかけて再建されたものです。

トンネルの入口付近は混んでいました
手をつないで、あやかり写真
銃痕がそのまま残っている「ホルムスク門」
ブレスト・リトフスク条約が結ばれた白い宮殿跡
ブレスト要塞博物館

ミール城、
自然ののどかなミールの町にある中世の城、ミール城は、15世紀末から16世紀初めにかけてゴシック様式の城として建設され、何度も所有者が代わり最終的にはリトアニア大公国の大貴族であるラジヴィル家の手に渡り、ルネサンス様式の城として完成されました。その後、城は放棄され、さらにナポレオン戦争で損傷を受けましたが、19世紀末に修復されたそうです。ベラルーシの世界遺産であり、石造りの城は外壁が独特の漆喰による装飾が施され、ユニークな外観となっています。城の四隅には壮麗な塔が立ち、3階建ての宮殿に40室もの部屋があり、現在は、博物館として美しい姿を残しています

今日は、宿泊したホリディイン・キエフから空港に向かいウクライナ航空便でオデッサに行きます。

トラエツカヤ旧市街区,
戦前の古いベラルーシの街並みを再現したヨーロッパの雰囲気を感じられる市街地です。1890年代に学生ボランティアによって復元されました。ベラルーシの近代的な街並みとはまた違った、懐かしさを感じるような町並みが美しい人気の観光エリアです。すぐ近くにはアフガン戦で亡くなった人を悼むモニュメントが建てられた「涙島」があります。ほんの1ブロック程の小さなエリアですが、今では周囲との差がちょっと極端過ぎて、映画のセットの中にいるような不自然さを感じます。トラエツカヤ(聖三位一体)と言う地名は、かってここにあった聖三位一体教会に由来するそうです。

5日目(4月18日)

アンナ受胎教会
ウクライナ・ベラルーシ・モルドバ10日間

8日目(4月21日)

プリモールスキー並木通り
ポチョムキンの階段の上の港を見下ろす高台にある黒海を眺めながら歩くことができるのどかな歩行者通路です。この通りの西端に架かる橋が、恋人達が誓いとして橋の欄干に南京錠をかけていく「愛の橋」があります。ここから見えるオデッサ港の全長は約8kmで全長250m、吃水12.5mまでの船舶を収容できる国際港で海外の都市との間にフェリーや客船が定期的に運航されており、夏季には地中海などからのクルーズ船が寄港するそうです。

ペチェルスカヤ修道院,
988年、ウラディミール大公によって東方正教会を国教にしたウクライナで、1051年に創建された東スラブで最も長い歴史をもつ修道院です。ロシア正教の中でも数少ない「大修道院」の称号を持つ、ロシア正教ウクライナ支部の総本山となっています。見どころは入口の門の中に造られた12世紀初頭の「三位一体教会」や広場の中央にある修道院の主聖堂として11世紀建立の「ウスペンスキー大聖堂」などです。18世紀に建てられた「大鐘楼」は高さ96mです。 入場する際には、女性はスカーフ着用することが義務づけられています。本来ならば境内写真撮影は有料で建物内部は撮影禁止ですが、今日は、イースター祭日の為の特別儀式があるので撮影無料で建物内部撮影もOKとの事で、とてもラッキーでした。

宿泊したマリオットホテル系列のルネッサンス
ネスヴィジ(または、ニャースヴィシュ)城
ネスヴィジ城(宮殿)は、ミール城から30Kmのネスヴィジにある世界遺産です。1533年からの歴史があり、16世紀から19世紀にかけて王冠のない王"といわれ財力、権力をも持ち合わせていたラジヴィウ家という貴族の居城でした。ベラルーシの人々にとって「最も美しい城(宮殿)」であり、最も人気のある観光名所のひとつとなっています。宮殿は、今も水をたたえた堀のある城郭の中に立っています。内部にはバロック絵画が飾られているなど、面白い展示物もあり、 美しく再現された天井パネルやタイルストーブ、床の寄木細工などは、宮殿のかっての姿を彷彿させます。
ロシア(左側)とベラルーシ(右側)ビザ
今日は、帰国日ですが昨夜も雪が降り積もり、窓の外の景色も銀世界、ホテルの前も大雪が積もっています。道路も渋滞、車も雪に埋もれています。早目に空港に到着しましたが、季節外れの大雪で除雪作業が遅れて空港は一時閉鎖。11:30発モスクワ行きSU1847便が、なんと20:20まで遅延との事でしたが、ひとつ前の便に乗ることが出来ましたが、それでも15:00発でしたので結局、モスクワ乗り継ぎ便に間に合わずモスクワで延泊でした。
モルドバ共和国
モルドバは、東ヨーロッパに位置する内陸国で、西にルーマニアと、他の三方はウクライナと国境を接する旧ソビエト連邦を構成していた国家の一つでした。現在、ドニエストル川東岸地域が、沿ドニエストル共和国として事実上、独立状態にあります。国名はルーマニア北東部の川(モルドバ川)の名前に由来し、旧ソ連邦でありながら、ラテン系民族であるモルドバ人は言語的、文化的にルーマニア人との違いはほとんどなく、歴史的には中世のモルダビア公国以後、トルコとロシア、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域です。主産業は農業であり、主に小麦やブドウの生産に力を入れています。
ウスペンスキー大聖堂
宿泊したホテル・ウクライナ
現在、相互の国の外交政策とは言え、ヨーロッパ諸国の中でビザを求める国はロシアとベラルーシしかありません。こうした状況を経験すると偏狭なナショナリズムが、いかに人々の自由を奪っているかを実感した旅になりました。
出入り口の石灰岩の階段
レーニン立像と政府庁舎ビル
レーニン胸像と政府庁舎ビル
オデッサ港
イースターエッグ
どこまでも続くウクライナの穀倉地帯の、のどかな風景や道路脇の木の上のコウノトリが営巣している景色にはホッコリと癒されます。
聖シモン・聖エレーナ教会
著名なベラルーシ人市民活動家であるエドヴァルド・ヴォイニロヴィッチが、夭逝した自身の子供のシモンとエレーナを悼んで1905〜1910年にかけて建設した教会だそうです。中ではイースターのミサをやっていたので少し覗く程度でした。ソ連支配時代には映画館にされていたそうです。敷地内には長崎の浦上天主堂から贈られた鐘の記念碑もあります。ベラルーシもチェルノブイリ原発事故の時に、南風の影響で被害を受けたため、プレートの一枚には日本語とベラルーシ語で同じく放射能被害を受けた「ここに広島、長崎、福島の土を入れたカプセルが埋められている。」と書かれています。
リー・オズワルドの住居
勝利広場
第二次世界大戦では、ナチスドイツと旧ソビエトの激戦の舞台になり、ドイツ軍に街を徹底的に破壊され、人口の半分以上を失ったミンスク市民にとって、大きな意味を今でも持っているが1954年建立のソビエト連邦時代の高さ40mのオベリスク。地下には戦死者の追悼とソ連軍の活躍画があります。また近くには、ケネディ大統領を暗殺したと言われるリー・オズワルドは日本の厚木基地勤務時代にロシア語を学び、除隊後の1959年、ソ連に旅行に出かけ、そのまま亡命しました。アメリカのスパイとして疑われたが、ソ連当局はオズワルドにミンスクでの生活を許可し彼は、ここに住みソ連人女性と結婚し、帰国後に大統領を暗殺に関わりました。

ティラスポリの観光を終えてモルドバのキシナウに向かいます。ドニエストル川に掛かる橋を超えると沿ドニエストル共和国の境界です。入出国カードの回収だけで問題なく通過です。モルドバの入国審査はありません。

2017年4月14日〜23日

駐車場で埋もれる車
一日前のホテルの部屋からの風景
宿泊したブリストルセントラルパーク・ホテル
正面
独特なドームとオリエンタル風の柱が並ぶトラペズナ教会
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旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

成田に帰国

10日目(4月23日)

オルヘイ・ベッキの洞窟修道院
見渡す限りの平原と丘陵地帯が続くオルヘイ・ベッキ、小高い丘の中腹に、10世紀ころから修道士が断崖絶壁に洞穴を掘って、祈りの場としていました。要塞としての役割を担ったこの修道院は、ソ連時代に閉鎖されましたが、近年、再び修道士が戻り、隠居生活を送りながら祈りを捧げています。断崖に掘られた修道院は他では見られない稀有な修道院です。見晴らしの良い絶壁の上に建てられ、現在も修道士が生活をしています。

ミレスチ・ミーチワイナリー
モルドバはワインの産地としても知られ、あちこちに葡萄畑が広がっています。ギネス認定の世界最大のワイナリーで巨大ワイン貯蔵庫を見学します。世界最大のワイナリーで、地下に張り巡らされた通りの総延長距離は約200Km、車を走らせながら行くワインセラーには200万本以上のワインボトルが壁の棚に敷き詰められています。湿度は96%ほ ど、洞内の温度は約12℃、驚くべきことにこの環境は人的要素ではなく自然に保たれ、通年その誤差は殆どないそうです。膨大なワインボトル数を誇り、2006年にギネスブックに登録されました。見学の終わりには、ワインのテースティングを楽しみました。

7日目(4月20日)

朝、ホテルの部屋から外を見ると雪が降っていました。この旅行先の中では一番に暖かいところなのですが、、何んと120年ぶりの季節外れの4月の大雪で約50cmの積雪を記録して街は交通渋滞。特に主な公共交通手段であるトロリーバスは架線上の積雪や、街路樹が折れて架線に引っ掛かり断線して路肩停車して渋滞に拍車をかけていました。車も、あちらこちらでスリップ立ち往生状態でした。街の中心部のシュテファン・チェル・マレ大通りは徒歩観光しました。

キシナウ(Chisinau)@モルドバ
1436年に僧院の集落として形成され、モルダヴィア公国・オスマン帝国・ロシア帝国・ルーマニア・旧ソ連といった様々な周辺諸国による支配の歴史をもつこの街は、ルーマニア語で「新しい泉」を意味します。その由来となった泉は今でもプーシキン通りにあります。街は発展を続けましたが、第二次世界大戦末期に激戦地となり、街は大損害を受け、ほとんど完全に崩壊されてしまいました。戦後、現在のソ連式の街が再建されました。1991年8月に旧ソ連から独立したモルドバ共和国の首都となりました。

沿ドニエストル共和国
ドニエストル川を境に南北200Kmに沿って埼玉県ほどの大きさの国、沿ドニエストル共和国があります。1991年にモルドバがソ連から独立した際に、一部のロシア系住民が独立を主張、内戦にまで発展。その結果、ロシア系住民が中心に作った国で、独自の通貨や切手を持ちますが、国際的には未承認の国ですが、ロシアのサポートで事実上の独立国家として機能しています。レーニン像など昔と変わらぬソ連の風景が残る国で、国境警備などはロシア軍が肩代わりしています。

ティラスポリ(Odessa)@沿ドニエストル共和国
モルドバ共和国の東部に位置する都市。モルドバの首都であるキシナウに次ぐ第三の都市ですが、モルドバから事実上分離したドニエストル川東岸地域で独立を主張している沿ドニエストル共和国が1990年に独立を宣言し、以後その事実上の首都となってもいます。市内にはソ連時代の記念碑や銅像がそのまま残ったり、政府ビルの前にはレーニン像が建つほか、「大祖国戦争」でのソ連の対独勝利を記念したT-34戦車が広場の記念碑として飾られていたり、またアフガニスタン侵攻や、モルドバと沿ドニエストルとの1992年の衝突(トランスニストリア戦争)を記念した記念碑も建っていたりと旧ソビエト連邦と見間違えるほどの国です。

空港内ホテルVEXPRESSの入口
日本のビジネスホテルの様な部屋

9日目(4月22日)

120年ぶりの大雪でキシナウ発の便が大幅に遅れてたので、モスクワ乗り継ぎ便に間に合わずモスクワで延泊です。通常ならば空港外に出て宿泊ですが、今回は、ロシアの通過ビサなので、空港外に出るには入国ビサの事前取得が必要となるため空港内での待機となりました。残念ながら空港内ホテルは、満員で直ぐにはチェックインが出来ずに、待つ間は航空会社の手配でマットレスを敷いての仮眠です。空港内ホテルは、最低限の設備のミニ・ビジネスホテル言った物でした。一日遅れで、やっと帰国です。
南のキシナウは雪でも北は雪もありません
モスクワ空港到着
空港も雪で埋もれています
滑走路の除雪も終わり、やっと離陸です
空港につながる高速道路
小高い丘の中腹にある断崖に洞穴が見えます
オルヘイ・ベッキ(Orhei Vechi)
キシナウから北東へ約60Kmトレブナ村のラウト川沿いにあるモルドバの寒村に向かいますが、途中の道路では、雪の重みで路上に折れたり木を取り除いたりとハプニングもありました、ブドウ畑も一面の銀世界でした。「ヴェッキ」とは、「古い」の意味で、4万年前の洞窟、古代要塞、岩窟修道院、修道士たちの隠遁場所などがあります。
キシナウの街を離れてミレスチ・ミーチに向かう途中に「勝利記念と永遠の炎」モニュメントがありましたが、やはり雪まみれでした。

シュテファン・チェル・マレ公園
シュテファン大公大通り)沿いに並んでいる公園の内に、モルドバ共和国の諸官庁があります。その中にあまり綺麗ではない国会議事堂に向かい合っている公園の中にはキシナウの凱旋門があります。パリの有名な凱旋門を手本にする建築物はそれより何倍も小さくて1846年に作られたもので「勝利の門」と呼ばれています。議事堂の右手には、綺麗なシュテファン・チェル・マレ公園が広がり入口には、シュテファン大公の記念碑が見えます。大雪で大公もイースターのバニーちゃんも雪まみれです。

ホテルの部屋からの風景
ホテル前の積雪状況
今だにソ連のCCCPエンブレム
公共交通はトロリーバス
モルドバと沿ドニエストル共和国の境界では、沿ドニエストル共和国が、国として認められていないのでモルドバの出国審査はありませんが、沿ドニエストル共和国側の国境審査があり、その時に国境で1日だけ観光OKの出入国カードがもらえます。そのカードを持ってる数時間内の入国が許可されることになるので、カードの一番下には23:53と時間が記載されていました。
今日は、複数の国境越がある忙しい一日です。最初にウクライナからモルドバ共和国へ入り、国際的には未承認の国ですが、事実上の独立国家として機能している沿ドニエストル共和国をモルドバから日帰り観光して再びモルドバ共和国に戻り首都のキシナウに行きます。オデッサの町を出ると黒海が見えてきます、ドニエストル川に掛かる橋を越えると国境です。

6日目(4月19日)

オペラ・バレエ劇場
チャイコフスキーも指揮をとったこともある、1887年完成の由緒あるオペラ・バレエ劇場です。ウイーンの建築家によって設計され、正面ファサードには音楽、舞踊、喜劇、悲劇の女神々の彫像やプーシキンなどの作家の胸像が据え付けられています。

ミハイール広場の屋台の売り子

アンドレイ教会,
バロック様式の教会は、ロシアの女帝エリザベータのキエフ来訪を記念して1749年からサンクトペテルブルクの冬宮なども手掛けた女帝お気に入りのイタリア人の建築家バルトロメオ・ラストレッリをここに呼んで建立されました。教会の名称は、伝説上でウクライナの地において初めてキリスト教を伝来したとされる使徒アンドレイにちなんでいます。アンドレイ坂を見下ろす丘に立つ教会の高さは46m(土台を含めて60m)あります。

エカテリーナ二世像
ボルナ広場にて、プレオブラジェンスキー大聖堂
新しい「愛の橋」

ポチョムキンの階段
1905年の第一次ロシア革命の時に起こった水兵蜂起事件を題材にしたエイゼンシュタイン監督の名作映画『戦艦ポチョムキン』に登場する階段。逃げ惑う市民と兵士らの中、赤ちゃんを乗せた乳母車が階段を落ちていくという有名なシーンが撮影された場所です。高さは147mあり、上から見ると踊り場だけ、下から見上げると段しか見えないという階段は上より下のほうが広いので錯視を利用して作られています。訪れた時は、あいにく修復工事中でした。階段の頂上は、プリモールスキー並木通りでフランスの貴族でオデッサ初代知事になったリシュリュー公のモニュメントが階段の上に立っています。

オデッサ(Odessa)@ウクライナ
「黒海の真珠」と呼ばれるウクライナの南部、黒海に面した港湾都市、これまで様々な国の支配を受けていたため国際色豊かな都市となりました。ロシア帝国領となった1794年、エカテリーナ2世によって本格的に港の建設が始められました。第二次世界大戦では、地下都市に立てこもってナチスに抵抗したことでも知られています。

三位一体教会
入口の門

聖ソフィア大聖堂,
キエフが全盛期を迎えた1037年に、ヤロスラフ賢公が戦勝を記念して建造したキエフ最古の教会。当時はキエフ・ルーシ公国内の正教を統括した府主教の座が置かれ、敷地内にある図書室はキエフ文化の支柱的存在でした。建物は何度となく修復が繰り返されましたが、現在見られる5つの丸屋根と金箔はウクライナ・バロック様式に再建された17世紀当時のものです。内部は12本の柱で仕切られており、中央ドームにはキリストと天使、そして両手を挙げて祈る聖母マリアのモザイク画や絵画が、壁面には11世紀のフレスコ画の一部が残されています。中でもヤロスラフ賢公と4人の娘達の絵が有名です。歴代キエフ大公の霊廟でもあるこの大聖堂には、ヤロスラフ賢公の石棺も安置されていますが内部は撮影禁止でした。大聖堂の門にもなっている鐘楼は76mの塔です。

黄金の門,
キエフが最盛期を迎えた11世紀前半に、ヤロスラフ賢公によって建てられたキエフの正門です。この門の名称は、当時の欧州にとって文化の源であったビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスの門にちなんで、「黄金の門」と呼ばれました。建築当時、門の上には金箔の屋根をいただく教会が建てられ、威容を誇ったといわれます。13世紀にはモンゴル軍によって破壊され、18世紀になって一時保存のため地中に埋められましたが、その後発掘・研究が進み1982年に当時の姿を模して再建されました。ムソルグスキーの代表的組曲『展覧会の絵』の最後に登場する「キエフの大門」とは、この門をさしています

途中でベラルーシからウクライナへ陸路で国境を越えますが、イースター祭日の為か、人は閑散としていましたが、それでも所要時間は1時間半かかりました。

ボグダン・フメリニツキー像
ウラジミール通りからソフィア広場に出るとイースター・マンデーの祭日の為、多くの玉子の飾り付けと大勢の人で賑わっていました。
「愛のトンネル」
ウクライナ北西部のクレヴァニという町の近郊にロマンティックな名前で親しまれている木々が作り出した美しいトンネルの絶景があります。その美しさゆえにインターネット上で世界中で話題になり、日本でも有名になりつつあります。樹で囲まれたトンネルは、地元で"TheTunnel of Love"と呼ばれています。もともとは、地元の製材工場に向かうための鉄道線路であり、列車が通ることで、列車の車両に合わせて剪定したためどこまでも同じ大きさのアーチが続いていく景色が生まれました。トンネルの長さは3kmほど森の中を走る線路によるもので「恋のトンネル」(あるいは愛のトンネルとも)と呼ばれる由来は、恋人同士で手をつないでこのトンネルを歩くと願いが叶うというジンクスによるものだそうです。混んでいると人が多過ぎて、なかなか良い写真が撮れませんが、丁度イースター祭日の為、観光客も少なく新緑の美しい頃でしたのでラッキーでした。
ウクライナ
日本の1.6倍の国土をもつウクライナは、そのほとんどが平坦で、肥沃な穀倉地帯が広がり16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られています。古くは黒海北岸に一大勢力を築いた遊牧騎馬民族スキタイが駆け抜け、10世紀にはヨーロッパ最大の 版図を誇ったキエフ公国の首都キエフが置かれました。キエフ大公国が13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、諸侯はリトアニア大公国やポーランド王国に属していました。17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサックの国家が興亡し、その後ロシア帝国の支配下に入り、11991年ソ連崩壊に伴い独立した幾重にも重なる複雑な歴史の歩みが垣間見える国です。

国立キエフ大学とシェフチェンコ公園,
1834年創立以来、ウクライナ民族運動の拠りどころとなり、1939年からウクライナの偉大な詩人シェフチェンコの名を冠しシェフチェンコ記念キエフ国立大学と呼ばれています。建物正面が真っ赤なのは、ロシア皇帝ニコライ1世が徴兵拒否運動を起こした学生達への罰として建物を血の色で塗り潰すよう命令した名残だそうです。大学の前は、異民族に支配され続けたウクライナ人の文化、とりわけ言語を大事にして、それを美しい詩で表現し、芸術の域まで高めたシェフチェンコ公園で彼の銅像もあります。

ウクライナ国立オペラ・バレエ劇場
リヴネ劇場
聖復活大聖堂

4日目(4月17日)

リヴネの街を散策してから今日は、330Km離れたキエフまで大移動です。

リヴネ@ウクライナ
今夜宿泊するのは北西ウクライナに位置する都市で、リウネ州の州庁所在地です。

イースター祭日の為、内陣が公開されていました

ブレスト要塞,
第二次大戦の激戦を今に伝える歴史的建造物として観光で訪れる人が多いレンガ造りの城のような要塞です。緑が広がる大きな庭園には、戦争時に要塞を守ったヒーローを模した大きな彫刻があります。当時ドイツ軍はブレスト要塞をすぐに陥落させることができると考えていましたが、実際には1ヶ月という長い抵抗に進軍を阻まれ、ソビエト軍がドイツ軍と戦う体制を整えるための時間を与えてしまったとされています。入り口にあるのはソビエトの象徴である星が刻まれた巨大な正門。この門をくぐると聞こえてくるのは当時の抵抗の様子が再現された音声です。秒針の音、爆撃音。そして戦争開始を告げる当時のラジオ放送がそのまま流されています。ソビエト軍歌も流れ、当時この場所で何が起こったのかを感じることができます。中には多くの像や記念碑・モニュメントがあります。ソビエトの人々の勇敢さや不屈の闘志を表した「勇敢」と名付けられた像、24時間消えることなく燃え続ける炎、長期間の抵抗で疲弊した兵士が水を汲む姿の像、このブレストで亡くなった戦士の名を刻むメモリアルプレート、おびただしい銃痕がそのまま残っている「ホルムスク門」などが当時の戦いの壮絶さを訪れる人々に伝え続けています。ソビエトは、数万のドイツ軍に包囲されてもなお戦い続ける戦士たちと勇敢な抵抗を続けたブレスト要塞に「英雄要塞」の称号を授けました。これは都市ブレストに与えられた「英雄都市」と同格の称号だそうです。

宿泊したエルミタージュ・ホテル
部屋から見た夜明けの街

3日目(4月16日)

ミールの町

聖霊大聖堂,
小さな丘の上に立つ白亜のバロック式教会。元々は1642年にカトリックのベルナルディン修道院の教会として建設されたが、帝政ロシア領になった後の1852年にロシア正教によって押収されました。内部には豪華なイコノスタスと奇跡を起こすと信じられている「ミンスクの聖母」をはじめ多くのイコンで飾られていますが内部は撮影禁止でした。

2日目(4月15日)

ミンスク(Mihck)@ベラルーシ
ミンスクはベラルーシの首都で、国のほぼ中央に位置します。ヴァイキング時代からバルト海と黒海を結ぶ貿易の中継点となり、都市の権利を得て一応の自治を保ちハンザ同盟などとの貿易で栄えましたが、1793年に帝政ロシア領に組み込まれました。第二次世界大戦では町は以前の面影を全くとどめないまでに破壊されましたので、戦後完全な計画に基づく復興が行われ、広い通りにソ連式のビルが建ち並ぶ街並みが続いています。現在は、ソビエト連邦崩後に生まれた独立国家共同体(英略称:CIS)の本部が置かれる人口約190万人の大都会です。

1825年創立のオデッサ考古学博物館
大聖堂裏面
涙島から望む旧市街、手前はスヴィスラチ川、聖霊大聖堂(左)と聖母マリア教会(右)も見える
大聖堂広場にある旧市庁舎と聖母マリア教会
ミンスク国立空港
洞窟教会の外は断崖絶壁
ソ連的なアパートと公共交通のトロリーバス
シティーホールとプーシキンの像
大鐘楼
広間(左)の天井の装飾
中世の建設当時の姿が残る城の外壁
勝利広場からネザレージナスツィ通りを聖シモン・聖エレーナ教会に向かって進むと旧ソ連らしい建物が残っています。
サーカス
共和国宮殿
ネザレージナスツィ広場(独立広場)
ソビエト的らしい無機質な政府関係の建物が囲むだだっ広い広場の中に、最近では珍しくなったレーニン像があります。広場の中では、ネオ・ロマネスク様式の赤レンガのローマ・カトリック教会で、通称「赤い教会」と呼ばれている聖シモン・聖エレーナ教会の建物だけが目立っています。
ベラルーシ共和国
ベラルーシは内陸国で、国土の大部分が低地であり、最高点のジェルジンスカヤ丘陵でも海抜345mです。国土の45%が森林に覆われ、1万以上の湖が点在する自然豊かな森と湖の国です。「白いロシア」という意味の国名を持つベラルーシ。古くからの歴史が息づいている国です。第二次世界大戦では、ナチスドイツと旧ソビエトの激戦の舞台になり、ドイツ軍に街を徹底的に破壊され、ウクライナで起きたチェルノブイリ原子力発電所事故で甚大な被害を被るなど、数々の苦難を乗り越えてきた国です。1991年にソ連から独立しましたが、親ロシア政権下で社会主義と中世の城が残る町並みが共存する興味深い国です。通過経由国のロシアでビザのチェックがありますが、ロシアの入出国カードが、ベラルーシでは有効で、パスポート・チェックも無く入国できて、ベラルーシ出国の際にロシアの入出国カードを渡すと言う、入出国管理をロシアに委託している様なオペレーションでした。

キエフ(Kiev)@ウクライナ
ウクライナの首都キエフは、1100年あまりの歴史を持つ古都で、同国最大の都市として政治・経済・社会・学術・交通の中心地です。5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落から発展し、中世にはキエフ・ルーシ(東スラブ)の都であったが、近世にはコサックのキエフ連隊の中心となった。20世紀中にウクライナ人民共和国、ウクライナ国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都であり続けました。東ヨーロッパにおける最古の都市で、キリスト教の聖地の一つでもあります。市内には広大な植物園や緑豊かな公園が数多く点在していることから「緑の都」とも呼ばれ、街はドニエプル川を挟んで東西に分かれ、西側に多くの歴史的建造物が残されています。1990年には、聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、ペチェールスカ大修道院が世界文化遺産に登録されています。

今日は、まったくの移動日です。成田空港からアエロフロート・ロシア航空便でモスクワ乗り継ぎでベラルーシの首都ミンスクに向います。

トランスニストリア戦争慰霊碑公園周辺
ドニエストル川岸に面した公園には、1992年のトランスニストリア戦争の慰霊碑、大祖国戦争でのソ連邦対独勝利を記念したT-34戦車の記念碑などが、また道路をはさんだ反対側の公園には、ロシア帝国軍人で不敗の指揮官アレクサンドル・スヴォーロフの騎馬像があります。

1日目(4月14日)

1991年12月25日にソビエト連邦崩後に国が、ロシア、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、コーカサス三国(アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア)、中央アジア五ヵ国(カザフスタン、タジキスタン、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタン)とベラルーシ、ウクライナ、モルドバの三ヵ国の計15ヵ国に分離独立しました。今回の旅行はこれら独立国家共同体(Commonwealth of Independent States、英略称: CIS)のうちヨーロッパに残った、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバに行って来ました。経由するロシアとベラルーシでは、まだビザが必要な国です。

修道院の入口
ギネスの認定書

キシナウ大聖堂(ナステレア大聖堂)
1830年代に建築されたが、第二次世界大戦中には爆撃を受けたり、1962年に共産党の手によって破壊されたりされ、今現在見られるのは1997年に再建されたものです。雪の重みで木の枝が折れたりしていますが白い塔にある鐘はトルコの大砲を使ってオスマン帝国からの解放の24年後に鋳造されたものです。。

パッサージュ・アーケード
オデッサには、外壁を彫刻で飾った19世紀のアールヌーボー建築が沢山残っています。その最も良い例の一つが、ここパッサージュです。 規模はそれほど大きくないですが、なかなか華やかです。
リシュリュー公のモニュメント

ブレスト(Brest)@ベラルーシ
ブレストはベラルーシの最も西にあり、ポーランドとの国境に接しています。かってはリトアニア領で「ブレスト・リトフスク」と呼ばれていました。ブレストは、その位置から歴史的にも重要な都市であり、第二次世界大戦開戦後にドイツ軍がはじめに侵攻を開始した「ブレスト要塞」は世界的に有名です。またポーランドとの国境をまたぐ「ベラヴェジの森」は欧州最大で最後の古代森として世界遺産に登録されています。

涙島に立つアフガン出兵慰霊碑
涙島から望む新市街
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