聖ミハイールの黄金ドーム修道院,
11世紀に創設された大聖堂は、キエフ大公家ならびにキエフ大公国の守護天使たるミハイール(ミカエルのウクライナ語読み)にちなんで聖ミハイール黄金ドーム大聖堂とよばれ、中世キエフの最も大きな教会の一つでした。1934年から1936年にかけて大聖堂や鐘楼などの建物は共産党政府機関を建設するために破壊され、文化財ならびに貴重品はロシアのモスクワやレニングラードの博物館に渡されました。現在の建物は、すべてウクライナ独立後の1997年から2000年にかけて再建されたものです。
ミール城、
自然ののどかなミールの町にある中世の城、ミール城は、15世紀末から16世紀初めにかけてゴシック様式の城として建設され、何度も所有者が代わり最終的にはリトアニア大公国の大貴族であるラジヴィル家の手に渡り、ルネサンス様式の城として完成されました。その後、城は放棄され、さらにナポレオン戦争で損傷を受けましたが、19世紀末に修復されたそうです。ベラルーシの世界遺産であり、石造りの城は外壁が独特の漆喰による装飾が施され、ユニークな外観となっています。城の四隅には壮麗な塔が立ち、3階建ての宮殿に40室もの部屋があり、現在は、博物館として美しい姿を残しています。
トラエツカヤ旧市街区,
戦前の古いベラルーシの街並みを再現したヨーロッパの雰囲気を感じられる市街地です。1890年代に学生ボランティアによって復元されました。ベラルーシの近代的な街並みとはまた違った、懐かしさを感じるような町並みが美しい人気の観光エリアです。すぐ近くにはアフガン戦で亡くなった人を悼むモニュメントが建てられた「涙島」があります。ほんの1ブロック程の小さなエリアですが、今では周囲との差がちょっと極端過ぎて、映画のセットの中にいるような不自然さを感じます。トラエツカヤ(聖三位一体)と言う地名は、かってここにあった聖三位一体教会に由来するそうです。
5日目(4月18日)
8日目(4月21日)
ペチェルスカヤ修道院,
988年、ウラディミール大公によって東方正教会を国教にしたウクライナで、1051年に創建された東スラブで最も長い歴史をもつ修道院です。ロシア正教の中でも数少ない「大修道院」の称号を持つ、ロシア正教ウクライナ支部の総本山となっています。見どころは入口の門の中に造られた12世紀初頭の「三位一体教会」や広場の中央にある修道院の主聖堂として11世紀建立の「ウスペンスキー大聖堂」などです。18世紀に建てられた「大鐘楼」は高さ96mです。
入場する際には、女性はスカーフ着用することが義務づけられています。本来ならば境内写真撮影は有料で建物内部は撮影禁止ですが、今日は、イースター祭日の為の特別儀式があるので撮影無料で建物内部撮影もOKとの事で、とてもラッキーでした。
2017年4月14日〜23日
10日目(4月23日)
ミレスチ・ミーチワイナリー
モルドバはワインの産地としても知られ、あちこちに葡萄畑が広がっています。ギネス認定の世界最大のワイナリーで巨大ワイン貯蔵庫を見学します。世界最大のワイナリーで、地下に張り巡らされた通りの総延長距離は約200Km、車を走らせながら行くワインセラーには200万本以上のワインボトルが壁の棚に敷き詰められています。湿度は96%ほ
ど、洞内の温度は約12℃、驚くべきことにこの環境は人的要素ではなく自然に保たれ、通年その誤差は殆どないそうです。膨大なワインボトル数を誇り、2006年にギネスブックに登録されました。見学の終わりには、ワインのテースティングを楽しみました。
7日目(4月20日)
キシナウ(Chisinau)@モルドバ
1436年に僧院の集落として形成され、モルダヴィア公国・オスマン帝国・ロシア帝国・ルーマニア・旧ソ連といった様々な周辺諸国による支配の歴史をもつこの街は、ルーマニア語で「新しい泉」を意味します。その由来となった泉は今でもプーシキン通りにあります。街は発展を続けましたが、第二次世界大戦末期に激戦地となり、街は大損害を受け、ほとんど完全に崩壊されてしまいました。戦後、現在のソ連式の街が再建されました。1991年8月に旧ソ連から独立したモルドバ共和国の首都となりました。
沿ドニエストル共和国
ドニエストル川を境に南北200Kmに沿って埼玉県ほどの大きさの国、沿ドニエストル共和国があります。1991年にモルドバがソ連から独立した際に、一部のロシア系住民が独立を主張、内戦にまで発展。その結果、ロシア系住民が中心に作った国で、独自の通貨や切手を持ちますが、国際的には未承認の国ですが、ロシアのサポートで事実上の独立国家として機能しています。レーニン像など昔と変わらぬソ連の風景が残る国で、国境警備などはロシア軍が肩代わりしています。
ティラスポリ(Odessa)@沿ドニエストル共和国
モルドバ共和国の東部に位置する都市。モルドバの首都であるキシナウに次ぐ第三の都市ですが、モルドバから事実上分離したドニエストル川東岸地域で独立を主張している沿ドニエストル共和国が1990年に独立を宣言し、以後その事実上の首都となってもいます。市内にはソ連時代の記念碑や銅像がそのまま残ったり、政府ビルの前にはレーニン像が建つほか、「大祖国戦争」でのソ連の対独勝利を記念したT-34戦車が広場の記念碑として飾られていたり、またアフガニスタン侵攻や、モルドバと沿ドニエストルとの1992年の衝突(トランスニストリア戦争)を記念した記念碑も建っていたりと旧ソビエト連邦と見間違えるほどの国です。
9日目(4月22日)
シュテファン・チェル・マレ公園
シュテファン大公大通り)沿いに並んでいる公園の内に、モルドバ共和国の諸官庁があります。その中にあまり綺麗ではない国会議事堂に向かい合っている公園の中にはキシナウの凱旋門があります。パリの有名な凱旋門を手本にする建築物はそれより何倍も小さくて1846年に作られたもので「勝利の門」と呼ばれています。議事堂の右手には、綺麗なシュテファン・チェル・マレ公園が広がり入口には、シュテファン大公の記念碑が見えます。大雪で大公もイースターのバニーちゃんも雪まみれです。
6日目(4月19日)
オペラ・バレエ劇場
チャイコフスキーも指揮をとったこともある、1887年完成の由緒あるオペラ・バレエ劇場です。ウイーンの建築家によって設計され、正面ファサードには音楽、舞踊、喜劇、悲劇の女神々の彫像やプーシキンなどの作家の胸像が据え付けられています。
アンドレイ教会,
バロック様式の教会は、ロシアの女帝エリザベータのキエフ来訪を記念して1749年からサンクトペテルブルクの冬宮なども手掛けた女帝お気に入りのイタリア人の建築家バルトロメオ・ラストレッリをここに呼んで建立されました。教会の名称は、伝説上でウクライナの地において初めてキリスト教を伝来したとされる使徒アンドレイにちなんでいます。アンドレイ坂を見下ろす丘に立つ教会の高さは46m(土台を含めて60m)あります。
ポチョムキンの階段
1905年の第一次ロシア革命の時に起こった水兵蜂起事件を題材にしたエイゼンシュタイン監督の名作映画『戦艦ポチョムキン』に登場する階段。逃げ惑う市民と兵士らの中、赤ちゃんを乗せた乳母車が階段を落ちていくという有名なシーンが撮影された場所です。高さは147mあり、上から見ると踊り場だけ、下から見上げると段しか見えないという階段は上より下のほうが広いので錯視を利用して作られています。訪れた時は、あいにく修復工事中でした。階段の頂上は、プリモールスキー並木通りでフランスの貴族でオデッサ初代知事になったリシュリュー公のモニュメントが階段の上に立っています。
オデッサ(Odessa)@ウクライナ
「黒海の真珠」と呼ばれるウクライナの南部、黒海に面した港湾都市、これまで様々な国の支配を受けていたため国際色豊かな都市となりました。ロシア帝国領となった1794年、エカテリーナ2世によって本格的に港の建設が始められました。第二次世界大戦では、地下都市に立てこもってナチスに抵抗したことでも知られています。
聖ソフィア大聖堂,
キエフが全盛期を迎えた1037年に、ヤロスラフ賢公が戦勝を記念して建造したキエフ最古の教会。当時はキエフ・ルーシ公国内の正教を統括した府主教の座が置かれ、敷地内にある図書室はキエフ文化の支柱的存在でした。建物は何度となく修復が繰り返されましたが、現在見られる5つの丸屋根と金箔はウクライナ・バロック様式に再建された17世紀当時のものです。内部は12本の柱で仕切られており、中央ドームにはキリストと天使、そして両手を挙げて祈る聖母マリアのモザイク画や絵画が、壁面には11世紀のフレスコ画の一部が残されています。中でもヤロスラフ賢公と4人の娘達の絵が有名です。歴代キエフ大公の霊廟でもあるこの大聖堂には、ヤロスラフ賢公の石棺も安置されていますが内部は撮影禁止でした。大聖堂の門にもなっている鐘楼は76mの塔です。
黄金の門,
キエフが最盛期を迎えた11世紀前半に、ヤロスラフ賢公によって建てられたキエフの正門です。この門の名称は、当時の欧州にとって文化の源であったビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスの門にちなんで、「黄金の門」と呼ばれました。建築当時、門の上には金箔の屋根をいただく教会が建てられ、威容を誇ったといわれます。13世紀にはモンゴル軍によって破壊され、18世紀になって一時保存のため地中に埋められましたが、その後発掘・研究が進み1982年に当時の姿を模して再建されました。ムソルグスキーの代表的組曲『展覧会の絵』の最後に登場する「キエフの大門」とは、この門をさしています
途中でベラルーシからウクライナへ陸路で国境を越えますが、イースター祭日の為か、人は閑散としていましたが、それでも所要時間は1時間半かかりました。
国立キエフ大学とシェフチェンコ公園,
1834年創立以来、ウクライナ民族運動の拠りどころとなり、1939年からウクライナの偉大な詩人シェフチェンコの名を冠しシェフチェンコ記念キエフ国立大学と呼ばれています。建物正面が真っ赤なのは、ロシア皇帝ニコライ1世が徴兵拒否運動を起こした学生達への罰として建物を血の色で塗り潰すよう命令した名残だそうです。大学の前は、異民族に支配され続けたウクライナ人の文化、とりわけ言語を大事にして、それを美しい詩で表現し、芸術の域まで高めたシェフチェンコ公園で彼の銅像もあります。
4日目(4月17日)
リヴネ@ウクライナ
今夜宿泊するのは北西ウクライナに位置する都市で、リウネ州の州庁所在地です。
ブレスト要塞,
第二次大戦の激戦を今に伝える歴史的建造物として観光で訪れる人が多いレンガ造りの城のような要塞です。緑が広がる大きな庭園には、戦争時に要塞を守ったヒーローを模した大きな彫刻があります。当時ドイツ軍はブレスト要塞をすぐに陥落させることができると考えていましたが、実際には1ヶ月という長い抵抗に進軍を阻まれ、ソビエト軍がドイツ軍と戦う体制を整えるための時間を与えてしまったとされています。入り口にあるのはソビエトの象徴である星が刻まれた巨大な正門。この門をくぐると聞こえてくるのは当時の抵抗の様子が再現された音声です。秒針の音、爆撃音。そして戦争開始を告げる当時のラジオ放送がそのまま流されています。ソビエト軍歌も流れ、当時この場所で何が起こったのかを感じることができます。中には多くの像や記念碑・モニュメントがあります。ソビエトの人々の勇敢さや不屈の闘志を表した「勇敢」と名付けられた像、24時間消えることなく燃え続ける炎、長期間の抵抗で疲弊した兵士が水を汲む姿の像、このブレストで亡くなった戦士の名を刻むメモリアルプレート、おびただしい銃痕がそのまま残っている「ホルムスク門」などが当時の戦いの壮絶さを訪れる人々に伝え続けています。ソビエトは、数万のドイツ軍に包囲されてもなお戦い続ける戦士たちと勇敢な抵抗を続けたブレスト要塞に「英雄要塞」の称号を授けました。これは都市ブレストに与えられた「英雄都市」と同格の称号だそうです。
3日目(4月16日)
聖霊大聖堂,
小さな丘の上に立つ白亜のバロック式教会。元々は1642年にカトリックのベルナルディン修道院の教会として建設されたが、帝政ロシア領になった後の1852年にロシア正教によって押収されました。内部には豪華なイコノスタスと奇跡を起こすと信じられている「ミンスクの聖母」をはじめ多くのイコンで飾られていますが内部は撮影禁止でした。
2日目(4月15日)
ミンスク(Mihck)@ベラルーシ
ミンスクはベラルーシの首都で、国のほぼ中央に位置します。ヴァイキング時代からバルト海と黒海を結ぶ貿易の中継点となり、都市の権利を得て一応の自治を保ちハンザ同盟などとの貿易で栄えましたが、1793年に帝政ロシア領に組み込まれました。第二次世界大戦では町は以前の面影を全くとどめないまでに破壊されましたので、戦後完全な計画に基づく復興が行われ、広い通りにソ連式のビルが建ち並ぶ街並みが続いています。現在は、ソビエト連邦崩後に生まれた独立国家共同体(英略称:CIS)の本部が置かれる人口約190万人の大都会です。
キエフ(Kiev)@ウクライナ
ウクライナの首都キエフは、1100年あまりの歴史を持つ古都で、同国最大の都市として政治・経済・社会・学術・交通の中心地です。5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落から発展し、中世にはキエフ・ルーシ(東スラブ)の都であったが、近世にはコサックのキエフ連隊の中心となった。20世紀中にウクライナ人民共和国、ウクライナ国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都であり続けました。東ヨーロッパにおける最古の都市で、キリスト教の聖地の一つでもあります。市内には広大な植物園や緑豊かな公園が数多く点在していることから「緑の都」とも呼ばれ、街はドニエプル川を挟んで東西に分かれ、西側に多くの歴史的建造物が残されています。1990年には、聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、ペチェールスカ大修道院が世界文化遺産に登録されています。
今日は、まったくの移動日です。成田空港からアエロフロート・ロシア航空便でモスクワ乗り継ぎでベラルーシの首都ミンスクに向います。
トランスニストリア戦争慰霊碑公園周辺
ドニエストル川岸に面した公園には、1992年のトランスニストリア戦争の慰霊碑、大祖国戦争でのソ連邦対独勝利を記念したT-34戦車の記念碑などが、また道路をはさんだ反対側の公園には、ロシア帝国軍人で不敗の指揮官アレクサンドル・スヴォーロフの騎馬像があります。
1日目(4月14日)
1991年12月25日にソビエト連邦崩後に国が、ロシア、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、コーカサス三国(アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア)、中央アジア五ヵ国(カザフスタン、タジキスタン、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタン)とベラルーシ、ウクライナ、モルドバの三ヵ国の計15ヵ国に分離独立しました。今回の旅行はこれら独立国家共同体(Commonwealth of Independent States、英略称: CIS)のうちヨーロッパに残った、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバに行って来ました。経由するロシアとベラルーシでは、まだビザが必要な国です。
キシナウ大聖堂(ナステレア大聖堂)
1830年代に建築されたが、第二次世界大戦中には爆撃を受けたり、1962年に共産党の手によって破壊されたりされ、今現在見られるのは1997年に再建されたものです。雪の重みで木の枝が折れたりしていますが白い塔にある鐘はトルコの大砲を使ってオスマン帝国からの解放の24年後に鋳造されたものです。。
ブレスト(Brest)@ベラルーシ
ブレストはベラルーシの最も西にあり、ポーランドとの国境に接しています。かってはリトアニア領で「ブレスト・リトフスク」と呼ばれていました。ブレストは、その位置から歴史的にも重要な都市であり、第二次世界大戦開戦後にドイツ軍がはじめに侵攻を開始した「ブレスト要塞」は世界的に有名です。またポーランドとの国境をまたぐ「ベラヴェジの森」は欧州最大で最後の古代森として世界遺産に登録されています。