サマルカンド(Samarkand)
ウズベキスタンでおそらく最も有名な都市であるサマルカンドは、「人々が出会う場所」という意味のウズベキスタンの古都です。アムダリヤ川の支流であるゼラフシャン川河岸にあり、抜けるように美しい青空とモスクの色から『青の都』と呼ばれています。他にも『イスラム世界の宝石』『東方の真珠』など、その美しさを讃える異名は数多くあります。紀元前3世紀にはアレキサンダー大王が都市文明レベルの高さに感嘆したという話です。その後、モンゴル軍の攻撃で破壊されましたが、ティムールによって多数の建築家が集められて復興され、美しい『青の都』が生まれました。その象徴的なサマルカンドブルーの顔料の主成分は酸化コバルトで、それに石英パウダーなどを混ぜて明るい青色にしているそうです。サマルカンドの町は、2001年に文化交差点としてユネスコ世界遺産(文化遺産)になっています。

18日目(9月18日)

民族舞踊&ファッションショー
マドラサの中庭にショーの舞台が設置され、それを取り囲むようにテーブルとイスが置かれた、屋上のビアガーデンに近い雰囲気です。案内されて席に着くと、食事やお茶が出されました。『食事をしながらショーを楽しんで』という趣向のようです。開幕時間が近づくにつれてだんだんと人が増えてきましたが、欧米人のツアー客の数に圧倒されます。このショーは地元の人向けではなく、外国人向けのようです。日が暮れてだいぶ辺りが薄暗くなった頃、ショーが開始されました。ウズベキスタンの民族楽器を持ったおじさん達の哀愁漂う演奏と共に、踊り子さん達が民族舞踊を踊りはじめました。クルクルヒラヒラと美しい衣装をたなびかせて踊り子さんが舞っていました。しばらく踊って、彼女たちが舞台裏に引っ込むと、入れ替わりにモデルさん達のファッションショーが始まりました。マドラサ内にお店を持つブティックの宣伝を兼ねた、民族衣装柄ドレスのファッションショーのようでした。

夜のイチャン・カラ、居合わせた欧米人のリクエストに便乗して民族音楽とダンスの鑑賞。
木工職人

ジュマモスクとミナレット
ジュマとは『金曜日』のことで、イスラム教では金曜日が休日に当たるため、多くの人が礼拝に集まります。10世紀に建てられたモスクですが、何回もの修復工事を繰り返し、18世紀末頃に現在の形になったそうです。広さは55×46m、高さは5mで、3.15mの間隔で212本の柱が立っていて、明かり窓付きの天井とシンプルな漆喰の壁に囲まれています。この間隔と本数は、説法者から全員の顔が見えるように、計算されて決められたそうです。柱には一本一本異なる精密な彫刻が施されています。モスク内にある最古の柱は古代ホレズム王国の都から運ばれたもので2本あり、他にも4本が10〜11世紀、25本が12〜17世紀の古いものだそうです。北側の正面入り口は高さ38mのミナレットに面しています。ミナレットの中には81段の階段があり、上まで登ることもできます。

アムール・ティムール広場
広い道路と建物の単調さが「広い」印象を強調させれる新市街の中心地で、ウズベキスタンのシンボルともいえるティムール像が建っています。その像が指を指す方向には賑やかなブロードウェイ(サイールゴフ通り)が走っています。たくさんの自動車や路面電車が走り、また中央アジアで唯一地下鉄が走っている都市でもあります。地下鉄にも乗車しましたが荷物検査もあり、写真撮影は禁じられていました。

10日目(9月10日)

国立古代民族博物館
2001年にタジキスタン独立10周年記念に作られた博物館で、ペンジケント等の古代ソグドの遺跡からの出土品と壁画、7~8世紀のアジナ・テパ仏教遺跡から出土した13mの涅槃仏像などが展示されています。特に、世界遺産の「サラズム遺跡」から出土した、推定19歳、2m近い身長のサラズムの王妃と呼ばれる女性自身は発見された時の姿でドゥシャンベの国立古代民族博物館に展示されています。王妃の周囲は多くのビーズが発見されていますが、これはかって彼女の衣服や髪を飾っていたもの。特に素晴らしいのが髪を飾っていた黄金製品で全部で49個発見されています。今回は、特別に撮影が許可されました。
2m近い身長のサラズムの王妃
イシク・クル湖
南にそびえる天山山脈の最高峰ポベタなど7000m級の山々の麓で冬でも凍らぬ水をたたえる神秘の湖・イシククル。海抜約1600mにある周囲約700Kmで琵琶湖の約9倍の大きさの山岳湖です。別名「中央アジアの真珠」・「キルギスの海」と呼ばれる広大な湖です。この広大な湖の名前はキルギス語の「イシク(熱い)・クル(湖)」から由来します。塩分を含むためマイナス20℃を超えるキルギスの厳しい冬でも凍りません。遠い昔、玄奨三蔵の記した書物「大唐西域記」にも「熱海」と 記されていました。 ソ連時代、外国人の立ち入りが禁止されており、天山山脈の山ひだに隠された幻の湖でもありました。
宿泊したアク・ケメ・ホテル
科学アカデミー
旧ソ連時代に建てられたアパート
新しいアパート
フィルハーモニー・コンサートホールとマナス王像
大統領府
宿泊したホテル・マルィ
オトラル・ホテル
ザラフシャン川沿いの道を進みファン山脈の峠を、イランの援助で造った全長5.5Kmのアンゾーブ・トンネルで越えます。

20日目(9月20日)

成田に帰国

夕食後、タシケントを22:20発の飛行機にて帰国します

旅行記を見ていただき有難うございます。シルクロードの旅も西からトルコ、コーカサス3国(アゼルバイジャン・アルメニア・ジョージア)、イランと今回の中央アジア5ヵ国を回りまして、いよいよ残る中国国内の長安から中央アジア諸国国境までとなりました。数年以内には訪問したいと考えておりますので、なにかの参考になれば幸いです。

日本人墓地
場所は市の南東地区、ヤッカサライにある日本人墓地は、タシケント地区及びウズベキスタン各地で亡くなった抑留日本人共同墓地です。公営墓地の一角に、捕虜としてソヴィエト連邦により強制的に中央アジア地域のウズベキスタンにも約2万3千名の日本軍捕虜が移送され、各地で建設事業に従事する長期的な抑留生活を送り、この地で亡くなった79人の墓があります。そこでは現地の方がお墓の清掃をして下さったり、お線香を用意してくださり、とてもありがたく思いました。

タシケント(Tashkent)@ウズベキスタン)
「石の町」という意味の名のタシケントは、ウズベキスタンの首都。1865年に始まった帝政ロシアによる支配からロシア人の入植が続き、土塀が続く旧市街は、瞬く間に整然と区画された街並みに変わっていきました。町は古くからの旧市街と、ロシア人が造った新市街に分かれているが、1966年の大地震で町の大半が崩壊したため、境界も消え去り近代的な都市に生まれ変わりました。新市街では日本人シベリア抑留者が建設したナヴォイ劇場、ウズベキスタン国立歴史博物館などがあります。海外からの玄関口であり、また国内各地への観光の起点となる町ですが、ソ連時代の匂いもまだ、残っています。

新幹線の乗車券新幹線
今回の旅行で車、飛行機を利用して首都のタシケントに2度来ましたが、そして3度目は、サマルカンドから特急列車シャルク号で向かいます。朝6時ですが、駅には朝一番の新幹線6:35発に乗るために早朝から沢山の人が集まっています。駅構内の撮影は禁止されていますが、何故か新幹線だけはOKです。きっと自慢の新幹線なのでしょうか。高軌道なので座席も広くゆったりと綺麗な車内で、入口の壁にある速度計を見た限りでは、220キロが最高速度でした。お茶とお菓子の無料サービスがあり2時間半の列車の旅を終えてタシケントに到着です。
レギスタン広場のライトアップ散策をしてサマルカンドの観光は終わりです
シェルドル・マドラサ
右手のマドラサになり、1636年にウルグ・ベク・マドラサを模して建てられました。偶像崇拝を否定するイスラム教義に反して動物が描かれていることが、このシェルドル・マドラサの一番の特徴です。シェルドルとは『ライオン』の意味で、虎にしか見えないライオンが、小鹿を追いかけている絵が描かれています。そしてライオンの背中には、人面のある太陽が描かれています。人間と動物をモチーフにするのは厳禁のイスラム教義に逆らってこんな絵を描いたのは、支配者が自分の権力を誇示するためだったようです。その責任を取って、このマドラサを建てた建築家が自殺したとか…。
ティラカリ・マドラサ(メドレセ)
正面のマドラサになり、1660年に建設されました。ティラカリとは『金箔を施された』という意味で、その名の通り礼拝所の内部は金箔で覆われています。ただ単調に金箔で覆っているのではなく、金箔を使って美しい模様を描いています。建設時に5Kg、修復するときには3Kgもの金が使われたそうです。天井は一見丸いドームのように見えますが、実は平面で、遠近法を用いて丸く見えるようにしているそうですミフラブ(メッカの方角を示す壁のくぼみ)や壁も星・植物・アラビア文字をモチーフにした模様で飾られ、思わず目を奪われます。。

ウルグ・ベク・マドラサ(メドレセ)
左手のマドラサになり、1420年にティムールの孫ウルグ・ベクによって建設されました。レギスタン広場の3つのマドラサの中では、最も古いものです。ここで自らウルグ・ベクは教壇に立って、イスラム教の教義や作法、天文学・数学・哲学なども教えていたようです。今は、かっての寄宿舎はお土産屋さんになっています。アーチの両側に建っているミナレットは『空を支えている』そうで、北側のミナレットが傾いているのはその重さのせいだと言われていますが、単に地盤が緩んだだけでしょう。

レギスタン広場
サマルカンドの象徴、さらにシルクロードの象徴とも言える広場です。レギスタンとは『砂地』という意味です。向かって左からウルグ・ベク・メドレセ、ティラカリ・メドレセ、シェルドル・メドレセの3つのメドレセがコの字形に並んでいます。チンギス・ハーンが今のアフラシャブの丘にあったサマルカンドの町を滅ぼした後、このレギスタン広場を中心にして復興が進められました。そして14世紀のティムールの時代には大きな屋根つきのバザールが造られ、孫のウルグ・ベクの時代に最初のウルグ・ベク・メドレセが建てられました。現在のように3つのメドレセが並んだ姿になったのは、17世紀にヤラングトシュ・バハドールによってさらに2つのメドレセが建築された後になります。レギスタン広場は、他の土地から来た隊商が始めに到着する場所であったり、謁見式・閲兵・催し物が行われる場所でもありました。
グル・アミール廟
グル・アミールとは、タジク語で『支配者の墓』の意味で、ティムールをはじめとして息子のシャー・ルフ、孫のウルグ・ベクら、ティムールの一族が眠っている霊廟です。1996年に修復されたので、サマルカンドブルーの丸屋根がひときわ輝く建物です。元はティムールがトルコ遠征中に死亡した孫のムハンマド・スルタンを葬るために1404年に建設したものですが、ティムール自身も翌年に死亡して、この廟に葬られることになりました。本当はティムールは生まれ故郷のシャフリサーブスに葬られることを希望して廟も造っていましたが、シャフリサブスの所で書きましたように、その希望は叶えられませんでした。廟内は全て金の装飾で埋め尽くされていて、修復の際には内部の模様を再現するために3Kgもの金を使用したそうです。天井や壁は植物やアラビア文字をモチーフとした模様で埋め尽くされています。墓石は全部で8つ置かれていて、中央の黒緑色のオニキスで作られた墓石がティムールのものです。その他の墓石は、ティムールの墓石を中心にして、息子や孫たちのの一人のものです。 これらの墓石は位置を示しているだけで、実際の亡骸はここから地下3mの所にある墓室に葬られています。
シャーヒズィンダ廟群
アフラシャブの丘の南にあるサマルカンド隋一の聖地で、ティムールの関係者のお墓がズラッと並んでいる、まさしく『死者の通り』です。11世紀から20世紀にかけて、多くの霊廟が建てられました。シャーヒズィンダとは 『生ける王』 という意味で、7世紀のアラブの侵略時に生まれた伝説がもとになっているそうです。預言者ムハンマドの従兄であるクサム・イブン・アッバースが、イスラム教の布教のためにサマルカンドにやってきて、彼は礼拝中にゾロアスター教徒に襲われて、首を切り落とされてしまいました。ところがアッバースは何事もなかったかのように礼拝を終え、自分の首を拾って、深い井戸に潜って行きました。彼はそこで永遠の命を得て、イスラムが危機に陥ったときに助けに現れるそうです。二度シャーヒズィンダ廟群に礼拝に来ると、メッカに一度行ったのと同じだとみなされるそうですが、二度来た仏教徒の私には、あまり意味がありませんが、、、、。ウルグ・ベクが建てたという入り口の門をくぐると、『天国への階段』と呼ばれる階段があります。この階段の段数を数えながら上り下りし、行きと帰りで同じ数だったなら天国へと行くことができるそうです。シャーヒズィンダ廟群には建物がたくさんあって、正直どれがどれだかわかりません
アフラシアブの丘と博物館
昔は、アフラシャブの丘にサマルカンドの町があってチンギスハンに破壊されるまで、この丘で繁栄していました。その後、ティムールが今現在のサマルカンドの丘に再建を果たして「青の都」と呼ばれる美しい建築群を残しました。アフラシアブの丘にはアフラシアブ博物館があり、アフラシアブの丘の出土品が展示されています。中でも、7世紀の領主の宮殿から発見されたフレスコ画の壁画には、らくだと馬に乗った上流階級の人々描かれています。
六分儀の地下部分
六分儀での計測図
ウルグ・ベク像
ウルグ・ベク天文台跡
サマルカンドの北東のチュパンアタの丘というところにあります、ウルグ・ベク天文台は1429年にティムールの孫ウルグ・ベクによって建造された天文台でしたが、ウルグ・ベクが暗殺された後に、保守的なイスラム教徒によってこの天文台も壊されてしまいました。1908年にロシアの考古学者に発掘されるまで場所さえわからなかったということです。現在残っているのは、六分儀の地下部分と天文台の基礎だけです。この六分儀は高さ40m(そのうち11mが地下)、弧長は63m、幅2mの巨大なもので、当時は高さ30m以上の建物で囲まれていたようです。この天文台で観測したウルグ・ベクは、恒星時一年は『365日6時間10分8秒』と計測しました。現在の精密機器で測定すると『365日6時間9分9.6秒』だそうで、その誤差はわずか1分以内です。当時の望遠鏡すら無い技術で、どうやったらこんな精度の測定ができるのか?と、非常に驚かされます。
ティムール像
ルハバット廟
宿泊したアジア・サマルカンド
シャフリサブスから一路サマルカンドに向かう途中は、なだらかな丘陵地帯で牧草地が広がり牛や羊のむれがあちこちに見えます。サマルカンドはタジキスタンのペンジケントからわずか60Km程の距離で、以前は日帰りで往来できていたのですが、今は領土問題で国境が封鎖されたため迂回しなければならなくなりました。今夜のサマルカンドの宿泊先は、レギスタン広場の近くのアジア・サマルカンドです。
ドルッティロヴァット建築群
ドルッティロヴァットとは『瞑想の家』と言う意味の、ティムールゆかりの建築物が3つあります。通りからも輝いて見える青色のドームのコク・グンバス・モスクは1436年にウルグ・ベクによって建てられました。そして、それに向き合って2つの廟が並んでいます。右奥にあるのがグンバズィ・サイーダン廟。ウルグ・ベクが自分の子孫のために建てた物です。そして左側にある廟は、1374年にティムールによって建てられたシャムスッディン・クラル廟で、ティムールの父と、その指導者シャムスッディン・クラルが葬られているそうです。
隣のハズラティ・イマーム・モスク
ドルッサオダット建築群
ドルッサオダットとは『大いなる力の座』という意味です。ドルッサオダット建築群の一つに、ジャハンギール廟があります。ティムールが戦死した長男ジャハンギールのために建てた廟ですが、今では廃墟のようにボロボロになってしまっています。ジャハンギールは戦争中に落馬して、22歳の若さで死んでしまったそうです。ドルッサオダット建築群の建物はほとんど壊れてしまい、土台だけが残っている状態です。例えばティムールの次男が眠るウマル・シェイヒ廟もあったそうです。また、ティムールが自分のために用意したティムール廟と呼ばれる地下の墓室が残っています。ティムールは自分が死んだらこの場所に葬って貰うつもりだったようですが、大雪のため遺体をここまで運ぶことができずに、サマルカンドのグリ・アミール廟に納められました。結局、棺だけがこの地に残されています。

シャフリサブス(Shakhrisyabz)
『緑の街』と言う意味を持つシャフリサーブス(シャフリサブス)は、遠くにザラフシャン山脈が見える谷間の小さな町で、かつては緑豊かなオアシス都市でした。古くから『ケシュ』という名で知られており、7世紀には三蔵法師も訪れたことがあるそうです。シャフリサーブスはゾグディアナの古都で、14世紀に王朝を興したティムールの生まれた場所として有名です。ティムールはサマルカンドにも劣らない雄大な建築物をシャフリサーブスに建てましたが、16世紀後半にブハラのアブドゥール・ハーンによってほとんどの建物が破壊されてしまったそうです。そのせいか、あまり派手さはないですが、静かで落ち着いた観光地だという印象を受けました。なお、シャフリサーブス歴史地区は、2000年にユネスコ世界文化遺産に認定されています。

今日は、ブハラからシャフリサブスを経由して、いよいよサマルカンドに向かいます。移動距離は350Kmです。

バザール・タキ
道路の交差点をドーム型の屋根で覆ったバザールです。タキとは『丸屋根』の意味です。以前は五つのタキがあったそうですが、現在では三つだけ残っています。他の都市で見たバザールとはちょっと異なり、アーケードのある商店街と言ったようで街と言ったようです。鳥の形のハサミなどを作る刃物屋さんがあり、その場で刃物を作っている様子を見ることもできます。レアな材質・模様の帽子など、他では手に入りにくい物も揃っていたようです。

アク・サライ宮殿跡
ティムールが夏の離宮として建てさせた物です。『アク・サライ』とは『白い宮殿』と言う意味ですが、実際は青と金色のタイルで装飾されていて、白かったわけでは無いです。白という色に高貴なイメージがあったため、『アク・サライ』と呼んでいたそうです。1380年に着工され、ティムールの死後の1405年まで建設は続けられました。近くの山からわざわざ水を運んで、屋上にプールまで作ったそうです。16世紀後半に破壊されてしまったので、現在残っているのはアーチ型の門の一部のみになっています。壊される前は50m以上あったといわれるこの門は、今は38mの高さで、上からシャフリサーブスの町を見下ろすことができるそうです。アーチの片方の柱には「スルタン(皇帝)はアラーの影である」と書かれており、もう一方の柱には「スルタン(皇帝)は影である」としか書かれていません。後者は間違って書かれたのですが、そのせいで建築家はアーチから突き落とされて殺されてしまったそうです。アク・サライ宮殿の跡地は現在は大きな公園になっていて、そこにはティムール像が立っています。
ジャハンギール廟

17日目(9月17日)

カラーン・ミナレットとモスク
ブハラのシンボル、1127年にカラハーン朝のアルスラン・ハーンに建てられたミナレットです。カラーンとはタジク語で『大きい』という意味で、その名のとおり高さは46mもあり、土台部分は10mも地下に埋められています。色はほぼ茶色一色です(灯火用窓の下の一層だけ青いタイル)が、日干しレンガの積み方を変えて14層の帯状に模様が付けられていて、とても手の込んだ凝った作りの建物です。ブハラの町を徹底的に破壊したチンギス・ハーンも、このカラーン・ミナレットだけは壊さずに残しました。それは、チンギス・ハーンがこのカラーン・ミナレットを見上げたときに、帽子を落としてしまいました。腰を屈めて帽子を拾ったチンギス・ハーンは、周囲の人に言いました。「この塔は私に頭を下げさせた偉大な塔なので、壊さないように」 ちょっと洒落たエピソードですが、真実かどうかはわかりません。18~19世紀には死刑場となって、罪人を袋詰めにして塔から投げ落としたことから『死の塔』とも呼ばれていたそうです。カラーン・モスクは、1514年のシャイバニ朝時代に建造された、ブハラで最大のモスクです。中庭の回廊の天井は208本の柱で支えられ、288個の丸屋根で覆われています。

イスマイール・サーマーニ廟(イスマーイール・サマニ廟)
中央アジア最古のイスラム建築で、どれくらいの古さなのかというと、建造されたのが892年から943年にかけてだそうです。9世紀の終わりにブハラを占領して都としたサーマーン朝のイスマイール・サーマーニが、父親のために建てた霊廟でしたが、後で彼や彼の息子も葬られたので、結局サーマーン朝の王族の霊廟となりました。サイズは9m四方の大きさで、壁の厚さが1.8mm、日干しレンガを積み上げた構造です。モンゴル軍が来襲した時はほとんどの部分が土に埋まっていて、周囲がお墓だったこともあって、モンゴル軍に気付かれることはありませんでした。おかげで他の建築物の大部分が破壊されたブハラにあっても、壊されること無く残る事ができました。発掘されたのはソ連時代の1925年です。ゾロアスター教とイスラム教の二つの影響を受ける建築物で、中央円形ドーム周りの四隅の小ドームや側面の4つのアーチ、火を焚く祭壇などがゾロアスター教神殿建築の特徴だそうです。また、日差しの加減によって壁面のレンガの凹凸の明暗が変わり、色が変わって見えるそうです。淡色のレンガの積み上げ方だけで様々な幾何学的模様を付けるという、建築家の高い技術が存分に発揮されています。特に月の光の下で見ると美しいそうです。

この辺りは、現在緑豊かな公園になっていて、観覧車もありましたので乗ってみると(料金4000スム、約56円)ブハラの街が見渡せました。
宿泊したホテル・スルタン

16日目(9月16日)

ブハラ(Bukhara)
ブハラは、サンスクリット語で『修道院』を意味しています。イスラム王朝の庇護の元、優秀な宗教家や科学者が集まって、一大都市を形成しました。しかし、1220年のチンギス・ハーンの来襲でほぼ壊滅してしまいました。その後、16世紀のシャイバニ朝の時代にブハラは復興し、再び多くのモスクやメドレセが建築されました。そして20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれていて、中央アジアのみならず、イスラム世界全体の文化的中心地として繁栄を誇っていました。ブハラは、ザラフシャン川下流域のオアシス地帯に位置し、その中心の都市になっています。ブハラの町は新市街と旧市街とに分かれ、旧市街は2000年にユネスコ世界文化遺産に認定されました。宿泊したホテル・スルタンは、ラビハウズと呼ばれる池の真ん前に面したバハウッディン・ナクシュバンディ通り沿いにありましたので街の散策に便利でした。ラビハウズと 、ナディール・ディヴァンベギ・マドラサの間の公園に、ロバにまたがっているイスラム神学者フッジャ・ナスレッディンの像があります。彼は今もブハラの人気者で、沢山の逸話が残っている人です。。

15日目(9月15日)

スルタン・カラ(スルタン・サンジャール廟)
トルコ系民族のセルジューク朝時代(11~12世紀)に造られの物でメルブはセルジューク朝の首都となり、この中心には12世紀セルジューク朝時代の最盛期を築いた王、スルタン・サンジャールの廟があります。1140年代に建てられてから、この廟はモンゴル軍の襲来や地震にも耐え抜きました。廟の中は白いアラバスター(雪花石膏)とタイルで装飾されており、27m四方、高さは38mあります。

キズ・カラ
紀元前6世紀から7世紀に建てられた遺跡の中心的存在の城塞跡です。「ギズ」には処女という意味もあり、セルジューク朝のスルタンは、奴隷の娘たちをはべらせて宴を催していたと言われます。城塞の難攻不落、死守を祈図していて、この言葉や意味は後にトルコにも広まって使われるようになりました。

今日は、アシガバードからトルクメニスタン航空国内線で朝一番にマリィに向かい、その後、メルブ遺跡を観光します。

マリィ(Mary)
マリィは、アシガバードの東、約300Kmにあるトルクメニスタン第2の工業都市。マリィは、肥沃なムルガブ川のオアシス都市で古代から繁栄していました。30Kmほど東には世界遺産にも登録されているメルブ遺跡があります。このマリィの街の近年の歴史は1884年、メルヴを征服した帝政ロシア軍が近郊に街を築いたことから始まり、街はそのままメルヴと呼ばれていましたが、1937年にマリィと改称され、世界遺産であるメルブ観光の起点となっています。

ギャウル・カラ
アレキサンダー大王の帝国が分裂して生まれたセレウコス朝時代(紀元前4から3世紀)のパルティア時代に、「エルク・カラ」を北辺に組み込んだおおむね一辺1.8Kmの方形に近いプランの「ギャウル・カラ」(「グヤウル・カラ」)が築かれた。面積は、約3.5km2で、城壁に囲まれ、十字に交差する道路で街区が造られていた。ここには世界最西端の仏教遺跡があり、ソロアスタ教、キリスト教、イスラム教、仏教が共存した場所といわれています。

メルブ遺跡
カラクム砂漠の中にある、中央アジア最大の遺跡です。メルブが最も繁栄していたのは、セルジューク朝の地方首都の役割を果たしていた時代で、シルクロードきってのオアシス都市で、ペルシャと中央アジアのを結ぶ重要なルートが交差する交通の要衝であったためです。1218年に、チンギス・ハーンの要求を伝えた特使を殺害したため、1221年に、チンギス・ハーンの末子トルイ率いるモンゴル騎馬団が復讐のために攻め込んで、100万人を数えたという住民を一人残らず皆殺しにしたため、メルブの町は廃墟と化しました。メルブは「さまよえる町」と言われるように、古い町が捨てられると、その上にではなく、隣接して新しい町が造られたため、100Km四方におよぶ広い敷地の中に、紀元前6世紀から18世紀に至る5つの異なった時代に築かれた町の跡を同時に見る事ができます。各遺跡はトルクメニスタン語で城塞を意味する「カラ」と呼ばれ、乾燥した大地のあちこちに大小数々のカラが点在しています。
マリィ空港
トルクメンバシュ・ルーフ・モスク
トルクメニスタンの首都アシハバードにある2004年に完成したモスク。「トルクメンバシュ」とは「トルクメン人の父」という意味で「トルクメニスタン初代大統領」の「サパルムラト・ニヤゾフ」を指します。彼のふるさとが、ここアシハバードで、200億円近くかけて贅の限りを尽くした自分の廟で、お金の使い方はさすがに独裁者と言われるだけの事はあります。男1万3千人、女7千人、合計2万人が収容でき中央アジア最大のモスクで、世界でも4番目の大きさだという。高さ91mの4本のミナレットと直径50mの黄金のドームを持っています。
アハル・テケ種の競馬場と厩舎
この馬の原産地は砂漠が国土の8割以上を占めるトルクメニスタンで、明るくメタリックな光沢がある毛並みは、砂漠におけるカモフラージュのために古くから受け継がれたと考えられており、専門家の間では光を反射し回折する機能を持つといわれています。また、その素晴らしさは見た目だけではなく厳しい気候条件と砂漠に適応してきたアハルテケは、その繊細で優雅な姿とはうらはらに強靭で運動能力が高く、水や食料の乏しい環境でも長時間移動できる体力を持つと言われています。現在彼らの数はおよそ3、500頭。トルクメニスタンを中心にロシアやヨーロッパなどでも育成されています。アハル・テケは障害飛越競技馬としてそのフォームと優美さでも知られトルクメニスタンの国章の中央にも描かれています。

中立広場
中立広場の中心ある中立門は1995年に国連に正式に永世中立国として認められたのを記念して1998年に建てられました。頂点に立つ黄金のトルクメンバシュ(初代大統領の「サパルムラト・ニヤゾフ」像)は太陽の動きに合わせて回転するようになっています。展望台からは、ドーム型の大統領府、トルクメンバシュ宮などを眺めることができます。

国立歴史博物館
展示は各分野に及んでいますが、見どころはニサやメルブ遺跡からの出土品が中心となっており、中でもリュトンと呼ばれる、ゾロアスター教の宗教行事の際に用いられたとされている緻密な細工が施された象牙の碗などの貴重な品々が展示されています。

クトゥルグ・ティムール・ミナレットとイル・アルスラン廟
ミナレットは11世紀から12世紀に煉瓦で建設されました。高さは60mあり、中央アジアで最も高いミナレットです。とんがり屋根が特徴の円錐状の形をしたミナレットはイル・アルスランの廟です。イル・アルスランは1156-1172年、第4代の王としてホラズム王国の当主でした。

大統領官邸
テント・サイト

ダルヴァザ(Darvaza)の地獄の門
首都アシガバードから約260Km北にあるダルヴァザ(Darvaza)の砂漠にあるクレーターです。トルクメニスタン国内のダルヴァザ付近の地下には豊富な天然ガスがあり、旧ソ連時代の1971年に地質学者がボーリング調査をしました。その際に天然ガスに満ちた洞窟を発見し、採掘中に作業装置が置かれていた場所ごと崩落してしまいました。その穴は直径およそ80m深さ20m。そこから噴出する有毒ガスの放出を食い止めるために点火しましたが、可燃性ガスが地下から絶え間なく吹き出るため、その後、40年以上延々と燃え続けています。以前は20Km以上の所でも明るく見えていましたが、今は、5~6Km程と、ガスの噴出量も減っています。のちに住民はこの穴を「地獄の門(Door to Hell)」と名づけました。現時点ではこの天然ガスの燃焼を食い止めることは技術的にとても困難と判断されまた、天然ガスの埋蔵量自体が不明なため、今後いつまで燃え続けるのか未だに目処が立っていません.。動画で、再生して実際の迫力を感じてください。。

砂漠に沈む夕日

トレベク・ハニム廟
クフナウルゲンチの遺跡の中で最も保存状態が良いものの一つで、14世紀に建設され、特にドームは二重構造で破壊されにくい造です。天井のモザイクはとても美しく、1年間の日数、月日、時間を表しています。また、クフナ・ウルゲンチで最も大きな建築物でもあります

アク・シェイフ・ババの高台
クフナ・アルク内にあるヒヴァで最も古いアク・シェイフ・ババの高台と呼ばれる建物は、ハーン国の時期には時計台として使われていました。登るのは別料金ですが、素晴らしい絶景ポイントなので超必見です。ここからは、イチャン・カラはもちろん、ヒヴァの町並みが良く見渡せます。

トルクメニスタンは現在も、中央アジアの北朝鮮と言われている大統領の独裁政治体制で、なかなか気軽に来れる国ではありませが、豊富な天然ガスや油田もあり、天然資源を元に飛躍的な発展を遂げています。そのおかげでしょうか、走る車の殆どが日本車(トヨタ、三菱が多い)で故障がなく評判が高いです。男子生徒の学校の制服は、民族帽子着用で上着は白、ズボンは黒、女子も民族帽子着用で高校生までは緑色のドレスにエプロン姿、女子大学生は赤色のドレスと平等に全国的に定められています。しかも女子はみんな髪を長く伸ばしていて、必ず三つ編みです。一般女性も、くるぶしまでの長い民族衣装のドレスを着用していました。
今日は、ウズベキスタンのヒワから6回目の国境を越えてトルクメニスタンのダシュオウズに向かいます。トルクメニスタンでは、全荷物の開封検査が入念に行われ非常に時間がかかりますので、必要最小限の手荷物だけにして、大きい旅行カバンはウズベキスタンのブハラで受け取ることにして回送しました。手荷物検査では、持物の中で特に医薬品についての質問が多かったですが、説明して特に問題なく通過しました。ビザがあるにも関わらず何故か手書きのEntry Travel Passが各自に交付されましたので3時間余りかかって、やっと入国審査が終わりました。

タシュ・ハウリ宮殿
東門近くにあるタシュ・ハウリ宮殿です。タシュ・ハウリとは『石の庭』の意味で、アラクリ・ハーンによって1830年から1838年にクフナ・アルクに匹敵するものとして建てられた宮殿です。ヒヴァの中でも最も豪華なタイルや柱で飾られているそうです。宮殿は公務を行なう謁見や儀式の場、宴会やお客を接待する場、アルズ・ハウリと呼ばれる裁判所とハーレムに分かれています。また、中庭にはユルタという丸テントを建てて、遊牧民族のお客さんたちをもてなしていたそうです。儀式が行なわれたアイヴァンの天井は、クフナ・アルクと同じように木枠赤や黄色のカラフルな幾何学模様が巧みに組み合わされていて、豪華な雰囲気を出しています。木柱に彫刻が施されているのも、クフナ・アルク同様です。中庭を囲んで二階がハーレムになっていて、大小163もの部屋があります。アラクリ・ハーンには4人の正妻と40人の妾がいたそうです。南側にハーンの執務室、ハーンの母・姉妹の部屋と4人の正妻の部屋があり、入り口に一番近い部屋にハーンが、その隣に正妃、さらに隣にナンバー2の妃…、というように住んでいたそうです。部屋の作りは4人の妃で差はなかったように思えましたが、狭くて暗い、お世辞にも良い部屋だとは言えないものでした。一応、イスラムの教義では『4人まで妻を持っても良いが、平等に愛してあげなさい』と言うことになっているそうです。対して北側の妾の住居はさらに悲惨です。南側とほぼ同じ面積の建物に、40人が押し込まれていたそうです。

カルタ・ミナル
カルタ・ミナルのカルタとは『短い』という意味で、直訳すると『短い塔』になります。アタ・ダルヴァザ門(西門)を入ると、すぐ右手に見えます。青の彩紬タイル模様で覆われた、ヒヴァで一番カラフルな美しい塔ですが、残念ながら未完成品です。当時のムハンマド・アミン・ハーンが中央アジアで最も高い109mのミナレットを建てようと、1852年に着工されました。基礎部の直径が14.2mもあるので、完成していたら70~80mにもなっただろうと言われていますが、結局26mで終わってしまいました。。

クフナ・アルク(キョフナ・アルク)
17世紀に建てられた、ハーンの居城です。クフナ・アルクとは『古い宮殿』という意味で、新しくタシュハウリ宮殿が完成した後に区別する意味でこう呼ばれるようになりました。クフナ・アルクは要塞で囲まれており、この中にハーンたちによって建てられた執務のための公邸、くつろぎの間、夏と冬のモスク、ハーレム、兵器庫、火薬工場、さらに造幣所まであったそうです。少し奥に進むと、クリヌッシュ・ハーンのアイヴァンがあります。最初は17世紀に建てられましたが、イランの軍隊に破壊され、現在のものは19世紀の初めに建てられたものです。二本の高い柱のあるテラスで、壁面は青いタイルで覆われ、天井は赤、黄、緑、黒などキレイな幾何学模様で装飾された玉座の間になっています。

ミナレットの頂上からのイチャン・カラの眺望
手前は一番大きな青いドームが鮮やかなパフラヴァン・マフムド廟、奥はカルタ・ミナル
イスラム・ホジャ・メドレセとミナレット
ヒヴァで最も高いミナレットを併設するイスラム・ホジャ・メドレセです。1910年にヒヴァの最後のハーン、イスフェンディヤル・ハーンの大臣イスラム・フッジャによって建てられた、まだ100年足らずの新しいものです。ミナレットは黄土色のレンガをベースにして、青色白色などのタイルで帯状に模様付けされた、個性的で美しい塔になっています。遠くからでもその姿を見ることができ、カルタ・ミナルと並んでヒヴァのシンボルと言えるものでしょう。ミナレットの基底部の直径は9.5m、高さは45mです。別料金ですが、頂上まで118段の螺旋階段があり、真っ暗で狭くてハードな階段を登ると、イチャン・カラを一望できる素晴らしい眺めが楽しめます
夏のモスクは、6本の柱で支えられています。

アタ・ダルヴァザ門(西門)
アタとは『お父さん』の意味で、直訳すると『父の門』です。門をくぐる城壁に土産屋やガイドの詰め所があり、入場料や写真撮影代金を払います。近くには座っているムハンマド・アル・ホレズミの像が建っていました。ムハンマド・アル・ホレズミはホレズム帝国で生まれた科学者で、幾何学の祖と尊ばれる数学者でもあります。

国内線でタシケント発18:40のフライトでウルゲンチに向かい、20:20着。その後、バスでヒワにいきます。

11日目(9月11日)

ウズベキスタンは2012年4月に既に一度訪れた事がありますが、5年前からの変化が楽しみです。
バラク・ハーン・メドレセ
ウズベキスタンの首都タシケントの郊外にある神学校(メドレセ)です。1531年にシャイバニ朝のバラク・ハーンによって建てられた、めずらしい一階建ての神学校です。このメドレセには、ソ連時代に中央アジアのイスラムの本庁が置かれていて、イスラム教全般を管轄していました。ソ連からの独立後は、中央アジアの国々はそれぞれにイスラムの本庁を持っています。
再びテルメズ市内のホテルに戻ります
宿泊したメリディアン・ホテル

テルメズ(Termiz)@ウズベキスタン
中央アジアの国々は旧ソ連時代にかなり強引に国家と土地の線引きをおこなったため、ちょっと変わった形の国境で複雑な地形です。テルメズはそんな複雑な形をしたウズベキスタンの南端にあり、イスラムの建築のほか、仏教美術が花開いたガンダーラ(現在のアフガニスタンからパキスタン北部)の入り口として、豊富な仏教遺跡をもつ町です。アムダリア川をはさんでアフガニスタンに面しているという立地のせいか、アクセスの悪さか、ほかの主要観光地から離れているため、あまり訪れる日本人もおらず、ガイドブックにもほとんど情報がありません。実はここは、とっても興味深い場所です。ここからアムダリア川の向こうのアフガニスタンを望めますが、緊張の続く隣国に配慮して原則写真撮影禁止で、軍の特別許可がないと国境付近は立入禁止になっています。

5回目の国境越えをしてタジキスタンからウズベキスタンのテルメズに入ります。
ファヤズ・テペ遺跡
このあたり一帯では、1世紀から7世紀にかけて主要宗教として仏教が信仰されており、ファヤズ・テペも2世紀から8世紀が全盛期として知られています。ここには僧院やストゥーパ(仏塔)が残っています。世界史の教科書にも出てくる仏教を保護したカニシカ王の時代のお寺と僧坊の遺跡で、日本とユネスコのプロジェクトによって復元されたようです。なかなかきれいに整備され、見ごたえのある遺跡でした。
紋章記念碑
国会議事堂
国家宮殿
ルダーキー公園
ペンジケント出身の詩人ルダーキーの名を冠した巨大な公園で、周囲には中央郵便局、国会議事堂、大統領官邸、国家宮殿等の政府機関の建物があります。中央の噴水広場、紋章記念碑とルダーキー像が印象的です。
右の写真、下の部分しか残っていませんが、動物に乗り、四本の腕を持ち、日輪と月輪を持つ女神でソグド固有のナナ神と呼ばれています。
ルダーキ博物館
ペンジケント出身の詩人ルダーキーに関する博物館です。ルダーキー関連の他にもソグド関係の展示品やサラズム遺跡を説明する展示、更には民俗資料館的な展示もあり、特に、世界遺産の「サラズム遺跡」から出土した、2m近い身長のサラズムの王妃と呼ばれる女性の墓が展示されていました。彼女自身は発見された時の姿でドゥシャンベの国立古代民族博物館に展示されています。

ペンジケント(Panjakent)
かってシルクロードの交易で活躍したソグド人達が多くの都市を築いたソグディアナの中心地の1つであり5世紀には栄えていました。ソグディアナの名はアケメネス朝の紀元前6世紀の文献にも見える。722年、アラブの軍勢に町は包囲され、以後およそ50年間、その支配を受ける8世紀末、台地の町は放棄され、人が住まなくなりました。これが旧市街の遺跡です。10世紀にはモスクもでき、そして、ソグディアナの中核である都市がウズベキスタンのマラカンダ(現在のサマルカンド)。ペンジケントとサマルカンドは現在は国境で隔てられていますが、実は50キロくらいしか離れていません。ペンジケントの町外れの丘に残るペンジケント遺跡は唐の時代にソグド人の主要都市の一つと記されたマーイムルグ(マーイムルグは中国では「米国」と呼ばれ、出身者は、「米」姓を名乗りました) と考えられています。そればかりか、この街の近郊からは約5000年前の原始都市サラズムが発見され、タジキスタンで最初の世界遺産に指定されました。

庭に出てると新婦の写真撮影が
今日は、ホジェンドから2500年以上の歴史を誇るイスタラウシャンの町を観光後にシャフリスタン峠を越えてペンジケントに向かいます。240Kmの移動。

7日目(9月07日)

ザラフシャン川を眼下に見ながら谷間の道を進みます
ムグ・テペ遺跡
2500年前には、アレキサンダー大王の攻撃を受け、その後、ソグド人の都が栄え、8世紀にはルスタム・ベグ王の時代にモンゴル軍の攻撃を受け、攻略され追い出されたソグド人の都市遺跡です。2002年には"イスタラフシャン2500年祭"が執り行われ、新しくなった城門とセレモニーの行われた舞台が残されています。
ムグ・テペ遺跡から見たイスタラウシャン市街
その後、下痢止の原因となった白イチジク
昔ながらの「ふいご」を使う鍛冶屋
宿泊したホジェンド・ホテル
パンジャンベ・バザール
広場の向かって左手には金曜モスク・メドレセが、右手にはパンジャンベ・バザールがあります。中央アジア有数の規模を誇るバザールです。パンジャンベとはタジク語で、木曜日のこと。 木曜日は特ににぎやかだそうです
ソグド博物館(考古学博物館)
きれいな建物だと思ったら、モンゴル、中国に破壊された要塞を一部復元して2006年にオープンした博物館です。アレクサンダー大王の生涯が壁画で再現されていました。要塞は、もともとアレキサンダー大王がギリシャ人入植地をつくり「アレキサンドリア・エスハータ」と呼んだ、この地に建てられたシルダリア川向うのスキタイ戦士対策の7~8世紀の砦跡だそうです。またエスハータは東の意味だそうです。
今日は、午前中に4度目の国境越えで、ウズベキスタンから、ちょうど100ヵ国目になるタジキスタンのホジェンドに向かいます。道路事情が悪く大型バスが使えないのでタジキスタンでは、ミニバスに分乗です。
今までは、米ドルが各国で使用出来ましたが、ウズベキスタンでは、自国の通貨(スム)に両替する必要がありましたので両替すると、1$が8,000スムになりました。現地ガイドZina(ジーナ)さんによると2日前は4,500スムだったので、私はもの凄く得をした気分になりましたが、現地の人は大変でしょう。

タシケント(Tashkent)@ウズベキスタン)
「石の町」という意味の名のタシケントは、ウズベキスタンの首都ですが、今日は、310Km移動して宿泊し通過するだけです。

ホジェンド(Khujand)@タジキスタン
1990年代の内戦のため、あまり知られることが少なかったタジキスタン。国土のほとんどは山岳地帯で、国土の半数が標高3000m以上であり、中国との国境に至る東部は7000m級に達する山々が連なる「世界の屋根」パミール高原を有する大自然に恵まれた国です。従って何処に行くにも峠を越え次の町までのドライブとなります。中央アジア5ヵ国で唯一のイラン系の国で、国民の多くはムスリムであり、スンニ派が85%を占めています。
アラル海に注ぐシルダリヤ川沿いの街ホジェンドは、タジキスタン第2の都市で、2500年以上前アレクサンダー大王が建設した町の一つです。モンゴルの襲来で大きな被害を受けたが、その当時の城壁の跡がシルダリア川の南側に一部残っています。8世紀にアラブの領地となり、ホジェンドと呼ばれるようになり、イスラム神学のエリートであるホージャの領地でした。その規律と互助は、ホジェンド出身者が1980年代に至るまで権力を維持することを助けたそうです。

5日目(9月05日)

アイシャ・ビビ廟
カラ・ハン朝の王と商人の娘アイシャ・ビビの、悲話伝説が伝えられているアイシャ・ビビ廟は、タラズ郊外に12世紀に築かれました。、カラ・ハン朝は、中央アジアで興ったトルコ系のイスラム王朝で、首都はバラサグンでしたが、タラズもカラ・ハン朝の中心地のひとつでした。商人の娘アイシャは、カラ・ハン朝の王と恋に落ちたが、父親に反対されます。母親が乳母のババジ・カトゥンをつけて密かに旅出たせます。タラス川の河畔で王を待つが、不運にも毒蛇にかまれ瀕死の状態になります。急を知らされたカラ・ハン朝の王が駆けつけ、アイシャを抱き上げ司祭に結婚式をあげてもらいます。彼女以外の妻を持たないこと、立派な廟を建てることを誓います。アイシャはビビ(妃)となって息絶えたと言う悲話です。

キルギスの民族帽子をかぶってツーショット

タラズ(Taraz)@カザフスタン
751年、当時の西と東の超大国、アッバース朝イスラム帝国軍と唐の間で10万の大軍がタラス川河畔(現在のキルギス領内)で激突し、唐の大敗で終わった古戦場跡の街です。 これにより、唐が西域から後退し、このとき捕虜となった唐の多くの製紙職人がサマルカンドへ連行され、製紙法が世界に広まったと言われています。一応、カザフスタンは"Taraz"、キルギスは"Talas"と表記しますが、現在のタラズはのどかな小さな町ですが、歴史を変えた対戦の舞台タラス河は現在も町の中心を流れています。 11世紀にはカラハン朝の都となり繁栄を迎えた街です。

ブラナの塔とバラサグン遺跡
世界遺産でもあるバラサグン遺跡のブラナの塔です。この遺跡は、アクベシム遺跡と比べると、時代は少しくだり、11世紀のカラハン朝時代(10~12世紀)のものだそうです。すでにイスラムがこの地に定着している時代です。プラナの塔が建てられた11世紀には高さが45mあったそうですが、15~16世紀の地震で崩壊し、現在は24mになっています。バラサグン遺跡の広大な敷地内の一部は、石人(バルバル)を展示している野外博物館になっています。ここに並べられている石人は、キルギス各地(天山・チュー川流域・イシククル湖周辺)から集められたもので、また、時期的には、6世紀から20世紀のものだとも説明板に書かれていました。いずれも胸の前に杯のようなものを持っています。

今日は、カラクム砂漠のかってのシルクロードを走りアムダリア河畔の街トルクメンナバードに向かいます。途中の綿花畑では、収穫期を迎えて綿花摘みをしている母娘に頼んで体験をさせていただきました。多い時は、2人で一日12時間働いて約100Kg収穫するそうですが日当は10ドルだとか、、、。この時、偶然にもリヤカーを引いて中国のウルムチから1年かけてドイツに帰るドイツ人のChristoph Rehage (www.thelongestway.com)さんと遭遇しました。

6日目(9月06日)

宿泊したアジア・ホテル
街角のガソリンスタンドの温度計は40℃を指していますが、レストランで見かけた子供たちは元気で走り回っていました。

4日目(9月04日)

岩絵野外博物館
チョルポン・アタ北西の山の斜面に並ぶ大小様々な岩。その中に4000年も昔に描かれたといわれる岩絵がなんと900個もあります。5世紀頃の石人もいくつか見られます。岩絵のある範囲は40haで東京ドーム8個分だそうです。岩絵は,サカ族や烏孫族などスキタイ人が描いたのではないかとされています。

チョルポン・アタ(Cholpon Ata)
イシク・クル湖の北側にあるチョルポン・アタは、中央アジア各地から湖水浴客が訪れる一番賑やかな避暑地として知られており、ビーチさながらの活気を感じることができます。海のように波もなく、水は青く透き通っています。遠く氷河を眺めながら泳げるのはチョルポン・アタならではでしょうか。街中には政府要人の別荘や保養所、歴史文化博物館や岩絵野外博物館があり、小さな商店や土産物屋も立ち並んでいます。

特に珍しい物では、黒い丸薬状の物は歯茎と唇の間に入れる煙草玉です。    白い球は乾燥したチーズの玉で塩辛いつまみです。、
オシ・バザール
キルギス最大のバザールです。食料品から、衣料品、日用雑貨に、ミリタリー用品、おみやげものまで、ありとあらゆるものが売られ、いつも活気にあふれています。豪快に売りさばかれる牛肉、羊肉、馬肉。種類豊富な乳製品などは、遊牧民の国ならではのものでしょうか。
アラ・トー広場に建つ国立博物館

アルク城
このアルク城辺りが古代ブハラの発祥の地だと言われ、少なくとも紀元前4世紀頃から存在していたようです。アルクというのは『城塞』を意味し、歴代ブハラ・ハーンの居城でした。7世紀にはフタ・ハウタンという女王が、このアルク城砦でアラブと戦ったそうです。モンゴル軍が襲来してきた時は、多くの住民がアルク城に立てこもって抵抗しましたが、結局チンギス・ハーンによって大虐殺され、城も破壊されてしまいました。その後も外敵に襲われて何度も修理、再建を繰り返してきましたが、1920年のソビエト赤軍による爆撃でほぼ崩壊し、現在は石造りの部分が残るのみです。アルク城を裏側から見ると、その破壊具合がわかります。門の入り口はかつて多くの囚人が収容された監獄で、今は当時の様子を人形で伝えています。さらに中へと進むと迷路のような構造になっていて、ジュマ・モスク、玉座の間、ハーンの居室などがあります。

建物には大統領の肖像画が
キルギス国立美術館
ビシュケクからイシク・クル湖への街道を東に進む途中には、ちょうど旬の食材であるスイカやメロン、シャシリクと呼ばれる肉の串焼きの屋台が沢山出ていました。
ミル・アラブ・メドレセ
カラーン・モスクの真正面に位置していて、巨大なアーチの両脇に二つの青いドームを持っている11536年にウバイドゥラ・ハーンによって建てられたメドレセです。青と白のモザイクタイルからなる植物文様と文字文様を組み合わせた、典型的な末期ティムール様式の装飾のメドレセです。内部は他のメドレセと同様に、中庭を取り囲むような二階建ての建物になっています。神学校として現役で使われていて、一階は講義を行う教屋や図書館・食堂などの小部屋、二階は学生たちの寄宿舎になっています。
バザールとスーパーの建物
今回の旅で最初の国境越えです。スーツケースを引いて約40分で済みましたので、まだましなほうでした。カザフスタンからキルギスに向かいます。

ドシャンベ(Dushanbe)
まだ歴史の新しいタジキスタンの首都。名前の通り"月曜日"に市のたつ田舎町でしたが、1920年に、ブハラ・ハン国最後の王がドシャンベに逃れボルシェビキと戦い、反革命軍の拠点となりました。1921年にはボルシェビキに落ち、1925年ソ連タジク自治共和国の首都"スターリナバード"となりましたが、1961年再び町の名は"ドシャンベ"に戻りました。ドシャンベは広い都市で、街並みは未だにソ連の都市計画を色濃く残していますが、公園や通りは名前を変え新しい国作りも進んでいます。

バラハウズ・モスク
1718年に建てられたブハラのハーン専用のアルク城の近くにあるモスクで、お祝いの日などにハーンはアルク城から赤絨毯の上を歩いて、バラハウズ・モスクまで来て礼拝したそうです。ハウズとは石垣でキレイに四角く取り囲んだ『池』のことで、バラハウズとは『池の前』と言う意味です。クルミの木で作られた、彫刻された高さ12mの柱が20本並んでいて、それが池に映って見える事から「40本柱のモスク」とも呼ばれるそうです。軒の正面や天井は、黄色などカラフルに塗り上げられています。ブハラの建築物では他で見られないアイヴァンという建築様式です。
国立中央博物館
主として、古代遊牧民についての展示が中心で、紀元前5世紀頃の古代スキタイ戦士の墓から発掘された動物をモチーフにした4000以上の金細工の衣装の黄金人間のレプリカが有名です。
ザラフシャン山脈の4000m級の山々は雪を抱いていました
パンフィロフ戦士公園とゼンコフ正教教会
宿泊したオトラル・ホテルの向かいにある公園は、第二次世界大戦での対ドイツ戦に、カザフスタンから出征しモスクワを防御し戦死したパンフィロフ将軍率いる28人の戦士の記念公園で、戦勝記念碑や無名戦士の墓などのモニュメントがあります。中央には1904年に建立された木造建築のゼンコフ正教教会が建っていますが、あいにく修復工事中でした。。
この旅行で7度目の国境越えで、トルクメニスタンから再びウズベキスタンのブハラに向かいます。

2日目(9月02日)

今日は、まったくの移動日です。日本からカザフスタンへの直行便は存在しないため、韓国・ソウル経由、又は中国・北京経由で行くのが一般的ですので、今回は、成田空港からアシアナ航空便でソウル経由でカザフスタンのアルマティに向います。

1日目(9月01日)

サラズム遺跡
ペンジケントの街から車で15分ほど東に走った場所に遺跡はあります。この遺跡は農夫が銅剣を見つけたことをきっかけに発掘されました。発掘の結果、紀元前4000~3000年の集落跡で、居住区跡、金属工房跡、神殿跡などが発見されています。なかでも最大の出土は、サラズムの王妃と名付けられた女性の墓で、40数点の金製品と、無数の宝石やビーズの装飾品が一緒に埋葬されていました。中央アジアでも屈指の原始都市であることが確認され、2010年タジキスタン初の世界遺産に登録されています。遺跡の近くを流れるザラフシャン川は「黄金のしぶき」との意味。古来から砂金が採れることで知られています。そのためサラズムは金製品で栄えたのではないかと考えられているそうです。

ナディール・ディヴァンベギ・マドラサ)
1622年にブハラ・ハーン国の大臣ナディール・ディヴァンベギによって建てられたメドレセで、ラビハウズの前にあります。このナディール・ディヴァンベギ・マドラサの入り口には、二羽の鳳凰が白いシカ(豚に見えますが)を掴んで、顔のある太陽に向かって飛んでいる絵が描かれています。これは偶像崇拝を否定するイスラム教義に反していますが、「これはキャラバンサライだから動物を描いても良いのだ。」と言って、建て始めて、完成してから「実はこれはマドラサでした!」と宣言した詐欺っぽい話ですが、そこまでして鳳凰を描きたかったのでしょうか?

小キズ・カラ
宿泊したホテル・アク・アルティン
旧ソ連時代に「地獄の門」を含めて周辺3ヶ所のボーリング調査をしましたが、その際に十分な天然ガスに当ったのは「地獄の門」だけでした。天然ガスの泡と泥が噴出した「泥のクレーター」や大量の水が噴出した「水のクレーター」が、今なお、そのままで放置されていました。でもこの国の埋蔵量は世界第4位だそうです。
街の至る所には、1994年以来就任しているエモマリ・ラフモン大統領の肖像画があります。夕方5時でも気温は32℃ありました。
中央アジア5ヵ国20日間
ナヴォイ・オペラ・バレイ劇場
これは15世紀の詩人アリシェル・ナヴォイの名前から取られたものです。アリシェル・ナヴォイは『ウズベク文学の父』『中央アジアのゲーテ』などと呼ばれているそうです。新市街にあり、1947年に完成した1500人も収容できる劇場で淡い茶色の落ち着いた感じの外観をしていて、玄関正面の大きな噴水が特徴的です。この劇場は、第二次大戦後にタシケントに連れてこられた日本人抑留者の強制労働によって建てられたものです。裏手にはその旨を説明した碑文があり、以下のように彫られています。
「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ—名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」この建物は1966年のマグニチュード8の大地震でもビクともしなかったそうで、日本人の建築技術の高さが語り継がれています。
外から見ると筒状になっている
天体図や出土品などの資料が集められた博物館
細密画を描く女性
宿泊したホテル・アルカンチ
ズルマラ・ストゥーパ
考古学者のアルバウム博士によって発掘され、それにより、115m×40mの建物は僧院・寺院・僧坊という3個所にわかれ、北側に接してストゥーパが設置されてたことが明らかになりました。今でもストゥーパは、風雨の浸食を避けるために、土壁で厳重に覆われ、1800年近く前のオリジナルストゥーパが中に残されています。早朝にホテルタクシーで近くまで行きましたが周りは私有地のため、近づくことはできませんでした。

8日目(9月08日)

イスタラウシャン(Istaravshan)
トルキスタン山脈の麓北部のフェルガナ盆地に位置し、ソグド州の州都ホジェンドからは78km南西に在るイスタラウシャンは、アレキサンダー大王が、この街のソグド人の女性ロクサーヌと結婚したので付いた地名です。都市の歴史が2500年以上であるなどタジキスタンでも有数の歴史ある古都で、特に旧市街はかつてのシルクロードの職人バザールとして栄え、現在もその面影を残す街として知られています。町の中心にはムグ・テペ遺跡があります。

3日目(9月03日)

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出典: ミネルヴァ書房 シルクロード紀行
シヤブ・バザール(シヨブ・バザール)
サマルカンド最大の古くから開かれているバザールで、バザールの中心に青くて丸い屋根の大きな屋内バザールがあるのが特徴になっています。大きなアーケードの下では野菜・果物をはじめとして、香辛料や穀物、生活用品などが所狭しと並べられています。特に野菜売り場が広く、他より一段低くなった涼しい場所で、大量の真っ赤なトマトなどが売られていました。土地の大部分が砂漠のウズベキスタンで、みずみずしい野菜や果物が採れるのは、凄いことだと思います。

ウズベキスタン歴史博物館
ウズベキスタンの首都タシケントの新市街にあります。中央アジアでは最も大きい博物館で、ウズベキスタンの歴史を大まかに知ることができます。古くは石器時代から、最近ではロシア帝国の征服以後の歴史までです。一階はエントランスで、二階には石器時代からの鏃や土器、人骨、ゾロアスター教寺院の復元模型などが展示されています。博物館のイチオシは、テルメズ近郊のファヤーズ・テペ遺跡から出土したクシャン朝時代の仏像で、穏やかな癒し系の顔立ちをしているガンダーラ仏です。三階はロシア帝国の征服以後の歴史、独立後の展示品が置かれていて、現代の産業についても見ることができます。

巨大な石のラウヒ(コーラン台)があります。
ビビハニム・モスク
中央アジア最大のモスク、で敷地面積は167m×109mもあります。なおビビハニムとは『第一婦人』という意味です。1399年にインド外征から帰ったティムールによって建設が始められ、国中から200人の職人や500人以上の労働者を集めて作業が進められました。重たい材料物を運ぶため、インドから95頭のゾウも連れて来られたそうです。そして完成したのは1404年という、超スピード建設でした。しかし、その突貫工事が祟ってか、はたまたあまりの巨大さのためか、ビビハニム・モスクは年月を追うごとにボロボロと崩れてきてしまいました。お祈り中に崩れたレンガが頭に落ちてきた信者もいたそうです。危険のためビビハニム・モスクで礼拝をする物もいなくなり、さらに寂れて行ってしまいました。そして19世紀末にあった地震でミナレットも折れ、ついには廃墟と化してしまいました。ソ連の崩壊後、現在はユネスコの協力を得て修復作業が進められ、鮮やかな青いドームなどは見事に復元されています。ビビハニム・モスクの中庭中央には説教台があり、そこには巨大な大理石のラウヒ(コーラン書見台)が置かれています。どんな大きさのコーランを置いたのかと思ったら、オスマン・クラーンという世界最古のコーランだそうです。
入り口の門
『天国への階段』と呼ばれる階段
ティムールが葬られるはずだった石棺
ティムール廟と呼ばれる地下の墓室

ラビハウズ
ハウズとは石垣でキレイに四角く取り囲んだ『池』のことです。ブハラは200近くのハウズがあった水の都でしたが、改革の後にソ連時代にほとんどが埋められてしまって、現存するハウズは6つだけだそうです。なお、水の都というワリには水がキレイでなく不衛生で、よく疫病が流行っていたそうです。このラビハウズは1620年に作られた46m×36mの大きさの池です。今ではラビハウズの周囲にはチャイハナやレストランが立ち並んで、町の人の社交場になっています。

トルクメナバート(Türkmenabat)
1886年、南下政策をとるロシア帝国によって、カスピ海横断鉄道建設でつくられた町です。鉄道とアムダリヤ川が結ばれる箇所のため、水運・陸運の交差点として重要な役割を果たしましたが、上流における乱開発のためアムダリヤ川の水位が低下、現在はその役割が果たされているとは言い難い状況です。ウズベキスタン共和国の国境に近く、100Km北東にブハラが位置して、鉄道がウズベキスタンのヌクスやウルゲンチに通じています。西にはカラクム砂漠が広がっています。

娘さんは顔を見せてくれました。
リヤカーで旅行中のドイツ人のChristoph Rehageさんと 
ホジャ・ユセフ・ハマザー・モスク
イスラムの宗教的な喜捨の教えか、厳しい環境で助け合いながら生きていかなければならない環境から生まれた相互扶助の伝統からか、ここでは毎日、近隣の住民が食材を持ち寄り、和気あいあいとしたおしゃべりクッキングを楽しみながら訪れる方に食事を振る舞うそうです。さすがに私たちは遠慮しましたが、、、、温かい良い習慣ですね。
大キズ・カラ
クレーターは夜ほど迫力はありませんが内部がよくみえました

13日目(9月13日)

昨夜は、「地獄の門」を見るために月明かりの下で、砂漠でのテント宿泊でした。今日は、地獄の門と周辺にあるクレーターを見てか、ら砂漠を走り抜けて首都アシガバードに向かいます。
カラクム砂漠の悪路を走り4時間程かけてダルヴァザに向かいます。

クフナ・ウルゲンチ(Kunya Urgench)
歴史は非常に古く紀元前5〜4世紀にはクフナウルゲンチは、アムダリア川の恩恵を受けて繁栄していた10世紀から14世紀までおよそ500年間、ホレズム王国の首都として栄えていましたが、1370年代に、アムダリヤ川の流れが北に変わったことにより、自然による都市の破壊が始まり、町は、放棄され、北には新ウルゲンチと呼ばれる都市が新たに建設されることとなった。修復保存がなされている敷地内には、14世紀に建てられたテュラベクハン廟や中央アジアで最も高いクトルグティムールミナレット、とんがり屋根が特徴のイルアルスラン廟など歴史的建造物が残っていることから、現在は世界遺産に指定されています。

二番目に高いジュマ・モスクのミナレット
クリヌッシュ・ハーンのアイヴァン

ヒヴァ(Khiva)
首都タシケントの西約750Km、ウルゲンチ市から南西に35Kmのアムダリヤ川の下流のオアシスの町です。古代ペルシャ時代からカラクム砂漠への出入口として繁栄しました。町は外敵を防ぐために高さ約8m、厚さ約6m、総延長2,250mの外壁と内壁の二重の城壁に守られておりて、南北に約650m、東西に約400mの小さな町になっています。内側の城壁に囲まれた内城イチャン・カラには20のモスク、20のメドレセ、6基のミナレットなど多くの遺跡が残されています。1969年には全体が『博物館都市』に指定されて、1990年にはユネスコ文化遺産に登録されました。「中央アジアの真珠」とも謳われるヒヴァは、いかにも古いイスラムの町という印象を受けますが、ペルシャなどの周辺諸国の攻撃によって何度か破壊されているので、現在見ることができるのは17世紀から18世紀に整えられた建造物です。一般にヒヴァと言う時は、このイチャン・カラを指しています。イチャン・カラの外側はデシャン・カラと言います。

ハズラティ・イマーム・モスク
バラク・ハーン・メドレセの向かいにある16世紀に開かれたタシケントの金曜モスクと呼ばれていますが、外国人は入れませんでした。
テルメズから国内線で1時間半、観光の起点となるタシケントに向かいます。二度目のタシケント、今度は、一部の市内観光をします。

タシケント(Tashkent)@ウズベキスタン)
「石の町」という意味の名のタシケントは、ウズベキスタンの首都で中央アジア最大の都市です。1964年に起こった直下型大地震によって、一度はタシケントの街は壊滅状態になりましたが、復興努力の結果、見事に近代的な街に生まれ変わりました。道幅も広く、たくさんの自動車や路面電車が走り、また中央アジアで唯一地下鉄が走っている都市でもあります。町を行く人たちの格好も、イスラム風の人はほとんど見かけず、洗練された都会的なファッションが多い街です。またシルダリヤ川から大量の生活用水を引き込んでいるので、非常に水が豊富な場所でもあり他の都市でいたるところで見られた『砂の色』があまりありません。その反面『水の青』と『木の緑』が多く見られ、人工的な自然が多い都会といったところです。

ルダーキー像
左側はハープを奏でる女性、中央から右にかけては戦闘シーン
イスマイル・サマニ公園と記念碑
旧レーニン像のあった広場に作られたサーマーン朝の王イスマイル・サーマーニーの像で、町の中心にあります。アッバース朝アラブの厳しいイスラム支配に反乱が相次いだ9世紀後半、テルメズ出身のイスマイルはブハラを拠点に活動を展開し、自らの勢力範囲を急速に、北及び東に拡大して中央アジア一帯へ勢力を拡大することに成功したサーマーン朝が全盛期を迎えた時のアミール(総督)です。イスマイルが拠点とした現在ウズベキスタンのブハラは、サーマーン朝の首都となり、10世紀には東方イスラーム世界で当時最も栄えた都市の1つとなりました。タジキスタンの通貨ソモニは彼の名にちなんだものです。
アジナ・テパ仏教遺跡から出土した13mの涅槃仏像
ペンジケント遺跡

アラブの襲来の時に、住民が町を放棄したままの状態で古代都市としての原型をとどめているため、「中央アジアのポンペイ」と言われる4~8世紀にシルクロードの交易を独占していたソグド人の文化を伝える遺跡です。ザラフシャン川近くの丘の上にあるソグド人の都市は城壁で囲まれた城郭都市で、ゾロアスター教を信仰した彼らの拝火神殿跡や、バザール跡やキャラバンサライ跡も残ります。 また、インドから来た隊商達が使ったヒンドゥー教寺院もあり、古代の国際都市であったことがうかがえます。 このペンジケント遺跡からは多くの素晴らしい壁画が発見されています。多くの壁画は、旧ソ連時代にエルミタージュに運ばれてしまったそうですが、それでも幾つもの優品が博物館で展示されています。

シャフリスタン峠(3378m)
中国の援助で出来たトルキスタン山脈にかかる全長5Kmのシャフリスタン・トンネルを抜けてペンジケントへ向かいます。
3たび国境を越えてカザフスタンからウズベキスタンのタシケントに向かいます。ウズベキスタンでは、税関申告が非常に面倒です。
イシク・クル湖畔の宿ラドゥガで朝を迎えてから、今日は、2度目の国境越えで再びカザフスタンのタラズに向かいます。約570Kmの移動です。
マリィ博物館
1階は前大統領と自然に関すること、2階はメルブとマルグーシュの出土品、民族衣装や生活用品などが展示されていました。
ビシケク(Bishkek)@キルギス
ユーラシア大陸ののほぼ中央に位置する山岳の国で、国土の約93%が海抜1500m以上の高地で40%が3000mを超える山で占められています。遊牧の民が行き交い、カラハン朝の都が栄え、仏典を求めてインドを目指した玄奘三蔵も訪れたシルクロードの要でした。キルギスとは「40の部族」の意味で現在も100もの民族が共存し、多様な文化を織りなしています。中央アジアの国の中では珍しく砂漠が存在せず、緑が豊かな草原、美しい自然から「中央アジアのスイス」と呼ばれる国です。キルギス北部、カザフスタン国境近くに位置する首都ビシュケクは、ソ連時代の都市計画の下に造られた政治、経済、文化の中心地です。万年雪を頂いた天山山脈の支脈アラ・トーの雄壮な姿が町のいたるところから見渡せるキルギス随一の都会です。
手前がギャウ・カラ、遠くに見える台地がエルク・カラ
カラクム砂漠を走り首都アシガバードに向かいます。放牧されているラクダも道路を悠々と横断です。

12日目(9月12日)

ヒサール要塞
ドシャンベから西に約25Kmにある15世紀のブハラ・ハーンの知事の住居跡です。日干しレンガの堅固な城門内には、かって市場、キャラバンサライ、庭園などがあって栄えていましたが、抵抗運動の拠点となったためにロシアの赤軍に破壊されたが、後に城門は修復され、門前には樹齢500年以上のプラタナスの巨木があり信仰のシンボルとして多くの布切れが結ばれています。

9日目(9月09日)

首都ビシュケクの中心部は、市内中央を走るチュイ大通りに沿ってオシ・バザール、科学アカデミー、フィルハーモニー・コンサートホール、大統領府と続きアラ・トー広場に出ます。
再びマリィの街に戻ります。街並みは整然とし、古い建物は旧ソ連時代に建てられたアパートがあるくらいで新しい建物や銅像、モニュメントなどが目につきます。

エルク・カラ
メルヴ最古の場所で、アケメネス朝ペルシャ時代(紀元前6から4世紀)のエルク・カラ。現在は僅か崩れた城壁が残っているだけで、35m程の丘の上にある城壁の一番高いところに登ると360度見渡すことができます。

アシガバード(Ashgabat
トルクメン語で「愛の町」を表す、首都アシガバードは、イランと接する南西境に沿って迫るコペトダグ山脈が連なるほかは、北側ほぼ全域にカラクム砂漠がひろがる間にあり、中央アジアの首都としては最南端に位置します。町並みは整然とし、古い建物はなく建物が白い大理石に覆われています。しかもトルクメニスタンの山でとった石ではなく、イタリア、ベトナム、トルコから持ってきた石です。見る街は、やたら白く高い建物が目立ち、ビルの中はスカスカでなんとも見せかけだけ綺麗に仕立てたような街に見える。人があまり歩いていないところに、異様な感じがしました。現地ガイドさんによると、ここはタバコの歩行禁煙、市内に車で入る時は洗車していないとダメとかと制約があるようです。国立博物館や噴水のある広場、永世中立国としてのシンボルである「中立門のアーチ」、などが賑わいのある場所です。

2017年9月01日~20日

アムール・ティムール広場
緑豊かな公園で、多くの人が散歩や休憩に来る場所になっています。広場の中心にはウズベキスタンのシンボルともいえる騎馬姿のティムールの像が立っていて、その像の後ろには、ソ連時代には要人御用達のウズベキスタン・ホテルや国のシンボル「コウノトリ」のモニュメントが屋根にある国際会議場あります。ウズベキスタン・ホテルの17階レストランで昼食です、ここからの窓の景色の見晴らしはよく眼下に広場や広い道路が放射状に何本も伸びているのが見渡せました。

19日目(9月19日)

14日目(9月14日)

ダシュオウズ(Daşoguz)@トルクメニスタン
カラクム砂漠を進むので国境からは、四輪駆動のパジェロに乗り換えて約10分ほどで、ダシュオウズ州の州都、ダシュオウズに到着しました。ダシュオウズはトルクメニスタンで第2の人口を抱える都市ですが、第2といっても16万人。トルクメニスタンの人口が約520万人で、首都のアシガバートが約70万人。トルクメン語で、「石の泉」という意味です。新しい建物やモニュメントが目につく町ですが、歴史は古くキャラバンサライたちが立ち寄る宿場町だったそうです。町の規模は大きくなかったが、帝政ロシアに併合されて以後、発展を遂げ、旧ソ連時代、ウズベキスタン側のウルゲンチを含めたホレズム地方の中で最も大きな町でホレズム地方の中心の街でもありました。

午後の暑さを避けて、一旦宿泊したホテル・アルカンチに戻り小休止。
今日は、期せずしてタジキスタンの独立記念日で、街中には民族衣装を着た女性が多く目につきました。ヒサール城砦を観光してから国境を越えてウズベキスタンのテルメズに向かいます。
中央郵便局
アレキサンダー大王像

アク・ベシム遺跡
トクマクの南西約6Kmほどのところのアク・ベシム村に、6世紀から12世紀のアク・ベシムの遺跡があります。周囲の城壁がほとんど残っており、仏教寺院跡が発掘され、唐代の砕葉城(スヤブ城)であることが近年明らかになりました。629年に出発した玄奘三蔵がインドに向かう途中、イシク・クル湖岸を通って、ここで突厥の王(ヤブグ可汗)に会い、歓待を受けたと「大唐西域記」に記録されています。

アルマティ(Almaty)@カザフスタン
ユーラシア大陸の中心に位置し西はカスピ海に面し、東は天山山脈を隔て中国に接する世界最大の内陸国で、面積も世界で9番目の広さです。古くはトルコ系騎馬民族が活躍し、モンゴル帝国の支配も受けた歴史を持ちます。遊牧民族国家カザフスタン最大の都市であるアルマティは、カザフスタンの経済の中心地で「南の首都」と呼ばれます。(なお、首都はアスタナ)。アルマティとは「りんごの里」を意味しますが、りんご畑は都市開発にともない、ほとんど減少しているそうです。カザフスタンといえば4000mを超える天山山脈の支峰アラタウ山脈を望む風光明媚なところで「草原」のイメージですが、アルマティの街並みは近代的な街並みです。カザフスタンは、チューリップの原産地でもあり、日本人にとってソ連時代に建設されたバイコヌール宇宙基地が有名で、ロシアにとって今なお重要な宇宙開発施設で2050年まで続くロシアの租借地であるそうです。

今回の旅行は、数々の遊牧民族が活躍し、かつてはシルクロードのオアシス都市として栄え、そして近代では旧ソ連の一部として運命を共にしながら、独立後はそれぞれが特色ある国家を形成している中央アジアです。1991年12月25日にソビエト連邦崩後に生まれた中央アジア五ヵ国(カザフスタン、タジキスタン、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタン)の5ヵ国を周遊してきました。タジキスタン(電子ビザ)、ウズベキスタンとトルクメニスタンでは、まだビザが必要な国です

ムハンマド・アミン・ハーン・マドラサ
1852年に完成した、中央アジアで最も大きな規模のマドラサです。広さは71.7m×60m、中庭の広さは38m×38mあります。二階建ての建物には全部で125の部屋があり、最盛期には99人の学生が寄宿して、学んでいたそうです。神学校だけでなく、イスラムの最高裁判所の事務所もあったそうです。
イマームさんに祈禱をしていただいています。
ミナレット頂上まで118段の螺旋階段を登る
今日は、ペンジケントで観光後にファン山脈の峠を越えてタジキスタンの首都ドシャンベに向かいます。
途中のチュイ川がカザフスタンとキルギスの国境になっていて検問所と国境橋があります。
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