ブー・ヌーラーの町
メリカのシディ・アイサの墓
現地ガイドと、エル・アテフのシディ・イブラヒムの墓、
ベニイスゲンの町
狩猟のモザイク
ローマ広場

6日目(2月9日)

宿泊した国営ホテル・シェリア
砂風で覆われた道路
図書館の看板
ハドリアヌス帝の来訪記念碑
シディ・ムシット展望台からコンスタンティーヌ市街と、シディ・ムシットのつり橋を望む
第一次世界大戦戦没者慰霊碑
シディ・ムシッド橋
3千人を収容できる劇場
セプティミウス・セウェルス帝の神殿
カピトリウム神殿
フォーラム
様々な生贄を捧げた様子が描かれるハドリアヌスの台
共同水道
市場にある計量器台
フォーラムへ抜ける道
廃墟と化して1400年余り、山々に囲まれた辺境の地であったため数々の遺構が手付かずのままで発見されました。
高さ25mのミナレットの屋上に上って見ると全長7Kmに及ぶ城壁と宮殿の遺構がハッキリと分かります。
ベニ・ハマッド博物館
要塞遺構の模型
宿泊したホテル・エル・ジャザイール
昨夜、ミシュラ峠周辺では降雪があり一面銀世界です。アフリカでも雪は降りました。ミシュラの街で、シシケバブの昼食を食べていると、「おしん」の国から来た日本女性が珍しいからでしょうか、写真撮影を多くの人から頼まれた本人はご満悦・ご機嫌でした。それにしても日本女性は世界中で持てます。
ミシュラの街
中央郵便局
フランス植民地時代の1913年に完成したアルジェ市街のランドマーク。フレンチ・スタイルですがアンダルシア風のアーチと装飾が施されています。将来は博物館にする為に内部は改装工事中でした。
アルジェ港からマルチール広場に向かう通りにはフランス植民地時代の風情を残す街並みが続きます。
マルチール広場
夕食のシーフード・レストラン「ドルフィン」
新市街は、海岸付近の低地に発達した近代的な街です。
17世紀建立のケチョウア・モスク
エル・ジェディッド・モスク
マルチール広場
ノートルダム・ド・アフリク大聖堂
フランス植民地時代の18世紀後半にネオビザンチン様式で建造された、旧市街の西部の高さ124mの高台にある、「アフリカの聖母マリア」の意味するカトリック教会です。内部のフレスコ画は20世紀末に描かれました。丘の上に教会の外観は、非常にイスラム風ですが大変美しい教会です。丘の上なのでアルジェ市内と地中海が良く見渡せます。
バジリカ聖堂の跡地にはアーチが残っています
モザイクの残る教会跡
斜面に並ぶのはカスバ
円形闘技場
魚醬を作っていた工場跡

今日は、まったくの移動日です。成田空港からエミレーツ航空便でドバイ経由でアルジェリアの首都アルジェに向います。

アルジェリア11日間
聖都ベニ・イスゲンの町の散策です。町はアルジェのカスバの様に路地が迷路のように複雑に入り組んでいます。少数民族ベルベル人のムザブ族は、「コーラン」の教えを厳格に守り続け、特に既婚女性は片目だけを、未婚女性は顔だけを出した白いチャドルをまとって外出します。
ラマハーン・モスク
シェルシェル博物館
シェルシェル(Cherchell)
シェルシェルは、ローマ属州マウレタニアの首都カエサリアが置かれていた町です。港を一望できる丘の上にある現在のシェルシェルの町は、かっての古代ローマ都市の上にあって、今もその地下には多くの遺跡が眠っていると言われています。、ローマ広場の前に建つラマハーン・モスクは、フェニキア、ギリシャ、ローマ、オスマントルコ、フランス時代の歴史の証人としてローマ神殿を彷彿させる建物で、かってはカトリック教会だったが、独立後の今はモスクとして使われています。シェルシェル博物館には、トラを従えて凱旋する勝利の女神のモザイク、世界でも数少ないクレオパトラの像なども展示されています。
メリカの町
2000人収容できた劇場跡技場
インタビューに来た地元ティパサ大学観光学科の女学生

独立記念塔,
アルジェ市街を見下ろす丘上に作られた「独立記念塔」、椰子の葉を3枚合わせたモチーフのコンクリート製の塔は高さ92mです。1962年フランスより独立、その「独立戦争」の死者の英霊を祀る火が広場で燃え続けていますが、軍の管理下のため入場できませんでした。

日本女性との撮影を多くの人から頼まれ

2018年2月4日~14日

7日目(2月10日)

いよいよ砂漠地帯です。見えるのはラクダ、砂風で覆われた道路、そして砂丘です。
今日は、バトナから496Km離れたサハラ砂漠の入口の街ワルグラに向かいます。途中のエル・カンターラは、陶器のの町。「砂漠の口」と呼ばれる幅40mのカンターラ渓谷には、ローマが通行税を取った橋があります。現在の物は、ローマ時代の橋をナポレオン三世が1862年に再建したものです。

バトナ(Batna)
バトナは、アルジェリアの首都アルジェの南東に位置する内陸の都市で、バトナ県の県都です。オーレス山地の入り口でもある盆地のバトナは、アトラス山脈とサハラ砂漠を結ぶカンタラ街道の防衛のためと周辺の山地の警備のため1844年にフランス軍が設置した軍事基地に端を発するといわれる比較的新しい都市ですが、現在では近隣のティムガッド遺跡観光の拠点として観光客が足を運ぶ場所となっています。私たちも、この街の国営ホテル・シェリアに宿泊しましたが、すぐ目に付くロビー、レストラン、廊下などは綺麗ですが、部屋の設備は清掃・整備がキチンとされていませんでした。これは、この国の社会主義的な仕事の役割・縦割り分担の文化が残る国営企業全般に共通した事だそうです。

メドラ・セン
場所は コンスタンティーヌの南西93Km、Batnaの手前 43Kmに位置する Medracen(メトラセン:Medrasenとも綴る)にある ヌミディア王の陵墓で、通称 アルジェリアのピラミッドと呼ばれている半円球状で直径59m、高さ18.5mもある巨大なピラミッドです。ピラミッドの周囲には合計60本の柱が並び、柱頭にはギリシア・ドリス式の簡素な組み物が梁となる石才を支えています。

5日目(2月8日)

コンスタンティーヌ(Constantine)、
コンスタンティーヌは、かってのヌミディア王国の首都であり、東部アルジェリアの中心都市として商業の中心地でもあり、また、伝統的なイスラームの学術都市、難攻不落の軍事都市の一面も持ち合わせている峡谷と橋の町です。標高626mの地点に位置し、リュメル川の峡谷の岩丘上に建っています。周囲の山地から町に入るためには峡谷に架かる8本の吊り橋を渡らなければならず、かつては吊り橋は侵入者を撃退する役目を担っていました。今では吊り橋の一部は舗装され、車道を備えるものに改修されていますが、町に架かるPont Sidi Rached(シディ・ラシェド橋)は、建設当初「世界で最も高い石橋」とされていました。中でも一番目を引くのは Pont Sidi M'Sid(シディ・ムシッド橋)の吊り橋(1912年フランス統治時代に完成し、長さ 164m、幅5.8m、谷底から橋の頂部までの高さ175m)で、橋の上から下を覗くと足が竦むほどです。都市の名前は、町を作ったローマ皇帝コンスタンティヌス1世に由来します。
ジェミラ博物館
小規模ですが、ジェミラ遺跡からの出土品やモザイクなどを展示保存しています。モザイクコレクションは世界に誇れる古代ローマ芸術の宝庫です。

セティフ(Sétif)
標高1096mの高原に位置し、アルジェリアの県都の中で2番目に標高の高い都市で、通りには、並木や噴水、劇場が作られ、フランス時代の雰囲気を残しています。またセティフは、雪が降るほどですからアルジェリアで最も寒い都市の一つでもあるそうです。宿泊したホテル・タージ・ムアダからジェミラ遺跡を観光した後にコンスタンティーヌに向かいます。

4日目(2月7日)

ベニ・ハマッド(Beni-Hammad)
シリアから勃興してアルジェリア、スペインのグラナダまで版図を広げた、ハマッド朝の都ベニ・ハマッド(ハマッドの息子の意味)の要塞遺構は、風光明媚な標高約1000mの高台に造られ、11世紀頃アラブ世界の交易の中継都市として大きく栄えましたが、建設後80年余りで遊牧民のたび重なる攻撃により廃墟となりました。 当時造られたモスクはアルジェリアで2番目の大きさを誇り、高さ25mのミナレットが現在でもその姿を残しています。ベニ・ハマッドの遺構は独特の様式を持ち、後々モロッコ(マラケシュのクトゥピアの塔、ラバトのハッサン塔)やスペイン(セビリア大聖堂のミナレット)のモデルとされたほどで現在、世界遺産に登録されています。

アルジェ(Alge),
地中海の要塞として古くから発達した都市でアルジェリアの首都です。都市は、海岸付近の低地に発達した近代的な部分と海抜100m以上の高台にある古都部分に分けられます。海岸付近は「北アフリカのパリ」という言葉に相応しく、植民地時代の影響でノートルダム大聖堂に代表されるフランス風の建築物が立ち並んでいます。内陸の旧市街部はイスラム風の建物が多くモスクが数多く点在してます。

1日目(2月4日)

成田・ドバイ間が約12時間、乗り継ぎ時間が3時間、そしてドバイ・アルジェ間が7時間30分。成田を出発後、22時間30分でやっとアルジェ空港に到着です。

2日目(2月5日)

10日目(2月13日)

入口に戻る

海外旅行記の一覧へ

旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

成田に帰国

11日目(2月14日)

魚はキリスト教のシンボルと言われている
マウレタニア王家の墓
紀元前2世紀、アルジェリアの地中海岸を支配したマウレタニア王国。ベルベル人のマウリ部族が興したこの王国は、ローマ帝国の属州になるまで西アルジェリア、北モロッコ、ジブラルタルなど広大な地域を支配していた当時の地中海岸における強力な勢力でした。属州になったときローマ帝国は捕虜としてローマで養育されローマ市民権を得たヌメディア王国のユバ2世とクレオパトラの娘セレーネを結婚させてマウレタニアを統治させた。この墓はユバ2世がセレーネのために造ったと考えられています。墓は直径61m、高さ32mで東西南北に4つの飾り扉があり周囲に60本の石柱があり、墓は多数の石を積み上げて作ってあるが石はチャヌア山から運んできたという。飾り扉に十字架が彫られているがビザンチン時代に彫られたと考えられています。墓は、シェルシェルの郊外の小高い丘の上にあり地中海とアトラス山脈の山々の姿を楽しむ事ができます。
赤ちゃんの白いラクダも顔を出しました
再びアルジェに戻って、初日に宿泊した同じホテル・エル・ジャザイールに連泊して、アルジェ近郊にあるティパサやシェルシェルを観光します。
砂漠の雪
ラグワットアルジェまで、まだ402Km、道路脇ではベルベル人特有の羊毛の毛布で作ったコートをテントの店で売っていました。
エル・アーティフの白い礼拝堂
白い礼拝堂の内部
高さ12mの凱旋門「トラヤヌス門」、別名はティムガッド門
ローマ時代の水道橋
コンスタンティーヌ郊外にあるローマ時代の水道橋

アルジェのカスバ
カスバとは元々アラビア語で「要塞」を意味し、19世紀のフランス植民地の時代にこのような呼び名になりました。この街を築いたのは、地中海を荒らしまわるトルコの海賊「赤ひげ」でした。オスマントルコの時代から近世までのアルジェの歴史が刻まれた街で、地中海を見下ろす丘の斜面に狭い石段や家々がひしめきあう“カスバ”には中世から続く街並みが残ります。カミュの小説「異邦人」の舞台としても有名な場所で、映画「望郷」の舞台としても知られ、高低差118mにも及ぶ起伏に富んだ地形そのものと、そこを縫うようにして伸びる、在りし日の謎と神秘に満ちたアルジェへいざなう曲がりくねった細い路地と狭い石段は、まるで迷路のようです。目の前に突如開ける地中海、どこを見ても絵になる風景です。日本でも「ここは地の果てアルジェリア、どうせカスバの夜に咲く」と歌われた街です。

アルジェリアには、2013年1月に起きたアルカイダ系のイスラム過激派による天然ガス精製プラントの襲撃事件で、人質となった日本の日揮社員らを含めての死亡事件から暫くの間、渡航禁止でしたが、昨年末頃から、現地警察の警護も付いて観光が再開・解禁されましたので行ってきました。アルジェリアには、ローマ帝国が北アフリカに進出した際に建設した植民都市が多く、その保存様態の良さに驚かされます。

今日からは、サハラ砂漠をめざして走ります。古代ヌミディア王の墳墓と、アルジェリア最大のローマ遺跡であるティムガッド遺跡に寄り、砂漠地帯のバトナへ向かいます。
いよいよ今日は、帰国日ですが、午後の便なので午前中は、手持ちのアルジェリア・ディナールを使い切るためにショッピングモールへ行きます。途中には、国威発揚の為でしょうか、現在世界一のモロッコのカサブランカにある高さ200mのハッサン2世モスクをしのぐ高さ300mのモスクを建築中でした。
アルジェ大学校舎
近くにあるRound Aboutも巨大なピラミッド形です

9日目(2月12日)

今日は、宿泊したガルダイアの国営ホテル・エル・ジャヌブから、アトラス山脈を越えて597Km離れたアルジェに向かいます。天気予報によると46年ぶりの寒波でアトラス山脈に雪が降って午前中は通行止めで、軍隊が出動して除雪作業をしているとのニュースが入りましたが、私たちが通過するのは夕方なので問題なさそうですが、心配しながら朝7:00に出発です。勝手に想像していたイメージと異なりサハラ砂漠でも雪が見られました。
坂と細い路地の運搬手段は今でもロバです。
ナポレオン三世が再建した碑文
ナポレオン三世の「N」の紋章
宿泊したホテル・イビス周辺の街並み

3日目(2月6日)

216年建設のカラカラ帝の凱旋門
夕日と人影
ムサブの谷
アルジェリア中部のムザブの谷には「コーラン」の教えを厳格に守り続け、「イスラム教の清教徒」と呼ばれるムザブ族の町があります。 彼らは、イスラム世界では異端とされました。主流派から迫害を受けた彼らは信仰の場を求め、流浪の末に11世紀初め、この地に辿り着いたのです。ガルダイアを中心にエル・アティフ、ベニイスゲン、ブー・ヌーラー、メリカの5つの町が造られました。それぞれ丘の頂上に建てられたモスクを中心に麓に向かって町が広がっています。 町は城壁に囲まれ、伝統的な町並みがそのまま残っています。高度な灌漑システムを開発したムザブの人々は、オアシスにパルメリーと呼ばれるナツメヤシ畑をつくり、パステルカラーで彩られた真四角の家々と、美しい街並みが残り、キュビズム風建築に魅了されたフランスの建築家コルビュジェにも影響を与えたと言われつつも、ムザブ人は1000年の間、このサハラの枯れ谷で、今なお当時のままの戒律と伝統的な文化を守り続けてきたのです。旅行者の宿泊や酒たばこも禁止され、異教徒は現地ガイドなしでは町に入ることも許されないそうです。

ティムガッド遺跡(Timgad)
ローマ帝国の巨大遺跡「ティムガッド」は、約2千年前に建設されたものの、帝国の滅亡後に放棄され、その後は歴史から忘れ去られた幻の都市です。 破壊や盗掘を免れたティムガッドは、ローマ帝国の都市の姿を、完璧な形で今に伝える唯一の遺跡です。それは内戦状態が長く続いたアルジェリアへの入国は極めて困難だったため、誰も近づけなかったからです。古来タムガディという名前で呼ばれていたこの都市の起源は、オーレス山地近隣における対ベルベル人の要塞とすることを主目的に、何もないところに建市された軍事植民地でした。最初にそこに居住したのは、古代ローマ軍での数年の軍役を終え、その見返りに土地を給付された退役軍人達が数多く植民したことに始まります。劇場や大浴場、図書館などが整備されたこの町で、彼らは余生を優雅に暮らしていたと言われています。紀元2世紀、トラヤヌス帝の時代に建設が始まり、碁盤目状に町は整備され、典型的なローマ都市の構造に設計されています。8世紀の地震で砂に埋もれてしまったティムガッドは、1880年にフランスの考古学者によって発掘され再び日の目を見ることとなりました。遺跡の保存状態が非常に良いことから現在では「アフリカのポンペイ」と呼ばれています。

アルジェの空港待合室の片隅では、敬虔なイスラム教徒が、アザーンに合わせて礼拝をしていました。ドバイで成田行きの飛行機に乗り継ぎ帰国です。
囚人のモザイク
ティパサ遺跡
地中海沿岸に位置するティパサは紀元前7世紀にフェニキア人によって建設され、フェニキア語で「市の広場」と呼ばれカルタゴとの交易で栄えた港湾都市遺跡です。1世紀には、ローマ帝国に支配されるようになり繁栄し、神殿・浴場・劇場などの現在見ることができる多くの建物が建設されたのです。 その後のティパサは、ビザンチン帝国の一部となるが、他のローマ都市と同じく、6世紀、ゲルマン人の一派だったヴァンダル人の破壊活動によって衰退。そして街は歴史から姿を消した。7世紀になってアラブ人が入ってきた。アラブ人が到着した時には、町は荒廃していたのでアラビア語でティパサ(「荒廃した町」という意味)と呼ばれ、アラブ人たちはこの町には定住しなかった。劇場跡やモザイクの残る教会跡、円形闘技場など保存状態の良い遺跡が残っており、地中海の青さがさらにティパサを美しく見せています。最初に博物館を見学します。
クレオパトラの娘セレーネの墓
アルジェリアは地中海屈指の貿易港です。
宿泊したホテル・エル・ジャザイール

8日目(2月11日)

宿泊したガルダイアの国営ホテル・エル・ジャヌブ
アトラス山脈にあるベルワギアの町に入ると一面銀世界です。
ベニ・イスゲン博物館
ムサブの谷の入口のモニュメント
エル・アティフの町
フランスの建築家コルビュジェにも影響を与えたエル・アーティフの白い礼拝堂は、彼の後期作品「ロンシャンの礼拝堂」に生かされたそうです。
ガルダイア(Ghardaia)
ムサブの谷の中心都市、ガルダイアは城塞都市で、丘の上にはミナレット(モスクの尖塔)が都市の見張り塔のように聳えています。街の中心部の広場は市場で、建物は、小高い丘にへばり付くようにひしめき合って建っています。
パトカー先導で街を進みます
国営ホテル・タッシリ

ワルグラ(Wargala
サハラ砂漠の入り口に 南部の油田地帯ハシ・メサウドへの拠点となる空港のあるオアシス都市です。5つのオアシスから成っていましたが、深い掘抜き井戸が 1956年に完成して以来,地下水で灌漑されたヤシ園,果樹園,菜園が拡大しました。周囲には遊牧民シャアンバ族が住むが,最近では大油田地帯「ハシ・メサウッド」に近いため人口は著しく増しており,近代的な建物もふえてきたそうです。この街でも国営ホテル・タッシリに宿泊しました。

高さ14mの柱のセプティミウス・セウェルス帝の神殿
市場跡に残る、葡萄酒の店のレリーフ看板
途中の車窓かティムガッド郊外のランベセに残る駐留ローマ帝国軍の司令本部跡を望む
オーレス山地を望む
27のアーチの美しいシディ・ラシェド橋越しの街の眺め
駅前広場のコンスタンティヌス1世像
Pont Sidi M'Sid(シディ・ムシッド橋)の吊り橋
タマシン塩湖の塩田
ジェミラ遺跡
ジェミラはアラビア語で「美しい」という意味で、7世紀にやってきたアラブ人達が、肥沃で緑豊かなこの地を見て付けた名前です。ローマ帝国は、ベルベル人達を制圧するために内陸に、1世紀にクイクルと言う植民都市を築きました。美しい丘陵地帯に、山の斜面を利用して作られた3千人を収容できる劇場など、大通りや公衆浴場、水洗式の公共トイレ跡地など巨大なローマの都市遺跡が広がっています。北アフリカ・リビア出身のローマ皇帝、セプティミウス・セウェルス帝を崇めたセプテミウス帝の神殿、その息子のカラカラ帝の凱旋門、カピトリウム神殿、フォーラムやバジリカなどが残っています。5世紀にヴァンダル人によって破壊された後、一時はビザンチン帝国時代により復興されましたが長くは続かず、6世紀末には廃墟と化していたとされています。現在ではアルジェリアで最も美しい遺跡とされ、1982年に世界遺産登録されました。
車窓からの途中の雪景色
今日は、ミシュラ峠を超えて中世の隊商路として栄えた要塞都市ベニ・ハマッドに寄り、宿泊地のセティフへ向かいます。前述したように観光警察のパトロールカーがバスの前後を警護しながらの移動です。警察の管轄する地域ごとにパトカーが交代するために、何度も待たされる煩雑さはありますが、渋滞中でも先導されますし、バスも優先的に駐車出来るメリットもありました。これも、2013年1月の襲撃事件の教訓からでしょうか?
一連の観光を終えて、再びアルジェの町に戻り車窓観光します。
地中海に面した遺跡の高級住居跡

正式名称はアルジェリア民主人民共和国、通称アルジェリアは、北アフリカのマグレブ(北西アフリカ諸国の総称)に位置する共和制国家です。東にチュニジア、リビアと、南東にニジェールと、南西にマリ、モーリタニアと、西にモロッコ、サハラ・アラブ民主共和国と国境を接し、北は地中海に面して、対岸にはスペイン、旧宗主国のフランスが存在します。一見して日本より相当南の緯度にあると思われがちですが、首都のアルジェは新潟県とほぼ同じ北緯36.7度の緯度にあります。2011年の南スーダン独立によりスーダンが分割され領土が縮小したことで、スーダンを超えてアフリカ大陸において最も領土が広い国となりました。世界全体でも第10位の領土面積(238.2万㎢、日本の6.2倍)です。国土の85%を砂漠が占め、乾燥した平原地帯となっていますが、北部には2,000m級のアトラス山脈が走り、地中海沿岸は雨量も多く、草原なども広がるので、国民の約95%がこの地中海沿岸地域に居住しています。

地中海の青さがさらにティパサを美しく見せています。
途中の車窓からオーレス山地を望む
inserted by FC2 system