7日目(1月28日)
3日目(1月25日)
5日目(1月27日)
2日目(1月24日)
2019年1月23日~30日
ヤンゴン(Yangon)
市街の北にはミャンマー仏教の総本山シュエダゴンパゴダがそびえ、市街の中心部のランドマークとなっているスーレーパゴダとともに、参拝客で1年中にぎわうミャンマーの中心地です。ヤンゴンのダウンタウンの街並みは、イギリス植民地時代に建てられたコロニアル調の建築が訪れる人の目を楽しませ、一方でインド人街、中国人街など民族色の強いエリアもあり、散策するのが楽しい場所です。経済開放政策を背景に急速に発展しているためか人も車も非常に多いです。そのわりに公園や緑地が多く、高い建物が少ないので、思ったより落ち着いた印象を受けます。車は日本車が多く、特にバスは日本の中古が多く塗装や会社名がそのままなので「横浜市営バス」「西武バス」が走っていて、ちょっとヘンな感覚です。空港から市内への交通渋滞を避けるため空港近くのパユェッセイッゴン(Paywet
Seik Kone)駅から鉄道の環状線に乗りヤンゴン中央駅に行き、市内観光を開始しました。
プーパヤ,
川岸にある小さな円筒形の仏塔で、ひょうたんの姿の仏塔(ブー=野菜のひょうたん、パヤー=仏塔)という意味です。仏塔全体は黄金で輝き、夜はライトアップの綺麗な姿を見せるので、新しく建てられたように見えますが、実は古くミャンマーで仏教が広く栄えるバガン朝以前の7~8世紀頃ビュー族によって建立されたと言われていまが、1975年の地震で被害を受け修復されました。こから雄大なエーヤワディー川を望み眺める夕日が美しい場所とされています。
アーナンダ寺院,
バガン遺跡の中で最も有名な寺院のひとつ「アーナンダ寺院(Ananda Temple)」、バガンで最も美しく中心的な建造物とされています。王朝に最盛期をもたらした王といわれている第3代チャンシッター(Kyanzittha)王が、1091年に建立した寺院です。都城外の東側に位置するアーナンダ寺院は、一辺が63mの大きな方形の寺院で、高さは51mに及びます。「アーナンダ」という名前は、仏陀の弟子のひとりに由来します。観光地としても人気で、寺院の前にはバスや車がたくさん停車していました。多くの観光客が訪れていることが、立派な外観からも伝わります。アーナンダ寺院は、ビルマとインドの建築様式を融合させたスタイルであり、ギリシャの十字のレイアウトを持つエレガントさを兼ね備え、完璧に計算された対称の構造になっています。最も特徴的なのは、尖塔の黄金に輝く美しい”シカラ(sikhara)”です。北インドをルーツとしているシカラからも、インドから影響を受けていることが分かります。また、シカラすべての側面には、仏像が安置されている5つの壁龕があり、さらにそのトップには傘型の尖塔装飾品である「hti(ティ)」が飾られています。アーナンダ寺院もバガンの他の寺院と同じく、東西南北それぞれの方向に仏像が安置されていますが、アーナンダ寺院の仏像は黄金に輝く立ち姿で、高さ9.5mという圧倒される大きさです
今日は、ヤンゴンからゴールデンロックの麓の町キンプンへ向かいます。ヤンゴンから約200Km、片道4時間ほどの道のりを往復します。
グドードォー・パゴダ,
入口に「世界最大の書物」と書かれた本の形の石碑が建っている、この寺院には、経典を書いた石板を1枚ずつ納める真っ白い小仏塔が林立しています。寺院にあった説明板によれば、このパゴダは1859年(マンダレーの王宮が完成した翌年)、ミンドン王が建立しました。仏教の経典が書かれた729枚の大理石の石板は、1860年に作成が開始され、68年に完成した。ミンドン王は2400名ぐらいの僧侶や、又、優秀な職人を集めて、大理石の石
版に彫り写す作業をさせました。文字はビルマ語ではなく、世界中の人が誰でも読めるようにパーリ語にしました。石版1枚の高さは1.5m、幅は1m、厚さは1.5mぐらいあります。一枚一枚を丁寧に終わらせ、全ての経典が入るまでは729枚も必要でし
た。次の730枚目の石版には、なぜこのパゴダを造ったのかということが書かれています。その数は729基というから、なるほど「世界最大の書物」にも納得します。1871年、ミンドン王の指導で第5回仏典結集(けつじゅう)が行われ、集まった高僧たちによってこれらの経典(三蔵)が承認されたそうです。この石板は2013年にユネスコの世界記憶に登録されました。
旧王宮,
コンバウン朝(1785-1885年)のミンドン王が1857年頃にアマラプラから遷都してマンダレーヒルの麓にヤダナボンの都を造営し、都の中心に王宮も造りました。この王宮を造るのに4年もかかったそうです。このころビルマは2度にわたるイギリスとの戦争に敗れ、王は人心一新を図るため、さらに1856年の「仏暦2400年」祝いも兼ねて新都建設に乗り出したそうです。王城の城壁は高さ8m、1辺約3kmの正方形で、幅70mの堀に囲まれている。周囲8kmはビルマの尺貫法で2400mにあたるそうです。1885年のコンバウン朝滅亡以後、イギリス軍の駐屯地にされたが、第2次大戦中、日本侵略軍が駐留したため、大戦末期の1945年3月、連合国軍と日本軍の戦闘で焼失してしまい当時のまま残っているのは城壁だけです。ビルマ独立後はビルマ国軍の駐屯地となっていたが、1996年に最後の王・ティーボー王時代の姿に再建され、当時の雰囲気を感じられる場所にもなり、国宝として保存、公開されています。
アマラプラ(Amarapura)のウーベイン橋
マンダレーの南11キロのところにあるアマラプラは1783年と1857年に2度都となった町。160年前にかけられたチーク材のウーペイン橋が今も現役です。毎年雨期になると、タウンタマン湖は満水になり、交通は不便だったようです。それを知った当時の市長ウーペインは1849年に王都がマンダレーに移される際、王宮の資材も運びだされたが、不要なチーク材を集めアマラプラの東に広がるタウンタマン湖を渡るために、3年かけて約1.2Kmのチーク材製橋を架けました。チーク材の橋としては世界最長で、1088本の柱で支えられています。
4日目(1月26日)
バガン地区の入口になるニャウンウーから南西約5Kmにあるオールドバガン、その先のニューバガンの3つの町は舗装道路で連絡されいて道の左右には寺院や仏塔が広い範囲について散らばっています。エーヤワディー川岸にあるニューバガンにあるローカナンダー・パヤーが遠望できました。
シュエナンドー僧院,
戦争中、すべての建物がチーク材で建てられたので旧王宮の建物全てが焼失しました。でも、幸いに一つの建物だけが残りました。それは、元は王宮内にあった僧院で、19世紀に在位したミンドン王の住居です。1878年、ミンドン王はここで亡くなったと伝えられる。ミンドン王から王位を継承したティーボー王(ビルマ最後の王)がここに移し、彼もまた瞑想のためこの場所を訪れていたそうです。全体がチーク材で作られ、みごとな彫刻が施されています、「シュエナンドー僧院=黄金の王宮の僧院」という名前です。建物には階段が付いている4つの入口があり、全体は仏陀の550種の物語を表す彫
刻などできれいに飾られていました。外壁は隙間が全くないほど、レリーフで埋め尽くされています。内陣は木製の柱、天井など一面金箔が貼られ、天上界を示すかのようでした。ジャータカなどを題材にした見事な彫刻作品も多く
職人たちの執念が伝わってきます。
マンダーレ・ヒル
旧王宮の東北にある標高236mの小高い丘。この「曼荼羅の丘」という名前が、マンダレーの名前の由来でもあるそうです。丘全体が寺院となったマンダレー最大の聖地です。 入り口で履き物を脱ぎ、階段を登る途中、ところどころに仏像が祀られている祠があって、ちょうど小休止できるようになっています。登るほど景色がすばらしく、頂上からの絶景を見れば疲れも吹き飛びます。丘全体がひとつのパゴダのような作りで、下から歩いていくことも、エレベーターで登ることもできます。頂上にはいくつかのパゴダや日本人慰霊碑などがあります。マンダレー市街とシャン高原の山並みが一望でき、ここからの朝日は圧巻ですので早朝、夜明け前に訪れました。
ミヤンマーの変化する国内の反政府組織の活動状況や宗教紛争に応じて外国人旅行者が自由に移動できる地域、特定の交通手段でのみ移動できる地域、許可が必要な地域、立入禁止地域の4種に分けられる意外と観光に制限の多い国ですが、2018年10月1日から1年間の日本旅券所有者がミャンマーに入国する際の観光ビザ免除制度が始まり、ビザ取得と入国カードの記入なども不要となったので行ってきました。
1日目(1月23日)
今日は、成田空港から全日空直行便でミヤンマーのヤンゴンに向います。
ヤンゴン(Yangon)
かってシュエダゴン・パゴダの門前町と呼ばれたミヤンマー最大の都市。1824年のイギリスによる占領から 1989年までラングーン(Rangoon)と呼ばれていました。エーヤワディー川(イラワジ川)デルタ東端のヤンゴン川左岸に位置し1948年のビルマ独立から
2006年まで首都でした。首都がネーピードーに移転した今でも、経済の中心地はここヤンゴンです。ヤンゴンは「戦いの終わり」という意味で,1755年にコンバウン朝のアラウンパヤーが,この地を占領し,商業,港湾都市として築いたときに与えた名称です。
中心部は イギリス植民地時代の緻密な都市計画により建設されたビクトリア様式の最高裁判所、税関、中央郵便局などがあります。ヤンゴンは人口の1割が暮らす第一の都市です。少し前まで経済上の鎖国状態だったので、整備されていない街並みが残り異国情緒たっぷりでワクワクする街です。早速、シュエダゴン・パゴダのライトアップ見学に行きました。
ティーローミンロ寺院
13世紀初め、バガン朝第8代の同名王が、この場所でバガン王朝の継承者を選ぶ時、傘(王様だけが使われるもの)がナダウンミャー王子の方向に倒れたことから、国王として選ばれたと伝えられています。そして、選ばれた記念に、この場所に寺院が建てられました。寺院の名前も『ティーローミンロ=国民と王位の座の望み通りに』という意味でつけられました。高さ47mの大寺院で、四方の入口の正面に仏像が置かれています。入口は内部の回廊でつながれており、回廊部分にも仏画や仏像が残っています。
シュエズィーゴン・パゴダ,
バガン近郊のニャウンウーに位置する金箔で飾られた巨大な仏塔と精巧な彫刻で知られている 仏教寺院です。バガンのアーナンダ寺院と並んで、パガン王朝を代表する宗教建築物として知られています。11世紀にパガン王朝の創始者アノーヤターが1057年にモン族のタトンを征服し、その際入手した仏舎利を納めるため、さらにはスリランカに伝わる仏歯(現在はキャンディの仏歯寺に祀られている)のレプリカ4本のうち1本を納めるため1059年に仏塔の建設を始めた。しかし王の在位中には基壇ができただけで、完成したのは3代目チャンスィッター王の時でした。 3層の基壇と、その上に釣り鐘型の部分が乗るという形は、後に建立されたビルマ式パゴダの原形となりました。名前の「シュエ」は金、「ズィーゴン」はパーリ語の「勝利,栄光、祝福の地」と言う意味です。釈迦の遺骨と歯が納められていると言われています。
チャイティーヨー(Kyaikhtiyo)、ゴールデンロック
ヤンゴンの北東約200Kmにある山麓の町キンプンから政府運営のトラックに乗り換えて約45分ほどで,標高1100mの山の山頂にある大きな岩の上に、一つの岩(ゴールデンロック)が信者から寄進された金箔が貼られた黄金に輝き絶妙なバランスを保って乗っていますが、今にも落ちそうで落ちない不思議な岩です。この岩の上に高さ7mほどの仏塔が建てられており、この中に収められている仏陀の頭髪がバランスを取っていると伝えられている2500年の歴史を持つ聖地だそうです。今も昔もミヤンマー屈指の巡礼地となっていますが、この岩に金箔を貼ったり、触る事が出来るのは男性だけで今でも女人禁制です。
車窓から早朝のヤンゴン市内の仏僧のたく鉢が見られました、ヤンゴン市内は交通安全上バイクの走行は禁止されていますが、郊外では問題ないようでした。段々と、のどかな農村風景が広がってきます。
8日目(1月30日)
6日目(1月28日)
アマラプラのマハーガンダーヨン僧院
国内最大級、最高位の僧院の一つで、全国から集まった約1000人の僧侶が修行生活を送っています。仏教の大学に通いながら一生懸命勉強している僧侶もいれ
ば、この僧院での勉強を重ね、地元の僧院で修行するという僧侶もいます。白い袈裟をまとう子供たちは、学校の休みに仏教を勉強する子もいれば、孤児でこの僧院で暮らすようになった子もいます。10:00~10:30頃には、托鉢から帰ってきた大勢の僧侶が皆で食事を取ります。ミャンマーの僧侶の食事は朝食と昼食の1日2回です。僧侶の多くはお粥などで朝食(朝5時頃)を済ませ、僧院の掃除や僧長の世話をした後、朝の8~9時ぐらいに昼食のため托鉢に出かけます(朝食のため托鉢する僧侶もいます)。 普段は傘(僧侶用の傘)やスリッパ(僧侶用)などで学校や外へ出かけしますが、托鉢する際には素足でなければなりません。勿論、ご飯やおかずをさし上げる方も素足です。寒い時期、暑い時期、雨期など関係なく素足です。マンダレー市内を走るバスなどは民営が多いですが、托鉢時間内は僧侶たちを無料で乗せます。それは、マンダレーだけにある僧侶と市民の間の一つの文化だそうです。
1989年「Burma」から国名が変わり「Myanmar(ミャンマーと呼ばれるようになった、ミャンマーはインドシナ半島西部に位置する共和制国家。中国,ラオス,タイ,バングラデシュ,インドと国境を接し,東アジア,東南アジア,南アジアが出会う地政学的に重要な場所に位置しています。人口構成は、ビルマ族が約70%を占め,残り30%をそのほかシャン族,カレン族,カチン族など135の少数民族が居住。国民の約9割が敬けんな仏教徒で,女性を含めた多くの国民が「徳」を積むために一時的な出家をすることでも知られています。インド洋やベンガル湾に面し,南北に長いミャンマーの国土面積は約68万平方km(日本の約1.8倍)で,気候は熱帯または亜熱帯に属しています。このエリアは年間を通じて湿度が80%以上と高く雨季は降水量も多いので11月~2月頃の乾季が旅行シーズンです。国土の中央を3本の大きな川が南北に流れており,そのうち中央を流れるエーヤワディー(イラワジ)川河口付近は広大なデルタ地帯となっており,ミャンマー最大の米作地帯となっています。ミャンマーの歴史は11世紀半ばに成立したビルマ族による最初の統一王朝・バガン王朝に遡ることができます。19世紀には英国領となりますが,第一次世界大戦中に始まったビルマ族による反植民地運動は、第二次世界大戦が始まるとアウン・サンら30人の志士を中心とするビルマ独立義勇軍として活発化し日本軍とともに一時ビルマ国を建国しますが、日本軍の敗色が強まるとこれを廃して再び英国領となりましたが、戦後1948年にビルマ連邦として英国からの独立を果たしました。
シュエダゴン・パゴダ(仏塔)
約2500年前に創建されたと伝わるミヤンマー最大の聖地で、「ミャンマーといえばここ!」と言っても過言ではないほど有名な観光地です。シングッダヤの丘の上に巨大な黄金の仏塔が建ち並び、きらびやかな光景で夜には全体がライトアップされ、その姿をひと目見ようと多くの人が集まります。東西南北4ヶ所の参道の入
口にはお守りとして2頭の獅子が建てられています。入口からは壮麗な回廊が続き、南入口からは104段の階段かエレベーターを利用して上に行けます。境内の南端にある大きな菩提樹の木は100年前、ブッダガヤーにある菩提樹の木の種を持ってきて植えたそうです。「聖なる黄金の塔」は高さ100m、基底はは周囲433mの巨大さを誇り、全体が金色に輝いています。多くの宝石が装飾に使われ、とにかく豪華絢爛の一言です。この塔を取り巻くように、さまざまな大きさのパヤー(仏塔)60基が並んでいます。参拝に訪れる人も一日中絶えることがなく、まさにミャンマーの聖地と言える場所です。金箔8688枚、塔頂には76カラットのダイヤモンドをはじめ総計5451個のダイヤと1383個のルビーなどが全て信者から寄進されて散りばめられています。
ミングォン(Mingun)
マンダレーからエーヤワディ川を挟んで上流に10Kmほど行った対岸にあるのがミングォン村。ミングォンへは、船でエーヤワディー川を遡って行くのが最もいいルートですが、バスでサガインを通って行くルートもあります。人口3千人ぐらいの静かで素朴な村で、農業で生活しているビルマ族が住んでいます。でも、ただの小さな村ではなく、18世紀頃のビルマ王朝の王様が最も大きい仏塔を造ろうと決めた村です。王都となった歴史はないものの、完成すれば世界最大の仏塔の建設を目指して着工したが王の死とともに未完のままのミングォン・パゴダや、重さ90トンという世界最大の鐘、須弥山を模して建てられた白い仏塔シンピューメェなどスケールの大きい見どころが集まっています。