仏塔を守る大きなライオン像
ミングォンパゴダからの眺め
アトゥマシー僧院、第2次大戦時に破壊され1995年、コンクリートで再建された。隣接するシュエナンドー僧院との対比がおもしろい
境内で得度式の行列に遭遇しました。
街中でも得度式の派手なパレードにも遭遇しました。ちょうど学校が休みに入る時期なので多いそうです
チャイティーヨー山は標高1100mありますが、半分ぐらいの高さ(ヤティ山)までトラックバスで行けます。但し、日本 のような大型バスではなく、チャイティーヨー山専用の独特のトラックバスです。トラックの荷台に座席を付けただけで、しかも、背もたれがないベンチのような席しかないトラックです。そのトラックで、箱根の七曲りの様な登山道を猛スピードで乗っていきますので、ジェットコースターの様にハラハラドキドキします。ここでも日本の中古車は活躍しています。途中のヤテタウンから山頂までケーブルカーがありますが、料金が高いので利用者が余りいませんでした。
入口の獅子の御守
金箔の区
タビィニュ寺院
1144年に、バガン朝第4代アラウンシードゥー王によって建てられました。寺院全体は白い色で、大きな箱の上に小さい箱が乗ったような2階構造で、頂上に尖塔が立っています。塔の高さは61mでバガンで最も高く、オールドバガンのどこからでも目立ちます。「タビィニュ」という言葉は仏教用のパーリ語で、「全ての悟り」という意味を持ち、仏陀を表します。比べるものがないことを表したく、一番という高さを誇りに思って造ったと言われています。近くにも一つの僧院があり、中には第二次世界大戦中に亡くなられた日本の兵士たちを偲んで造った慰霊碑があります。
いつ も黄金で輝くこのパゴダは普通のパゴダより毎年の大雨や台風などでも金箔がはがれることが多いので、3年に1度ぐらい新しく金箔を貼りなおす作業を行うようになっています。そして今回1月21日から金箔の張替工事が始まり、竹の足場が組まれて鳥かご状態の珍しいゴールデンロックが見られました。
ミヤンマー8日間

7日目(1月28日)

千人分の食事を用意する厨房
ミンドン王は、新しい都を造った時、同じ職業をもつ人たちを同じ区に住むように定めました。同じ職業で生活する人たちが近くに住み、お互いに努力しあい、いい商品を造り出せるように考えたと言われています。区の名前は、刺繍で生活する人たちが住む区は「刺繍の区」、金箔で生活する人たちが住む区は、「金箔の区」などと職業の種類で呼ばれていました。それは今日でも変りません。
男性は内陣に入れます
参道の回廊
北 拘楼孫仏
南 迦葉仏
西 釈迦牟尼
東 拘那含牟尼

3日目(1月25日)

バガン(Bagan)
エーヤワディー(イラワジ)川中流の東岸、約40平方kmにも渡り広がる平野にバガン遺跡群が存在します。数千ものパゴダ(仏塔)や寺院が点在して立ち並ぶ姿が、荘厳ともいえる風景を作り出しています。世界にも類を見ない遺跡群は、カンボジアのアンコール・ワットやインドネシアのボロブドゥールとともに「世界三大仏教遺跡」に数えられています。パゴダや寺院には、ヒンドゥー教の影響がうかがえる装飾や、当時の暮らしぶりをうかがい知ることのできる壁画などが残されており、考古学的にも貴重な遺跡群といえます。バガン王朝は1044年にビルマ族により初めて統一され、以後11~13世紀に栄えたミャンマーで最初の王朝です。ミャンマーの南部タトンとういう町からやってきたアラハンという僧侶が、バガン王朝最初の王様アノーヤター王に仏教を布教したのが始まりと言われてます。それから仏教はバガンで深い信仰の対象となり、人々は仏教が長く繁栄するようにと、イラワジ川東岸に複数のパゴダ(仏塔)や寺院を建立していきました。長いバガン王朝の歴史の中で建立されたパゴダや寺院の数は4,000基以上とも伝えられていますが、現在は約2,800基弱が残されています。大きいものや小さいものがあり、本来は漆喰により仕上げられた鮮やかな白色をしていますが、管理者のない仏塔は漆喰が剥がれレンガの赤茶色の地肌をさらした外観となっています。
カックー遺跡
インレー湖東側の山を越えた山中に、パオ族の人々が生活をしている農村があります。秘境の地と呼ばれるこの場所にあるのが、カックー遺跡です。パオ族の特別地区にあり、外国人に見学が開放されたのも2000年9月と日が浅い観光地です。カックー遺跡は外界から知られることのない一つ一つは決して大きくは無いものの、50m×100mの敷地に約2500基もの仏塔が立ち並ぶ様は、とても素晴らしい光景です。2500年前、インドのアショーカ王が建立しはじめたのが起源とされていて、その後バガン王朝時代の王様が地域の住人に対して、各家庭から一つずつ仏塔を寄進するように命じて、このような姿になったそうです。それぞれの仏塔の形や大きさ、彫刻などが異なっているのですが、それは寄進した方々の地位や財力によるものという事でした。音楽を奏でている人々、動物たちなどユニークな彫刻が多かったです。そして傘とよばれる仏塔のてっぺんからは、日本でいう風鈴のような心地よい鈴の音色が聞こえてきます。この音色を聞きながら遺跡を見ていると、とても神秘的な空間にいるような気分です。観光客に人気のインレー湖から山々を2時間越えた場所にある幻の遺跡です。

5日目(1月27日)

2日目(1月24日)

2019年1月23日~30日


今日は、連泊したヤンゴンからバガンへAIR KBZ便で空路で向かいます。ミヤンマーの国内線は定刻と言うより乗客が揃えば直ぐに出発、連絡すれば多少は待ってくれる、座席も指定されたり、自由席だったりと、鷹揚さがあるようです。

ヤンゴン(Yangon)
市街の北にはミャンマー仏教の総本山シュエダゴンパゴダがそびえ、市街の中心部のランドマークとなっているスーレーパゴダとともに、参拝客で1年中にぎわうミャンマーの中心地です。ヤンゴンのダウンタウンの街並みは、イギリス植民地時代に建てられたコロニアル調の建築が訪れる人の目を楽しませ、一方でインド人街、中国人街など民族色の強いエリアもあり、散策するのが楽しい場所です。経済開放政策を背景に急速に発展しているためか人も車も非常に多いです。そのわりに公園や緑地が多く、高い建物が少ないので、思ったより落ち着いた印象を受けます。車は日本車が多く、特にバスは日本の中古が多く塗装や会社名がそのままなので「横浜市営バス」「西武バス」が走っていて、ちょっとヘンな感覚です。空港から市内への交通渋滞を避けるため空港近くのパユェッセイッゴン(Paywet Seik Kone)駅から鉄道の環状線に乗りヤンゴン中央駅に行き、市内観光を開始しました。

朝の漁にあわせてインレー湖を5人乗り椅子付きボートで遊覧移動
ヘーホー空港
空港へ行く途中の踏切
この石板に経典が刻まれています
小休止の為に、宿泊しているエヤワディー・リバービュー・ホテルに戻るとエヤワディー川が夕日で輝いていました。
マンダレーヒルを望む
コンバウン朝最後の第11代ティーボー王
マンダレー・ヒルの入口
今日は、連泊して一日中マンダレー市内の観光です。
マンダレー最大のゼージョーマーケット、時計塔は、イギリス統治時代にビクトリア女王即位60周年記念で建てられたものです。
マンダレー(Mandalay)
ミャンマーのほぼ中央に位置するマンダレーは、ヤンゴンに次ぐ国内第二の都市で、1885年イギリスに占領されたためミャンマー最後の王朝となったコンバウン朝の都としての歴史を閉じた街です。1752年にアラウンパヤー王が開いたマンダレーが最も栄えたのは19世紀に即位したミンドン王の時代、パゴダや寺院を数多く作ったミンドン王の時代には芸能文化も進歩が著しく、今もさまざまな伝統芸能や工芸が伝えられています。現在も、市内には旧王宮を始め、多くの仏塔や寺院が点在し、ここがかつて都であった事を教えてくれます。今では古都というより、すっかりビルマの田舎町の雰囲気の街です。ミヤンマーは、真剣な仏教徒が多く住みますが、全国で最も数多く僧侶が修行している町でもあります。また住民の3分の2は中国系で占められています。
バガン遺跡のサンセットをニューバガンにあるホテルへ行く途中の道路沿いにある大規模僧院の廃墟であるソーミィンジー僧院から眺望しました。

プーパヤ,
川岸にある小さな円筒形の仏塔で、ひょうたんの姿の仏塔(ブー=野菜のひょうたん、パヤー=仏塔)という意味です。仏塔全体は黄金で輝き、夜はライトアップの綺麗な姿を見せるので、新しく建てられたように見えますが、実は古くミャンマーで仏教が広く栄えるバガン朝以前の7~8世紀頃ビュー族によって建立されたと言われていまが、1975年の地震で被害を受け修復されました。こから雄大なエーヤワディー川を望み眺める夕日が美しい場所とされています。
  

マヌーハ寺院

アーナンダ寺院,
バガン遺跡の中で最も有名な寺院のひとつ「アーナンダ寺院(Ananda Temple)」、バガンで最も美しく中心的な建造物とされています。王朝に最盛期をもたらした王といわれている第3代チャンシッター(Kyanzittha)王が、1091年に建立した寺院です。都城外の東側に位置するアーナンダ寺院は、一辺が63mの大きな方形の寺院で、高さは51mに及びます。「アーナンダ」という名前は、仏陀の弟子のひとりに由来します。観光地としても人気で、寺院の前にはバスや車がたくさん停車していました。多くの観光客が訪れていることが、立派な外観からも伝わります。アーナンダ寺院は、ビルマとインドの建築様式を融合させたスタイルであり、ギリシャの十字のレイアウトを持つエレガントさを兼ね備え、完璧に計算された対称の構造になっています。最も特徴的なのは、尖塔の黄金に輝く美しい”シカラ(sikhara)”です。北インドをルーツとしているシカラからも、インドから影響を受けていることが分かります。また、シカラすべての側面には、仏像が安置されている5つの壁龕があり、さらにそのトップには傘型の尖塔装飾品である「hti(ティ)」が飾られています。アーナンダ寺院もバガンの他の寺院と同じく、東西南北それぞれの方向に仏像が安置されていますが、アーナンダ寺院の仏像は黄金に輝く立ち姿で、高さ9.5mという圧倒される大きさです

今日は、ヤンゴンからゴールデンロックの麓の町キンプンへ向かいます。ヤンゴンから約200Km、片道4時間ほどの道のりを往復します。

女性は近くから拝みます
市庁舎
旧最高裁判所
独立記念塔が建つマハバンドゥーラ公園
イギリス植民地時 代からの大型建物が並ぶパンソダン通りや、独立記念塔が建つマハバンドゥーラ公園周辺は、観光客だけでなく、ヤンゴン市民もよく集まる繁華街です。
スーレー・パゴダ
ヤンゴンの町中に一段と目立つ金色の高さ46mのーレーパゴダ(スーレーパヤー)があります。ミャンマーには至る所にこのようなパゴダが建設されており、ヤンゴンでいちばん有名で巨大なパゴダはシュエダゴンパゴダですが、このスーレーパゴダは小さいながらも町中の中心という便利な場所にあります。
日本人が経営する土産店シンピューレー
タナカの販売店
ボージョーアウンサンマーケット
イギリス植民地時 代からの古いマーケットで、ヤンゴンでは最大級です。建物も西洋風でミャンマーを訪れる観光客の殆どが必ず立ち寄る観光名所でもあります。でも、観光客だけでなく、ヤンゴン市民もよく通います。その理由は、全国の物産があるからです。伝統的なお菓子、スリッパ、絵画、布・伝統衣装ロンジーなどから宝石まで何でも揃うマーケットです。
待合室
ミヤンマー中央駅
ミヤンマー中央駅の切符売り場
郊外はのどかな田園風景
パユェッセイッゴン(Paywet Seik Kone)駅
行き先が熊野市とある旧JR車両
ヤンゴンには、鉄道の環状線があり全38駅を各駅停車しながら約3時間で一周します。地元の人たちの生活風景が垣間見えて興味深いです。JRから譲渡された車両も使っています。料金は1駅でも一周しても1乗車200K(約15円)です。ドアは開けっ放し、物売りもきます、大らかな雰囲気です。
ヘーホー空港から空路、ヤンゴンに向かいます
インレー湖付近の鉄道の山間にかかる鉄道橋は、ミヤンマー人にとって観光名所らしく多くの人が線路上で記念撮影をしていました。
男性は誰でも片足で舟をを操りながらたくみに漁を行います。女性はロンジーを着ているので普段のように座りながら両手で漕ぎます。
水上パゴダ
自生する藻と泥を利用して浮島を作り、野菜などを栽培ます
ホテルのレストラン棟
水上コテージに泊まりました
インレー湖
海抜1,300mほどのシャン高原に位置するインレー湖。湖の入り口にはニャウンシュエの町が広がっていて、お土産をおいている売店やレストランなどが集まっています。多くの少数民族が暮らすシャン州最大の見どころです。雨季になると湖の面積を倍にするほどです、南北22Km、東西12Km(乾季には南北15Km、東西6Kmほどになり、水位も4m上下します)の細長いインレー湖に暮らすのは湖の民インダー族。人が住んで生活しているミャンマー唯一の湖です。浮島栽培やパゴダなどインダー族の生活感あふれる湖でもあります。彼らは湖に差した竹を足場にした水上住宅に暮らす民族で、湖の中では自生する藻と泥を利用して浮島を作り、そこで野菜なども栽培しています。移動に使うのは片足こぎの舟で、片足で器用に櫓を操りながら漁を行う姿はインレー湖を象徴する風景です。
今日は、朝にインレー湖を遊覧移動した後にヘーホー空港から空路、ヤンゴンにもどり、市内観光して夜間便で帰国します。
今日は、インレー湖畔にあるインレー・カウンダイン・ヴィレジ・リゾートホテル(Inle Khaung Daing Village Resort Hotel)の水上コテージに泊まります。
カックー遺跡のパオ族の女性と、インレー湖の入口のニャウンシュエの町のレストランで見かけた美人さん
この辺は、モン族が多く住む地区で、彼らは竹を編んだ網代のの様な伝統的な家屋に住んでいます。
世界記憶遺産に登録

グドードォー・パゴダ,
入口に「世界最大の書物」と書かれた本の形の石碑が建っている、この寺院には、経典を書いた石板を1枚ずつ納める真っ白い小仏塔が林立しています。寺院にあった説明板によれば、このパゴダは1859年(マンダレーの王宮が完成した翌年)、ミンドン王が建立しました。仏教の経典が書かれた729枚の大理石の石板は、1860年に作成が開始され、68年に完成した。ミンドン王は2400名ぐらいの僧侶や、又、優秀な職人を集めて、大理石の石 版に彫り写す作業をさせました。文字はビルマ語ではなく、世界中の人が誰でも読めるようにパーリ語にしました。石版1枚の高さは1.5m、幅は1m、厚さは1.5mぐらいあります。一枚一枚を丁寧に終わらせ、全ての経典が入るまでは729枚も必要でし た。次の730枚目の石版には、なぜこのパゴダを造ったのかということが書かれています。その数は729基というから、なるほど「世界最大の書物」にも納得します。1871年、ミンドン王の指導で第5回仏典結集(けつじゅう)が行われ、集まった高僧たちによってこれらの経典(三蔵)が承認されたそうです。この石板は2013年にユネスコの世界記憶に登録されました。

旧王宮,
コンバウン朝(1785-1885年)のミンドン王が1857年頃にアマラプラから遷都してマンダレーヒルの麓にヤダナボンの都を造営し、都の中心に王宮も造りました。この王宮を造るのに4年もかかったそうです。このころビルマは2度にわたるイギリスとの戦争に敗れ、王は人心一新を図るため、さらに1856年の「仏暦2400年」祝いも兼ねて新都建設に乗り出したそうです。王城の城壁は高さ8m、1辺約3kmの正方形で、幅70mの堀に囲まれている。周囲8kmはビルマの尺貫法で2400mにあたるそうです。1885年のコンバウン朝滅亡以後、イギリス軍の駐屯地にされたが、第2次大戦中、日本侵略軍が駐留したため、大戦末期の1945年3月、連合国軍と日本軍の戦闘で焼失してしまい当時のまま残っているのは城壁だけです。ビルマ独立後はビルマ国軍の駐屯地となっていたが、1996年に最後の王・ティーボー王時代の姿に再建され、当時の雰囲気を感じられる場所にもなり、国宝として保存、公開されています。

アマラプラ(Amarapura)のウーベイン橋
マンダレーの南11キロのところにあるアマラプラは1783年と1857年に2度都となった町。160年前にかけられたチーク材のウーペイン橋が今も現役です。毎年雨期になると、タウンタマン湖は満水になり、交通は不便だったようです。それを知った当時の市長ウーペインは1849年に王都がマンダレーに移される際、王宮の資材も運びだされたが、不要なチーク材を集めアマラプラの東に広がるタウンタマン湖を渡るために、3年かけて約1.2Kmのチーク材製橋を架けました。チーク材の橋としては世界最長で、1088本の柱で支えられています。

ミングォンの鐘
1808年に建設中の仏塔で使うためにボートパヤー王が、パゴダのサイズにつりあうように、とても大きく造りました。鐘の口の直径が約5m、重量は90トンもあります。仏塔が完成しなかったので近くのお堂につられています。 鐘の外側には、丸い文字と数字があり、それは、鐘の重さをビルマ文字とビルマ数字で表したものです。当時の人たちは、鐘の重さをそのように記憶して覚えたそうです。ただの飾りではなく、鳴らすと、とてもきれいな音が出ます。

4日目(1月26日)

バガン地区の入口になるニャウンウーから南西約5Kmにあるオールドバガン、その先のニューバガンの3つの町は舗装道路で連絡されいて道の左右には寺院や仏塔が広い範囲について散らばっています。エーヤワディー川岸にあるニューバガンにあるローカナンダー・パヤーが遠望できました。

シュエナンドー僧院,
戦争中、すべての建物がチーク材で建てられたので旧王宮の建物全てが焼失しました。でも、幸いに一つの建物だけが残りました。それは、元は王宮内にあった僧院で、19世紀に在位したミンドン王の住居です。1878年、ミンドン王はここで亡くなったと伝えられる。ミンドン王から王位を継承したティーボー王(ビルマ最後の王)がここに移し、彼もまた瞑想のためこの場所を訪れていたそうです。全体がチーク材で作られ、みごとな彫刻が施されています、「シュエナンドー僧院=黄金の王宮の僧院」という名前です。建物には階段が付いている4つの入口があり、全体は仏陀の550種の物語を表す彫 刻などできれいに飾られていました。外壁は隙間が全くないほど、レリーフで埋め尽くされています。内陣は木製の柱、天井など一面金箔が貼られ、天上界を示すかのようでした。ジャータカなどを題材にした見事な彫刻作品も多く 職人たちの執念が伝わってきます。

お布施をした信者には食事が提供されます
市街と旧王宮(堀の右側)が一望できました

マンダーレ・ヒル
旧王宮の東北にある標高236mの小高い丘。この「曼荼羅の丘」という名前が、マンダレーの名前の由来でもあるそうです。丘全体が寺院となったマンダレー最大の聖地です。 入り口で履き物を脱ぎ、階段を登る途中、ところどころに仏像が祀られている祠があって、ちょうど小休止できるようになっています。登るほど景色がすばらしく、頂上からの絶景を見れば疲れも吹き飛びます。丘全体がひとつのパゴダのような作りで、下から歩いていくことも、エレベーターで登ることもできます。頂上にはいくつかのパゴダや日本人慰霊碑などがあります。マンダレー市街とシャン高原の山並みが一望でき、ここからの朝日は圧巻ですので早朝、夜明け前に訪れました。

帰りの船の中から明日行く予定のマンダレーヒルの全景が遠望できました。
翡翠洞窟の入口

ミヤンマーの変化する国内の反政府組織の活動状況や宗教紛争に応じて外国人旅行者が自由に移動できる地域、特定の交通手段でのみ移動できる地域、許可が必要な地域、立入禁止地域の4種に分けられる意外と観光に制限の多い国ですが、2018年10月1日から1年間の日本旅券所有者がミャンマーに入国する際の観光ビザ免除制度が始まり、ビザ取得と入国カードの記入なども不要となったので行ってきました。

1日目(1月23日)

今日は、成田空港から全日空直行便でミヤンマーのヤンゴンに向います。

ヤンゴン(Yangon)
かってシュエダゴン・パゴダの門前町と呼ばれたミヤンマー最大の都市。1824年のイギリスによる占領から 1989年までラングーン(Rangoon)と呼ばれていました。エーヤワディー川(イラワジ川)デルタ東端のヤンゴン川左岸に位置し1948年のビルマ独立から 2006年まで首都でした。首都がネーピードーに移転した今でも、経済の中心地はここヤンゴンです。ヤンゴンは「戦いの終わり」という意味で,1755年にコンバウン朝のアラウンパヤーが,この地を占領し,商業,港湾都市として築いたときに与えた名称です。 中心部は イギリス植民地時代の緻密な都市計画により建設されたビクトリア様式の最高裁判所、税関、中央郵便局などがあります。ヤンゴンは人口の1割が暮らす第一の都市です。少し前まで経済上の鎖国状態だったので、整備されていない街並みが残り異国情緒たっぷりでワクワクする街です。早速、シュエダゴン・パゴダのライトアップ見学に行きました。

街角点描、たく鉢する若い尼僧
街角点描、若い女性
金箔を貼りました
マンダレー空港
エーヤワディー川
バガン上空
バガン空港
エーヤワディー川岸からローカナンダー・パヤーを望む
基壇の部分は金箔ではなく金の板で覆われています
エーヤワディー川岸のレストランからのローカナンダー・パヤー

ティーローミンロ寺院
13世紀初め、バガン朝第8代の同名王が、この場所でバガン王朝の継承者を選ぶ時、傘(王様だけが使われるもの)がナダウンミャー王子の方向に倒れたことから、国王として選ばれたと伝えられています。そして、選ばれた記念に、この場所に寺院が建てられました。寺院の名前も『ティーローミンロ=国民と王位の座の望み通りに』という意味でつけられました。高さ47mの大寺院で、四方の入口の正面に仏像が置かれています。入口は内部の回廊でつながれており、回廊部分にも仏画や仏像が残っています。

東西南北に祀られている4体の仏像のうち、北と南の仏像だけは造られた11世紀当時のオリジナルのもので、一本の松の木でできています。東の仏像は火事でなくなってしまい後世のコンバウン朝時代、西の仏像は地震の時に壊れたので、その後に新しく造られたものです

シュエズィーゴン・パゴダ,
バガン近郊のニャウンウーに位置する金箔で飾られた巨大な仏塔と精巧な彫刻で知られている 仏教寺院です。バガンのアーナンダ寺院と並んで、パガン王朝を代表する宗教建築物として知られています。11世紀にパガン王朝の創始者アノーヤターが1057年にモン族のタトンを征服し、その際入手した仏舎利を納めるため、さらにはスリランカに伝わる仏歯(現在はキャンディの仏歯寺に祀られている)のレプリカ4本のうち1本を納めるため1059年に仏塔の建設を始めた。しかし王の在位中には基壇ができただけで、完成したのは3代目チャンスィッター王の時でした。 3層の基壇と、その上に釣り鐘型の部分が乗るという形は、後に建立されたビルマ式パゴダの原形となりました。名前の「シュエ」は金、「ズィーゴン」はパーリ語の「勝利,栄光、祝福の地」と言う意味です。釈迦の遺骨と歯が納められていると言われています。

ヤンゴン空港
バガン上空

チャイティーヨー(Kyaikhtiyo)、ゴールデンロック
ヤンゴンの北東約200Kmにある山麓の町キンプンから政府運営のトラックに乗り換えて約45分ほどで,標高1100mの山の山頂にある大きな岩の上に、一つの岩(ゴールデンロック)が信者から寄進された金箔が貼られた黄金に輝き絶妙なバランスを保って乗っていますが、今にも落ちそうで落ちない不思議な岩です。この岩の上に高さ7mほどの仏塔が建てられており、この中に収められている仏陀の頭髪がバランスを取っていると伝えられている2500年の歴史を持つ聖地だそうです。今も昔もミヤンマー屈指の巡礼地となっていますが、この岩に金箔を貼ったり、触る事が出来るのは男性だけで今でも女人禁制です。

今日の観光を終えて、ヤンゴンに戻る帰路の車窓から
これがゴールデンロック

車窓から早朝のヤンゴン市内の仏僧のたく鉢が見られました、ヤンゴン市内は交通安全上バイクの走行は禁止されていますが、郊外では問題ないようでした。段々と、のどかな農村風景が広がってきます。

宿泊したホテルのロビーには、ミャンマーの人が普段日焼け防止の意味も込めてペイントのように塗っている「タナカ」が置いてありました。タナカは、まさにそのままタナカの木からできた天然化粧品だから「タナカ(Thanaka)」なわけですが、この木を丸太状にし、束にしたものを現地で販売していて、その丸太状のタナカの表皮をすり潰したりして自分で使ったり子どもに塗ってあげたりしています。
ゴールデンロック周辺には、広場や、お土産屋や、他にも仏塔がいつ もあります。
「タナカ(Thanaka)」
本尊のマハムニ仏
すべての観光を終えて22:10の全日空の夜間便で帰国の途に就きました。

8日目(1月30日)

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旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

成田に帰国

今日は、マンダレーからヤンゴン航空便でヘーホーに向かいカックー遺跡を見学後に、宿泊地のインレー湖に行きます。

6日目(1月28日)

ここからはマンダレー・ヒルが望めます
シンピューメェ
1816年頃、バヂードー王が他界した妃シンピューメェを悼んで建てたと伝えられていて、パゴダの名前も妃の名前の通り“シンピューメェー”と名付けられました。形は他のパゴダとは違い、須弥山の山頂にあると言われている“スラーマニ・パゴダ”を模して造られたと言われています。七段の回廊に波状の手すりが造られて います。それは、須弥山を囲む七つの山と七つの海を表しているそうです。
王宮の入口

アマラプラのマハーガンダーヨン僧院
国内最大級、最高位の僧院の一つで、全国から集まった約1000人の僧侶が修行生活を送っています。仏教の大学に通いながら一生懸命勉強している僧侶もいれ ば、この僧院での勉強を重ね、地元の僧院で修行するという僧侶もいます。白い袈裟をまとう子供たちは、学校の休みに仏教を勉強する子もいれば、孤児でこの僧院で暮らすようになった子もいます。10:00~10:30頃には、托鉢から帰ってきた大勢の僧侶が皆で食事を取ります。ミャンマーの僧侶の食事は朝食と昼食の1日2回です。僧侶の多くはお粥などで朝食(朝5時頃)を済ませ、僧院の掃除や僧長の世話をした後、朝の8~9時ぐらいに昼食のため托鉢に出かけます(朝食のため托鉢する僧侶もいます)。 普段は傘(僧侶用の傘)やスリッパ(僧侶用)などで学校や外へ出かけしますが、托鉢する際には素足でなければなりません。勿論、ご飯やおかずをさし上げる方も素足です。寒い時期、暑い時期、雨期など関係なく素足です。マンダレー市内を走るバスなどは民営が多いですが、托鉢時間内は僧侶たちを無料で乗せます。それは、マンダレーだけにある僧侶と市民の間の一つの文化だそうです。

旧王宮博物館
らせん階段で上がる監視塔
ミングォンパゴダ,
ミングォンにある仏塔跡。1790年頃にコンバウン王朝のボードーパヤー王によって、造られました。当時は、国王に反対する者が多くいましたので、国王は自分の権力を示すため、世界最大級のパゴダを目指して造ったと伝えられています。王の死去に伴い中断。その後、1839年の地震の被害を受けた。パゴダの敷地は一辺140mぐらいあり基壇部分が残っている。、目標の高さは 150mだったと言われています。林の中には仏塔を守る大きなライオン像が崩れかかってまだ残っていました。
マハニム・パゴダ,
マンダレー市街の外れ北西へ約1Kmにある、このパゴダはマンダーレ最大で最重要な仏塔です。その本尊がマハムニ仏。高さ約4mの大きな仏像で全身に金箔が貼られています。これは、来世への功徳を積むために金箔を貼ってきたミャンマー人は今でも仏像やパゴダに行くたびに金箔を貼ります。しかし、これを貼れるのは男性のみで、女性は近くから拝むだけです。ミャンマーには女人禁制の所が現在でも多く残っています。この大仏も金箔で体部が大きくなってきています(元々はスリムな仏像だったそうです。本尊のマハムニ仏が造られたヤカイン州はインドと国境を接する仏教が入ってくる際に要の地域でした。15~18世紀の間ビルマ族とヤカイン族は内戦を繰り返していましたが、1784年、とうとうビルマ王朝のボードーバヤー王がこの仏像のことを知り、ヤカイン州を侵略して戦利品としてマンダレーに持ち帰り、その時から今日までマンダレーの多くの人々に信仰されてきました。  また、境内の一角には、カンボジアで造られた青銅製のクメールの彫像が数点展示されているが、これはアンコールからタイのアユタヤ、ビルマのバゴー、ヤカイン地方と戦利品として転々とし、最後はヤカイン地方を征服したボードーパヤー王によってここに移されました。
ウヨーサナ翡翠寺
マンダレー郊外のアマラプラのウヨーサナ翡翠寺は、10年前くらいにできたものらしく、かなり新しい観光名所です。この寺院がすべて内部も壁も翡翠でできているっていうのもびっくりですけど、その大きさにもびっくりです塔の高さも30mくらいあるでしょうか。翡翠洞窟 が寺の境内に建設されており、洞窟の全長は、69m、高さ約3.9m、幅約2.7m。約 300トンの翡翠が用いられ、翡翠の総価値は 90 億チャット(=約7億 5千万円) だと言われています。洞窟内には、中の壁一面にびっしり翡翠の石が貼り付けられています。翡翠の仏像3万体以上、50 トン以上あるチーク、ルビーなどが展示されて、余りにも人工的・俗物的でイマイチでした。でも、ミャンマーは良質で希少な翡翠の産地。北部のカチン州でとれるのだとか、ルビーと合わせて、世界有数の産出国なのです。

1989年「Burma」から国名が変わり「Myanmar(ミャンマーと呼ばれるようになった、ミャンマーはインドシナ半島西部に位置する共和制国家。中国,ラオス,タイ,バングラデシュ,インドと国境を接し,東アジア,東南アジア,南アジアが出会う地政学的に重要な場所に位置しています。人口構成は、ビルマ族が約70%を占め,残り30%をそのほかシャン族,カレン族,カチン族など135の少数民族が居住。国民の約9割が敬けんな仏教徒で,女性を含めた多くの国民が「徳」を積むために一時的な出家をすることでも知られています。インド洋やベンガル湾に面し,南北に長いミャンマーの国土面積は約68万平方km(日本の約1.8倍)で,気候は熱帯または亜熱帯に属しています。このエリアは年間を通じて湿度が80%以上と高く雨季は降水量も多いので11月~2月頃の乾季が旅行シーズンです。国土の中央を3本の大きな川が南北に流れており,そのうち中央を流れるエーヤワディー(イラワジ)川河口付近は広大なデルタ地帯となっており,ミャンマー最大の米作地帯となっています。ミャンマーの歴史は11世紀半ばに成立したビルマ族による最初の統一王朝・バガン王朝に遡ることができます。19世紀には英国領となりますが,第一次世界大戦中に始まったビルマ族による反植民地運動は、第二次世界大戦が始まるとアウン・サンら30人の志士を中心とするビルマ独立義勇軍として活発化し日本軍とともに一時ビルマ国を建国しますが、日本軍の敗色が強まるとこれを廃して再び英国領となりましたが、戦後1948年にビルマ連邦として英国からの独立を果たしました。

シュエダゴン・パゴダ(仏塔)
約2500年前に創建されたと伝わるミヤンマー最大の聖地で、「ミャンマーといえばここ!」と言っても過言ではないほど有名な観光地です。シングッダヤの丘の上に巨大な黄金の仏塔が建ち並び、きらびやかな光景で夜には全体がライトアップされ、その姿をひと目見ようと多くの人が集まります。東西南北4ヶ所の参道の入 口にはお守りとして2頭の獅子が建てられています。入口からは壮麗な回廊が続き、南入口からは104段の階段かエレベーターを利用して上に行けます。境内の南端にある大きな菩提樹の木は100年前、ブッダガヤーにある菩提樹の木の種を持ってきて植えたそうです。「聖なる黄金の塔」は高さ100m、基底はは周囲433mの巨大さを誇り、全体が金色に輝いています。多くの宝石が装飾に使われ、とにかく豪華絢爛の一言です。この塔を取り巻くように、さまざまな大きさのパヤー(仏塔)60基が並んでいます。参拝に訪れる人も一日中絶えることがなく、まさにミャンマーの聖地と言える場所です。金箔8688枚、塔頂には76カラットのダイヤモンドをはじめ総計5451個のダイヤと1383個のルビーなどが全て信者から寄進されて散りばめられています。

ミングォン(Mingun)
マンダレーからエーヤワディ川を挟んで上流に10Kmほど行った対岸にあるのがミングォン村。ミングォンへは、船でエーヤワディー川を遡って行くのが最もいいルートですが、バスでサガインを通って行くルートもあります。人口3千人ぐらいの静かで素朴な村で、農業で生活しているビルマ族が住んでいます。でも、ただの小さな村ではなく、18世紀頃のビルマ王朝の王様が最も大きい仏塔を造ろうと決めた村です。王都となった歴史はないものの、完成すれば世界最大の仏塔の建設を目指して着工したが王の死とともに未完のままのミングォン・パゴダや、重さ90トンという世界最大の鐘、須弥山を模して建てられた白い仏塔シンピューメェなどスケールの大きい見どころが集まっています。

青銅製のクメールの彫像
今日は、バガンからミャンマーのほぼ中心に位置する古都マンダレーへAIR KBZ便で空路で向かいます。
ローカナンダー・パヤー
1059年にアノーヤター王が、仏歯を納めるために建立したパゴダです。バガンの最南端にあたり、当時、バガンにやってきたヤカイン(アラカン)、モン、スリランカなどの船が最初に目にしたバガンのシンボルで金箔に覆われて輝き遠くからもその姿は目立ちます。夜はライトアップされます。
当時は仏塔の一番上の傘(パゴダの一番上にあるものをミャンマーでは「傘」と言いま す)がまっすぐ立てているかどうかを確かめるものがなかったため、境内の中に水溜りを造って、太陽の反射で確かめたと言われています。その名残の水溜りには金色に輝く「傘」が映っています。
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