成田に帰国

蔵経洞、第17窟
莫高窟数字展示中心
僧たちが修行や生活を続けた北側の石窟
蘇公塔と呼ばれるミナレット
アスターナ古墳群
トルファン市内から南東へ36Kmの所にある6~7世紀に栄えた麹氏高昌国時代と唐代の西州の住民の墓地群で、家族ごとに埋葬されていて、石で境界線が定められています。どの墓も地中に傾斜した墓道と土洞の墓室からなり、内部からは大量の陶器、文書、絹織物、泥人形など約3000が出土しました。全体で500基に及ぶ墳墓が発掘されていますが、現在見学可能な墓は、210号(夫婦のミイラが現存している)、215号(新疆地方では見られない鴨や花の壁画が描かれているので、おそらく南方地方の商人の墓と考えられる = 新疆ウイグル自治区博物館でレプリカが展示されている)、216号(金人、石人、木人などの儒教の教えが描かれている)の3基のみです。内部は撮影禁止でした。
専用車線を走るウルムチのBRT駅
「楼蘭(ローラン)の美女」ミイラ
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旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

今日は、帰国の移動日です。中国南方航空便で蘭州から上海まで約3時間、上海から約3時間かけて成田に向かいます。

8日目(4月25日)

蘭州で2連泊した錦江陽光酒店
天下第一橋・中山橋
大洪水の後に移転保存修理された涅槃像
峡谷の道沿いにある窪んだ所に石窟があります。大きく窪んだ所には大洪水の前には涅槃像がありました。
白塔山公園
蘭州市黄河の北岸に位置します。山が起伏する山地で山頂(海抜は1700m)の寺院には白塔があるので、「白塔山」と名付けられました。このお寺は始まりが元代に建てられ、チンギス・ハンに謁見するためにチベットから派遣されたチベット僧が蘭州で病死したためにこの地に寺院が建立されました。明の正統年間に再建され、清の時代の1715年に拡張されました。山の頂上に上がれば、「天下第一橋・中山橋」、「黄河」と「市街地」を構成する素晴らしい光景を見下ろすことができます。

蘭州(Lan Zhou),
蘭州は甘粛省の省都で、現在の中国のちょうど中心に位置して、西北地域の中心都市です。市域は海抜1510mにあり、市街地は黄河(長江に次いで中国で2番目に長い河)に沿って東西20Kmに渡って細長く延び、黄河には12の橋がかけられていて孫文(孫中山)にちなむ中山橋は黄河第一橋として有名です。市区の南北は山に囲まれ、東西の黄河が市内で通り抜けて、長く曲りくねっています。それにより、蘭州は静かな山と流れる川が依存する独特ですばらしい都市景色を呈しています。 蘭州は古くからシルクロードの河西回廊や青海省方面への要塞都市として発展して来ました。秦の昭王の時代に隴西郡の地となり、西漢時代に県政府を設けられ、難攻不落の城」という意味として、「金城」と名付けられました。隋代の582年に蘭州総管府に改められ、「蘭州」と呼ばれ始められて現在の名称になりました。蘭州にはイスラム教徒の回族の居住区もあり、街のいたるところに白い帽子をかぶった回族の人たちが集まるモスクがあります。

7日目(4月24日)

彩丹霞(七彩山)
丹霞地貌景観の中で最も特別な七色に輝くと言われる美しい彩色丘陵区です。張掖丹霞地貌は白亜紀の赤みがかった砂岩や礫岩が隆起してできた絶壁のような地層がむき出しの地形です。この丹霞地貌には、様々な鉱石が含まれており、日の光を浴びることによって色を変えます。広大な丹霞地貌が七色に変わる姿は目を疑うほど美しく、この色の変化から七彩山とも呼ばれます。七彩丹霞は面積の広さ、独特な造型、豊富な色彩で、2005年に「中国最も美しい七大丹霞」の一つとして人気を集めています。赤、黄色、白、青、緑などといったたくさんの色を一身に集め、神秘な大自然、素晴らしい景色を示しています。
氷溝丹霞
隆起した地形が長年の風雨の浸食により、様々な形の奇岩となってそそり立つ景観は圧巻で中国のモニュメントバレーとも称されいます。氷溝に存在する隆起した地形は独特で、窓格子形、柱廊形、断崖形、キノコ形、ラクダの形や、夫婦が礼拝をしている様、宮殿のような広大な丹霞、まるで大地から根を張って雄大に立っているような力強いものまで多種多様に存在しています。
今日は、蘭州市内から郊外の観光で、船に乗り換えて黄河のクルージングして世界遺産の柄霊寺を見学します。
柄霊寺石窟

炳霊寺石窟は、他の石窟と異なり船に乗らないとたどり着けないことです。まずは蘭州市内から黄河沿いに、蘭州郊外の炳霊寺へ向かう船着き場まで行きます。船着き場で、小型のモーターボートに乗り黄河をせき止めた劉家狭ダムを渡り30分、炳霊寺石窟に到着します。炳霊寺石窟は奇岩に囲まれていて、その風景はまるで桂林のようです。蘭州の南西、黄河の北岸側の、積石山にある峡谷の中にある石窟で、炳霊とはチベット語で「弥勒十万仏」の意味です。全長2キロにわたる石窟は、十六国時代の西秦から隋、唐、明、清までの各時代に造営されたもので1952年に発見されました。岩壁には183の石窟があり、大小700体近くの仏像が残されています。中でも一番迫力があるのは、なんといっても高さ27メートルある171窟の唐時代の大仏です。この石仏は後ろの山に直接掘られています。最も古い大仏は、壁に「西秦建弘元年」(420年)と記されている第169窟です。石窟の上部には、素晴らしい壁画も残されており、階段と桟道から観光できるようになっています。北魏時代の特別有料窟の128窟も見学しました。険しい峡谷にある石窟にあり、イスラム教徒による破壊や外国人探検家による持ち出しを逃れたため、貴重な仏像が多く残されています。

氷溝丹霞と祁連(きれん)山脈
張掖(Zhang Ye)
張掖は、中国西北部の祁連(きれん)山脈の北麓、河西回廊の中部に位置し、「張国の腕であり、西域に繋がる」により命名され、昔は「甘州」と呼ばれていました。甘粛省の「甘」はここに由来します。海抜約1200m、年間降雨量が極端に少なく周りはゴビ砂漠の中のオアシス都市です。歴史が古く、漢代に将軍・霍去病が匈奴を破り、張掖郡を置いたことに始まり、以後シルクロード上の要衝となっています。元代には、。「東方見聞録」で知られるアジア各地を旅したマルコポーロがフビライハンとの謁見許可を得るために1年近くも滞在しました。張掖もシルクロードの交易の都市として栄えてきた街ですが、水と土がよく、産物も豊富なため古くは「金の張掖」と称されたほど、河西回廊の都市のなかでもひときわ豊かな土地がある、独特な砂漠とオアシスの街です。

6日目(4月23日)

今日は、張掖丹霞を観光後に、再びシルクロード高速鉄道を利用して蘭州に向います。
再びシルクロード高速鉄道を利用して酒泉南駅から張掖西駅に約1時間15分の電車旅で向います。

酒泉(Jiu Quan)
紀元前2世紀末ごろ、匈奴(きょうど)を駆逐した前漢の武帝がこの地に酒泉郡を置いたのに始まり、7世紀初頭の隋の時代に酒泉郡は粛州と改められました。地名の由来にもなった湧水に恵まれ、古くから河西回廊の要衝でもありました。河西回廊の伝説には必ずと言っていいほど、漢の英雄・霍去病が登場します。霍去病が匈奴を打ち負かしたことを聞いた漢の武帝は、10樽の酒を彼に送ったが、20万人もの兵士全員にいきわたるはずはなく、霍去病はすべての兵が平等に皇帝からの酒をいただくために、酒を泉に注ぎ込んだ。すると泉の水が濃厚な酒の香を放ち、その美酒はいくら飲んでも尽きることなく沸き続けたというたという。これにちなんで、「酒の泉」と呼ばれるようになったとのことです。現在は人口100万人の河西回廊の中心の都市です。

嘉峪関(かよくかん)
河北省に端を発する万里の長城は、全長約6000Kmにも及び北京郊外の八達領を越え黄土高原を経て、西端の甘粛省嘉峪関市の西5Kmのところにある嘉峪関にたどり着きます。万里の長城と言うと、秦の始皇帝を思い浮かべるかと思いますが、ここは明代の万里の長城の西の起点で、1372年に建て始められ168年をかけて1540年に完成しました。明代の全長城全城9鎮の管理する1000余りの関所のうち、最も規模が大きく、最も堅牢な状態で残されている所であり地勢の険要と建築の雄大さで、「天下の雄関」とも「辺境の鍵穴」とも呼ばれています。関城は内城、瓮城、羅城、外城、そして壕で構成され全長は640m、面積は2.5万平方m、高さは10.7mの城壁に囲まれた広大な要塞です。城内の建物は復元されたものですが、17mの三層の楼閣が立ち嘉峪関の象徴となっています。

今日は、敦煌から北山山脈を望みながらバスで河西回廊を嘉峪関・酒泉に向かいます。その後に、再びシルクロード高速鉄道を利用して張掖に向います。
月牙泉(げつがせん)
月牙泉は、鳴沙山の北麓にあるオアシスで、三日月(中国語で月牙)の形をしているので、月牙泉と呼ばれます。内陸河川の水源である祁連山脈からの地下水が月牙泉を潤しているそうで、砂漠化の進む周囲環境に逆らうかのように何千年前から絶えることなく湧き続けている不思議な泉です。泉のそばの楼閣と砂漠の風景は敦煌の代表的な景色といえます。
鐘鼓楼
街のメインストリートが交差する中心にある鐘鼓楼は、346年の創建ですが、清代の1905年に再建されたもので高さは27mです。その姿の美しさもさることながら基壇の東西南北に4つの門があり、すぐ上の門額に「東に華岳を迎え/西は伊吾に達し/南は祁蓮を望み/北は砂漠に通す」の文字を掲げて、酒泉の地理的位置を表しています。
月牙泉の全景を撮影するために砂丘の頂上に登りました

鳴沙山(めいさざん)
敦煌市内から南に5Kmに位置し、東西約40Km、南北20Km続く広大な砂丘でシルクロードのイメージにぴったりの場所です。山といっても実際には特定の山を指すのではなく、ここら一帯に砂が堆積して出来た山の様な砂丘の総称が鳴沙山と呼ばれているそうです。ある大将が軍隊を率いて出征の途中、強風が吹き黄砂が天を覆い、全軍が埋もれてしまった後に山中から鼓笛の音がするようになったことから名付けられたと言われています。ここではラクダに乗って観光しましたが、ラクダは結構揺れますので決してラクな乗物ではありません(笑い)。

石窟内部は撮影禁止でしたが、敦煌博物館には石窟のレプリカがありました。148窟は唐代の長さ15mの涅槃像です。
南大仏殿

莫高窟,
敦煌市内から東南に25Km、鳴沙山の東麓に南北1.5Kmにわたって石窟がつくられています。龍門、雲崗と並ぶ中国三大石窟の1つ莫高窟です。莫高窟が拓かれたのは、敦煌が前秦の支配下にあった五胡十六国時代の366年から14世紀の元代まで1000年にわたって開削が続けられました。当初は仏教の修行の場として築かれたもので、北側の石窟には、僧たちが修行や祈りの生活を続けた痕跡が残っています。南側の石窟は仏教芸術の宝庫。シルクロードの交通の要衝にあった敦煌は、東西交易の中継地として栄え、様々な文化、宗教、芸術が行き交い融合し、独自の仏教芸術を創り上げました。現存しているのは、492の石窟、延べ4万5000㎡の壁画、2415体の彩色塑像、5つの木造建築とその規模は中国現存の石窟で最大です。特に壁画は仏像・仏教史、経典、神話など保存状態もよく残されています。1987年に世界文化遺産として登録されています。見学の流れは、最初に「莫高窟数字展示中心」と言う施設で莫高窟に関する石窟の歴史や成り立ち、内部の壁画や塑像の解説の映像を2本観た後で専用バスで莫高窟へ移動します。一般開放されている約40の石窟のうち8ヶ所程を専門ガイド同伴で見学します。一般開放窟の他に、入場券とは別途料金が必要となる特別拝観窟が見学できます。因みに私は、323、335、17、259、249、244、96、148の一般窟と217の特別有料窟を見学しました。石窟内部は撮影禁止でした。

4日目(4月21日)

今日は、終日、敦煌市内・郊外の観光です。
宿泊した敦煌太陽大酒店
敦煌(Dun Huang)
敦煌は河西回廊の最も西の端に位置しており、西にはタリム盆地、北にはゴビ、南にはツァイダム盆地に祁連山脈に囲まれたシルクロードのオアシス都市です。かつて西域、ヨーロッパへの唯一の通路であり、中国、インド、ギリシャ、イスラム4つの古代文明の合流地でもあり、また、西域民族の集散地として、エキゾチックな風情と古代の伝説を溢れる都市です。 敦は「大きな」、煌は「盛ん」の意味で、紀元前には月氏や匈奴に支配され、前漢代には西域への軍事拠点として、西涼、北魏には河西四郡のひとつ「沙州」として栄えました。その後、河西回廊(現在の甘粛省)を漢が制圧すると、敦煌の西に防御拠点の玉門関と陽関が設置され、漢の西域経営の中心地となり砂漠の大画廊として有名な「莫高窟」、など数多くの見所が残されています。街は飛天像が立つロータリーを中心にして東西に分かれていて東側には市場、商店が西側に銀行やホテルが集まっています。

中国高速列車蘭新鉄道
2017年7月9日、陝西省西安から新疆ウイグル自治区ウルムチまで古代のシルクロード沿線を結ぶ全長2300キロ超の中国高速鉄道路線(CRH=China Railway High-speed)が全線で開通しましたので吐魯番(トルファン)北駅から11:25発D2706で敦煌の玄関口、柳園南駅まで約3時間40分の列車旅を楽しみます。ちなみに値段は二等座で195.5元です。

3日目(4月20日)

火焔山
トルファン盆地の中部にあり、平均海抜は約500m、東西は約100Km、南北は約10Km、最高峰は勝金口近くの851m。極度の乾燥地帯で、地殻の褶曲運動でヒダの入った花崗岩の山肌が、夏には地表から立ち上がる陽炎によって燃え上がる炎のように見えるので火焔山とよばれるようになりました。玄奘の「大唐西域記」を物語化した明代の「西遊記」では孫悟空が鉄扇公主と戦う舞台としても有名です。2006年7月31日午後3時ごろに火焔山の地表気温が70度近くまで達したとの事です。
新疆ウイグル自治区博物館
5万点以上もの歴史的な文物が収蔵された総合博物館で、シルクロードの交易で栄えた時代の絹織物や毛織物、土器や木製品、様々な西域の文字で書かれた手紙などを見ることができます。中国は愛国主義教育の一環で、多くの公立博物館で入館料を無料にしています。「新疆民族風情陳列室」では、新疆ウイグル自治区で暮らす47民族のうち、主要12民族の暮らしを、実物大の人形や住居で再現しています。この博物館最大の目玉は、1980年にタクラマカン砂漠で発見された「楼蘭(ローラン)の美女」です。なんと今から3800年前の女性のミイラで、保存状態が極めてよく、ヨーロッパ系の顔立ちをしていて、太古から東西交流があったことがうかがえる端正な顔立ちをしています。
今日は、ウルムチから観光をしてトルファンに向います。

2日目(4月19日)

1日目(4月18日)

シルクロードは、中国、中央アジア、西アジア、ヨーロッパを結ぶ古代の通商路の総称で諸説ありますが、一般的に西は中国の西安(または洛陽)を起点とし、東はローマまでの全長13,000Kmの道がシルクロードとされています。その西域にはウイグルと中国の文化が融合した砂漠とオアシスの街から、標高6000m級の山々を抱く天山山脈といった大自然の絶景が広がります。天山山脈は東西2400Kmにもおよび、ウルムチはその東端です。ここから西へ西へ、カシュガルの向こうまで伸びています。シルクロードとして最も有名なものが、敦煌を経ていくつかのルートに分かれる陸路「オアシスの道」。敦煌から北上してトルファンを経てウルムチを通り、天山山脈の北側をウズベキスタンのサマルカンドへ抜ける「天山北路」。そして同じく敦煌からトルファンに抜けて天山山脈の南側、タクラマカン砂漠を囲むオアシス都市を辿る、三蔵法師が通ったともされる「天山南路」。タクラマカン砂漠南辺を辿る「西域南道」。これらの道沿いには史跡なども数多く残り、幾多の歴史ドラマが刻まれています。特に紀元前2世紀頃から中国と西域を結ぶ交通の要衝として栄えた敦煌は、多民族が融合したシルクロード文化の中心地として知られます。今回は、この広大な地域を天山山脈から黄河が初めて通過する大都市・蘭州の間の天山北路、河西回廊を2014年に開通した蘭新高速鉄道を利用して観光してきました。
吐魯番(トルファン)(Tu Lu Fan)
天山山脈に隔てられたトルファンは、ウイグル語で低地を意味し、その名前の通り盆地の中に作られた都市で、トルファン市街に近いアイディン湖は、海抜マイナス154mで中国でも最も低い場所となっています。山に隔てられた盆地にあるトルファンは、大変乾燥しており、雨がほとんど降らず気温30度以上の日が年間200日以上あり、特に真夏は気温が49度まで上がる灼熱の大地で火州とも呼ばれています。そんなトルファンが、なぜ昔から交通の要所となれたのか?それは11世紀頃にイスラム勢力から伝えられたカレーズと呼ばれる水路のおかげでトルファンは、2000年前には、天山山脈の雪解け水で潤うシルクロードのオアシスとして栄えました。5~7世紀には漢族の移民により高昌国が建設され、640年の唐に滅ぼされるまで続きました。その後、9世紀には、ウイグル帝国に支配されることとなりました。途中、11世紀には、ペルシア帝国などイスラム勢力の影響を強く受けることとなり、次第にイスラム化が進みました。やがて、中国の清の時代に、中国の支配下に入ることとなり、2015年にトルファンはウイグル自治区のウルムチ市と並んで地級市に指定されました。現在、トルファンに住む人口の70%がイスラム教の信徒であるウイグル族であり、漢族は、少数派となっています。町には1779年建立の蘇公塔と呼ばれる高さ44mの幾何学模様が彫り込まれた新疆イスラム様式を代表するミナレットが残されています。他にも世界遺産に登録された仏教が栄えた時代の歴史ある遺跡が残されています。現在の産業は農業が中心で、特産品にはブドウ、綿花などです。
車内販売弁当の土豆焼牛肉套餐、30元
車窓から、柳園近郊は油田開発が盛んでした
トルファン北駅前
清らかな水が地下を流れる
井戸掘りの様子を再現した展示
宿舎した双城賓館
鴨や花の壁画が描かれている215号の博物館でのレプリカ
入口に立つ玄奘三蔵の像
唐代の小型兵馬俑
蘭州空港
烏魯木斉(ウルムチ)空港に到着

烏魯木斉(ウルムチ)(Wu Lu Mu Qi),
ウルムチは、中国の省・自治区としては最大の面積をもつ新疆ウイグル自治区の「区都」で、漢字では「烏魯木斉」と書きます。地名は「美しい牧場」という意味で、日本のイメージでは砂漠地帯の小さなオアシス都市ですが、人口260万人の驚くほどの高層ビルが建ち並ぶ大都会です。一番近い海からも2500Km以上離れているという、世界で最も内陸に位置する都市でもありますが、中国西北地区の拠点として開発が進められ飛躍的な発展を遂げています。標高919mの高原に位置し、内陸性気候に属し、年間を通して非常に乾燥して雨はほとんど降らないが、夏の日中の気温は30度以上まで上がり非常に暑くなりますが、乾燥しているため朝晩は涼しくなり過ごしやすいです。冬は非常に寒く、-30℃以下まで下がることもあるそうです。ウイグル族はトルコ系少数民族で人口は約1000万人、多くがイスラム教徒です。18世紀に清朝の支配下に入ったものの漢民族への抵抗を続けてきました。2009年に起きた漢民族と衝突して2000人近い死傷者が出たウルムチ騒動以降、中国当局は締め付けを強めています。その為か新疆ウイグル自治区の道路の各所には交通警察の検問所があり、パスポートチェックと顔写真撮影を一日に何度か行われました。

今日は、トルファンからシルクロード高速鉄道を利用して柳園を経て敦煌に向います。
シルクロード8日間
張掖丹霞地貌(たんかちぼう) -張益国家地質公園
マルコポーロの東方見聞録で知られる張掖より約50Kmほど離れた場所にあり、今では「東洋のグランドキャニオン」と言われる、中国唯一の丹霞地貌と多彩な丘の復合区で、「中国の最も綺麗な七大丹霞」の一つと評されています。 ここが発見されたのは2002年で、一般に公開されたのは2008年のことです。張掖丹霞地貌は東西45Km、南北10Km、面積が536平方Km以上にもわたる広大な断層地形群で、「丹霞」と表されるように、何千もの崖や山が全て鮮やかな赤色や褐色に覆われ、相互に映えて輝きが添えられ、「色は濃い紅如く、煌めきは明るい霞如く」という奇妙な風采を保っている絶景が展開されています。浸食で造られた奇岩群が立ち並ぶ氷溝丹霞と日光の当たり方で色彩が変化する七彩丹霞があります。
北大仏殿、第96窟
高昌故城
紀元前1世紀の漢代から13世紀にモンゴル軍により滅ぼされるまでの間、新疆における政治・経済・文化の中心地であった城址遺跡で世界遺産に登録されています。高昌国の都として繁栄した往時の面影を残す火焔山の麓に広がり、大きさは東西1.6Km、南北1.5Kmのほぼ正方形で、内部は宮城、内城、外城の三つの部分から構成され、現存する遺跡には日乾しレンガが使われています。仏塔跡には仏巌も残っており、かつて玄奘三蔵がインドへ仏典を求める旅の途中に、国王・麹文泰の勧めで2ヵ月ほど滞在して説法をしたという伝説が偲ばれます。
ジオラマ模型
ウルムチの中心にある934mの紅山の山頂に建つ鎮龍塔は街のシンボルです。ウルムチの郊外から万年雪をたたえたボゴタ峰(標高5445m)が見えました。
宿泊した鼎和国際大酒店

5日目(4月22日)

柳園(Liu Yuan)
柳園は、北山山脈と河西回廊に挟まれて北は内モンゴル自治区と接する人口1万人の石油・鉱山だけの町です。水も超硬水で木々も育たないので鉄道を利用して水を輸送してきます。柳園南駅は敦煌市から北東に128Km離れていますので敦煌市内へはバスで行きます。柳園からは上海、北京西駅、西安、成都、蘭州、ウルムチなどの都市へ直通列車があります。
カレーズ
シルクロードのオアシス都市には3つのタイプがあります。一つは河川の水を利用したオアシス(カシュガルやホータンなど)、もう一つは湧き出る泉を、最後は地下水路を利用したものです。カレーズとはペルシャ語で「地下水」を意味するように、イランではカナートと呼ばれ今から2000年ほど前に西アジアから伝わった技術です。天山山脈の雪解け水を堰き止めて、縦井戸と地下水道をつないでオアシスまで引き込み、生活水や畑の灌漑水として利用しています。縦井戸の深さはオアシス近くでは3m程度ですが、山に近い場所では70m位の深さになります。長さは通常3~4Km程度ですが、10Kmほどのものもあります。砂漠地帯ではカレーズの縦穴の地表に突き出ている様子が見られる他、トルファン郊外のカレーズ民俗園ではカレーズも仕組みが理解できるよう展示されています。
子供のミイラ

少し黄ばんだ白塔です
ベゼクリク千仏洞
トルファン市内から北東へ40Km、火焔山の横を流れるムルトゥク河の断崖にある石窟寺院。ベゼクリクとはウイグル語で「装飾された家」の意味です。麹氏高昌国の6世紀からつくり始められ、唐、五代十国、宋、14世紀の元代まで続けられました。最盛期は9世紀の高昌ウイグル王国の時代。現存する88の窟は多くはこの時代に造られましたが、現在見学可能な窟は6窟のみです。13世紀後半にイスラム教がトルファンに浸透するとともに破壊され、それを免れた物も20世紀始めにドイツのルコック調査隊が壁画を本国に持ち帰ったために、仏像や壁画はその一部のみしか残っていませんが、当時のウイグル族の生活や仏教文化を知る上で貴重な資料となっています。石窟内部は撮影禁止でした。

今日は、まったくの移動日です。成田空港から中国東方航空便で上海経由で新疆ウイグル自治区の首府(県庁所在地)のウルムチに向います。フライト時間は上海からFM9221便で4時間半。成田~上海が3時間半だったことを思うと……国際線より国内線の方が長時間で、中国はやっぱり広い!

2019年4月18日~25日

今までに訪ね歩いたシルクロードも中国国内はほぼ終わり、あとは国境周辺と中東の砂漠地帯を残すだけになりました。
在来線の蘭州駅
張掖西駅から蘭州西駅までの約4時間の高速鉄道D2756列車の旅です。張掖を17:29に出発すると、蘭新線の最高地点3500mを越えてゴビ砂漠を見渡し、黄河を渡ると、蘭州に到着です。
嘉峪関から約8Km離れた急峻な山の斜面に向かって延びる懸壁長城

敦煌博物館
敦煌博物館では敦煌周辺の古墳、遺跡から発掘された当時の生活道具などを展示しています。なかでも莫高窟の第17窟で発見された経典を記した巻物や書画は必見、莫高窟の代表的な石窟のいくつかを復元展示しています。 

飛天像が立つロータリー
トルファン北駅前
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