第三十九番 赤亀山延光寺 えんこうじ 

38番金剛福寺から 約74km
2017年5月11日 高知県宿毛市

竜宮城から赤亀が梵鐘を背負ってきて寺に奉納したという伝説が山号の由来です。現在も寺に伝わるその梵鐘は、延喜11年(911年)の銘があり、国の重要文化財です。水不足に苦しむこの地を訪れた弘法大師は、杖で地面を突き、わき出た水で人々を救ったと伝わります。そのわき水が境内にある「眼洗い井戸」という眼病にご利益がある井戸です。

 
   
高知から愛媛へ、発心、修行を経て一切の煩悩を断ち切り、極楽浄土へと至る菩薩の道に入るルートをたどります。 愛媛からの後半は次のページに記載しています。 
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 四国88ヶ所巡礼・後編へ

第二十四番 室戸山最御崎寺 ほつみさきじ 

23番薬王寺から 約75km
2017年5月10日 高知県室戸市

薬王寺からはひたすら南へ一本道。左手に太平洋を眺めながら行く遍路道は、信号も少なく快適に進めます。約2時間で室戸岬の突端を過ぎてまもなく、山手へ登る案内板。全体を亜熱帯樹が包むひっそりとした場所にある「修行の道場」とされる土佐最初の霊場です。太平洋の白い波涛が吠えたてる岬の突端にあり仁王門の前を通り過ぎて左に50mほど行くと白亜の室戸岬灯台があります。弘法大師19歳の時室戸岬を訪れ、御厨人窟という海に面した洞窟の中で求聞持の法を徹夜で修業されました。大同2年(807年)、唐から帰朝した翌年に弘法大師は、勅命をうけてふたたび室戸岬を訪ねて虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して伽藍を建立しました。室戸岬では東西に対峙している二十六番・金剛頂寺が「西寺」と呼ばれ、最御崎寺は「東寺」とも呼ばれています。

 
   
鐘楼堂
   たたくと澄んだ音が響く鐘石
徳島から高知へ、仏道を身につけ精神性を高めるる「修行」の道の始まりです。若き日の弘法大師が室戸岬の御厨人(みくろど)で悟りを開いたとき、洞窟の中で目にしたのは、空と海だけだったことから空海と名乗るようになったと言われています。高知の遍路道は、大自然を眺め続ける道のりで札所は少ないが、長い道が続き、県内には24から39番までの札所があります。

第二十三番 医王山薬王寺 やくおうじ 

22番平等寺から 約23km
2017年5月9日 徳島県海部郡美波町

「発心の道場」といわれる阿波最後の霊場。厄除けの寺院としては全国的に有名で、門前に架かる「やくよけばし」を渡って本堂に向かう最初の石段は、「女厄坂」といわれる33段、続く急勾配の石段「男厄坂」が42段で、さらに本堂から「瑜祇塔(ゆぎとう)」までは男女の「還暦厄坂」と呼ばれる61段からなっている。各石段の下には『薬師本願経』の経文が書かれた小石が埋め込まれており、参拝者はお賽銭をあげながらお参りすると、身に降りかかる厄難が落ちるといわれいます。聖武天皇の勅願によって行基が開創し、のちに弘法大師が厄除薬師如来坐像を彫造して本尊とされ、厄除けの根本祈願寺とした。弘法大師は、この厄除け本尊の功徳を平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇の3代に相次いで奏上したところ、各天皇は厚く帰依し、厄除けの勅使を下して官寺とされています。瑜祇塔(ゆぎとう)は高さ29mの楼閣。上方が四角、下方が円筒形の一重の塔。天と地の和合を説く『瑜祇経』の教えに基づき、屋根に五柱の相輪が立つ日和佐の街のシンボルでもあります。

 
   
   瑜祇塔前から見る日和佐の街

第十七番 瑠璃山井戸寺 いどじ 

16番観音寺から 約4km
2017年5月9日 徳島県徳島市

この寺は、もとは妙照寺と号に、天武天皇の勅願道場として白鳳2年(674年)の開基とされ、本尊の七仏薬師如来は聖徳太子作と伝わっています。その後、弘仁6年この地に来た弘法大師が八尺余の十一面観世音菩薩を刻んで安置。さらに弘法大師は、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出したと言う伝説の「面影の井戸」があり、水に映った自身の姿を石像に彫刻されました。この石像は日限大師として、威風堂々とした構えの中にある日限大師堂に祀られています。その中に有る「面影の井戸」を覗き込んで、もし水面に自分の姿がうつれば無病息災、映らなかったら3年以内に不幸が訪れるという言い伝えがあります。現在の寺号はこれに由来します。

 

第十六番 光耀山観音寺 かんおんじ

15番国分寺から 約2km
2017年5月9日 徳島県徳島市
聖武天皇が、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹と伝えられています。その後、弘法大師がこの地を訪ねているのは弘仁7年(816年)のころで、千手観音像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされています。四国八十八ヶ所で最小面積のお寺ですが、各伽藍はりっぱ。左右に寄進者の名を刻んだ石柱が並ぶ和様重層の鐘楼門は、むかしの面影を残し堂々とした風格があります。本堂横の石囲いの中にある夜泣き地蔵は、子供の夜泣きを止めてくれる地蔵尊として信仰を集めています。
 

第九番 正覚山法輪寺 ほうりんじ 

8番熊谷寺から 約3km
2017年5月9日 徳島県阿波市
縁起によると、弘法大師がこの地方で巡教されていたときの弘仁6年、白蛇を見つけた。白蛇は仏の使いであるといわれていることから、大師は釈迦の涅槃像を彫造し、本尊として寺を開基したとされています。霊場中、唯一の涅槃像であり珍重な存在だそうです。開基当初は「白蛇山法林寺」と称され、現在の地より北4Kmほど山間の「法地ヶ渓」にあったが兵火で焼失したのち現在の地に移されたそうです。むかし、松葉杖なしでは歩けなかった人が参拝にきたとき、参道の真ん中あたりで足が軽くなり、松葉杖なしでも歩けるように完治したという伝えがあり、本堂にはたくさんの草鞋が奉納されています。健脚祈願「足腰お願いわらじ」500円があります。境内前にある草餅、鳴門金時の焼き芋などを売る茶屋「あわじ庵」が休憩所として人気です。
 

第六番 温泉山安楽寺 あんらくじ

5番地蔵寺から 約5km
2017年5月9日 徳島県板野郡上板町
ここ引野村には古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山と言います。桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」(宿に困ったお遍路さんを泊める藩指定の寺)と定め、四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。その記録である「駅路寺文書」(慶長3年=1598年)が今も残されており、宿坊は以来400年以上の歴史があります。藩政時代は山門に蜂須賀家の家紋が入った雪洞が許され、寺域は殺生禁断とされた。茅葺き屋根の方丈は、250年前に蜂須賀公により寄進され、質素ながら堂々とした木造建築です。境内の「さか松」は、厄除けの木として弘法大師お手植えのものとして有名です。

第五番 無尽山地蔵寺 じぞうじ 

4番大日寺から 約2km
2017年5月9日 徳島県板野郡板野町
嵯峨天皇の勅願により、弘仁12年弘法大師が開創された。大師は、自ら勝軍地蔵菩薩を彫られ、本尊に安置したと伝えられています。その後紀州・熊野権現の導師を務めていた浄函上人が霊木に延命地蔵菩薩像を刻み、その胎内に大師作の勝軍地蔵菩薩を納められたとも伝えられています。この勝軍地蔵菩薩の信仰からか、源頼朝、義経をはじめ、蜂須賀家などの武将たちが多くの寄進をしています。これらの寄進により寺領は拡大し、阿波、讃岐、伊予の3ヶ国におよそ300を数える末寺ができ、塔頭も26寺にのぼったそうです。樹齢800年といわれる大銀杏や、大師堂の壁面にある透かし彫りも見ごたえがありました。
 

第三番 亀光山金泉寺 こんせんじ 

2番極楽寺から約3km
2017年5月9日 徳島県板野郡板野町
弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」としました。源平合戦(元暦2年=1185年)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられています。本堂の左手にある慈母観音子安大師が、義経の祈願所ですが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられています。朱塗りの山門も目立ちます。
 
慈母観音
「発心(ほっしん)」とは、仏教用語で「修行を思い立ち、悟りに向けて進みだす」ことで、四国八十八ヶ所巡りが、ここ徳島から始まり県内に1~23番の札所があります。

第三十五番 醫王山清瀧寺 きよたきじ 

34番種間寺から 約12km
2017年5月11日 高知県土佐市

高知自動車道をくぐり抜け石柱門を過ぎた頃から道はミカン畑を縫う急坂に変わります。八丁坂と呼ばれる巡礼路なので、車が1台ようやく通れるほどの、せまい、凸凹、ヘアピンと悪路の条件がすべて揃ってますが、救いは、山道の距離としては、1Kmぐらいしかないことです。早朝でしたので運良く対向車無しで行けました。縁起によると、養老7年に行基が薬師如来像を彫造して堂舎を建て、「影山密院・繹木寺」と名づけて開山したのが初めと伝えられています。その後、弘法大師が訪ね五穀豊穣を祈願して修法をしました。満願の日に金剛杖で地面を突くと、清水が湧き出て鏡のような池になったという。そこで山号や院号、寺名を現在の鏡池院清瀧寺に改め、霊場としたそうです。本堂前にある高さ15mの薬師如来像の真っ暗な内部を手探りで進む胎内巡りは、厄除けに御利益があるので巡って来ました。車で駐車場に直行しましたので途中の仁王門の天井にある蛟龍図は見過ごしてしまいました。

 
   

第二十一番 舎心山太龍寺 たいりゅうじ 

20番鶴林寺から約10km
2017年5月10日 徳島県阿南市

ロープウェのイ山頂駅下車、するとすぐに樹齢数百年余の老杉の並木が天空にそびえ、境内には古刹の霊気が漂う、さすが「西の高野」と呼ばれるにふさわしい威風堂々の佇まいです桓武天皇の勅命により、弘法大師が開基した寺で本尊の虚空蔵菩薩も大師の作。弘法大師19歳の時太龍ヶ獄に登られ、舎心獄で真言を百万遍唱える100日間の山岳修行をした場所として知られています。山号の由来は舎心の霊蹟にちなんで舎心山と号し、寺号は修業中の大師を守護した「龍神守護」の意から生じたもので太龍寺と命名したと言われています。

 
   
護摩堂   持仏堂の廊下天井にある龍の絵

第二十二番 白水山平等寺 びょうどうじ 

21番太龍寺から(ロープウェイ利用) 約14km
2017年5月10日 徳島県阿南市

弘法大師が厄除け祈願をしていると薬師如来が現れ、弘法大師がさっそく加持水を求め杖で井戸を掘られたところ、乳白色の水が湧き上がり、その霊水で身を清められた大師は100日の修行の後に薬師如来像を刻み本尊として安置し、人々が平等に救済されるようにとの願いをこめて山号を白水山、寺号を平等寺と定められたそうです。本堂の天井には、沢山の草花を描いた天井絵が見事です。

 
   
四国88ヶ所巡礼・前編

第十五番 薬王山国分寺 こくぶんじ 

14番常楽寺から 約1km
2017年5月9日 徳島県徳島市
聖武天皇は、天平13年(741年)に国家の安穏や五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上などを祈って、勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建しました。奈良・東大寺はその総国分寺です。この寺はその時に建立された官立寺院の一つであり、天皇の勅命を奉じた行基が四国の地へ下向して堂塔を建立したもので、寺号はその由来によるものです。山門を近くには天平年間に建立された七重塔の礎石が置かれています。ちょうど重層入母屋造りの本堂は修復工事中でシートに覆われ仮本堂でのお参りでした。
 

第七番 光明山十楽寺 じゅうらくじ 

6番安楽寺から 約1km
2017年5月9日 徳島県阿波市
中国風の鐘楼門をくぐり石段を登ると本堂が、その左手の石段を上ると大師堂があります。弘法大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、極楽浄土の10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたといわれます。創建からしばらくは、阿波の北方きっての広大な七堂伽藍を誇っていたが、天正年間の長宗我部元親による兵火で、すべての堂塔を焼失。寛永12年(1635年)に現在の地に移り再建されました。大師堂階段手前の横には、古くから眼病平癒の地蔵尊として知られる治眼疾目救済地蔵尊があります。
 

第一番 竺和山霊山寺 りょうぜんじ

2017年5月9日 徳島県鳴門市
天平年間、聖武天皇の勅願により行基が開いた寺です。この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路の第一番、「発願の寺」と定められたのは、弘法大師が四国霊場を開創にあたって真言密教の阿字五転(発心、修業、菩提、涅槃、利他)の法則をもとに、四国の東北から右回りに88使の煩悩の数にちなんで霊場を開こうとして当地に来た事によります。その時に、インドの霊山を和国・日本に移す意味で竺和山、霊山寺と名付けたとされます。やはり1番札所ということで、観光名所としての人気の有る所です。常に参拝客・観光客で賑わっていました。風格ある仁王門をくぐり、いよいよここから四国八十八ヶ所札所巡りを始めました。
   
四国88ヶ所巡礼・後編へ

第二十五番 宝珠山津照寺 しんしょうじ 

24番最御崎寺から 約6km
2017年5月10日 高知県室戸市

室津港の路地の先の小さな山の上の寺で、石段途中には竜宮城の門のような鐘門楼があり、本堂はさらに上り切った所から室津の町と港を見守っています。この寺は、通称「津寺」(つでら)と呼ばれています。弘法大師が、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠(ほうしゅ)に似ているところから霊地とし地蔵菩薩を自ら刻まれ本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号されました。 

 
   
太龍寺ロープウェイ
昔から「一に焼山(12番焼山寺)、二にお鶴(20番鶴林寺)、三に太龍(21番太龍寺)」と言われてきた阿波の難所。特には四国山脈の東南端、標高618mの太龍寺山の山頂近くにある太龍寺への道は巡礼路の中でも屈指の難所でしたが、ロープウエーが完成して容易に参拝出来る様になりました。全長2775m、スイス製のゴンドラは101人乗りで山頂駅まで10分で到着です。往復2470円
出典:JTBパブリッシング社発行の「四国八十八ヵ所をあるく」霊場全図よりの引用

第二番 日照山極楽寺 ごくらくじ

1番霊山寺から 約1km
2017年5月9日 徳島県鳴門市
三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門をくぐると極楽浄土をイメージしたような庭園が広がり、44段ほどの石段をのぼった正面に本堂があります。その右手奥が大師堂で、この大師像は「安産大師」とも呼ばれています。弘法大師が流産ばかりする夫人に加持祈祷したところ、即座に子宝に恵まれたという由縁によるもので、安産祈願に霊験があるとされています。弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31m、周囲約6mもある霊木です。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれ幹に結ばれた紅白の綱を握れば御利益得られるそうです。
 
境内からは、景勝地・桂浜も遠望できます。

江戸時代に広まった観音巡礼を、私は、関東の坂東三十三観音、秩父三十四観音と共に西国三十三観音を総合した日本百観音の巡礼を2016年7月に結願いたしましたので、今回、その総仕上げとして四国八十八ヶ所の巡礼に行って来ました。讃岐(香川県)で生まれた弘法大師・空海(お大師さま)は、国の中心地から遠く離れた場所にある四国の様々な地で修行をされ、約1200年前に、八十八ヶ所の寺院などを選んで四国八十八ヶ所霊場を開創されたと伝えられています。その弘法大師の足跡である八十八ヶ所霊場を巡礼することが遍路と呼ばれています。当初の遍路は、修行僧などが中心でしたが、その後、弘法大師の教えは高野聖(こうやひじり)によって全国に広まり、弘法大師に対する人々の信仰の高まりと共に、日本全国から多くの方が遍路されたといわれてます、そして、弘法大師ゆかりの地として、誰しもが一度は訪れたい霊場として発展した歴史があります。 道程約1400kmと距離が長いため、現在では全行程を歩き巡礼する人はとても少なく、車やバスなどの公共交通機関を利用する人がほとんどです。私も今回、巡礼の最後の仕上げに飛行機とレンタカーを利用して5泊6日の駆け足で四国八十八ヶ所巡礼をしてきました。

足摺岬遊歩道の入口に立つジョン万次郎こと中濱万次郎の銅像と足摺岬

第三十七番 藤井山岩本寺 いわもとじ 

36番青龍寺から 約50km
2017年5月11日 高知県高岡郡四万十町

岩本寺は、前の札所から約50Km、次の札所までは約95Kmと前後ともにかなり離れたところにありますので、修行の道とは言え歩きには長く辛い道のりですが、私どもは車ですので楽チンでしたが。海抜320mの台地の上に立つ岩本寺は、四国霊場で唯一、阿弥陀如来、観世音菩薩、地蔵菩薩、不動明王、薬師如来の5仏を本尊としています。寺には、弘法大師にまつわる子安桜、戸たてずの庄屋、筆草、尻なし貝、三度栗、口なし蛙、桜貝など現実と法益を交ぜた七不思の伝説が伝わっています。本堂の格天井(ごうてんじょう)には、575枚の格天井画があります。本堂の建立の時に、地元の県展出品者からアマチュアまで約400名が描いたもので、洋画や日本画、水彩画などさまざまな手法で描かれ、題材も仏像からマリリン・モンローまで多彩です。

 
   
 

第三十六番 独鈷山青龍寺 しょうりゅうじ 

35番清瀧寺から 約18km
2017年5月11日 高知県土佐市

元横綱・朝青龍関が明徳義塾高校在学中にトレーニングしたという170段の長い石段を登り切った所に本堂、大師堂があります。彼のしこ名もこの寺に由来するそうです。縁起では、弘法大師が唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かって、帰朝したのは大同元年(806年)です。弘法大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の地が選ばれるようにと祈願し、独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去りました。帰朝後、大師がこの地で巡教の旅をしているときに、独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にかかっていることを見つけて時の嵯峨天皇に奏上しました。弘法大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」を名乗りました。明治のころまで土佐7大寺のひとつといわれ、末寺四ヶ寺、脇坊六坊をもつ名刹でした。

 
 
   
   
今夜の宿は、36番札所青龍寺のすぐ近くにある国民宿舎・土佐です。横浪自然公園の高台に建ち、室戸岬から足摺岬まで一望出来ました。一見、サントリーニ島のような景色ですが国民宿舎の建物の一部です。日の出は部屋の窓からの眺めました。

第三十三番 高福山雪蹊寺 せっけいじ 

32番禅師峰寺から 約11km
2017年5月10日 高知県高知市

弘法大師が開基したときは、小林山、高福寺と号して真言宗であったが鎌倉時代に高名な仏師・運慶とその長男、湛慶がこの寺に滞在し仏像を彫造して安置した事から一時、慶運寺と名のった。その後、廃寺となっていた寺を再興したのは長宗我部元親で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を招き中興の祖としました。元親の死後、長宗我部家の菩提寺として元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっています。

 
   

第三十二番 八葉山禅師峰寺 ぜんじぶじ 

31番竹林寺から 約8km
2017年5月10日 高知県南国市

標高82mほどの峰山の頂上にあることから、地元では「峰寺(みねんじ)」と呼ばれ、親しまれています。また、海上の交通安全を祈願して建立された事から漁師たちに限らず、藩政時代には参勤交代などで浦戸湾から出航する歴代の藩主たちも、皆この寺に寄り航海の無事を祈っていきました。また、峰山の山容が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号した。境内は樹木におおわれ、奇怪な岩石が多く、幽寂な雰囲気を漂わせています。

 
 
 

第三十一番 五台山竹林寺 ちくりんじ 

30番善楽寺から 約10km
2017年5月10日 高知県高知市

高知市街を見渡せる標高145mの五台山の上に立っています。聖武天皇が唐の五台山に登り、文殊菩薩に拝した夢を見たことから、行基に五台山の霊地に似た山容を見つけるよう命じ、行基がこの地を選び開基しました。しっとりと落ち着いた境内の庭園は、名作庭家でもあった高僧・夢窓国師によるものです。県下唯一とされる五重塔は高さ31.2m総ヒノキ造りの見事なものです。また、”よさこい節”の歌詞中で、かんざしを買った坊さん(純信)がいた寺としても有名で、学僧・名僧があつまる「南海第一道場」とされた学問寺院としても知られています。

 
 
   

第三十番 百々山善楽寺 ぜんらくじ 

29番国分寺から 約11km
2017年5月10日 竹林寺

弘法大師がこの地を訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高鴨大明神の別当寺として善楽寺を開創され霊場と定めました。以来、神仏習合の寺院でしたが、明治初年の神仏分離令によって廃寺されたました。そののち、現在の奥の院にあたる安楽寺が一の宮の本地仏、阿弥陀如来を奉って30番札所を名乗り、さらに昭和4年に善楽寺が再興されて30番札所を名乗ったがため、一時は札所間に争いが生じたが、弘法大師開創1150年の大法会を機に協定が結ばれ平成6年から「善楽寺」が第三十番霊場として定められました。山門がない開放的な境内には新しい本堂が建っています。

 
   

第二十九番 摩尼山国分寺 こくぶんじ 

28番大日寺から 約12km
2017年5月10日 高知県南国市

聖武天皇が、全国68ヶ所に国分寺の建立を勅願した、その一つです。土佐では行基が開山し、天下の泰平と五穀の豊穣、万民の豊楽をねがう祈願所として開創された。歴代天皇からの尊信が厚く、加護をうけてきました。縁起によると、弘法大師がこの地を訪れ、真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められました。以来、土佐国分寺は「星供の根本道場」となっています。重要文化財に指定された柿葺き寄棟造りの本堂は長宗我部元親が再建したものです、また土佐藩主・山内忠義公が寄進した仁王門など見所がいっぱいあります。

 
 

第二十八番 法界山大日寺 だいにちじ 

27番神峰寺から 約38km
2017年5月10日 高知県香南市

聖武天皇の勅願により、行基が大日如来の尊像を彫造し、安置して開創されたと伝えられています。その後、寺は荒廃したが弘法大師が、末世の人々の安泰を祈り、楠の大木に爪で薬師如来像を彫られ、これを祀って復興されたと言われています。大師が楠の立木に爪で彫られたという霊木は「爪彫り薬師」と呼ばれ、奥の院とされています。この霊木は、頭、眼、鼻、耳、顔など首から上の病に霊験があらたかとされています。

 

第二十七番 竹林山神峯寺 こうのみねじ 

26番金剛頂寺から 約33km
2017年5月10日 高知県安芸郡安田町

神峯山中腹の標高450mに山門、境内が広がり、土佐の関所とも言われている、ここも遍路ころがしと呼ばれる難所の一つです。「真っ縦」と呼ばれる急な参道ですが現在は車で参拝ができます。山門をくぐり、さらに160段もの石段を登って本堂です。縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされています。聖武天皇の勅をうけた行基が十一面観音像を彫造して本尊とし、その後、弘法大師が伽藍を建立し神仏合祀を行った。

 
   

第二十六番 龍頭山金剛頂寺 こんごうちょうじ 

25番津照寺から 約5km
2017年5月10日 高知県室戸市

室津から海岸沿いに西北に向かうと、土佐湾につき出した小さな岬があります。「行当岬」、つまり行道の場である、その岬の頂上の原始林の椎に覆われて静寂さがただよう境内が金剛頂寺で、室戸三山の一寺院として「西寺」の通称でも親しまれています。しっとりと落ち着いた境内だが、大師堂の向きが逆。その裏には空海が天狗を懲らしめ足摺岬に封じた伝説があり、そのために大師堂は足摺を向いて見張っているとか。

 
高さ21mの室戸青年大師像
室戸岬の御厨人(みくろど)

第二十番 霊鷲山鶴林寺 かくりんじ 

19番立江寺から 約14km
2017年5月9日 徳島県勝浦郡勝浦町

標高550m鷲が尾の山頂にあり、樹齢千年を超すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っており、運慶作と伝わる仁王像が守る山門は静謐ながら隆盛の面影をしのばせています。弘法大師がこの山で修行していたとき、雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼をひろげて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護していた事から寺名を鶴林寺にしたと伝えられています。また、山号は寺周辺の山容が印度の鷲峯山に似ているところから霊鷲山と山号がつけられました。

 

第十九番 橋池山立江寺 たつえじ 

18番恩山寺から約5km
2017年5月9日 徳島県小松島市

聖武天皇の勅命を奉じた行基が、天皇の妃、光明皇后の安産を祈念して約6cmの金の延命地蔵尊を刻み、それを本尊として、堂宇を建立したという。その後、弘法大師が訪れて、本尊があまりにも小さいので紛失を心配して約1.8mの地蔵菩薩を刻み、金の仏像を胎内に納め、立江寺と命名して一九番札所と定めました。立江寺はまた、四国八十八ヶ所にある4つの関所寺の総関所にあたるために不義密通とか、あるいは邪悪の心を抱いた者にはくぐることが出来ないと言われる重厚な山門や立派な堂宇が建ち並んでいます。

 
   

第十八番 母養山恩山寺 おんざんじ

17番井戸寺から 約20km
2017年5月9日 徳島県小松島市
石段を上がると大師堂、さらにその上に本堂と山寺らしいたたずまいです。本尊の薬師如来は、衆生の厄除けを祈願して行基が開基した寺です。この寺ももとは大日山福生院密厳寺と号し、諸人の災厄を除く道場であって女人禁制の聖地でした。その後、百余年を経た頃、弘法大師がこの寺で修行していた時、母の(玉依御前)がはるばる訪ねてきたが会えなかった事から、弘法大師は、17日間にわたって女人解禁の祈願を成就して、母を迎え入れ孝養を尽くされたという由来から寺号を現在のそれに改めたと言われています。境内には玉依御前が、ここで剃髪して出家した髪をを祀る小堂があり、母に孝養をつくして、大師が植樹した「びらんじゅ」は、県の天然記念物にもなっています。母を慕いつくした大師のこころが、いまも宿っているような寺です。
 
玉依御前の剃髪所   

第十一番 金剛山藤井寺 ふじいでら

10番切幡寺から(333段の階段) 約12km
2017年5月9日 徳島県吉野川市
奥深い山に囲まれた谷の奥に十一番霊場の山門が見えてきます。弘法大師がこの地で護摩修法をされ堂宇を建立し、その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになった。平安時代の年号が書かれた本尊は、年号が分かっている物としては四国霊場最古の仏像で、創建以来2度の火災を逃れた事から「厄除け薬師」として親しまれています。境内の一角にある白龍弁財天は、8つの手を持つ龍で、それぞれの手に武器や鍵を持っていて金運や武術、芸術などへの福を授けてくれるとされています。
 
第十四番 盛寿山常楽寺 じょうらくじ  13番大日寺から 約3km
2017年5月9日 徳島県徳島市
本尊は、釈迦入滅後56億7千万年後に、衆生の救済を考え続けて出現するといわれる弥勒菩薩で、四国霊場のなかで唯一の未来仏です。常楽寺も天正年間の兵火に遭って、堂塔のことごとくを焼失。江戸時代に復興する際に、低地の谷地から石段を約50段のぼった現在の所に山を切り崩して岩盤の上に堂宇を建てたため境内が自然の岩肌が露出し波打つ「流水岩の庭」と呼ばれる境内です。奇形な岩肌の断層が重なる「流水岩の庭」は、自然の美しさにとけ込む魅力を醸し出しています..。見ためは珍しいがゴッゴツしているので、歩きにくかったので、私はふと埼玉県の長瀞の岩畳を思い出しました。本堂の前に大きなイチイ(別名/アララギ)の木があって「アララギの霊木」と呼ばれているそうです。なんでも弘法大師がこの木を煎じて病気の老人に飲ませたら病気が治った言い伝えから、この木の股に小さな弘法大師の像が置かれていました。

第十三番 大栗山大日寺 だいにちじ 

12番焼山寺から 約30km
2017年5月9日 徳島県徳島市
縁起によると弘法大師が大師ヶ森で護摩修法をしていると、空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。弘法大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、寺名もこれにちなんだ。ところが、後に一の宮神社の別当寺となったため一宮寺とも呼ばれ栄えるようになりました。国道の向かいには一の宮神社があります。
一の宮神社

第十二番 摩盧山焼山寺 しょうさんじ

11番藤井寺から 約43km 
2017年5月9日日 徳島県名西郡神山町
焼山寺山(標高938m)の8合目近くにあり、四国霊場で2番目に高い山岳札所。剣山や白髪山など四国山脈の山々の眺望がひろがります。四国霊場には「遍路ころがし」といわれた札所がいくつかありますが、焼山寺もその一つで、昔から嶮しい坂道の難所を辿る「修行の霊場」でした。今は山上まで車道が通っていますので駐車場から雲の上の回廊を歩いて15分、それが終われば急な石段が続きます。弘法大師がこの地に巡られた時、大蛇が全山を火の海にして妨害し、山は「焼山」となってしまいました。弘法大師は一心に祈願し法力で岩窟に封じ込めた伝説から寺を、弘法大師が「焼山寺」と名付けた。「摩廬」の山号も「焼山」の寺名も、こうした奇異な伝説に由来しています。
   

第十番 得度山切幡寺 きりはたじ 

9番法輪寺より 約5km
2017年5月9日 徳島県阿波市
切幡寺は乾山の中腹に広がっています。仁王門をくぐると「是より三三三段」と刻まれた立石があり、333段の階段をあがった標高155mに境内があります。本堂よりさらに高い所にある大塔からの眺望はすばらしく、眼下には吉野川がゆったりと流れ、前方には四国山脈の雄大な山々が連なるハズでしたが天候が思わしくなく残念。ここで修法していた弘法大師は、結願の7日目、綻びた僧衣を繕うために布切れを娘に求めると、娘は、織りかけていた布を惜しげもなく切り取ってくれました。感謝した弘法大師は娘の願いを聞き、その場で、千手観音像像を刻んで娘を得度させたところ、娘はたちまち身体から七色の光を放ち観音菩薩の姿になったそうだ。寺の名の由来を伝える「はたきり観音」は娘が仏法の即身成仏して観音さんに化身した銅像で右手にハサミ、左手に長い布を持っています。
 

第八番 普明山熊谷寺 くまだにじ 

7番十楽寺から 約4km
2017年5月9日 徳島県阿波市
四国で最大・最古の規模を誇る安永3年(1774年)建立の多宝塔や、四国霊場中最大の、間口9m、高さ12.3m、三間重層の貞享4年(1687年)の建立の仁王門を構えています。縁起によると弘仁6年、弘法大師がこの地の閼於ヶ谷で修行をされていた。その折、紀州の熊野権現があらわれ「末世の衆生を永く済度せよ」と告げられ、5.5センチほどの金の観世音菩薩像を授け、虚空はるかに去っていったと伝えられています。
 

第四番 黒巖山大日寺 だいにちじ

3番金泉寺から 約7km
2017年5月9日 徳島県板野郡板野町
弘法大師が、この地に長く留まり修行していたとき大日如来を感得されたので、大師は、一刀三礼をして55cmほどの大日如来像を彫造され、これを本尊として創建し、寺号を本尊に因んで「大日寺」と命名したと伝えられているそうです。阿波藩主の蜂須賀家の尊信を厚く受け、元禄年間に現在の堂塔を大修理されるなどの庇護を受けました。人里を離れ、三方を山に囲まれた場所にあり、渓流が、森の木々が緑をふりまくという至って簡素な中に、本堂などが厳かな佇まいを見せています。本堂から大師堂に続く回廊には西国三十三ヵ所の本尊を表す観音像が安置されています。これは、江戸時代に大阪の信者が奉納した物と伝えられています。
 
羽田空港発7:05のJAL453便で徳島空港に8:15到着。レンタカーの手続きを終えて8:45巡礼開始です。
神奈川県の江ノ島上空
紀伊半島を過ぎると徳島です
参考にしたのはJTBパブリッシング社発行の「四国八十八ヵ所をあるく」と昭文社発行の「はじめてのお遍路」です。

第三十八番 蹉跎山金剛福寺 こんごうふくじ

37番岩本寺から 約94km
2017年5月11日 高知県土佐清水市

岩本寺から、四国最南端の足摺岬に立つ金剛福寺までは、土佐湾に沿っておよそ95Kmの道のりは、札所間では最長の距離です。国立公園である足摺岬の一部をも含むほどの広大な境内で、岬の灯台に通じる遊歩道沿いには大師爪彫石、ゆるぎ石、亀石、亀呼び場、竜燈の松、竜の駒、寺号の岩などの”足摺七不思議”も点在し、四国有数の広さを誇る12万㎡の境内には諸堂がたち並んでいます。嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が開基。足摺岬は「補陀洛(ふだらく)」(観音の住まう楽園)に最も近い場所として、ここを霊場とし、みずから三面千手観世音菩薩を刻み本尊としました。歴代天皇や源氏一門を始めとする多くの武将に崇拝され隆盛しました。

 
   
 
   
 源氏一門が建立した多宝塔 大師亀 

第三十四番 本尾山種間寺 たねまじ 

33番雪蹊寺から 約8km
2017年5月10日 高知県高知市

大阪・四天王寺の造営にあたり百済から招かれた仏師や造寺工が、その帰国途中の土佐沖で強烈な暴風雨におそわれて、種間寺が建つ本尾山にほど近い秋山の港に難を逃れて寄港しました。彼らは、海上の安全を祈って薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀った。これが寺の起源とされています。その後、200年以上が経過して、唐から帰朝した弘法大師がこの地を訪ね、その薬師如来像を本尊として開創された。その折に唐からもち帰った種子の米、麦、あわ、きび、豆またはひえの五穀を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれています。本尊は「安産の薬師さん」で、柄杓の底を抜いて二夜三日の安産祈祷をした物を妊婦がもちかえり、それを床の間に飾り、無事に安産すれば柄杓を寺に納めるそうです。観音堂には、納められた底の抜けた柄杓が奉納されていました。

 
   観音堂にある、納められた底の抜けた柄杓
仁王門
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