街の教会のファサードの天辺に建つ聖母マリア像はキリストを抱え、ご当地らしく漁船ルッツに乗っていました

ラバトの聖パウロ教会
パリッシュ広場に、古風な佇まいを見せているのは聖パウロ教会です。1572年に創建され、17世紀に再建されたパロック様式のラバト教区教会。イムディーナの大聖堂と同じく、ロレンツォ・ガッフォが設計しました。

モスタ教会、
ドーム型の教会では、ヨーロッパでもフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、ローマのサン・ピエトロ寺院に次いで3番目に大きいといわれいる教会です。特別なのはそれだけではなくて、第二次世界対戦でドイツ軍の爆弾が落とされた際ミサの途中だったにもかかわらず、突き抜けた爆弾は不発で爆発せず 一人のけが人も出さなかったということでも有名です。それ以来、教会は「モスタの奇跡」、「聖母マリアの奇跡」として知れることになりました。
町はずれのバスティオン広場へ。ここからは周囲の農村風景やモスタの町周辺、さらに地中海も展望できます。さらに遠方に見えたのはヴァレッタです。
バスティオン広場
赤いドームが中心部のモスタの町
遠方にはヴァレッタも見えます
ラバト(Rabat)
イムディーナの城壁の外はラバトと呼ばれるエリアで、活気あふれる庶民的な生活がうかがえる町です。町はローマ人に支配されていた、紀元前218年から紀元870年にかけて繁栄。1572年に建てられた聖パウロ教会など、当時の遺産が点在しています。また、地下には4世紀ごろに造られた地下墓地(カタコンベ)が広がり、「地下墓地の町」とも呼ばれます。
ビルグマリーナとセングレア
コラッチオと呼ばれる騎士団の部隊宿舎(オーベルジュ)と古い街並み
ヴィットリオーザ
聖母マリア懐胎教会

パフォス(Pafos)
愛と美の女神アフロディーテの伝説を生んだキプロス最愛の地。キプロスのかつての首都であり、古代パフォスが衰退した後、紀元前320年、新たに現在のパフォスが建設されました。町には城壁や地下墓地群のほか、ローマ時代の貴族の館も多く残り、これらの館には東地中海のモザイク芸術の傑作といえるギリシア神話のモザイク画が残されています。貴重な世界遺産が眠る地としても有名で町全体がユネスコの世界遺産に登録されています。

レストラン中庭のヴィーナス像と眼下の海岸
アシヌ教会
山奥の村ニキタリから5Kmのところにある12世紀初頭に建てられた教会です。聖母マリアに捧げられたこの教会には、キプロスで最も美しいとされるビザンチン様式の数々の壁画が残されていますが撮影禁止です。

トロードス(Troodos)、
キプロス島の中央部には美しい自然に包まれた、標高1951mのオリンパス山をはじめとする山々があり、その山間には、小さな村や素朴な修道院が点在します。教会のほとんどは、石造りか木造の外壁にこけら葺きの切り妻屋根という実に質素な造りで、その素朴な外観は、教会内部の豪華さとまさに対照的です。教会に一歩足を踏み入れると、煌びやかなフレスコ画で覆われた華麗な壁画の数々が目に飛び込んできます。それらは当時の質の高い芸術性と、人々の深い信仰心を如実に示しています。世界文化遺産には、11~16世紀にかけて建てられた10のビザンチン教会が登録されており訪れる人も多く、さまざまな国の侵略を受けてきた歴史をもつキプロス人の心の故郷の様な場所です。

下の写真はヴァレッタから眺めた聖アンジェロ砦ですが、赤の矢印で示した場所まで来まして対岸のヴァレッタとセングレアを眺めました。
ここが写真左の矢印で示した場所
ビザンティン美術館
次は陸上から眺めます。アズール・ウィンドーは、ドウェイラ湾に突き出した大岩に窓がある絶景の場所です。いつも海水に洗われる岩の下部は、徐々にえぐられてやせ細っています。周囲の海水は濃紺で、見るからに深そう。アーチ窓を覗くと、紺碧の地中海が広がっています
フンガス・ロック(キノコ岩)
山頂に白色アンテナがあるのがオリンパス山
今日の観光を終えて17:15のフェリーでゴゾ島のイムジャール港を出港してマルタ島に戻ります。
セングレアの眺め
鳥と魚と幾何学模様の見事なモザイク画です
イムディーナ(Mdina)
マルタ島内陸部の丘の上にたたずむイムディーナは、アラビア語で「城塞の町」と言われ、文字通り空堀と城壁に包まれています。300m四方の城壁に囲まれた、ちっぽけな町ですが、ヴァレッタが築かれる前のマルタの首都で貴族はじめ多くの人々がこの町に住んでいました。その後、首都の移動に伴い人が少なくなったこの町は‘静寂の町’と呼ばれるようになりました。蜂蜜色の建物が寄り添い、戦いを想定して設計された細い路地、道の一本一本にも中世の趣を色濃く残す古都イムディーナは、一歩路地に入ればひっそりと静まり返り、その名の通り、‘静寂の町’が広がっています
首相官邸の重厚なファサードの紋章

キプロス・マルタ9日間

7日目(11月24日)

きょうは日帰りですがフェリーでゴゾ島へ渡り、終日、島内を観光します。ゴゾ島へのフェリー乗り場があるチェルケウア桟橋へ丘の上に建つ騎士団が設けた多くの監視塔を見ながら海岸沿いの道を進みます。フェリーはマルタ島とゴゾ島間の6kmを20分ほどで運航してゴゾ島のイムジャール港に入ります。
セント・ジュリアン湾
対岸のコリンシア・サンジョージ・ベイ・ホテル
アフロディテ神殿
ペトラ・トゥ・ロミウの海岸の近郊には、紀元前12世紀頃造られたアフロディーテ神殿の跡があります。かつてパフォスといえばギリシャの文化の中心で、この辺りを指していましたので3~4世紀までは、女神アフロディーテ伝説発祥の地でもあり、多くの巡礼者が後を絶たなかったといわれています。隣接するパレパフォス博物館に収められている高さ1m程の見た目は普通の。黒い石は、アフロディーテの石と呼ばれて子宝が授かる願いの石だそうです。
ペトラ・トゥ・ロミウの海岸、
愛と美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)は、現在のパフォスの町より25キロ東にある、岩が海より突き出したギリシャ語で「ギリシャの岩」を意味するペトラ・トゥ・ロミウと呼ばれる海岸で海の泡から誕生したとされています。手前にある見晴らし台や丘の上のレストラン(Fish Tavern)の中庭からは眼下に眺める事ができました。

2015年11月18日~26日

アッパー・バラッカ・ガーデン
バス・ターミナルのすぐ近くで見ることができる要塞都市ヴァレッタの守りを固める城壁と堀の横を進むと、地中海随一といわれる良港グランドハーバーを見下ろす展望デッキがある”イタリアの見晴らし台”と呼ばれる公園です。昼12時にはグランドハーバーを守るように構えられている大砲が発射され時報を知らせます。この旅の6日目に観光した対岸の聖ヨハネ騎士団がマルタに到着して最初に築いた町‘ヴィットリーオーザ(ビルグ)やセングレア、コスピークワのスリーシティーの全景を望める絶景ポイントです。

コゾ島(Gozo)
マルタ本島の西6Kmに位置し、東西14Km、南北7Kmに広がる島です。島の中心には要塞シタデルがそびえ立ち、紀元前3600年に最初に人が住み着いた場所と言われる島です。マルタ島より小さいながら「アズール・ウィンドウ」「大聖堂」などの見所も多く、人々の温かさと魅力が詰まっている島です。マルタ島人(マルティーズMaltese)に対してゴゾ人(ゴジアンGozian)と、牧歌的でのんびりした独自のアイデンティティーを誇りにしているようです。
チェルケウア桟橋
レッド・タワーと呼ばれる騎士団の監視塔

聖ローレンス教会
路地を散策しながら聖ローレンス教会や宗教裁判所、海事博物館が建つ広場まで来ました。聖ローレンス教会は、聖ヨハネ騎士団が最初に建てたバロック様式の修道教会。1090年に創建されたマルタ最古の教会を1607年に再建したもので、建物の屋根にマルタ十字がついています。その向かいは宗教裁判所。騎士団が異教徒を罰するために設けたもの。広場には大包囲戦の戦勝記念碑が建っています。

4日目(11月21日)

聖ヨハネ教会とビザンティン美術館
1662年に建てられた教会で1730年に大主教座が移されました。聖書などを題材とした、保存状態の良い18世紀のフレスコ壁画と、木に彫り込まれたイコンが素晴らしいです。
ビザンティン美術館は、聖ヨハネ教会のすぐ後ろにあり9~18世紀にかけてのイコンのコレクションが特に有名。美術館には絵画や地図、リトグラフなどが展示されています が撮影禁止でした。

ヒロキティア(Choirokoitia)
新石器時代に形成された農耕民族の集落の跡で、東地中海で最も価値のある遺産のひとつに数えられます。ラルナカから西へ約30Km、キプロス南部の海岸に近い山麓の川沿いに位置しています。住居跡には直径2,3mから、10mにまで及ぶ円形の住居基台が多く残っており、かつてこの上に円筒状の住居があったことを物語っています。日干しレンガで作られた壁には塗装の跡が見られるほか、集落の周辺には外壁があった形跡もあります。狩猟、農耕、家畜の飼育が行われていたと共に、埋葬の習慣があったことも確認できます。

キプロス共和国は、トルコの南の東地中海に浮かぶキプロス島一島からなる島国で、地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで3番目に大きい島です。長さ240Km、幅100Km、四国の約半分ほどの大きさしかありませんが、そこにはこの国の歴史を物語る文化的建造物や数々の遺跡、アフロディーテ誕生の伝説を生んだ場所など、驚くほど多くの観光資源に恵まれています。キプロス共和国はギリシャ系住民がほとんどを占め、ギリシャよりの政治や文化を持つ。一方でオスマン帝国時代に移住したトルコ系住民たちは北部に集中し、トルコの海外領地のような形で「北キプロス・トルコ共和国」として1983年に一方的に独立を宣言していますが、「北キプロス・トルコ共和国」を認めているのはトルコだけであり、EUに加盟しているのはキプロス共和国だけです。このため,キプロス島北部地域(上記の地図で緑の境界線で示された面積の約1/3)にはキプロス政府の実効的な支配が及んでいません。観光客を含むすべての人々の「北キプロス」への入域を認めていますが,日本を含む各国は現在も「北キプロス」の独立を承認していないため,「北キプロス」地域内で邦人保護等の公的な活動ができないなど観光上での注意が必要な地域ですので、今回の旅行では遠慮しました。

マルタ騎士団長の宮殿と兵器庫
現在は大統領府や、政府機関として使用されているが、往時、イタリア出身の騎士たちのグループのオーベルジュ(騎士団宿舎)を買い取り、拡張した上で騎士団長宮殿としたそうです。見学できる内部にはペレロス騎士団長が私費を投じて織らしたアフリカ、インドなどの風物をみせるタペストリーや大包囲戦(グレートシージ)の名場面を描いた欄間絵などは一見に値します。廊下に置かれた中世の甲冑も雰囲気があります。

グランドハーバーの全景、左からヴィットリーオーザ、セングレア
金で塗装された豪華絢爛な大聖堂の主祭壇(上)
カラヴァッジォ作「聖ヒエロニムス」の絵がある廊下と拡大した絵画(右)
一番豪華なフランス礼拝堂(下)
セングレア

8日目(11月25日)

英連邦海軍基地
ヴィットリオーザから隣町、カルカーラの英連邦海軍基地にある大日本帝国第二特務艦隊戦死者の碑には、第一次世界大戦時に地中海で命を落とした海軍兵が祭られています。当時、英国の軍事基地があったマルタは、ドイツのUボート(潜水艦)に海上封鎖されて物資不足に陥るなど、困窮していました。そのため、英国のチャーチル首相は、同盟関係にあった日本に援軍を要請しました。日本海軍は、直ちに駆逐艦隊の派遣を決め、巡洋艦「明石」を旗艦とする8隻が出撃1917年6月11日のUボートとの激戦で、駆逐艦「榊」が大破、乗組員など計71人が戦死しました。。

ジュガンティーヤ神殿、
マルタ語で巨人の塔を意味する「ジュガンティーヤ神殿」は、紀元前3600年頃に建設が始まった全長6m、重さ約20トンの石で構築されており圧倒されます。伝説の通り、まさに巨人女性サンスーナが造った神殿といえるようです。 マルタに現存する神殿群の中で、また世界的にも一番古いといわれるこの神殿は、世界遺産にも登録されています。

リマソル(Limassol)、
キプロス第2の都市で、最大の規模を誇る港がある商業地域でもあり、海岸沿いに大型ホテルやレストラン、エンタテイメントには事欠かないリゾート地です。時差もあり早く目覚めましたので海岸での日の出散策に行きました。温暖な地中海なので早朝水泳を楽しむ人も多くいました。

キプロス考古学博物館
キプロスの歴史と文化を深く知る上で欠かせないニコシアにある博物館。紀元前5800年の新石器時代から、ビザンチン前期までのキプロスの貴重なコレクションが展示されています。特にテラコッタのフィギュア・コレクションは一見の価値があります。

聖ヨハネ大聖堂
大聖堂は、城塞都市ヴァレッタが誕生後の1573年に着工、1577年に完成しました。キリスト12使徒の1人聖ヨハネを称えるために町の富裕層から寄付を募って建てられた大聖堂です。内部は当時の栄華がしのばれる豪華絢爛な装飾が施されています。聖堂の床は騎士たちの墓所となっていて畳一畳よりやや小さめの大理石の板が敷かれており(その数約400)、そこにラテン語で墓碑銘や絵が描かれています。聖堂の側面は騎士団を構成する八つのグループ(出身地の母国語別に、プロバンス、オーベルニュ、フランス、イタリア、ドイツ、イングランド、アラゴン、カスティーリャ&ポルトガルの8語族)のそれぞれの礼拝堂があり、正面には主祭壇があります。主聖堂に付属する美術館では、ローマで活躍した天才画家カラヴァッジォが残した傑作「聖ヨハネの斬首」と「聖ヒエロニムス」が、その中でも特に有名です。館内は撮影禁止ですが「聖ヒエロニムス」は大聖堂にレプリカがありました。

首相官邸
聖ヨハネ騎士団の騎士たちはその出身地域によってグループ(「ラング」と呼ばれる)を作り、各ラングはそれぞれの騎士団宿舎(オーベルジュ)を持っていました。1574年に建設されたカスティーリャとポルトガルの出身者のオーベルジュが、今の首相官邸で18世紀に現在の姿に改築されました。入り口上部に騎士団長の胸像があります。大きな大砲2門が騎士団宿舎の面影を留めています。

ヴィットリーオーザ
リパブリック通り
街の中心を真っ直ぐ延びるのは、ヴァレッタのメインストリート、リパブリック通りです。シベラス半島の先端にある聖エルモ砦まで延びています。通りの両側にレストラン、ブティック、土産物店、映画館などがあり、人通りが絶えません。折しも英国連邦会議を控えて街中にはマルタ国旗とユニオン・ジャックが旗めいていました。イギリスの建築家の手で1866年に建てられたオペラハウスは、第2次世界大戦時にドイツ・イタリア軍の空爆で破壊され、廃墟と化しましたが現在再建中でした。
カラヴァッジォ作「聖ヒエロニムス」がある廊下
マルサシュロック
ヴィクトリア広場
宿泊したウェスティン・ドラゴナーラリゾート・ホテル。ホテル内にあるウェスティン・ドラゴナーラ・カジノは元貴族のパラッゾパリジオ宮殿で19世紀に建造され、プチ・ヴェルサイユ宮殿といわれナポレオンが滞在したこともあるとか
マルタ国際空港から宿泊地のセント・ジュリアンに向かいます。
マルタ共和国(Maluta)
シチリアの南に93Km、アフリカの北へ288Km、マルタの群島はまさに地中海の中心に位置しています。群島は3つの島から成ります。マルタ、ゴゾおよびコミノは、面積316平方Km(淡路島の約半分)に人口約40万人のイギリス連邦に属する共和国です。十字軍遠征において重要な役割を果たした聖ヨハネ騎士団がイスラエル、ギリシャのロードス島を経てマルタに拠点を移したのが1530年。それからマルタ騎士団と呼ばれるようになりオスマン帝国との間に攻防戦を繰り広げられた。イギリス支配下の第二次世界大戦中には、イギリス海軍の拠点としてイタリアと北アフリカとを結ぶ枢軸国側の輸送路を脅かす存在となったために空襲に晒されたが陥落することはなかった。戦時下の国民の努力と忍耐を讃えイギリス国王ジョージ6世は「マルタの国と国民全て」を対象に「ジョージ十字勲章」を授与した。その十字勲章は現在のマルタ国旗に描かれています。首都バレッタは、この時のマルタ騎士団の団長ジャン・ド・ヴァレットの名前に因んでいます。
クリオンの古代遺跡
紀元前14~13世紀、ギリシアのペロポネソス半島から渡ってきたアカイア人の植民都市として発展した場所で考古学上、重要な遺跡の数々が残されています。ローマ式野外劇場は紀元前2世紀に造られたものですが、紀元後1世紀に地震で崩れ、2世紀に再建されました。
パフォス城
パフォスの港を守るためのビザンチン時代の砦で、13世紀に城として再建されました。その後1570年にベネチア共和国により破壊されましたが、オスマン帝国時代に再々建されました。中には何もありませんが屋上から、パフォス港と市内が見渡せました。
キッコー修道院、
キッコー修道院は、キプロスで最もよく知られていて、人気のある修道院です。ビザンチン皇帝アレクシオス1世コムネノスが11世紀末に建てたものでキプロスで最も贅沢な作りとも言われていますが、数度の火災に見舞われたため現在の建物は19~20世紀に再建されたものです。 ぺドゥーラスという町からそれ程遠くない、美しいトロードス山地の海抜1318m地点にありますが、門前はすっかり俗化されています。そうは言っても、そこはキプロスを代表する修道院、男女とも肌が露出した服では入れないので、必要なら入口で貸衣装の服を借りて入場します。私達も記念撮影の為に衣装を着てみました。博物館は5ユーロ.中は撮影禁止どころか,受付でカメラを預けなければならない厳しさです。
滞在したホテル
コゾ大聖堂、
シタデルの要塞の中に立つ大聖堂は、城塞を入った正面に建っています。小さな聖堂が地震で崩壊し、1697年から1711年にかけて再建されました。設計は大城塞と同じロレンツォ・ガッフォが担当。建物はシタデルと同じ石材です。ラテン十字形式のバロック建築で、大聖堂の後に5つの鐘を持つ高い鐘架があります。外観はシンプルな造りだが、内部は赤とゴールドのきらびやかな装飾が施されています。建築当時は天井にドームを造る予定だったが、資金不足で造ることができなくなり、苦肉の策として中からみると天井がドーム型にみえる様、だまし絵を施した。外から見ると屋根がドーム形になっていないのが一目瞭然である。360教会があるといわれているマルタで、だまし絵がみられるのはこのゴゾ大聖堂だけですが、訪れた時は工事中で入館者ができませんでした。
タピーヌ教会、
マルタ・ストーンの外観が陽光を浴びて鮮やかな高い鐘楼を持つ重厚な建物の教会です。教会には農婦と聖母マリアの伝説があり、バチカンも認めるカトリックの聖地になっています。もともとは16世紀、農村に建てられた小さな教会でしたが1883年に1人の農婦が聖母マリアの声を聞き、人々の病気を治したと言われて以来、次々に奇跡が起こるようになり、口コミで広がり海外からも巡礼者が訪れるようになったとか。現在の教会は、信者たちの寄進で1931年に完成しました。ローマ法王の故ヨハネパウロ2世も訪れたそうです。
ヴァレッタの眺め
ギリシャ神話の海の神トリトンの噴水がある前のバスターミナルから空港に向かい帰国です。

9日目(11月26日)

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旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

成田に帰国

宮殿前のパレス広場
ディオニュソス館

レフコシア(ニコシア)Lefkosia、
9000年に及ぶ長い歴史を誇り、紀元前11世紀に島の首都となりました。ニコシアと言う外名は十字軍によって用いられたもので地元ではレフコシアと呼ばれ南北キプロス両方の首都となっています。ヴェネツィア時代の城壁と砦に囲まれた旧市街は、現在でも旧市街には当時の町並みが残されています。

アズールウィンドー、
小舟に乗ってインランドシーを抜けた先には地中海が一面に広がるアズールウィンドーは、数千年の風と波の浸食によって作られた、高さ20m、幅100m、奥行き40mの自然の美しいアーチです。近い将来崩れてしまうと言われています。波が高い日には小舟のボート観光は出来ませんが、今日は、OKなので一人4ユーロでボートにのり、洞窟をを潜り抜けると、アズール・ウィンドーがあるドウェイラ湾に出ます。ボートは浸食作用によってできた色々な洞窟を出たり入ったり。行き止まりの洞窟もあり、その度に奇岩が迫り、海面が多彩な表情を見せます。外海に出ると風で海面がうねっていました。
セングレア半島の先端の海に突き出やにある監視塔(ヴェデッテ)
監視塔の耳の彫刻
ゴゾ島から3Km先のコミノ島の青く透きとおるブルー・ラグーン
 ゴゾ島の名産の手編みレース工房

3日目(11月20日)

今日の観光を終えてキプロスで滞在するホテルのあるリマソルへ移動しました。
首相官邸
カラフルなマルタ伝統の漁船ルッツには。青や黄、赤色で塗装された船体の舳先に、一対の目玉が描かれているのが特徴です。カラフルな船が港を埋めるように浮かんでいました。ブルーの部分が多いのは、聖母マリアの色だからとか。目玉はその昔、フェニキア人が伝えた魔除け「オシリスの目」だそうです描かれている目は、つり目、垂れ目と色々、、、
アポロ神殿
リマソルのクリオン遺跡より西へ3Kmのところに、神殿とその聖域の遺跡があります。紀元前8世紀~紀元4世紀に、森の神アポロはクリオンの守護神として信仰され、ここに祭られていました。
パレパフォス博物館
アフロディーテの石
テセウスの館跡
ミノタウロスを退治するテセウスのモザイク

聖ヨゼフ教会
聖ヨゼフ教会には、大包囲戦を指揮したヴァレット団長の剣や帽子が展示され、また、ヴィクトリア広場に面して騎士団の部隊宿舎(オーベルジュ)が残っています。宿舎の前に建つのは、グレート・シージの勝利を記念した塔もあります。

スリーシティーズ(Three Cities)
スリーシティーズは、ヴァレッタの街の対岸にあるヴィットリオーザ、セングレア、コスピークアの3つの城壁に囲まれた街の総称です。ヴィットリオーザは1530年にロードス島を追われた騎士団が礎を築いた場所で1571年にヴァレッタに本拠が移るまで、マルタにおける聖ヨハネ騎士団の拠点であり、マルタの首都ヴァレッタより古い歴史を有しています。コスピークワの聖母マリア懐胎教会の前からヴィットリオーザ側のコラッチオと呼ばれる騎士団の宿舎として利用されたオーベルジュと古い街並みが残るエリアを通って先端の聖アンジェロ砦まで散策します。グランドハーバーを挟んでヴァレッタの景観を楽しむことが出来るエリアです。

6日目(11月23日)

今日は、スリーシティーズ、マルサシュロック、古都イムディーナ・ラバトの観光です。
今朝も、リマソル海岸で地中海の日の出散策に行きました。今日は、リマソルからパフォスにかけてキプロス島南岸沿いの観光です。
聖ニコラウス教会
カコペトゥリア村の北約5Kmにある積み石造りの教会で、特徴的な屋根を持つことから「屋根の聖堂」と呼ばれています。ここには、11世紀から17世紀にかけての保存状態の良い壁画が残り、中でも「セパステの40人の殉職者」は、厳格な古典派様式の特徴を良く表していますが撮影禁止です。またカコペトゥリア村には、保護地区に指定されている、昔ながらの佇まいが残る地区があり、伝統色豊な家並みが復元されています。
写真左側の壁からが北キプロス支配地域
ヴィクトリア(ラバト)Victoria(Rabat)、
ゴゾ島の中心で、島の中央に位置する賑わうゴゾ島唯一の街です。地元ではラバトと呼ばれ青銅時代からの歴史を持つ街です。街の一角にある小高いシタデルからは360度の眺望が広がります。
マルサシュロック
マルタ島の東はずれに位置する天然の良港で、マルタ島最大の漁村で、カラフルな漁船と日曜市で人気の観光地ですが、時代の節目、節目に登場する歴史の場所でもあります。近年ではブッシュ大統領とゴルバチョフ大統領が冷戦終結を宣言したマルタ会議が行われたのもこの海上でした。
蜂蜜色が陽光に映える城門を入ると、旧騎士団長ヴィレーナ邸だった国立自然科学博物館などがあります。
パフォスのモザイク
港の近くのカトパフォスにあるディオニュソス、テセウス、エイオン館は、非常に精巧なモザイク画があることで有名。その美しさは東地中海の中でも指折りです。

1日目(11月18日)

ゴゾ島のイムジャール港
広場を降りたところに、聖アンジェロ砦に通じる海の門があります。その横に建つのは海事博物館

グリーンライン
キプロスは元は一つの国でしたが現在は南北に分断され、南は主にギリシャ系のキリスト教徒が、北側はほとんどがトルコ系のイスラム教徒が住んでいます。両者を隔てるのは、コンクリートの壁や鉄条網に囲まれ、国連平和維持軍が駐留する緩衝地帯「グリーンライン」です。180キロにわたって東西に走り、南北双方が首都とするニコシアのど真ん中を通ります。90年代までは武力衝突もあった状況はすっかり変わり、近年は緊張緩和が進み2008年の4月には首都の目抜き通り「レドラ通り」の封鎖が解除され、南北の間を歩いて渡れるようになりました。

今日は、まったくの移動日です。成田空港からエミレーツ航空でドバイ経由でキプロスの空の玄関口ラルナカに向います。

海沿いのの道をセングレアを左手に見ながら進むと聖アンジェロ砦がヴィットリオーザの先端にあります。対岸のセングレア半島の先端には、海に突き出たヴェデッテと呼ばれる監視塔があります。この監視塔には監視の象徴として目、耳、鳥の彫刻が施されています。
エウストリオスの家
クリオンの野外劇場隣のエウストリオスの家は大地震の後に造られた公衆浴場跡です。7世紀に破壊されてしまいましたがサウナや休憩室や釜戸や床のモザイクが残されいます。
ポディトゥ教会
ガラタ村にある1502年に建立されたこの教会では、イタリア=ビザンチン様式の壁画を見ることができますが撮影禁止です。
ヴァレッタ(Valleta)、
マルタ共和国の首都で街全体が世界遺産です。この街が建設されるのは1565年に行われたオスマントルコ軍による「グレートシージ(大包囲)」の経験から、難攻不落の都市となるよう設計され、建設されました。完成は1571年。ヴァレッタという名前は、当時のマルタ騎士団長であり、街の完成に尽くしたジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットから名付けられました。大包囲以前から存在した聖エルモ要塞を加え、街全体が要塞となっています。市内には大統領府などマルタ共和国の政治機能が集まっています。
今日は、旅の最終日、ヴァレッタ市内観光を終えてからドバイ経由で帰国です。バスで宿泊したセント・ジュリアンから海岸沿いにヴァレッタ市街を見ながら進みます。
カルカーラから眺めたヴィットリオーザ

ファマグスタ門,
16世紀のベネチア時代のニコシアは城壁と砦に囲まれており、かつて市内へ入るための3つの門として建てられたうちの最大のもので幅が45mもあるベネチア時代の遺構です。現在は門として通り抜けは出来ず、カルチャーセンターとして使用されています。そこから城壁に沿って南西方向に坂を上がると左側に自由の記念像があります。自由の女神のような人が閉ざされた門を開けさせて、中から市民を脱出させている。そんな光景を現しているのでしょうか?

2日目(11月19日)

キプロスの首都はレフコシア(ニコシア)ですが、飛行機利用で入国するとラルナカ国際空港に着きます。この街は玄関口であるとともに海に面したリゾート地です。ここから最初にレフコシア市内観光にいきますが、途中に見えるトルコ領内の山には「北キプロス・トルコ共和国」の国旗が描かれていますし、街中には配備された国連軍(UN)の車両が走っているのを見ると現在は平穏ですが、紛争地域だなとの緊張感を感じます。

コロッシ城
レメソスからパフォスに向かう途中にある。この城は13世に建築され、現在のような風采を備えたのは15世紀半ばだそうだ。十字軍遠征の際、教会騎士団の本拠地として3階建ての2階部分に入口があり、跳ね橋を通り内部や屋上にも上る事ができる構造は典型的な軍事用の城です。

5日目(11月22日)

今日は、リマソルから途中にあるヒロキティアの遺跡に寄ってから、ラルナカ空港からキプロス島を離れてマルタ島に向かいます。
シタデル
ゴゾ島の中心、ヴィクトリアにそびえたつ要塞。今では美しいゴゾの景観を楽しむビューポイントの1つとなっているが、1551年ゴゾ島が海賊に襲われ、多くの島民が連れ去られた。シタデルは侵略の際の避難場所、攻防の場所としての役割を果たしたという、悲しい歴史背景のある場所でもある。。
現在も発掘調査が続くアマサスの古代遺跡

イムディーナの大聖堂
イムディーナの町でひときわ目立つ大聖堂は、町の中心的建造物である。伝説によると、4世紀に聖パウロの祈りにより、病の床に伏した父を救われた事からキリスト教に改宗し、マルタ最初の司祭となった聖パブリウスの家の跡地に、聖母にささげるため建築されたマルタで最初の聖堂です。その後、聖堂は9世紀イスラム教支配下の時代に破壊されたが、13世紀ノルマン人支配下の時代に聖パウロに捧げる大聖堂として再建されました。その後も何度も修復、拡張が繰りかえされてきたものの、1693年にマルタを襲った大地震で聖具室と内陣席を除きほぼ全壊。現在の大聖堂は1702年にマルタの建築家ロレンツォ・ガファによって再建されたものです。教会内部はヴァレッタの聖ヨハネ大聖堂に比べると規模も小さく華やかな装飾が施されているわけではないが、荘厳な気持ちになる空間が広がっています。

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