9日目(3月23日)

ゴリツァ地区の眺望
まず最初にセルビアの首都ベオグラードから最初の訪問地であるセルビア第2の都市ノヴィ・サドにバスで向かいます。
サミュエル要塞
10世紀末から11世紀の初めにブルガリア帝国の皇帝でオフリドを首都に定めたサミュエルによって建てられたものでマケドニアで最も保存状態がよい要塞です。ここからは街全体と湖を望むことができます。
国立歴史博物館
公園の片隅にあるトーチカ
城壁の途中にある聖母教会からのパノラマ
事件現場を表すプレート
オーストリア・ハンガリー帝国時代の旧市庁舎
バシチャルシア
旧市街の中心にある職人街でセビリと呼ばれる水飲み場のある広場や、赤煉瓦の古い家屋が軒を連ねて中近東の雰囲気が漂う観光名所
水飲み場のある広場
宿泊したネレトヴァ川沿いにあるHotel Bristolのバルコニーから内戦時の砲弾跡が残る建物もみえました。
1868年建立のセビリア正教会
1531年建立のガジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤ
1555年建設の海の門
サラエボの観光を終えてネレトヴァ川沿いにモスタルに向かいます。
今日は、モスタルから国境を越えてモンテネグロのコトル、ブドヴァに寄って観光後にポドゴリツァに向かいます。
モンテネグロへ
モンテネグロは2006年6月にセルビア・モンテネグロから分離独立した国です。南東ヨーロッパはバルカン半島のアドリア海沿いに位置し、北はセルビア、北西はクロアチアと国境を接しています。緑深い山々をイタリアのヴェネツィア方言で「黒い山」(モンテネグロ)とたとえたのが国名の由来となるとても小さな国ですが、観光資源が豊富な国です。
コトルはその湾の最も奥にいちしていますので、湾をショートカットするため途中カーフェリーを利用します。
聖トリプン大聖堂
聖ニコラス教会
城壁の途中にある聖母教会

プリシュティナ(Prishtina)
ここはコソボ共和国の首都ですが、町の南からビル・クリントン通りを進むとビルの壁に大きなビル・クリントンの写真が、その下には実物大の銅像そして通りに面してヒラリーの店が、ジョージ・ブッシュ通りとの角に立つのはマザー・テレサ大聖堂です。通りの名が歴代アメリカ大統領と言うのは、独立支援やNATOのセルビア空爆時の大統領がクリントンだったのでアメリカびいきなのでしょうが、スゴイ事です。
ブッシュ通りの先が町の中心地マザー・テレサ大通りで歩行者専用道です。この北側にある旧市街にはオスマン朝時代のイスラム建物が非常に多く残り、1461年に建てられたファーティヒ・ジャーミアなど歴史あるモスクや19世紀に建てられた高さ15mの時計塔などがあります。オスマン朝時代のイスラム建築や社会主義時代の巨大建築物、そして没個性的な近年の建物が奇妙に交じり合い独特な雰囲気がある町です。

1461年に建てられたファーティヒ・ジャーミアはドームの長さが15.5mもある町で最大のモスク
コソボ共和国
2008年にセルビアから独立を宣言したヨーロッパで最も若い国です。岐阜県ほどの大きさで、周りを様々な国々に取り囲まれています。コソボ紛争のイメージが強くなっていますが、最近では復興も進み、少しずつではありますがこの国の豊かな文化遺産と自然に注目が集まりつつあります。世界遺産に登録されている4つの修道院、教会をめぐっての対立は、現在NATOのKFOR(Kosovo Force, コソボ治安維持部隊)によって警備されています。セルビア人にとっては中世セルビア王国の中核であり、自分たちのルーツともいわれるほど大切な文化遺産と想われています。また、アルバニア人にとっても600年にわたり生活を営んできた先祖伝来の土地であり、町には今も多く残るイスラム建築は、彼らが連綿とと続けてきた生活の証明でもあります。このような複雑な重層的な歴史・民族問題がコソヴォにはあります。

モクラ・ゴラ(Mokra Gora)
ボスニアとの国境近くの、モクラ・ゴラはセルビアを代表する旧ユーゴスラビアの狭軌(760mm)の保存鉄道シャルガンスカ・オスミツァの発着地です。旧ユーゴスラビアの鉄道網で、ベオグラードからサラエボを経てドブロブニクへ行く路線の一部ですが、この路線は、廃線となりました。しかし、山越えの8の字ループを含む山岳路線部分が修復され特別の場合にのみ運転されているそうです。

セルビア共和国、
かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であったが1980年にチトーが亡くなると、民族対立や、地域の経済格差が顕在化しました。その結果1991年にはクロアチア、スロベニア、マケドニア共和国が、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアから独立しました。ユーゴスラビア解体に伴って発生したクロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争等をへてモンテネグロが2005年に独立を宣言し、モンテネグロの独立によって、第2次世界大戦後にスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6共和国で誕生したユーゴスラビア連邦は完全に解体しました。更に2008年にはセルビアの自治州のコソボが独立を宣言しました。またユーゴスラビア時代の中心であったことから、まだまだ戦争の爪痕ものこっていますが、ローマ時代の遺跡、文化的史跡など観光資源は豊かな国です。

バルカン6ヵ国10日間

今日は、コソボにある残り3つの世界遺産を見学してから夜の便で帰国です。

6日目(3月20日)

モンテネグロのポドゴリツァから車で約30分ほどでアルバニアとの国境を越えてティラナ観光後にベラートに向かいます。

今日は、まったくの移動日です。成田空港からトルコ航空でイスタンブール経由でセルビアの首都ベオグラードに向います。

1日目(3月15日)

チャニ(Decani)の修道院
ペーチの南15kmにあるセルビア正教会の修道院です。。中世セルビアの王ステファン・ウロシュ3世デチャンスキの命で1327年に建設を始め8年で完成したといわれています。国王の名前「デチャンスキ」も、この修道院の立っている場所デチャニに因んでいます。修道院内の大聖堂は、ビザンチン美術における現存最大のフレスコ画が残り、中世に建てられたものとしてはバルカン半島最大の教会堂であります。この内部のフレスコ画は15年かけて作られたといわれており、1000人を超える聖人が壁画に描かれていて、その保存状態も非常に良いのですが撮影禁止でした。アルバニア人居住地区にある世界遺産のセルビア正教の修道院なので、現在もNATOのKFOR(Kosovo Force, コソボ治安維持部隊)によって警備されています。
これで、全ての観光を終えて夜間便でプリシュティナからイスタンブール経由で帰国です。
チャルシャ・ジャーミアとコソボ博物館
19世紀に建てられた高さ15mの時計塔
マザー・テレサ大聖堂
スィナン・パシャ・ジャミーア
フェリザイの町
マザー・テレサ記念館
アルバニア系カトリックの家庭に生まれ、18歳まで住んでいたという小さく家の跡地のモニュメントを過ぎた先に、彼女の業績を記念するために2009年開館しました。内部には彼女の写真、身の回り品、ノーベル平和賞などが展示されています。
マケドニア門
マンガレム地区の眺望
アルバニア共和国
共産主義時代に鎖国政策をとってきたため、ヨーロッパでもミステリアスな国といわれています。いくつもの部族に分かれ、統一国家をもたなかったために歴史を通じて常に大国の支配を受け続けてきました。第2次大戦後に社会主義国としての歩みを始めましたが、極端な軍事政策を取り、国内全土にコンクリート製のトーチカを大量に建設し、国内の武装体制を強めました。約50万個以上のトーチカが建設され、現在でも国内に僅かに残っています。1990年の市場経済の導入、1997年の経済破綻などから10数年、まだまだインフラは十分整っていませんが、ローマ時代の遺跡や美しい自然が残る国です。

7日目(3月21日)

今日は、アルバニアのベラートからマケドニアとの国境を越えてオフリドの観光後にスコピエに向かいます。
ローマのコンスタンティヌス帝の石像
グランド・ホワイト・シティー・ホテル

ベラート(Berat)
アルバニアの中央、標高2400mのトモリ山麓にあり、小窓の多い家屋が傾斜沿いに所狭しと並んでいる事からベラートは「千の窓の街」ともいわれています。丘の斜面に古い家々が連なり、オスマントルコ時代のる美しい窓枠が沢山並ぶ世界遺産の町並みです。到着後、すぐにホテルにチェックインしてから最初にベラート城の観光です。

スカンデルベク広場

ポドゴリツァ(Podgorica)は、モンテネグロの事実上の首都(憲法上はツェティニェ)、同国最大の都市で歴史はローマ時代以前にさかのぼりますが、第二次世界大戦で街の多くは破壊されたため見所もあまりなく、現在は国内交通網の中心地です。私達も単に宿泊しただけでした。

ブドヴァ(Budva)
城壁に囲まれた旧市街は規模が小さく、教会が集まる広場の近くには城塞もあり今なお中世の雰囲気が漂います。旧市街の建築物の大半は、ヴェネツィア共和国時代のものでヴェネツィアのローマ様式をとどめています。長さ600mの砂浜が続くモンテネグロ屈指のリゾート地ですが、近年ロシア資本の開発が無秩序に進み景観が失われているのが残念です。

モスタル(Mostar)
モスタルは90年代激しい内戦の舞台となった街で、16世紀オスマン帝国の時代に建設された白い古橋(スターリ・モスト)は街のシンボルでしたが、紛争中の1993年11月に破壊され、ユネスコの協力で2004年に修復され平和の象徴として世界遺産に登録されました。橋周辺を歩くと、トルココーヒーや銅板細工の土産物が並び、今もトルコ時代の面影を見ることができます。街には内戦時の銃弾の跡が、いまでも多く残る街です。

4日目(3月18日)

サラエボ(Sarajevo)
首都のサラエボは巨大な近代都市で文化の中心地でもあります。1914年に、ここはオーストリア帝位継承者の暗殺事件の現場となり、この事件によって第一次世界大戦が引き起こされました。サラエボでオリンピックが開かれたのは19844年冬季。そこから7年後の1991年からユーゴスラビアから独立を唱える国と、セルビア主導の連邦軍との戦争で1万人もの犠牲者がでています。街には戦争の爪痕が残るものの復旧も進み、オスマン時代から中心であった地域にはオリエントな雰囲気が残り活気にみちています。

ヴィシェグラード(Visegrad)
ヴィシェグラードはセルビアとの国境近くのドリナ川の右岸に位置し、周囲は森や山地に囲まれている小さな町です。ユーゴスラビアの作家・詩人・外交官であるイヴォ・アンドリッチの代表作である小説「ドリナの橋」の舞台であることから有名です。彼は、この「ドリナの橋」でノーベル文学賞受賞を受賞しました。

ボスニア・ヘルツェゴビナ
ボスニア・ヘルツェゴビナは、東ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置するボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国のふたつの構成体からなる連邦国家です。首都はサラエボ。 ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側2辺をクロアチア、南側1辺をセルビア、モンテネグロと接する。国土の中央部をディナル・アルプス山脈が走り、2,000m級の峰々が連なる山地の多い国です。北部をボスニア地方、南部をヘルツェゴビナ地方と呼ばれています。長い間オスマン帝国の支配下にあったためトルコの文化的影響が強く、東西の要素が交じり合う魅力がありますが、文化の衝突は時に戦乱の原因となり、勢力に翻弄され続けてきた地域でもありましたが、混乱を乗り越えて新たな道を歩み始めています。
国境を越えて

カレメグダン要塞
首都ベオグラードに現存する要塞。ちょうどサヴァ川とドナウ川の合流する丘に築かれたこの要塞のはじまりは紀元前4世紀ともいわれております。昔から口中の要所ということもあり、幾度と無く戦火に巻き込まれた街ですが、この要塞だけはその長い歴史を感じさせます。要塞内の軍事博物館周辺には多くの武器が野外展示されています。

クネズ・ミロシュ通り
国会議事堂から南西に延びる通りには官公庁の建物が多く、そのために1999年のNATOによる空爆の際には、標的になり破壊されて、いまだに破壊された姿で残っています。通りは別名「空爆通り」とも呼ばれています。

ベオグラード(Beograd)
ヨーロッパ最古の町の一つで、古くから西欧と東欧の道が交わる重要な交差点でした。町は国際的な水路であるサバ川とドナウ河の合流地点にあり、二方から川に囲まれている交通の要所でもあります。ケルト人やローマ人、スラブ人など様々な民族がこの地で文化を築いてきました。地形上、戦略的拠点として、古代より現代までの間に140回にわたって戦いの場となった。20世紀になると、この地で第一次世界大戦が勃発してベオグラードはまたも破壊されましたがユーゴスラビア時代の首都であったことから巨大で大きな街です。

マザー・テレサ像
聖ソフィア大聖堂
11世紀に建てられたマケドニア正教を代表する大聖堂だったがオスマン朝支配の時代には イスラム寺院に転用されましたが第二次世界大戦後に再びキリスト教にもどった教会です。
オスマン朝時代の赤いミナレット

ノヴィ・サド(Novi Sad)
ベオグラードに続くセルビア第2の都市ですが、人口は1/4と少なくのんびりとした印象の街です。オーストリア・ハンガリー帝国の時代、ドナウ河右岸に1692年から1780年の間にかけて、ペトロバラディン要塞が築かれ、ヨーロッパでも有数の砦になりました。この町は要塞で働いていた熟練した商人や腕利きの職人たちによって建設され12人の軍人と12人のパン職人、肉屋、その他の職人が町の創設者として記録されています。1746年に富裕なノヴィ・サド市民がオーストリア・ハンガリー帝国のマリア・テレジア女帝から帝国自由都市の権利を買い取って以来、自由と独立がこの町の礎となり、これをもとに経済と文化が繁栄し20もの多民族が暮らす町になりました。

ベラートの街のパノラマを背景に新婚カップルが撮影に来ていました
考古学博物館
ティラナ大学
ペトロバラディン要塞
ドナウ川沿いに残る要塞
ペーチ総主教修道院
セルビア正教の修道院で13世紀にブルガリア帝国の脅威にさらされたことで、より山深く安全なこの場所に大主教座が移ってきました。1346年にセルビア正教会がコンスタンティノーブルの総主教座から独立したことでペーチ修道院も大主教座から格上の総主教座になりました。修道院内の3つの教会はつながつており、真ん中の聖使徒教会が最古の物です。

スコピエ(Skopje)
スコピエはマケドニアの首都で、アルバニア人のマザー・テレサが18歳まで住んでいたということで有名ですが、特に主立って紹介できるものはないのですが旧共産主義的な無機質な建物が立ち並ぶ雑然とした奇妙な街です。自国の経済規模ではありえないような街づくりをして街中に銅像があり、その銅像一つ一つに名前が書いてあるわけではないので、どういった歴史を持つ人物なのかは分りません。アレクサンダー大王と、マザー・テレサの銅像は判断がつきましたが、それ以外は殆ど国が観光客を誘致するために適当に作ったらしいとの事です。パリの凱旋門に似たマケドニア門もあり、道路には赤色のロンドンバスも走る観光客誘致とは言え奇妙な印象の街でした。

8日目(3月22日)

ムスタファ・パシナ・ジャミーヤ
聖スパス教会
オールド・バザール

3日目(3月17日)

今日は、セルビアの首都ベオグラードから南下して満開の桜やアーモンドの花を見ながらチャチャク、ウジツェを経て国境近くのモクラ・ゴラからボスニア・ヘルツェゴビナのヴィシェグラードに向かいます。
マケドニア自治独立闘争博物館
考古学博物館
聖ヨハネ・カネオ教会
オフリド湖を望むヨハネカネヨ岬の先端に立つ教会で、10世紀頃に建てられギリシャ正十字の形をした小さくてかわいらしい外観と立地のよさでオフリドのシンボルルともいえる教会ですが、内部の保存状態は良くなく、外見のみの見学です。
橋のたもとのサラエボ博物館
1557年建立のカラジョズ・ベゴヴァ・ジャミーヤ
第2世界大戦後に誕生した旧ユーゴスラビア連邦は、「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された複雑な連邦国家を維持出来たのはチトー大統領と言うカリスマがいた間だけでした。今も起きている中東の国家の崩壊と難民問題に見られる様に、それまでは平和に共住していた他民族を追い出し、殺りくし、恭順を強いる「民族浄化」と呼ばれる負のプロセスを経てスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、コソヴォの7共和国に2008年までに完全に独立・解体されました。
今回の旅は、6年前の2010年にスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロの北部4か国を訪れていますので主に南部3か国とアルバニアの旅です。
スカンデルベグ像
国立劇場
ジャミーア・エトヘム・ベウト
スカンデルベグ広場に建つモスクで、建設は1789年にモッラ・ベイによって始まり、1823年にスレイマン・バルグジニの曾孫であるハッジ・エトヘム・ベイによって完成された。建物には外壁のフレスコ画や木、滝、橋を描いた絵画等のユニークなイスラム芸術の作品が見られます。無神論国家を唱えたアルバニア社会主義人民共和国の時代には、このモスクは閉鎖されましたが、1991年にはアルバニアに於ける信教の自由の復活の礎となりました。
街の中心は市庁舎やカトリック大聖堂が建つスロボダ広場です。
グラチャニツァ修道院
プリシュティーナの東10Kmのセルビア人村にある修道院で1321年にステファン・ウロシュ2世ミルティンにより建てられました。彼はビザンツ帝国の皇女と結婚したことから、この地にビザンツ文化がもたらされ、修道院もビザンツ様式で建てられています。今回、水球のナショナルチームの選手達が参詣訪問したのに偶然遭遇したため、大勢の人で道路も修道院も大混雑、しばらく待ってからの拝観でした。
聖クリメント大聖堂
1990年建立された外観や内装、イコンが従来の様式にとらわれない斬新なデザインのユニークな教会です。
街の南北を結ぶオスマン朝時代の石橋(カメン・モスト)の北側には巨大な建物が並びます。
マケドニアとの国境近くの山岳地帯には、共産主義時代の極端な軍事政策で造ったトーチカが多く見られます。
マンガレム地区の眺望

10日目(3月24日)

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旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

成田に帰国

旧市街から南に進み、町の中心地マザー・テレサ大通りに来ました。
独立の英雄、イブラヒム・ルゴヴァ像
リェヴィシャの生神女教会
聖母大聖堂

プレズレン(Prizren)
オスマン朝時代の建物が非常に多く残るコソボ南部の中心都市です。コソボ紛争により住民のほとんどがアルバニア人のみになってしまったが、どの都市よりもトルコの面影を残しており、モスクやトルコ風呂の跡などがあります。またカトリック教会やセルビア正教の教会もあり、特にリェヴィシャの生神女教会は14世紀に建てられたセルビア正教の教会の世界遺産ですが2004年のコソボ紛争時には焼き討ちに遭ってしまいました。。

ティラナ(Tirana)
アルバニアの首都であるティラナ。その昔はモスクとトルコ式浴場(ハマム)、パン屋だけであったと言われていたが、隊商ルートの要衝として発展し、1920年にアルバニアの首都となりました。一見すると大きな広場に大通りなど合理化一辺倒で無機質な印象になるかもしれませんが、ゆっくりと歩いてみると歴史的建造物も見え、過去の時代に思いを馳せることができます。市内中心部のスカンデルベク広場では、アルバニアの英雄であるスカンデルベクの銅像があります。また、国内最古の建築物の一つであるジャミーア・エトヘム・ベウトなど歴史的建造物も多くあります。

オフリド(Ohrid)
アルバニアとの国境にあるオフリドは、4分の1がアルバニア領になるオフリド湖に面しています。マケドニア最高峰の2764mのコラブ山をはじめ綺麗な山を望むことができます。オフリドは斜面に建つ街で、旧市街の丘の上にはサミュエル要塞があり、街と湖を望むことができる美しい自然と歴史を楽しめるオフリド旧市街は世界遺産都市で教会が多くあります。ここはマケドニア正教の聖地で、昔は西ブルガリア帝国の首都にもなったことがある歴史ある街です。

マケドニア(旧ユーゴスラビア)共和国
旧ユーゴスラヴィアの最南端に位置する小国で主要な民族はスラブ系です。地理的にはマケドニアと呼ばれてきた地域の北西部にあります。マケドニア共和国はマケドニア地域全体の約4割を占め、残りの約5割はギリシャに、約1割はブルガリアに属している為に、アレクサンダー大王で有名な古代マケドニア王国の領地が自国にあるギリシャは、歴史的な古代マケドニアとの継承性から「本来のマケドニアはギリシャである」と主張しています。そんな経緯からEUや日本などは「マケドニア共和国」という呼称を認めていないため、国際連合加盟時の「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」を公的には使っています。様々な国々に囲まれているため、過去には武力衝突など深刻な問題もありましたが文明の交差路として、東方正教世界とイスラム世界の要素を合わせ持つ国です。
ベラート城
その基礎は紀元前4世紀、アルバニア人の祖先とされるイリリア人によって築かれたが、現在の基礎の多くは13世紀に築かれたようです.城内には教会もあり、その大半はビザンチン時代の13世紀の建立であるそうです。城内は民家もあり生活をしておりますし教会も多く残っていて、生活を垣間見ることができます。展望台があり、ベラートの街のパノラマ、特にオスム川南に広がるゴリツァ地区の眺めが素晴らしいです。

コトル(Kotor)
複雑な海岸線と険しい山にかこまれた天然の要塞の地で、背後の山に沿って城壁が築かれ堅固な城砦港湾都市として栄えました。古い地中海域のコトル港の周囲にある印象的な城壁はヴェネツィア共和国によって築城されたもので、旧市街には聖トリプン大聖堂など古い町並みが今も残っています。特に目立つのは、教会。コトルは、カトリックとギリシャ正教会の文化圏が重なっており、双方の教会が数多く存在し世界遺産登録された町です。

5日目(3月19日)

ラティンスキー橋
サラエォの中心市街を流れるミリャツカ川に架かるオスマン帝国時代からの歴史的な橋です。1914年6月28日、右岸から通りに入る曲がり角でオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナント夫妻がセルビア人青年に狙撃され、第一次世界大戦が始まった直接の原因となった場所です。橋はその後、ユーゴスラビア時代にプリンツィプ橋と改名されたが、ユーゴスラビア紛争後元の名称であるラテン橋に戻されました。橋のたもとのサラエボ博物館の壁には事件現場を表すプレートがあります。
ソコルル・メフメト・パシャ橋 (ドリナの橋)
1571年にオスマン帝国最盛期を支えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャの命によってオスマン朝の最高の建築家ミマール・スィナンの設計によって着手され1577年に完成した大宰相が故郷のドリナ川にに架けた美しい橋です。トルコ式の11の石組みのアーチがある白い橋でしたが、これらのアーチは、20世紀の二度の世界大戦で壊滅的な被害を受けたが、その後再建されて今に至りユネスコの世界遺産に登録されました。

聖サヴァ教会
東方正教系の教会としては世界最大規模でセルビア正教の中心的教会です。内部はいまだに建築中です。

観光客を誘致するために建てられた造像?

チトーの墓(花の家)
旧ユーゴスラビア連邦の大統領チトーの墓は、旧市街を見下ろす高台に花の家と呼ばれる建物奥の温室に眠っています。

要塞内にあるノヴィ・サド博物館
ロンドンバスが走る街
聖三位一体教会
市庁舎
スコピエの中心を流れるヴァルダル川沿いの丘にある城塞では、街の眺望が開けます。
ベオグラードを代表する建物のホテル・モスクワ
マケドニア広場
スコピエの中心地で、ユーゴスラビア連邦から独立を宣言した場所でアレクサンダー大王像があります。

2016年3月15日~24日

ペーチ(Peja)
アルバニア語ではペヤ、セルビア語ではペーチと言います。人口の大多数はアルバニア人が占めますがセルビア正教会の総主教座が置かれた特別な場所です。町の外れにはペーチ総主教修道院、郊外にはデチャニ修道院といった世界遺産があります。これらは中世セルビア王国時代のキリスト教の宗教施設です。街に入ると、ここはコソボなのにアルバニアと見間違うほどにアルバニア国旗が掲げられています。

この後、国境を越えてコソボ共和国のプリズレンを観光した後にプリシュティナに向かいます。
マンガレム地区の眺望
国境を越えて

2日目(3月16日)

勝者の記念碑
カップルは夕日を見ながら、、、、何を語っているのでしょうか
チャルシイスカ・ジャミーヤ
ブルサ・ベジスタン(旧絹取引所)
ざくろジュース売り
カトリック大聖堂、1884年から1889年にかけて建造されたゴシック様式の正式名「イエスの聖心大聖堂」
アンドリッチグラード
カンヌ映画祭のパルムドールを2度受賞した映画監督エミール・クリトリッツァが立ち上げた観光・文化の複合施設で「町の中に作られた町」です。名前はノーベル賞作家るイヴォ・アンドリッチから名付けています。
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