教会の尖塔の屋根は『天の女王マリア』の王冠を象徴しています
本堂外側の入口側と右側には回廊が巡らされ、ここにも世界各国から送られた聖母子像が掲げられています。中に入ると柱のない広い部屋の中央が半地下のように窪み、その地下室部分にマリアが大天使ガブリエルから受胎告知を受けたとされる洞窟があります。

ガリラヤ湖のクルーズ,
ヨルダン渓谷が陥没して出来た周囲53Km、南北に21Km、東西に13Kmの大きさがあり、166平方Kmの面積を持ち最大深度は43m、海抜マイナス218mで、湖としては死海につぐ海抜の低さを誇っています。ガリラヤ湖はヨルダン川と繋がっており、ここで取れるティラピア(通称:聖ペテロの魚)は、使途である聖ペテロがもともと、この町の漁師であったことにちなんだ名前で、名物のひとつとなっています。

「嘆きの壁」、パラソルの下が仕切壁

エルサレム(Jerusalem)
「イスラエル=エルサレム」と言うぐらい観光の最大の見所エルサレムは、ヘブライ語で「平和の都」を意味する町です。パレスチナの所有などに関して問題を抱えつつも、城壁に囲まれた1Km四方の狭い区域の旧市街にキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の世界三大一神教の聖地が集中している世界でも稀有な場所です。神殿の丘には、イスラム教のモスク「岩のドーム」があり、そのすぐ側にユダヤ教徒が祈りをささげる「嘆きの壁」が立っていたり、近くのトンネルを抜ければキリスト教徒たちが十字架を背負ってイエスと同じ道をたどる姿が見られる「ビアドロローサ(悲しみの道)」につながるなど、それぞれの宗教が共存しています。エルサレムの旧市街は、ムスリム(イスラム教徒)地区、キリスト教徒地区、ユダヤ人地区、アルメニア人地区に区分けされています。

ベトゥイン(遊牧民)のテント小屋
検問所
コンクリートの高い擁壁
現代の墓
古代の墓、小型石棺に埋葬
ここからは旧市街が一望できる写真スポットです。
旧市街の岩のドーム
神殿の丘に通じる陸橋
セキュリティ検査所の警察官
赤色の丸囲みが聖誕教会の入り口「謙虚のドア」
謙虚のドア」
神殿の丘
丘はユダヤ教とキリスト教、イスラム教の聖地ですが、現在建物としてはイスラムのこのアル・アクサーモスクと岩のドームが建てられて実質的にイスラムの支配下にあります。この場所には紀元前10世紀頃、ソロモン王が十戒がきざまれた石板を納めた「契約の箱」を安置するために建てたエルサレム神殿(第一神殿)のあった場所です。しかし、紀元前587年、バビロニアにより神殿は破壊されます。その後、紀元前515年に第二神殿が再建されましたが、西暦70年に今度はローマ帝国によりエルサレム攻囲戦が行われ、再び神殿は破壊されました。このときの城壁の一部が嘆きの壁です。キリスト教徒にとっては、新約聖書にイエスが絶滅した時に神殿の至聖所の幕が二つに切り裂かれた話が残っている場所です。また、イスラム教徒は神殿の丘を、ムハンマドが天に昇った場所だと信じて丘の上にイスラム教のモスク「岩のドーム」を建設しました。私たち観光客はモロッコ門から入ります。
岩にもたれて苦悶するイエス
ユダの接吻
イエスの逮捕
エルサレムのシオンの丘を越えて国道60号線を南下して再び、検問所を通ってコンクリートの壁の向こうのパレスチナ自治区のベッレヘムに向かいます。

ベッレヘム(Bethlehem)
イエスキリスト誕生の地とされるベツレヘム。ヘブライ語で「パンの家」を意味するベツレヘムは、イエスキリスト誕生の地として有名です。エルサレムから南に約10Kmの郊外のパレスチナ自治区にあり、世界中から多くのキリスト教信者が巡礼に訪れる場所です。旧約聖書にもしばしば登場する古い町でダビデ王(イエスの養父ヨセフのご先祖)が、この町の出身であることから「ダビデの町」とも呼ばれています。また、この地から救世主が出現するとも信じられていました。ベツレヘムに街に入ると、よりアラブの雰囲気です。具体的には先ずアラビア文字の看板が多くなり、ヘブライ文字は見なくなりました。

街の中心はメンジャー広場。入口にあるのはジャーマ・アル・オマル、正面左奥が聖誕教会、その右の手前に張り出すように大きなアルメニア教会、広場の反対側にはパレスチナ自治区の旗がなびくのが庁舎です。
ジャーマ・アル・オマル
パレスチナ自治区の庁舎
聖誕教会
コンスタンティヌス1世が母ヘレナの助言を得て、イエス・キリストが生まれたとされていた洞穴の上に聖堂の建設を始め339年に完成しましたが、この聖堂は6世紀の火災で失われ、当時のモザイクの床がわずかに現存するだけです。再建はユスティニアヌス1世の時代に行われ、途中イスラム勢力との攻防で、壊されたり、再建したりで、この6世紀の聖堂が基本的に現存する聖堂に受け継がれています。この教会はローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、アルメニア使徒教会の共同管理下にあり、昔イエスが生まれて飼い葉おけに置かれたとされる場所がある地下への階段前には、いつも多くの人が列をなしています。高さは120cmしかない聖誕教会の入り口は「謙虚のドア」と呼ばれ、オスマン帝国時代に馬に乗ったままの侵入を食い止めるためこの様に改修されたそうです。その歴史的根拠は希薄ですが、イエス誕生の話は新約聖書のマタイ福音書、ルカ福音書に書かれています。2012年には、この聖誕教会は世界遺産に登録されました。
コンスタンティヌス帝建立当時の床のモザイク
主祭壇はギリシャ正教の管轄のようでイコノスタシス(聖障)が立てられ、たくさんのイコンが飾られています。
イエス誕生の時が迫ってきて、困り果てたマリアは、近くの農家に頼み込み(当時、馬小屋は洞窟を利用してに作るのが一般的だった)、ようやく馬小屋の片隅を貸してもらった場所がここだそうです。地下にあるイエスが、生まれて飼い葉おけに置かれたとされる場所に行くと、生誕場所は、燭台を背後に生誕したイエスを一目拝もうと東方の3人の博士が、星に導かれてベツレヘムにやって来たと言うその星をかたどった星形が埋め込んだ祭壇になっています。近くにある飼い葉おけは、後年に造られたと思われる四角い底石の周りに石の壁を立てた形で、「飼い葉おけ」とも異なるあたかも石の流し台の様なものでした。
聖カテリーナ教会
聖誕教会直ぐ隣りに、フランシスコ会の手で1882年に建立された聖カテリーナ教会があります。本堂屋根上にはマリア像が、前には聖書学者ヒエロニムスの像と足元には協力者のパウラのシャレコウベが置かれています。彼はヘブライ語の聖書をラテン語に翻訳するために、この教会の洞窟にこもり、生涯を翻訳に投じた人物です。彼の訳したラテン語の聖書はカトリック公認聖書で、この偉業でキリスト教が世界に広まったとも言われています。彼は、ローマの婦人パウラの協力で翻訳を成し遂げましたが、パウラの死後も彼女のシャレコウベ(頭蓋骨)をそばに置き作業を続けたそうです。
像の足元には、シャレコウベ
翻訳にいそしんだ教会の洞窟の書斎

5日目(6月23日)

燭台の下が「石の飼い葉おけ」
新市街にあるホテルから、世界の著名人御用達のローマの水道橋をイメージしたデザインの、超最高級デーヴィッド・シタデル・ホテルの横を通り旧市街へと向かいます。この日はラマダンの期間中(今年は6月6日から7月6日)でシャバット(安息日)の前の木曜日のせいか道路は比較的空いているそうです。路面電車LRTが通る道と平行に旧市街の城塞を一周してから、唯一大型バスが入れる糞門から入ると、エルサレム考古学公園と呼ばれる緩い傾斜の広場になっており、脇には発掘調査中という遺跡が見えます。そして、その奥の白い石垣で囲まれた小高い部分が目指す「神殿の丘」です。神殿の丘はイスラム教徒エリアですがセキュリティ検査はイスラエル当局が担当し国際空港と同じような内容のX線検査や手荷物検査などがあります。神殿の丘に通じる陸橋を渡ると、陸橋から「嘆きの壁」を眺める事ができます。この写真のように、ここからは仕切壁手前の女性の祈り場と奥の男性祈り場の両方がよく見えます。
デーヴィッド・シタデル・ホテル
エルサレム考古学公園
アル・アクサーモスク
身を清める水場とアル・アクサーモスク
昨日訪れたオリ−ブ山
聖墳墓教会には、いろいろな礼拝所が設けられいて、ここはマグダラのマリアの礼拝所。その横がマルチュリオン(殉教聖堂)と呼ばれる者ギリシャ正教の礼拝所を眺めて聖墳墓教会までのビアドロローサの観光を終えます。
鳥や様々な草花のモザイク画
第14留 イエスが、墓に納められたところ。(聖墳墓教会)
ビアドロローサの終点になります。イエスの時代には洞穴だったとされるが、現在は、大ドームの下の円筒状の大きな部屋(ロトンダ rotondaと呼ぶ)になっていて、その中央にイエスの墓が配置されています。
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旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

成田に帰国

7日目(6月25日)

アンマン空港からエミレーツ航空便にてドバイ経由で帰国の途へ
塗油の石の上に横たえて香油を塗ったとされる場所、正面は教会の入口
16世紀の十字軍の城塞
1743年建立のジャーマ・アル・オマリ
柱にあるペリカンの彫刻
何はともあれ、約1時間の出入国手続きを終えてイスラエル国内に入りました。
クムラン付近から見える死海
聖墳墓教会
イエスが磔刑に処せられたゴルゴタの丘はこの場所にあったとされ、イエスの墓とされる場所に建つ教会です。伝えられているところによれば、ローマ皇帝コンスタンティヌスの母ヘレナが326年にエルサレムを訪れ、当時はヴィーナス神殿となっていたこの地で磔刑に使われた聖十字架と聖釘などの聖遺物を発見したとされ、ここをゴルゴタと比定した。ゴルゴタとは「しゃれこうべ」と言う意味をもち、埋葬された丘の形が頭蓋骨に似ている、或いは人類最初の人間アダムの頭蓋骨が埋葬されていたからとも伝えられています。神殿を取り壊して建てられたのが現在の聖墳墓教会です。ここは、カトリック、ギリシヤ正教、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、,エチオピア正教の共同管理になっています。入口前の広場からは青いドームを見ることができませんが、聖墳墓コプト教会辺りから聖墳墓教会を見ると,ドーム部分が望めます。(上左側の写真)
第10留 イエスが、衣を脱がされたところ。(ここからの5留はすべて聖墳墓教会内です)
衣服を剥ぎ取られた場所は、教会の入口横にある小さな聖堂と言われていますが、残念なことに、この時は見つけることができませんでした。帰国して調べると、ちょうどこの写真の右側の外側に張り出した小さな建物でした。
コインがいっぱいの井戸跡
2匹の魚と5つのパンのモザイク画
マリア永眠教会
1910年に10年の歳月をかけて完成した、ひときわ目立つネオロマネスク様式の重厚なデザインではエルサレム最大の教会です。この近くで聖母マリアが永眠し、またここにはビザンチン時代の聖シオン教会があったので、その遺構に建てられたそうです。広く丸い礼拝堂には、正面に聖母子像を天井絵にした祭壇が設けられています。
朝バスでガリラヤ湖畔のティベリアを出て,、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区を通る国道90号線でパレスチナ境界を経てエルサレムに向かいます。パレスチナ自治区のかなりの土地は、イスラエル政府が力ずくでユダヤ人の入植を推めた結果イスラエルに占領されている状態です。ヨルダン川に沿う農地として優良なエリアはすべてイスラエルが支配しているそうです。所々に軍の見張り台や軍事的設備が走行中に散見されました。パレスチナ自治区の旗は、ヨルダン旗の星がないだけの同じデザインです。

エリコ(Jericho),
古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年頃には周囲を壁で囲った集落が出現し世界最古の町と評されることもあります。世界で最も標高の低い海抜マイナス250mの低地にある町でもあり、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15Kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区に含まれています。「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、人々が住み着いたのでエリコの名前は『旧約聖書』にも繰り返し現れ、「棕櫚(しゅろ)の町」として知られていました。

現在の泉
今日の観光を終えて検問所を通り再びイスラエルに戻りエルサレムのホテルに向かいます。
女性の祈り場
男性の祈り場
イスラエル7日間
ゲッセマネの園
「ゲッセマネ」とはヘブライ語で“油しぼり”という意味です。昔はこの周辺でオリーブ油精製が盛んに行われていました。庭園内に残る8本のオリーブの木は当時から受け継がれているもので、少なくとも1200年前からあることは確認されているそうです。ここはイエスがエルサレムで過ごしたときに祈りの場として好まれていた場所で、ルカ福音書によると弟子との最後の晩餐を終えたイエスが、この後起こる事を予感しながら血の様な汗を流しながら神に祈り続けたそうです。
1910年創立のイスラエル最初のキブツ・デガニア
ティベリア温泉
アンマン空港
十字架が立てられたと言われる穴
ゴルゴダの丘の岩

ダビデ王の墓
1948年から1967年の六日戦争終結までユダヤ人は嘆きの壁の前で祈ることを許されなかったために、ここはユダヤ人にとって最大の巡礼地でした。シナゴーグのホールを抜けて進むと鉄柵で仕切られた墓石のある部屋に入ります。石棺はダビデの星が刺繍されたビロード布に覆われ継承者である22人の王を表す22のシルバーの聖書を収めた経筒で装飾されています。

ダビデ王の墓の入口にはメズーザー(Mezuzah)と言われる細長い筒が斜めに取り付けられています。メズーザーは「門柱」の意味で,中には聖書の一節が記された羊皮紙の巻物が入っていて部屋に入る度に手を当てて祈るそうです。実はメズーザーはあらゆる部屋入り口に掲げられ、宿泊したホテルの部屋入口にも皆付いていました。

カナ(Kana),
新約聖書に登場する「カナの婚礼」の舞台になった場所でナザレの北10Kmの所にあります。緩やかな丘陵に形成された街で、3000年の歴史の香りを漂わしていますが現在はアラブ系の人が多く住むそうです。


聖墳墓教会のドーム、オリーブ山、ケデロンの谷が望めます
「キリストの食卓」と呼ばれる祭壇
ヨセフの仕事場だったという洞窟の祭壇
マリアとヨセフの珍しい結婚指輪交換のシーン

2016年6月19日〜25日

嘆きの壁
外国人がここでユダヤ人が嘆いているように見えたことから言い始められた言葉で、当のユダヤ人は使わないそうです。別に嘆いているわけでなく神ヤーウエに祈っているだけだそうです。石組みのこの壁は、神殿の西側に当たるのでユダヤ人は「西の壁」とも呼びます。この壁はヘロデ王が再建したエルサレム神殿の西側外壁(Western Wall)の一部で、西暦70年に今度はローマ帝国によりエルサレム攻囲戦で破壊されて残った壁です。現在のユダヤ人にとって最も神聖な場所となっています。1948年のイスラエル独立戦争で、この壁はヨルダン領となり19年間にわたりユダヤ人がこの壁に近づくことが禁じられました。1967年にイスラエル軍の手で、この壁が再び自由に祈る事が出来るようになり以来この壁にはどの宗教の信徒も自由に訪れることができます。現在壁の高さは約21m、長さ60m、地中には第二神殿時代の石が17段、まだ約14m隠れています。嘆きの壁は右側が女性用、左側が男性用の祈り場です。男性の場合、頭を覆うものが必要です。帽子をかぶるか、ユダヤ教徒が頭に乗せる「キッパ」という小さな丸い帽子を貸してくれます。またよく見ると壁の石と石の間には、たくさんの願いごとの書かれた紙が挟まれています。

パンと魚の奇跡の教会
タブハ(Tabgha)村にあるパンの奇蹟の教会はマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4つの福音書全てに記されたイエスの奇跡に因むそうですが、4福音書共に記されているケースは稀なのだそうです。イエスが2匹の魚と5つのパンを祝福して増やし、説教を聞きに集まっていた5千人全員を満腹にさせたという奇跡にちなんで建てられた教会です。ドイツ系のベネディクト派修道会が運営する教会で清貧、純潔、服従を旨とするというので質素な造りです。祭壇前の床に残る東ローマ帝国(ビザンチン)時代に制作された2匹の魚とバスケットに盛られた5つのパンはもちろん、蛇や鳥、様々な草花のモザイク画は有名です。
シリコンウエハーの様な円形の畑
宿泊したホテルの部屋からのエルサレムの夜景
イスラエル側国境
立派なイコノスタシスが立てられている
マリアの井戸の前
マダバの街を少し歩きましたが今日は、ラマダン期間中の金曜日の午後、シャバットと呼ばれる安息日なので街に人は少なく、閉店している店も多くありました。いよいよバスに乗りアンマン空港に向かいます。

マダバ(Madaba)
旧約聖書の中のモーセの出エジプト記に書かれたモーセ終焉の地ネポ山の東に位置し、洗礼者ヨハネが活躍した場所でもあると伝えられていますのでヨルダンはイスラム教徒が9割の国ですが、この町は人口約6万人中の4割位がキリスト教徒の街です。歴史的には見逃すことのできない世界最古といわれるエルサレムを含むパレスチナの地図がモザイク画として残されている町です。

聖ジョージ教会
この教会そのものは比較的新しく19世紀に建てられたギリシャ正教の教会です。ただその元の教会は古くローマ帝国,ビザンチン時代まで遡るそうです。礼拝堂は、正教なので壁に多数のイコンが架り正面に木製のイコノスタシス(聖障)が立てられています。この教会を有名にしているのは、6 世紀に作られたエルサレムと聖地パレスチナ周辺をモザイクで表した有名な「パレスチナの地図」と呼ばれるモザイク画が床に描かれている事によります。1896 年に、昔のビザンチン教会跡を調査した時に発見されそうです。200万個もの色鮮やかな色彩のストーンが敷き詰められ、6世紀当時のヨルダン川や死海、エルサレムなどの様子が描かれています。 地図が描かれたモザイク画は、元はおよそ 21 × 7m の大きさがありましたが、大半は火災や新しい教会の活動、そして湿気の影響により破損し現存しているのはそのうち四分の一ほどです。聖ジョージ教会だけあって有名な「聖ジョージ龍退治」のシーンの聖ジョージの絵が掲げています。

ヨルダン川沿いを南に暫く進んだ後に車はマダバに向け上りはじめ、標高が上がり西の低い位置に死海が見えましたが、いよいよ見納めです。2年前にヨルダンを訪れた際に、私達は見学しましたが、旧約聖書の中の出エジプト記に書かれたモーセが埋葬されたネポ山の横を通ってマダバに入ります。
バスはイスラエル側の緩衝地帯へのゲートに入るとアレンビー橋の案内板が見えてきます。そして両国出入国管理事務所を経てヨルダンに再入国します。イスラエルの入国のときに書きましたが、今ではイスラエルの入出国スタンプは、黙っていると押されませんが、当分の間アラブ諸国へ行く予定がないので「出国スタンプを押してください」と頼みましたらイスラエルの係官は嬉しそうに押してくれました。しかしイスラエルの出国税54USドルは、他の国に比べてちょっと高くはありませんでしょうか。文句があるなら、来るなと言われそうですが、、、、

6日目(6月24日)

鶏鳴教会入口の金属扉には、イエスがペテロに予言する場面のレリーフがあります。また、庭にはペテロたちのブロンズ像があります。中央がペテロ、右側はカイアファ邸の家政婦、背後には捕縄のローマ兵士です。家政婦は「この人が、イエスと一緒だったところを見た」と告白したが、ペテロが「そんな人は知らない」、イエスとの反逆共謀を否定している場面です。この尋問を三度繰り返すのだが,その後で鶏が鳴いた話に基づく像です。
入口のダビデ像
メズーザー
第12留 磔になったイエスの十字架が立てられ、イエスが息を引き取ったところ。(聖墳墓教会)
金、銀色に装飾された祭壇の十字架像の前にはテーブル状の覆いがあります(写真下左の女性の横)。皆しゃがんで覗くので非常に込み合っていますが、覆いの下には、実際にゴルゴダの丘に掘られたという穴が見えます。ここにイエスキリストの十字架が立てられ息を引き取った所と言われています。現在はその象徴として装飾され、穴の空いた銀製プレートが床に嵌めこまれています。十字架を立てた穴近くの様子がガラスパネルの下に覗けるようになっていて、これが床下そのままなのか、他から運んだゴルゴダの丘の岩なのかは良く判りませんが穴に並んで置いてあります。
第2留 イエスが、十字架を背負わされたところ。(鞭打ちの教会)
死刑判決の後、ここで今度はローマ兵に鞭打たれ紫の衣を着せられて、いばらの冠を被せられます。そして十字架を背負わされゴルゴダの丘に向けて歩き始ました。祭壇の上には、茨の冠が飾られています。
第9留 イエスが、3度目に倒れたところ。(現代の聖墳墓コプト教会の入口)
スーク・ハーン・エッゼイ通り沿いにある小さな商店の脇の階段を上がり、道なりに右折後、左折する聖墳墓コプト教会への曲がり角で見た眺めです。上部十字架のドームが聖墳墓教会、手前下が聖墳墓コプト教会の入口です。
壁の前は,区分された旧市街のうちのユダヤ人地区

岩のドーム
イスラム教において、エルサレムは、メッカ・メディナに続くイスラム教の第3の聖地です。638年イスラム勢力がエルサレムを支配し、690年には、この丘の上にイスラム教のモスク「岩のドーム」を建設しました。この岩のドーム(モスク)はイスラム教徒にとって非常に重要な役割をもっています。かつてはエルサレム神殿内にあったとされています。この建物は預言者ムハンマド(マホメット)が夜の旅(イスラー)に旅立ち、またアブラハムが息子であるイサクを犠牲に捧げようとした場所として信じられる「聖なる岩」を取り囲むように建設されました。八角形の建物は幾度かの改築をへて1522年にオスマン朝のスュレイマン大帝により大理石とトルコ製のタイルによって装飾された外観が美しく金色の屋根は街のシンボルとなりました。現在はイスラム教徒以外の入場は出来ません。

マグダラのマリア教会
金色のねぎ坊主を載せたような7つの円屋根をもつロシア正教会で1885〜88年にロシア皇帝アレクサンドル3世が、ヨハネ福音書に出てくる復活したイエスに最初に会ったマグダラのマリアと、自身の母后マリアを記念して17世紀のモスクワ様式を模して建てました。
万国民の教会
イエスが最後の夜を苦悶しつつ祈って過ごしたゲッセマネにある教会です。イエスが処刑前夜、最後の晩餐の後3人の弟子(3高弟のペテロ、ヨハネ、ヤコブ)を連れてここに来て最後の夜を苦しみながら岩に掴まり神に祈ったとされ「苦悶の教会」(Basilica of Agony)の別名があります。裏切ったユダがやって来てイエスの手にキスすると、キスする相手がイエスであることのサインだったので役人は、イエスを捕らえて祭司カイアファの屋敷(現在の鶏鳴教会)に連行して行きました。礼拝堂には、中央祭壇背後に「岩にもたれて苦悶するイエス」や,脇に「ユダの接吻」、「イエスの逮捕」といったシーンのモザイク画が掲げられています。建物は、4世紀に建てられた当時のバジリカを残し、1919年にさまざまな国の献金により再建されました。それが名の由来だそうです。

キドロンの谷
主の祈りの教会を出るとキドロンの谷(Kidron valley)の墓地が広がっていました。最後の審判の日、ここに神が立ち死者がよみがえる場所とされ墓地が作られるようになったそうです。ユダヤ人は大きな石棺の下に神殿の方向に足を向けて埋葬されるそうです。坂を下る途中にある古代の墓では、土葬でしたが洞窟がに一杯になったので後に小型石棺に埋葬されたものだそうです。

主の祈りの教会
イエスが弟子に請われて主の祈り(祈りの文言、つまり定型文)を教えたといわれる教会で4世紀に創建され、現在の建物は1874年に再建されたものです。教会内部の回廊壁面のタイルには日本語を含む64ヶ国語で主の祈りが記されています。

4日目(6月22日)

二階は礼拝堂になっていて周囲の壁には、各国の大きなマリア像が架かり左側壁に日本から贈られた、長谷川路可(ルカ)による『華の聖母子』があります。この作品は細川ガラシャ夫人(明智光秀の娘,細川忠興の妻でクリスチャン)がモデルだそうです。、マリアの着物の袖にはなんと、6000個もの真珠が埋め込まれています。
話のついでながら、受胎を告げたガブリエルは、旧約聖書にその名があらわれる天使。ユダヤ教からキリスト教、イスラム教へと引き継がれ、キリスト教ではミカエル、ラファエルと共に三大天使の一人、イスラムでも大天使の一人とされるそうです。つまりガブリエルはユダヤ教では新たな王の出現、ユダヤ人の解放などを語り、キリスト教ではキリスト誕生を告知し、イスラムでは,ムハンマドに神の啓示(神の言葉である「クルアーン」(コーラン))を伝えた存在です。即ち、この3つの宗教は同じルーツを待ってますが、、、、解釈の違いで、その後の世界では??
受胎告知を受けたとされる洞窟

ナザレ(Nazare),
新約聖書のルカ福音書によると、ナザレは、聖母マリアが大天使ガブリエルに受胎告知を伝えられた地で、イエスが伝道活動をするまでの30年程を過ごした地と言われています。イエス自身が「ナザレ人」と呼ばれたという事が新約聖書にあることで、キリスト教徒にとって非常に重要な場所とされています。それ以後、ここも他の町と同様、7世紀に入ってイスラム教に征服され、11世紀には十字軍の侵攻によって、長い争いが始まり、支配者が変わるたびにキリスト教徒達は居住を許されたり、追われたりしたそうです

聖ガブリエル教会
十字軍時代、および17世紀の教会のあった基礎の上に聖母マリアの受胎告知を記念し1967年に建立された石造りの比較的シンプルなデザインの外観のギリシア正教の教会です。大天使ガブリエルが、マリアの前に初めて現れたのがマリアの井戸と呼ばれる所で、地下にその水源がありますが、ギリシア正教以外の宗派は、聖書の解釈の違いで、ここの水場ではなく受胎告知教会地下の水場で告知されたとしているのだそうです。何はともあれ地下に降りてみると今は枯れているが井戸の跡があり記念に投げ入れられたコインがいっぱいでした。

カナ婚礼教会,
イエスが最初に奇跡を起こしたことを讃えて建立されたフランシスコ派修道会の教会です。ヨハネ福音書によると、招かれた婚礼の途中ワインが無くなってしまったと、母マリアから聞いたイエスは、「ご婦人よ (Lady)」、と母マリアに話しかけ先ず6個の瓶に水を満たし、それを酒席に運ぶようにと指示しました。そして運ばれてきた水瓶を覗くと水は良質のワインに変わっていたという奇跡を起こしたそうです。これは無名のイエスが皆の前で奇跡を起こし救世主キリストとしてデビューする合図だったのだそうです。祭壇の棚には,故事に因み満たされた水をワインに変えた薄茶色6つの水瓶が置いてあり、現在もここで結婚式を挙げるカップルは多くちょうどエチオピアからの信者らがいました。この教会の土地には元々シナゴーグがあって、その上に先ずビザンチン時代キリスト教会が建てられ、さらに十字軍時代その教会の上に新教会が建設され、そしてさらに現在の教会が重ねて建立されたという街の歩みと共に非常に歴史があります。

聖ペテロの家教会,
シナゴーグの近くに建てられているSF映画の宇宙船のような形がユニークな教会です。床下には聖ペトロの家跡が残されています。教会が円盤外周の柱で支えられ中ほどは空中に浮いている構造です。この場所はペテロの実家ではなく婿入りした先の家の跡地だそうです。中に入るとすり鉢状に椅子が配置された礼拝堂になっています。すり鉢底はガラス床になっており,そこからペテロ婿入り先の家跡が覗き込めるようになっています。

カペナウム(Capernaum),
マタイ福音書によるとイエスは、ナザレで嫌われ洗礼を施してくれたヨハネが捕らえられたと聞いて、身の危険を感じてナザレを去り、このカペナウムの地に来て居を構えました。そしてイエスがここを拠点に、近所のペテロの勧誘を手始めに布教活動をはじめました。宣教の地として選んだのが、ここカペナウムです。イエスが宣教した当時のカペナウムは今は残っていないが、4世紀頃のユダヤ教会堂(シナゴーク)の跡があり建物の基礎や建築部材(石)など随分と広い街の跡が残っています。残されている構造物の一部ですが、下左側の六芒星はダビデの星としてよく知られる古代イスラエル王国のダビデ王の名を冠したイスラエルのシンボルで国旗にもなっています。下右側の燭台メノラーの文様にもしっかりと7分岐が刻まれています。

ヤッフォ門から城壁にそって、車で移動してシオン門の前から徒歩で、シオンの丘エリアを観光します
2匹の魚と5つのパンのモザイク画
右手に『天国の鍵』,左手に『羊飼いの杖』を持った聖ペテロの像
エルサレムのオリーブ山に着き、このエリアの観光をします。
ユダヤ教会堂(シナゴーク)の跡
イスラエルのシンボルで国旗にもなっているダビデの星
悪魔に試みられた誘惑の山へのロープウェイ
発掘中の古代遺跡
エリコから南西に道を進むと再び海抜0mの道標があります。パレスチナ自治区からイスラエルへの間には検問所がありますが、イスラエル・ナンバーのバスでしたので簡単に通過できましたが、検問所周辺にはコンクリートの高い擁壁が立てられ人々の往来は簡単では無いようです。
燭台メノラーの文様
聖墳墓教会から出て、ヤッフォ門から城塞の中の旧市街から外に出ると目の前に、今は歴史博物館として利用されている「ダビデの塔」と呼ばれるシタデル(要塞)の尖塔が見えてきました。
今日の観光を終えて緩やかな丘陵に形成されたカナの町を再び通り、ティベリアのホテルにもどります。

ペテロ首位権の教会,
この教会に名を冠したペテロ(ピーター、ピエトロとも)は後に一番弟子として働き、イエス亡きあとキリスト教の布教に励み、バチカンの初代教皇(サンピエトロ)となった人物です。イエスが、嫌われたナザレの地を離れ、ここガリラヤ湖畔(カペナウム)に引っ越してきてイエスが海辺を歩いていたとき漁師であったペテロとアンデレの兄弟に出会った場所とされています。教会の祭壇は大きな岩で、この岩の上で復活したイエスが弟子に食事を与えたとされ「キリストの食卓」と呼ばれています。

聖ヨセフ教会
フランシスコ派修道会によって、マリアの夫である大工のヨセフが仕事をしていた場所に建てられた教会で受胎告知教会の隣にあります。聖ヨセフ教会は当初ヨセフの家の跡地に建てられ,さらにビザンチンと十字軍時代の遺構の上に建て直され、そして1914年に現在の姿に新築されたそうです。
教会前庭の聖ヨセフ像
塗油の石
十字架から降ろされるシーン
諸国から寄贈されたマリア像の一部紹介
ガリラヤ湖の素晴らしい景色

山上の垂訓教会
祝福の山と呼ばれる丘に1938年フランシスコ会が建立した八角形の美しい教会です。中央に黒いドームを持ち,基部は八角形回廊のなかなか見ることない変わったデザインです。八角形回廊はイエスの説いたマタイ福音書に出てくる『八福』に因むそうです。山上の垂訓の8つの句は「心の貧しい人々は幸いである・・・」などのイエスの思想、教義の最も重要な部分がまとめられ教会内にラテン語で記されています。ここからはガリラヤ湖の素晴らしい景色を見渡すことができます。

第13留 マリアが、イエスの亡骸を受け取ったところ。(聖墳墓教会)
事切れたイエスの遺体が十字架から下された後に、この石の上に横たえて香油を塗ったとされる場所です。聖墳墓教会の入口を入るとまず目に入る場所であり、数多くの巡礼者がひざまづいてこの石に口づけしていました。塗油の石の背後壁には大きな遺体受け取りの場面の壁画が掛けられています。十字架から降ろされ,塗油の石上で香油が塗られ,そして麻布に巻かれて運ばれるシーンです。
カリア・ビーチ(Qalya Beach)
新しく出来たビーチで場所は、クムランを過ぎて北上した死海の北端にあります。死海での浮遊体験や、美容に良い死海の塩、泥を使ったスパ体験が楽しめる観光地です。 灼熱の砂漠を走る幹線道路沿いに、ビーチ、ホテル、スパ施設などがあり、 シャワー、更衣室、トレイ、ビーチパラソル、サマーベット、テーブルなどが無料。 普通の海水浴とは違って、死海で1日過ごすことはちょっと厳しい。死海の海水は塩分も鉱物の含有量も高いので、 決して顔をつけてはいけないからです。本当にぷかぷか浮いていられるから数時間読書を楽しむこともできます。今回は2度目の浮遊体験なので余裕を持って新聞を読んだり死海の泥パックを楽しみました。
旅券にイスラエルの入出国スタンプがあるとイスラエルと敵対しているアラブ,イスラム諸国では入国を拒否される事があるので、現在はスタンプは希望しない限り押されず、入国の時に入国査証カードが発行され出国時に見せるだけで済むようになりました。

第1留 イエスが、死刑の判決を受けたアントニア要塞にあるピラト総督官邸。(現在のエル・オマリヤ・スクール校庭)
往時ローマ帝国総督ピラトの官邸があった場所には現在カトリック教会が建てられています。イエスがシオンの丘のユダヤ教大祭司カイアファ邸(現鶏鳴教会)で39回のムチ打ちを受けた翌日、ここピラトの官邸に連行され死刑判決を受けました。

アレンビー橋、(またはキング・フセイン橋)
イスラエル人はアレンビー橋、ヨルダン人はキング・フセイン橋と呼びますが、ヨルダン川西岸地区(エリコ)に居住するパレスチナ人がヨルダンとの間を往来するための出入国地点です。イスラエル当局がパレスチナ人によるイスラエルのベン・グリオン国際空港の使用を厳しく制限しているためイスラエル側に居住するパレスチナ人が海外に出るには、アレンビー橋経由でいったんヨルダンに出る必要があるので設けられた施設です。正式な国境ではないのでイスラエル人とヨルダン人を除く私たちのような第三国人の出入国は可能です。何れにしてもこの辺一帯は本来パレスチナの領土の筈ですが、イスラエルが占領していますので国境警備の厳しさもヨルダンと異なります。
イスラエルの出入国管理事務所
ヨルダンの出入国管理事務所
短いイスラエルツアーは,今日で終わりエルサレから来た道を戻って、国境越えてヨルダンに再入国、次いでマダバに寄って聖ジョージ教会を見物後に、アンマンからドバイ経由で成田に向かいます。
宿泊したホテルに見送られて
再びヨルダン渓谷で海抜0メートル地点
第6留 ベロニカが、イエスの顔を絹のハンカチで拭いたところ。(ベロニカ教会)
この場所に住んでいたベロニカという女性が、通りに出て汗でびっしょりのイエスの顔を拭いてあげました。するとイエスの顔を拭いた布(ハンカチ)にはイエスの顔が浮き上がるという。このハンカチはヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に保存されているそうです。ベロニカはカトリックと正教で、後に列聖され聖ベロニカとなったそうです。
ローマ帝国時代の上水道

アンマン(Amman)
ヨルダン・ハシミテ王国の首都で、紀元前17世紀以来の古い都市で、古代には古代ローマ時代にはフィラデルフィアと呼ばれ繁栄していましたが、その後度重なる地震と戦乱によって衰退し廃墟となりました。20世紀はじめに一寒村から発達。その後、パレスチナ戦争後急激に規模を拡大しました。現在はおよそ120万人の人口をかかえるヨルダンの政治・経済・交通の中心地です。

2日目(6月20日)

ドバイ到着は早朝、魔法のランプの様な形の建物は管制塔です。上空からは世界で最も高い建造物であるブルジュ・ハリーファもかすんで見えます。砂漠でも先進的な農業技術で、あたかもシリコンウエハーの様な円形の畑で耕作をしていました。やがてヨルダンのアンマンに到着です。

礼拝堂と天井のステンドグラス
右隣りの女性用祈り壁前から成人式を覗く女性陣
第5留 クレネ人のシモンが、イエスに代わり十字架を背負ったところ。
たまたま過ぎ越し祭のため地方からエルサレムに出て来てビアドロローサに居合わせたシモンがイエスに代わり十字架を背負った場所跡に作られた礼拝堂です。跪いたイエスに、背後のシモンが「私が替わりましょう」と手を差し伸べているシーンが祭壇にあります。
地下のトンネルを抜けて旧市街ムスリム地区にあるビア・ドロローサの第1留に向かいます。地下に入ると直ぐに西壁トンネル(Wester Wall Tunnel)があります。これは発掘によって、かっての地面を壁沿いに掘り起こしたものですが見学は全て予約制のガイドツアーです。途中には、まだ水が出るローマ帝国支配時代から続いている上水道設備も残っています。地上に出ると石畳の道、その先には135年にハドリアヌス帝によりエルサレム征服記念に建造された3重の凱旋門の一部が残ったエッケ・ホモ・アーチがあります。アーチをくぐると、いよいよビアドロローサです。
海抜マイナス418mにある世界一低い所にあるバー
受胎告知教会
マリアが受胎告知された洞窟跡とされるこの場所に、356年コンスタンティヌス帝が母のヘレナに頼まれて最初に教会を建ててから、各時代の変遷をへてその跡に、1969年にフランシスコ会の手で再建さらたのが中近東最大のカトリック教会である受胎告知教会です。建物中央の祭壇にはマリアがお告げを受けたとされる洞窟があります、また建物内部の壁面には、世界各国から贈られた聖母マリア像が飾られていて、日本からは長谷川路可の作品、「華の聖母子」が飾られています。

正面のファサードには大天使ガブリエルとマリア、その一段下に4人の福音書著述者(左からマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)が各象徴(天使,ライオン,牛,鳶)を連れたレリーフが刻まれています
鶏鳴教会
松林に囲まれたシオンの丘にある鶏鳴教会は、祭司カイアファの屋敷跡でした。ここからは、岩のドーム、オリーブ山、ケデロンの谷、旧市街、それにパレスチナ境界のセキュリティフェンス(分離壁)までもが一望できます。ゲッセマネで捕らえられたイエスが石段を通ってここに連行され地下の牢獄に留置されながら最後の一晩を過ごした場所です。地下の牢獄に投獄されたイエスは、ここから総督ピラトの所に連れて行かれて裁判を受けました。また、ルカ福音書によると弟子のペテロが自分に罪が及ぶのを恐れ、イエスの予言どおり、鶏が鳴く前に三度「イエスのことを知らない」と嘘をついたのもここの庭です。その後、ペテロは、この事を恥じてイエスの忠実な弟子となり布教に努めて聖ペテロとなりローマのサン・ピエトロ寺院に祀られています。
祭壇の上の茨の冠
エチオピアからの巡礼団のミサ
庭にあるイエスとペテロの像
第11留 イエスが、十字架に釘づけにされたところ。(聖墳墓教会)
ここでイエスは、横倒しされた十字架の上に仰向けで寝かされ執行官のローマ兵によって両手(手首)を釘で打たれ、また両足を重ねて釘を打たれました。その隣には、1778年にリスボンより寄進されたスタバト・マステールと言うイエスの死を嘆くマリアの祭壇が置かれています。

イスラエルは、国と民族の存亡をかけた4千年の歴史をもつ国です。聖書に書かれている事はユダヤの歴史そのものと言えるほど深い関係があります。ユダヤ人もアラブ人も聖書にある「ノアの箱舟」のノアから10代目にあたるアブラハムが父祖と考えています。神から与えられたカナンの地(現在のパレスチナ地方)が孫のヤコブ(別名イスラエル、ユダヤ人の祖先)の時代に大飢饉に見舞われ、ヤコブの一族は息子のヨセフを頼ってエジプトへ移住しました。エジプトでユダヤ民族を待っていたのは過酷な奴隷生活だったので、モーゼがユダヤ民族を率いてエジプトを脱出してシナイ半島まで逃れ、そこで神から有名な十戒を授けられました。再びカナンの地に戻ったユダヤ民族は、この地を征服し紀元前11世紀頃イスラエル王国を建国したが紀元前930年ごろ内乱のため南北に分裂しました。北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国はバビロニアに滅ぼされユダヤ民族は四散していきました。バビロニアはペルシャに征服され、その後パレスチナの地はマケドニアのアレクサンダー大王の東方遠征により征服され、紀元前60年以降はローマ帝国に支配されました。636年にビザンツ帝国がイスラム帝国に敗北し、以後の中世はオスマン帝国滅亡までのほとんどをイスラム教国家の支配下に置かれることになりました。ユダヤ民族国家を築くシオニズム運動が高揚した19世紀末期、パレスチナではヨーロッパ列強が植民地支配を拡大しようと機会をうかがっている中で1917年、イギリスは勃発した第一次世界大戦を有利に進めるため、「三枚舌外交」と呼ばれる数々の密約を結んだ一つにユダヤ人の協力と引き換えに、ユダヤ民族の国家建設への協力を宣言しました。大戦に勝利したイギリスは1922年には国際連盟に認められて、この地はイギリス委任統治領パレスチナとして運営されることとなり世界各地からユダヤ人を移民させました。折しも1929年にアメリカで始まった大恐慌が世界中に広がり、結果として第二次世界大戦が始まり、ナチスのホロコーストが伝わり、パレスチナへの避難するユダヤ民族の急増が、先住するパレスチナ・アラブ人との軋轢が起きました。これに拍車をかけたのが、ユダヤ人の建国に協力すると宣言したイギリスが、実はその2年前に、パレスチナはアラブ人のものと認める覚書を送っていたという事実でありました。イギリスは戦争に勝ちたいが為に、どちらにも「いい顔」をしたためです。第二次世界大戦後、ユダヤとパレスチナ・アラブの抗争を収拾できなくなったイギリスは問題解決を国連に委ねました。国連は1948年にパレスチナをアラブとユダヤに分割し、エルサレムは国際管理とする決議を採択しました。国連の採決を不満とするアラブ諸国はイスラエルの建国宣言の同日にパレスチナに侵攻して、第一次中東戦争が勃発しました。その後イスラエルとアラブ諸国は3度の戦争を経験して現在に至っています。

今も残る捕らえられたイエスが登って来た石畳みの道
ムチ打ちの拷問が加えられ尋問された地下牢獄
地下聖堂に降りると象牙の顔で,全身が桜の木でできた永眠するマリア像が横たわっています
最後の晩餐の部屋
この建物のトンネルを抜けると広場があり、裏の階段を上った二階に「最後の晩餐の部屋」があります。イエスが処刑の前の晩に弟子たちを集めて最後の晩餐を行ったといわれる部屋です。十字架を前に最後の訓話を語った場所ですが、ダ・ヴィンチの絵のイメージが強かったせいか、実際に入ってみたらとても質素でした。現在の建物は十字軍が建てたものとされています。柱にはペリカンの彫刻が刻まれていますが、ペリカンはイエスキリストの象徴だそうです。たいへん子供を大事にする鳥で、自分の胸に嘴で孔を開けてまで子供に血を与えて育てるという言い伝えがありますので、イエスとの共通性を暗示しているのでしょうか。
教会の入口
第3留 イエスが、最初につまずいた所には現在アルメニア正教会が建てられいます。
入口にはイエスが重い十字架を背負い倒れこんだ様子が刻まれています。礼拝堂の祭壇には、入口のレリーフと同じ構図に加え、これを見守る人々が薄くモノトーンで描かれています。
地中に隠れる第二神殿時代の17段の石壁

ユダヤ教徒の男の子は13歳でバルミツバ(Bar Mitzvah)と呼ばれる成人式を挙げます。バルミツバとはユダヤ教の戒律のことで、戒律を守ることができる年齢が成人だとされるのだそうです。中央の子が式の対象者で、隣は聖職者、他は父親や親戚などの関係者です。額には、黒い小箱を着けていますがヒラクティリー(Phylactery)と呼ばれ、旧約聖書の一節が収められいるそうです。腕に黒テープが巻かれているのは、この体を張って律法を守り神に従うという決意表明だそうです。母親であってもユダヤの掟で女性は、男の子のいる壁の前には入れないので、右隣りの女性用祈り壁前からこうして覗き見せざるをえないそうです。式の後は、ホテル等で盛大に披露宴を行いますが、特に米国NY辺りの富豪家族が行うときは半端ではない程だそうです。女の子は12歳が成人式だそうです。

いよいよ、これから陸路でイスラエルを目指します。ヨルダン地溝帯の一部で、北はガリラヤ湖から南は死海に達する約120Km、幅15Kmのヨルダン渓谷にある国境に向かいます。
この辺りは階段のある坂道
エッケ・ホモ・アーチ
故事にちなんでワインに変えた薄茶色6つの水瓶
海抜0mの道標
ヨルダン側国境
イスラエル側の緩衝地帯へのゲート
第7留 イエスが、2度目に倒れたところ。
スークと交差する所で人の往来が多い場所です。現在聖墳墓教会のあるゴルゴダの丘はエルサレム城壁の内側にありますが、イエスの時代はこの通りに城壁があり、ゴルゴダの丘は城外でした。そしてこの城壁部分に処刑場であるゴルゴダの丘に出る門(裁きの門)が設けてあり、その敷居につまずいたためにイエスが2度目に倒れたとされています。またこの門の上にイエスの罪状書きが貼り付けられ、一般市民に知らしめたそうです。
第8留 イエスが、「私のために泣くな・・・・」と語ったところ。(現在の聖ハラランボス・ギリシャ正教会の修道院)
ルカ福音書によると、この辺りでイエスは、自分を支持して嘆き悲しむ婦人たちに対して「私のために泣くな、自分たち、また自分の子供たちのために泣くがよい」と語った場所で、修道院の壁に記念の十字架が刻まれています。
ビアドロローサ
新約聖書には、イエスがゴルゴタの丘で磔刑にされるいきさつが書かれています。それによるとイエスが自ら神の子と称した事は、ユダヤ教最大の教義である一神教に対する冒とくであるとして、ユダヤ教の律法学者らは死罪を訴えた。当時この地方を統括したローマ帝国総督ピラトは、律法学者の声に押されて死刑判決を言い渡しました。イエスがローマ総督であったピラト邸(第1留)で死刑判決を受け、十字架を背負ってゴルゴダの丘(聖墳墓教会内/第14留)に至るまでを歩いた全長約1Kmの道が「悲しみの道」を意味するビアドロローサです。このあたりは当時も今も繁華街の中にあり、雰囲気は、当時とほぼ同じです。時は、「過ぎ越しの祭り」の直前で、各地からユダヤ人が集まって来ており、多くの人の目にさらされながら歩いて行ったことがわかります。観光をしていると、キリスト教団体がイエスがしたことと同じように十字架を背負い、同じ道をたどって巡礼している姿がよく見られ、エルサレムを聖地とするキリスト教徒にとって重要な場所であるとわかります。ビアドロローサには、イエスが十字架を背負って歩いた道のことですが、その中でイエスの身に起こった出来事をステーション(留)として黙想する巡礼ポイントが設定されています。合計14ステーションありますが、まずは第1ステーションからスタートです

3日目(6月21日)

主の涙の教会
イエスがここで涙を流してエルサレムの運命を嘆き、その滅亡を予言したとルカ福音書により伝えられています。その記述に基づき1955年に建てられた教会です。ドームの形は涙の粒をかたどっています。祭壇下に掲げられたこの「ひよこを抱くめんどり」は、イエスはエルサレム崩壊を予測したが人々が滅びないよう、あたかもめんどりがひよこを抱き寄せるが如く保護することをシンボライズしているそうです。また教会内の窓の十字架と旧市街の岩のドームが象徴的に重なり合っています。

ティベリア(Tiberias)
ティベリアは紀元20年頃、ガリラヤ地方の首都となりローマ皇帝、ティベリウスに因んでティベリアと名付けられました。紀元135年に全てのユダヤ人がエルサレムから追放されると、ティベリアはユダヤ文化の中心地となった。十字軍の時代には、ティベリアはエルサレム王国のガリラヤ地域の中心都市となり、16世紀の十字軍の城塞も修復され現在も残っています。ガリラヤ湖周辺は、イエスがキリスト教の布教活動を行った中心として知られています。パンと魚の奇跡の教会や、有名な説教の行われた「山上の垂訓教会」などイエスの起こした奇跡や布教活動のエピソードに関する場所が多く残されています。また、イスラエル独特のユダヤ人たちの共同農場「キブツ」も、このガリラヤ湖周辺を中心として発展したとされています。

死海の浮遊体験の後は、ヨルダン渓谷沿いの国道90号線を今日の宿泊地であるティベリアへ向かい北上します。

今日は、まったくの移動日です。成田空港からエミレーツ航空にてアラブ首長国連邦(UAE)を構成する首長国のひとつ、ドバイ首長国の首都としてアラビア半島のペルシア湾の沿岸に位置するドバイ経由でヨルダンのアンマンに向います。

パレスチナ境界のセキュリティフェンス(分離壁)も右上に見えます
第4留 マリアが、十字架を背負ったイエスを見たところ。(苦悩の母のマリアの教会)
十字架を背負った我が子をここで見たというマリアの悲しみは測りきれない、そんなマリアさまを偲んでアルメニア人が建てた教会です。十字架を背負ったイエスキリストと苦悩に満ちたの母マリア像があり、教会の入口にもその様子が描かれています。

1日目(6月19日)

麻布に巻かれて運ばれるシーン
塗油の石上で香油が塗られるシーン
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