三人兄弟
リガ最古の3軒の住宅。名前は兄弟が肩を寄せ合うようにして建っている事からです。建築様式の古い順に右から17番地の「長兄」、19番地の「次兄」、21番地の「弟」と並んでいます。17番地の「長兄」はリーガに現存する最も古い民家で(15世紀)、リーガの運河が移動し、地下水面が変化したため、かなり傾いています。黄色い建物の「次兄」の時代は、窓税がなくなったため「兄」に比べて窓の大きい見栄えのする造りですが、(17世紀)その後「弟」の時代になると、今度は「間口税」が課せられたため、間口の狭い窮屈な作りになっています。

聖ヤコブ教会
1225年に最初の記録に登場する古い教会で、15世紀に再建。塔の高さは80mです。塔の途中には「哀れな罪人の鐘」がつるされており、市庁舎広場で罪人が処罰される際に、市民に知らせるために鐘を鳴らしたそうですが、不貞な婦人が通ると自然に鐘が鳴ることから、女性たちに嫌われ、夫らに圧力をかけて外したという逸話も残っています。狭い路地に高さのある建物なので、かなり路地の奥に行かないと全景を見るにはたいへんです。

車窓から見た住宅街
1日目

カウナス城
13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐ為に造られましたが、騎士団との戦いに勝利してからは城の重要性を失い、外賓を接客する際などに使われました。

ヴィリニウスの市内観光の後に、近郊のトラカイ城を観光してからカウナスに向かいます
1日目
ルンダーレ宮殿
「バルトのベルサイユ」と呼ばれるバロック様式の豪華な宮殿で、ロシアの女帝アンナに愛されたビロン公の夏の宮殿として1736年から1768年にかけて建てられました。エルミタージュ美術館の「冬の宮殿」と同じくイタリア人のラストゥレリによる建築です。宮殿内部はロココ調の装飾で埋まった、まさに贅を尽くしたものになっています。

今日はリガからパウスカ近郊のルンダーレ宮殿を観光してから隣国リトアニアに入り、シャウレイ近郊の十字架の丘を訪れてからリトアニアの首都ヴィリニュスに向かいます。

ブラックヘッドの会館
15世紀からある個性的な外観の建物が1941年にドイツ軍の空襲により破壊されたものを、リガの創設800年を記念して、2000年に再建された町のシンボルです。時計の下には4つのハンザ同盟の都市、リガ、ハンブルグ、リューベック、ブレーメンの紋章とギリシア神話の神が並んでいます。会館前の市庁舎広場の中央には、リーガの守護聖人ローランドの像が立ち、向の市庁舎も再建されています。

聖ヨハネ教会
13世紀に創建され、16世紀に再建された小さいが美しいゴシック様式の教会です。中世には生きた人間を壁に塗りこむと災いから建物を守れる事ができるという信仰があり、二人の修道士が志願して壁の中に入ったとのエピソードが残る教会でもあります。

リガ大聖堂
リヴォニア(現在の北部ラトビアと南部エストニア)の宗教的中心を成してきた教会です。1211年から始められた建設は何度も増改築をくりかえし18世紀後半に現在の姿になったために、ロマネスクからバロックに至る様々なスタイルが混在しています。訪れた時は残念ながら改修工事中で外観が足場で囲まれていました。

聖ペテロ教会
13世紀に建てられ、その後改修を重ねて現在の姿になりました。塔は第二次世界大戦後に改修され高さ123.25mです。この塔はこれまで何度も火災で倒壊していて、建て直しの度に建築責任者が塔に登ってワインを飲み干し、グラスを下に落として、その破片の数で塔の存続年数を占った儀式があったそうです。

路地の先にはリガ大聖堂の尖塔も見えます

スウェーデン門
リガに唯一中世から残る城門が、このスウェーデン門です。1698年に建築され、当時向かい側の兵舎にすんでいたスウェーデン兵がたびたび利用していたことからこの名が付きました。

ラエコヤ広場と旧市庁舎
中世の時代から市場として賑わった石畳の広場には、北ヨーロッパで現存する唯一のゴシック様式の65mの塔を持つ建物の旧市庁舎があります。

トームペア城
1219年にデンマーク人が建てた騎士団の城、南側の塔(のっぽのヘルマン)にはエストニア国旗がはためく国の象徴的な建物。18世紀に、当時の権力者エカテリーナ2世が知事官邸として改築したため、正面から見ると城というより宮殿にちかいものになっています

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ポーランドの後編に
リトアニアとポーランドの国境
この国境も前回同様に、入国審査などは無くそのまま通過できますが、通貨の両替でストップしました。通貨はポーランドのZL(ズウォティ)に変わります。

杉原記念館
元外交官杉原千畝氏は、当時第二次大戦下にあった欧州リトアニア国日本領事館の領事代理時代に、ナチスドイツの迫害から逃れようとポーランドからリトアニアに脱出してきたユダヤ人難民約6000人に、日本政府の意に反しながらも人道的立場に立ち、独断で日本通過のビザを発給し続け多くの尊い命を救いました。現在もその旧日本領事館は、杉原氏の功績を伝えていくために杉原ハウスとしてリトアニア第二の都市カウナスに存在しています。リトアニア杉原記念館の建物は元リトアニア共和国教育大臣、またドツヌバ農業大学教授でもあったユオザス トンクナス氏(1894−1968)によって1939年に建てられました。杉原氏は1939年9月に、この建物を借りました。杉原氏がカウナスを去り、第二次世界大戦後の1954年、ソビエト共産党は建物の所有者ユオザストンクナス氏をシベリア流刑に処し、旧日本領事館も没収しました。その後、1992年にユオザストンクナス氏の息子であるリマンタス ユオザパス トンクナス氏が建物を買い戻しましたが、1998年に建物の維持が困難になったため当時カウナス市役所役員(現カウナス議会議員)であったラムナス ガルバラビシウス氏によって買い取られ、現在日本とリトアニアを結ぶ掛け橋として機能しております。
(*リトアニア杉原記念館H/Pからの文章引用)

市庁舎広場の旧市庁舎とイエズス教会
旧市街の中心となる市庁舎広場は、中世には市場が立った場所です。白く、美しい外観から、”白鳥”に例えられるカウナス旧市庁舎は18世紀半ばに現在の姿に建て直されから、帝政ロシア領時代は政治犯の牢獄、皇帝のの別宅としても使われました。現在は結婚登記所となっています。

旧市街のメイン・ストリート、ヴィリニアウス通り

ライスヴェス通りと聖ミカエル教会

カウナス
中世の面影を残すリトアニアの第二の都市カウナスは、15世紀半ばにハンザ同盟の代表部が設けられ、商業活動の中心地として繁栄した。旧市街には、この頃のゴシック建築が今も数多く残っています。ホテルに明るいうちに着きましたので、夕食前の市内散策をしました。

トラカイ城
ヴィリニュスから約25km離れたトラカイは、ヴィリニュスの前に首都であったところで、赤レンガの古城が水面に映える美しい観光地です。30以上の湖と森に囲まれ自然公園として景観も保護されています。もうひとつの城、半島の城址も静かにたたずんでいます。

王宮とゲディミナス大公像
大聖堂の前のカテドウロス広場の一角に鎧に身を固めたゲディミナス大公が馬を従えた像が建っています、横には再建中の王宮もあります。

大聖堂
市街の中心部に建つヴィリニュスのシンボルともされる主教座教会、それゆえさまざまな歴史の変遷を経て、現在のクラシック様式の建築は18世紀の大改築によるものです。最大の見どころは、17世紀バロック様式の聖カジミエルの礼拝所です。聖カジミエルの聖画には手が3つあり、3つ目の手は画家が何度消しても再び現れるので残されたと伝えられています。鐘楼は高さ53m、基礎部分には13世紀の城壁の塔が使われています。

聖ミカエル教会と聖ヨハネ教会

ヴィリニウス
リトアニアの首都で、タリンやリガと違い内陸に開かれた、深い緑に包まれた静かな街です。旧市街を中心に華麗なバロック建築も数多く残されています。”日本のシンドラ”と言われる杉原千畝の記念碑が旧日本領事館があったカウナスだけでなく、ここのネリス川沿いにもあります。しかし、ガイドさんの話では地元では年々風化して、ここを訪れるのは主として日本の観光客になってきたのは残念です、、、、

1日目
ゴシック様式の傑作ペルクーナスの家
ヴィタウタス大公教会
旧市庁舎
イエズス教会
広場の向こうには聖ペテロ教会が見えます
ベルナルディン修道院
1日目

ヴィタウタス大公像
15世紀初めにリトアニアの最盛期を築いた大公の銅像。足下には彼が支配下に置いたロシア、ポーランド、タタールの兵士と折れた剣を持ったドイツ騎士団の兵士を従えています。

聖ペテロ&パウロ大聖堂
15世紀の赤レンガの大聖堂で、外壁には有名な詩人であり教会の神父でもあったマイロニスの墓が添え付けられています。内部の壁一面に描かれたフレスコ画と彫刻で飾られた祭壇も印象的です。

高台から見たヴィリニュスの街

ゲディミナス城
13世紀に建設が始まった城ですが、19世紀初めにロシアによって破壊され、王宮などが現在再建中です。丘の上の塔は、街が一望できる展望台になっていますが、道は補修中、リフトは運休していまして上ることが出来ませんでした。

聖アンナ教会とベルナルディン教会
これぞ「ゴシック」と言わんばかりの、見事な赤レンガの教会です。33種類のレンガが組み合わされ、まるで成長する木のような躍動感を感じされる16世紀当時の技術の粋を集めたつくりです。

聖ペテロ&パウロ教会
建物は1668年から完成までに7年かかり、内装がすべて終了したのはその後30年の歳月をかけたといわれます。バロック調の2000以上の華麗な漆喰彫刻が教会内の天井や壁を埋め尽くすさまは、ヴィリニュスのバロック建築の中でも最高傑作に挙げられています

大統領官邸とヴィリニュス大学
白亜のシンプルな建物が大統領官邸です。官邸の向かいにあるヴィリニュス大学は16世紀に設立されたこの地方では由緒ある大学です。特に大学の天文観測所は創設当時の18世紀には英国のグリニッジ天文台と双璧をなすほどだったそうです。

杉原千畝の記念碑
十字架の丘
大小無数の十字架が立ち並ぶ様は、まさに壮絶。最初の十字架は1831年のロシアに対する蜂起の後、処刑された犠牲者の為に立てられたらしい。それからは抑圧された民族、宗教の象徴として扱われたが、ソ連時代には禁じられKGBと軍により、何度もなぎ倒し焼き払われた。しかし人々は十字架を立て続け、今では世界中から訪れる人の思いを吸収して増え続けています。現在では100万本以上あり、リトアニアの人々は結婚、出産など人生の節目には、ここに来て十字架をそなえて神に祈るそうです
ラトビアとリトアニア間の国境
国境の両替所

ユーゲントシュティール建築
ユーゲントシュティール(独語でアールヌーヴォーの意味)は19世紀後半にヨーロッパ各地で流行した新芸術様式で、ちょうどリガの大建築ブームと重なり、市内の約40%の建築がこの様式で、凝った建築が多く建てられました。

リガ
ラトビアの首都リガは、経済や交通の中心でありバルト三国では抜きん出た大都市です。13世紀にハンザ同盟に加わり急速に発展した頃の教会や商家などが、今も旧市街に残る街です。

リガ城
リヴォニア騎士団の城として築かれて以来、破壊、再建、改築が繰り返され、時の支配者が住む所になり、最初のラトビア大統領官邸となりました。

今日はタリンからパルヌを経て隣国ラトビアの首都リガに向かいます。陸路での国境越えですがEU加盟国なのでシェンゲン協定に基づき入国審査などは無くそのまま通過できますが、通貨の両替でストップしました。ユーロからラトビアのLs(ラッツ)に変わります。

展望台
トームペアの丘の上から、塔が立ち並ぶタリンの下町とバルト海を見下ろせる場所です。まさに「絵葉書」のような情景です

この国境も前回同様に、入国審査などは無くそのまま通過できますが、通貨の両替でストップしました。通貨はリトアニアのLt(リタス)に変わります。
宮殿の南側に広がるバロック様式のフランス庭園
戴冠式が行われた最も豪華な「黄金の広間」
舞踏会が行われた「白の広間」
再建された市庁舎
ユネスコ世界遺産登録章
観光の後、ソラリス・ショッピング・センターに立ち寄りました

ふとっちょマルガレータ
1952年に建てられた直径24m、壁の厚さは4.7mある砲塔です。後に、倉庫や兵舎、監獄などにも利用され、監獄時に囚人の食事を作っていた太ったおかみさん、マルガレータがそのままこの砲塔の愛称になったそうです。塔と細身の見張り塔の間にあるのがスール・ランナ門です。 門から三人姉妹の住宅が見えます。

エストニア野外博物館
ソ連時代の農業集団化政策で伝統的な農村が破壊されたために、17世紀ごろからのエストニア各地の木造建築を当時のままの姿で移築・保存されています。家も生活用具や家具なども残され、まるで昨日まで人が生活していたような気配が感じられます。

タリン旧市街は、北ヨーロッパで最もよく保存された街で、ぐるりと城壁に囲まれ、細い通路や坂、どこを切り取っても絵になる街です。

大聖堂(トームキリク)
1219年にデンマーク人がトームペアの丘を占領した際に建てられたエストニア最古の教会

街角ウオッチングと建物の装飾

アレキサンダー・ネフスキー教会
1901年に支配者であった帝政ロシアによって建てられたロシア正教の教会です。ロシア特有の玉葱型の丸屋根はチョット異質に映ります。

アレクサンドル・ネフスキー聖堂

タリン
バルト海のフィンランド湾を望むエストニアの首都です。タリンはエストニア語で「デンマーク人」の意味です、11世紀にデンマーク人が原型をつくったことに由来しています。

1日目
エストニア側国境
ラトビア側国境

三人姉妹
15世紀に建てられた住宅(商家)の集合体で、美しく飾られたファサード(建物正面の壁)が女性的な雰囲気を持っていることから”三人姉妹”と呼ばれている。今はホテルとして使用されています

旧市街のメイン・ストリート、ヴィル通り
石畳の坂を建物、看板ウオッチングしながらくだって、町の中心ラエコヤ広場に向かいます
バルト海の港には大型客船が停泊中
大聖堂の屋根とキーク・イン・デ・キョク(防御目的の塔)
聖カジミエルの礼拝所
花を持つ手が3つある聖カジミエルの聖画

時差で早く目が覚めたのと、泊まったホテルがトームペア城に近いので早朝散歩しました。

プロペラ機でタリンにきました

悠久のポルトガル8日間

「公の謁見室」、天井画はヴィーナスとアドニス
公夫人のトイレ
「公の寝室」、タイルストーブは1740年製

現在、日本からエストニアへの直行便は無いので、フィンランド航空(Finair)便でヘルシンキ経由で成田を11:00に出発してエストニアのタリンに向かいます。

「黄金の広間」の金箔の漆喰彫刻
楕円形の「磁器の広間」
公夫人のプドゥアール
ポーランドの後編に
教会の壁付近にあるブレーメンの音楽隊のモニュメント

トームペア城と、のっぽのヘルマン 


2011年10月06日〜17日

今日はカウナスの市内観光の後に、約400kmの道のりをポーランドのワルシャワに向かいます

歌の原・野外音楽堂
タリン郊外にあり、5年に一度のエストニア最大の祭り「歌の祭典」が開催される野外音楽堂です。この祭典には民族衣装を着て各地から集まった3万人以上の歌い手と10万人以上の観客が集まります。1988年の祭典では民族の人口の3分の一の30万人以上が集まり独立への思いを歌にした事でバルト三国の独立運動が「歌う革命」と言われました。

1日目
エストニア航空機
高さ123.25mを感じる光景です

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