シェルドル・メドレセ、
広場の正面の東側に1636年に建てられた神学校。シェルドルとは「ライオン」と言う意味で、入口のアーチには小鹿を追うライオンとそれを眺める日輪を背にした王が描かれてます。イスラームは偶像崇拝を禁じる教義なので人や動物をモチーフにしませんが、支配者が自分の権力誇示のためにあえて禁を破ったらしいです。
アラクル・ハン・メドレセ
アラクリ・ハンが1830年から10年かけて東門の隣にメドレセ、その北にバザール、キャラバンサライ(隊商宿)を建てたものです。現在はバザールとして利用されています。向側にはタシュ・ハウリ宮殿があります。
遊牧民のユルタの内部
アフラシャブの丘の南麓から市街を望む
アルク城、
レギスタン広場に面する、この城の周辺が古代ブハラ発祥の地ですが、2000年以上前にさかのぼるので最初の城塞がいつ造られたかは不明です。モンゴル来襲の時は立てこもった多くの町民が虐殺され、城も破壊されましたが、その後も再建、破壊を繰り返し今も残る城は18世紀の物で1920年にロシア赤軍に攻略され滅亡するまで歴代ブハラ・ハーンの居城でした。広さは約4haで、城内でひとつの町が形成されていました。
中庭
ハーンの写真
リャビハウズ、
ハウズとは”池”のことです。ザラフシャン川がもたらす水が豊かなブハラの町には、つい最近まで張り巡らされた運河と200近くの池(ハウズ)のある水の都でしたが、今はハウズも6つあるだけだそうです。ここは広さ46mx36mの池で、今でも水を汲んだり洗濯がしやすいように、階段で下りられるようになっています。周りには樹齢何百年にもなるような老木が茂り、木陰を提供しています。この公園にはファジャ・ナスレッディンと呼ばれるユーモアに富んだ授業で有名だったイスラムの神学者のユーモアな像があります。
珍しいコタツのあるハーレムの部屋
タキ・バザール、
タキとは大通りの交差点を丸屋根で覆った交差点バザールで、旧市街を南北に貫くハキカット通りの北からタキ・ザルガロン(宝石商)、タキ・テルパクフシャン(帽子屋)、タキ・サラフォン(両替商)が並んでいます。タキ・ザルガロンにはコウノトリをモチーフにしたハサミ($10〜)や手作りナイフやハサミの店が並んでいます。。
インドの影響のファサード
オスマン・トルコの影響の花柄タイル装飾
建物内部の装飾
タキ・ザルガロン(宝石商)
タキ・テルパクフシャン(帽子屋)
タキ・サラフォン(両替商)
ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ、
1622年にキャラバン・サライ(隊商宿)として建て始めたが、2羽の鳳凰が爪で白い鹿をつかんで太陽に向かって飛ぶ正面のタイル画は偶像崇拝を否定するイスラームの教義に反するので、支配者の怒りを買うのを恐れてメドレセ(神学校)に変更したものです。中庭を取り囲むフジュラ(学生用の部屋)は現在みやげ物屋になり、夜には中庭で民族舞踊のディナーショーが行われるので、楽しんできました。

悠久のポルトガル8日間

ナヴォイ劇場、
1947年に完成した、第二次世界大戦後タシケントに抑留された旧日本兵などの捕虜に、強制労働させて造らせた劇場です。「日本人が建てたこの劇場は1966年4月の直下型の大地震の時にもびくともしなかった」と現地では褒められていますが、、、、、先人の苦労を思うと複雑です。
1日目

2012年4月20日〜27日

ブハラ(Buxoro)
シルクロードの中枢に位置し、2500年以上の歴史を持ち、サンスクリット語で”僧院”を意味するブハラは、イスラム王朝の庇護のもとに中央アジアのみならず、イスラム世界全体の文化的中心地として繁栄を誇った町です。しかし1220年のチンギス・ハーンの襲来で破壊されました。16世紀になってブハラは再びよみがえり多くのモスクやメドレセが建築され、宗教的充実に多くの冨が注ぎ込まれました。シルクロードの面影を色濃く残すブハラの町並はこの頃に完成して、今日まで変わらずに存在しています。

街中の風景
クフナ・アルク
17世紀に建てられたハーンの宮殿で城壁で囲まれており、中には公邸、モスク、ハーレム、兵器庫、火薬工場、造幣所などもありました。タシュ・ハウリ宮殿(新宮殿)が出来てからは区別する為に「古い宮殿」と呼ばれるようになりました。中のアクシェイフ・ハバの見張り台からはヒヴァの全景を見渡せます。
更に、ウズベキスタンではホテルの宿泊証明書が必要です。
72時間以上滞在する外国人は滞在登録が求められ、通常はホテルが代行し、チェックイン時に氏名、パスポート番号、宿泊日数、ホテル名を記入した簡単な宿泊証明書と言うかメモ紙をくれますので個人旅行では、忘れずにもらう必要があります。すべての宿泊先の証明書は出国時にチェックされ忘れた場合等には罰金が科せられますので要注意です。但し旅行代理店経由で団体ビザを取得した場合は添乗員が一括してこの面倒を見てくれますので、これも代行手数料に含まれたサービスのうちでしょうか
正面入口
正面入口の裏側
天国への階段
すべての観光を無事終えて21:05発の直行便にて帰国の途につきます。
アムール・ティムール広場、
新市街の中心地で、ここには500スム札にも描かれている新生ウズベキスタンのシンボルともいえるティムール像が建っています。
ウズベキスタン工藝博物館、
1907年に建てられたロシア公使の私邸を博物館にしたもので、ウズベク各地から招かれた職人によってイスラムの宮殿のような装飾が施されている。さまざまな展示品があるが、なかでもスザニと呼ばれる刺繍の壁掛けが美しいです。

11世紀頃からタシケント(石の町)とよばれ、シルクロードの中継点として最も栄えたが、モンゴル軍に破壊された後、ティムール帝国の時代に町は復興し全長25kmの城壁に囲まれた人口10万人の都市に成長しましたが、1865年から始まった帝政ロシアによる支配で街の様相が激変しました。ロシア人の入植が続き土塀の続く旧市街は、整然と区画された街並に変わりました。1966年4月の直下型の大地震で壊滅的な打撃を受けましたが数年で町はまったく新しい近代都市にかわりましたので、現在のタシケントにはシルクロードの風情を感じる事はありません、むしろ200万人以上の人口を抱える大都会で、”中央アジアの首都”と呼ばれ、中央アジアで唯一の地下鉄が走る都市です。

今日は、サマルカンドから特急列車シャルク号でタシケントまで行きます。その後タシケント市内を観光して夜の飛行機にて帰国します。
1日目
料理について、
サムサはナン生地で玉葱や野菜とひき肉を包んだパイ(写真左)、シャシリクはスパイスが香ばしい羊や牛肉の串焼き(写真中央)、サマルカンドと言えばナンが有名です。ティムールの時代から「ナンはサマルカンド」と言われていたほどです。分厚く、もちもちした食感が特徴で、同じ材料と製法でサマルカンド以外の場所で作っても、サマルカンドと同じようなナンは出来ないそうです。また水をつけて焼きなおすと2年後でも食べられると言われています。バザールではよく売っています。1つ1000スム(¥50)位です。
ビビハニム・モスク、
1399年のティムールのインド遠征の凱旋記念に建てた、かってイスラム世界で最大の規模を誇ったモスクです。サッカー場がすっぽり入るほどの敷地に大モスクと南北二つの小モスクが並び入口には巨大なアーチがあり、現在は修復が進み、かっての姿を取り戻しつつあります。中庭の中央にはウルグベクによって寄進されたコーランを置く為の巨大な大理石のラウヒ(書見台)があります。
ティムールの墓石
入口の門に入ると、直ぐに天国への階段があり、その先には、ドームを冠した廟や、アラビア模様のタイルが施されたモスクが続きます。
1日目

サマルカンド(Samarqand)
”青の都”、サマルカンドの存在が初めて世界に知らされたのは紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の遠征軍が到達した時です。しかし1220年のチンギス・ハーンのモンゴル軍の攻撃で壊滅的な被害をうけました。そんな町を復活させたのがティムールです。彼は各地から連れ帰った優秀な職人や建築家たちを使い、サマルカンドを壮大な建造物の建ち並ぶ帝国の都に造り変えました。ティムールが好んだトルコ石色の青は、サマルカンド・ブルーとして、この町を特徴づける色となり、ぬけるような青空に映えて、それから600年を経た現在も圧倒的な迫力を持っています。

夕方サマルカンドに着く頃から天候が急変して、ヒョウが降り始めてから強風大雨に変わり、予定したレストランの前の道路は濁流が流れて車から降りて中に入れず、道路沿いの立ち木は倒れてくるし、やむを得ずケータリング・サービスにして頂きましたが街中は停電でホテルに着いてからはロウソクの灯りで”雰囲気のある食事”を思いがけずに楽しみ、忘れがたい思い出になりました。周りは砂漠なので翌日は水はきれいに引けていました。

ギジュドゥヴァン
ブハラから北東約46Km離れた所にある独特な陶器で有名な町です。この地で代々陶芸家の家の6代目となるアブドゥッロ・ナルズラエフ氏の工房と陶器博物館があり、場所柄ここは観光客のストップ・ポイントになっていますので見物です。

イスマイール・サマニ廟、
892〜943年にかけて建てられたイスラム初期の建築様式の霊廟で中央アジアに現存する最古のイスラム建築です。モンゴル来襲の時もマゴキ・アッタリ・モスクと同様に、殆ど地中に埋もれており周囲も墓地だったので気付かれなかったようです。1925年に発掘されました。9m四方で壁の厚さ1.8m日干し煉瓦を積み重ねた半球ドームの単純な構造ですが、壁面はレンガだけでさまざまな模様に積み上げいるのは見事で、陰影があり、当時の技術水準とその美意識の高さに感動します。特に月の光で見ると最も美しいと言われています。建物を3度回ると願いがかなうそうで回っている人もいました。
ボロハウズ・モスク、
1712年にアルク城の前に建てられたハーン専用のモスクです。ハーンは祝いの日にはアルク城から絨毯の上を歩いてここまで来たといわれます。建築もブハラでは他に見られないアイワンという独自のスタイルで、前面に彫刻されたクルミの柱が20本並ぶテラス状の空間があり軒や天井はカラフルな色に塗られています。モスクの前にはハウズと呼ばれる”池”があります。
ジュマ・モスク
中央アジアで最も有名な多柱式建築のモスクのひとつで、10世紀に建てられてから改修工事を重ねて18世紀末頃には現在の姿になりました。内部は多くの彫刻された柱が213本並び独特の雰囲気があります。モスクの前にあるミナレットの高さは42mあります。
ヌルッラバイ宮殿
城壁の外にある商人ヌルッラバイの敷地に20世紀はじめに建てられた宮殿です。ホテルから近所のスーパーマーケットに行く途中に寄りました。

ヒヴァ(Xiva)
ウルゲンチから南西に35kmのアムダリヤ川下流のオアシスとして、古代ペルシャ時代からカラクム砂漠への出入り口として繁栄した町です。歴史は古く8世紀には存在していた事が知られていましたが、当時はシルクロードの脇道の小さな中継点にしか過ぎなかったようです。10〜14世紀にホレズム帝国の都が旧ウルゲンチ(今のトゥルクメニスタンのクフナ・ウルゲンチ)が繁栄を迎えてもヒヴァは相変わらず脇役のままでしたが、17世紀にアムダリヤ川の水系が変わった為に首都がヒヴァに移されたことにより、ホレズム帝国の政治、経済、宗教の中心地になりました。その後ホレズム随一のイスラムの聖都となり、外敵の侵入を防ぐ為に外壁と内壁の二重の城壁で守られるようになりました。

アヤズ・カラ
6,7世紀からの遺跡でウズベキスタンで約50ある要塞の中で最大規模です。、3つのカラ(城市)跡の山が並び、かっては山が橋でつながっていたそうです。ふもとにある遊牧民のユルタ(移動式天幕住居)で昼食をいただきました。ここでは太陽光発電による電源で、あまり冷たくはなかったですがビールも飲めました。トイレは水が無いので男性はラクダに見つめられながら自然の中でした。

1日目
今日もブハラを観光した後に、ギュジュドゥバンを経由してサマルカンドに向かいます。
タキ・バザール内
食事も終り19:30にホテルに戻りますが、まだ十分明るいです。
ミル・アラブ・メドレセ、
カラーン・モスクに面して建ち、巨大なアーチと青い二つのドームを持つ、このメドレセは、1536年にウバイドゥッラー・ハーンが3000人以上のペルシャ人奴隷を売って建設資金をつくったので、「人々の涙と血と悲しみを土台に」に建てられたと記録されているそうです。植物文様と文字文様を組み合わせたモザイクタイルの装飾は、末期ティムール様式の典型とされています。
カラーン・モスク、
1514年に建てられた、その名のとおりの巨大なモスクで、サマルカンドのビビハニム・モスクに四敵する広さで、1ha、1万人の信者が礼拝できたが、ソ連時代は倉庫となったが、独立後、再び礼拝所として再開された歴史を持ちます。中庭は回廊で囲まれ、回廊は208本の柱で天井を支え、288の丸屋根で覆われています。
カラーン・ミナレット、
1127年に建てられた塔で、カラーンとはタジク語で”大きい”の意味で、その名のとおり高さ46m、基底部の直径は9m、土台部分は地下10mと、ブハラで最も高くシンボル的な塔です。壁面をそれぞれ異なるレンガの積み方で装飾した、ユニークなデザインで砂漠から来るキャラバンにとって道しるべでもありました。18,19世紀には死刑場として使われ、袋に詰めた死刑囚を上から投げ落としたので「死の塔」と呼ばれた時期もありました。
マゴキ・アッタリ・モスク、
1936年に、ロシアの考古学者により掘り出されたモスクです。マゴキとは”穴の中”と言う意味で周囲を5m位掘り下げて、穴の中にすっぽり掘り出した状態になっていますので、その名前が付けられています。最初、6世紀までは仏教寺院、アラブに支配されてからイスラムのモスクに建替えられた歴史をもちます。現在モスク内部は絨毯博物館になっています。
アルク内の玉座の間のテラスは2本の高い柱と壁面は七宝タイルで覆われています。
イスラム・ホジャ・メドレセとミナレット
1910年に建てられたヒヴァの中で最も新しいものです。特徴的なのはミナレットがヒヴァで一番高く45m、基底部の直径は9.5mです。
サマルカンドの街並
ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ
ムハンマド・アミン・ハーンが建設を命じて1852年に完成した、中央アジア最大規模の神学校で、最盛期には99人の寄宿生がいたと言われます。ここは神学校だけでなくイスラムの最高裁判所の事務局もありました。中庭を取り巻く建物には125の部屋があり、現在はホテルとして利用されています。
ミフラーブ(右上)と天井(右下)
タシュ・ハウリ宮殿
1830〜1838年にかけて東門近くに建てられたヒヴァの中で最も豪華なタイルや装飾で飾られている宮殿です。儀式の間の天井にはカラフルな幾何学模様で、大小163の部屋があるハーレムは青色のタイルで幾何学模様の壁で装飾されています。
グリ・アミール廟、
グリ・アミールとはタジク語で”支配者の墓”という意味で、ティムールをはじめ彼の息子達一族の霊廟です。青の都と呼ばれるサマルカンドでも、ひときわその青さが引き立ち独特のドームが際立つ壮大な建物です。廟内部は1996年に修復が終了し建設当時の美しさを取り戻しています。内部の壁の文様を覆うには金を3Kg使用されたそうです。
アヤズ・カラからバス移動してヒヴァに比較的早く着きましたので今日からヒヴァ観光をします。ホテルは北門のすぐ近くのサビール・アルカンチ。

クワット・カラ
チンギス・ハーンに滅ぼされるまでの重要なオアシスがあった所ですが、遺跡は自然崩壊しており塀で囲んで集落の人々が立ち入らないよう保護されていました。集落の人達は、日本人(外国人)が珍しいのか子供から大人まで家から出てきて私達を見ていました。

マルカンド・ペーパー工房
8世紀の中頃にタラス河畔の戦いで捕らえられた中国・唐兵の中にいた紙すき職人からサマルカンドに製紙法が伝えられ、8〜9世紀のサマルカンドは中近東一の紙の生産地になり、ここからイラク、エジプト、ヨーロッパへ製紙法が伝えられました。桑の枝の表皮からできた原料を使う伝統的な製法を再現したサマルカンド・ペーパーの工房が近郊のコニギルにありますので見学に行きました。基本的には和紙の製紙法と同じでしたが、、、、

トプラク・カラ
紀元前1世紀から紀元後5世紀にかけて築かれたカラ(城市)で500mx340mの日干し煉瓦つくりの城壁に囲まれ、北西隅には3つの楼閣を持つ宮殿があり、広場、火を祀る神殿、市民の居住区跡などが並びますが、遺跡保存がされてなく自然崩壊にまかせている状況でした。白く見えるのは塩です、太古の時代は海であったためだそうです。

水車小屋が再現されて桑の繊維を細かくします
ティムール像

カラカル・パクスタン自治共和国(Quraqal Paqstan)
「黒い帽子を被る民族の国」の意味を持つ自治共和国で、ウズベク人が最大勢力ですがテュルク系カラカルパク人が民族構成を占めています。アムダリヤ川に架かる橋は国境ですので厳重に警備されていました。ここには古代ペルシャで興ったゾロアスター教の火を礼拝の対象にした宗教(拝火教)を信仰していた古代ホレズム王国の遺跡が多く残っていますので”カラまわり”をしました。ちなみにカラとは城市の事です。

砂漠の塩の竜巻と、白い塩が見えるのは川の跡
祈りを捧げる女性
カルタ・ミナル
西門に入ると直ぐ見える1852年に着工された青色の彩釉タイル模様で覆われた未完成の美しいミナレットです。底部の直径は14.2mですが高さは26mで建設が中断されたままです。
ティラカリ・メドレセ、
広場の正面に1660年に建てられた神学校で、他の二つとはかなり異なった外観をしています。ティラカリとは「金箔された」と言う意味で、中庭に入り青のドームの下に礼拝所があります。その天井は金色に輝く見事なもので、ミフラーブ(メッカの方向を示す壁の窪み)と壁面は星、植物、アラビア文字をモチーフに鮮やかな模様で飾られています。
シトライ・マヒ・ホサ宮殿、
ブハラ近郊にある”月と星の宮殿”という美しい名前をもつ夏の宮殿で、ブハラ・ハーン国最後のハーン、アリム・ハーンが1911年に建てた外観は西洋風、内装は東洋風の宮殿です。応接間や謁見の間は、当時最高の職人達が趣向を凝らして内部を装飾し今も息を飲む様な美しさを保っています。広い敷地内には、若い女性を水浴びさせ、気に入った女性にリンゴを投げてその日の相手を決めたプールや30人もの女性を住まわせたハーレムなどもありました。ハーレムの建物は現在はウズベクの刺繍スザニの博物館になっています。
現地ガイドのツルさん
ウルグベク・メドレセ、
ウルグベクが真の教育施設としてサマルカンド、ブハラ、ギジュドゥヴァンの3ヶ所に建てた物の一つで、1418年に創建された、現存する中央アジア最古の神学校です。各所に残る植物や星、幾何学模様の装飾は当時の彩釉タイルのままです。

ウルゲンチ(Urganch)
ブハラからキジルクム砂漠を北西に450km行ったアムダリヤ川の河口にあるホレズム州の州都で、ソ連時代に造られた近代的な町ですが、町自体には見るべきものは少ないです。ここからウズベキスタン共和国内の最西部にあるカラカル・パクスタン自治共和国にバスで向かいます。

良く出される”ナッツのおつまみセット”です。上から右回りに乾燥大豆(枝豆)、ピーナツ、杏の種、乾燥した杏の種、干し葡萄。特に黒い乾燥杏の種はピスタシオに似て美味しいです。白い杏の種はアーモンドに似ています。最初はそれぞれピスタシオとアーモンドと間違えるほどでした。
ウルグベク・メドレセ、
広場の西側に1417年に建てられた神学校で、広場では最古の建造物です。ウルグベクはティムール朝の第4代君主で天文学者としても高名でした。高さ36mのアーチには青い星をモチーフにしたタイルとモザイクの模様が描かれています。
ヒヴァ生まれの科学者ムハンマド・アル・ホレズミの像
西門から内城イチャン・カラに入ります
タシケント駅

タシケント(Toshkent)
早朝5時にホテルを出て朝一番の飛行機でウルゲンチに向かいます。綺麗な朝焼けが印象的でした。

1日目
1日目

2011年9月に建国20周年を迎えた若い、宗教的にも比較的自由な国ですが、10人に一人は警察、警備関係の職業に就くなど旧ソ連の影響を未だに引きづり空港内部、地下鉄、トンネル、橋梁などでの写真撮影は禁じられています。人々は皆、明るく少しシャイですが写真に撮られる事を喜んでくれますし日本人が、まだ珍しいせいか若い人からは一緒に写真を撮らせてと、よく頼まれました。又、旧ソ連時代に育った方々が多くロシア語は通じますが、英語は殆ど通じません。しかし、学生や生徒は英語を学んでいるために、話せる機会があれば話したいようで何人からも声を掛けられました。

バザールでは、ナン、蜂蜜、野菜、果物、肉、日用品などが主ですが特産の干し葡萄、ナッツ類も豊富でした。

今日は、出発予定が到着便の遅れで2時間遅れの出発となりました。写真は飛行経路にあるタクラマカン砂漠とティエンシャン(天山)山脈です。目的地タシケントに向かいます。

サマルカンド駅
ウズベキスタン入国にはビザが必要です(写真 右)。
観光目的で行く場合、招待状などは不要で有効期間1ヶ月までのビザが簡単に取得できます。ビザの申請は事前にウズベキスタン大使館にある領事部(東京・目黒不動尊の近く)で個人申請で取得出来ます。通常、申請から入手までは一週間です。必要書類はウズベキスタン外務省のWebサイトのフォームに入力してプリントアウトしたものに手書きでサインをして写真を貼ったもの以外は受理されませんので要注意ですが、詳しくは日本の領事部のH/Pに記載されています。費用は2000円でした。旅行代理店に依頼すると、ビザ費用以外に代行手数料が4200〜6300円必要です。
観光地で売る土産物の絵や彫金細工の職人
パフラ・バン・ムハンマド廟
ヒヴァの庇護者として尊敬されていたパフラ・バン・ムハンマド(1247〜1326年)が祀られています。彼は毛皮職人でしたが、詩人であり哲学者であり武道の達人でもあったのでパフラ・バン(強者)と名付けられました。
チャシュマ・アイユブ廟
人々が水不足で苦しんでいる時に預言者ヨブが、ここを杖でたたいたら水が湧き出たと言う伝説による”ヨブの泉”です。今でもこの建物の中に泉があり水が湧き出しています。
シャーヒズィンダ廟群、
アフラシャブの丘の南麓にあるサマルカンド有数の聖地で、ティムールゆかりの人々の霊廟とモスクが14ヶ所、はぼ一直線に建ち並ぶ”死者の通り”です。壮大な霊廟建築群、その装飾の多様さ、美しさで中央アジアでも指折りの名所とされています。
トプラク・カラの前でユルタと呼ばれる遊牧民の移動テントですが、ちょうど組立ていました。

イチャン・カラ,
ヒヴァの内城イチャン・カラは、高さ約8m、厚さ約6m、長さ2100mの城壁で囲まれ20のモスク、20のメドレセ(神学校)、6基のミナレットなど多くの遺跡が残されている「博物館都市」です。1990年に世界遺産に登録されました。一般にヒヴァと言う時は、このイチャン・カラを指しています。

北門
高さ約8mの城壁内に建物があります
東門
金箔で装飾された内部
西門
アクシェイフ・ハバの見張り台からの眺望
厚さ約6mの城壁
1日目
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旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

成田に帰国

タシケント(Toshkent)

昼食は近くのアジア・ブハラ・ホテルのレストランでプロフ(中央アジア風ピラフプ)です。写真はどこでも良く出てくる赤いビーツと黄色い人参サラダです。韓国のキムチのようなものでしょうか。
アブドゥールアジス・ハン・メドレセ、
ウルグベク・メドレセが建てられてから200年以上後に建てられた神学校です。装飾にはインドやオスマン・トルコの影響が見られ内装の色彩も豊かになったのが比べてみると良く分かります。
タシケントの街並
今日は、イチャン・カラを一日観光した後に、夜の飛行機でブハラに向かいます。
4人の正妻の部屋の天井のカラフルな幾何学模様と柱に刻まれた浮き彫り
1日目
レギスタン広場、
レギスタンとは”砂地”の意味です。3つの巨大なメドレセ(ウルグベク、シェルドル、ティラカリ)が向き合って建つ名所です。チンギス・ハーンの来襲以降、アフラシャブの丘から移動したサマルカンドの商業の中心地となり、主要道路の交差点でもあった広場は、公共の広場としても謁見式や閲兵、罪人の処刑なども行われました。
タシュ・ハウリ宮殿
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