ツァレヴェッツの丘と大主教区教会
17世紀創建当時の古い教会
教会入口のフレスコ画
黒の教会、
街の中心にそびえ立つ高さ約65mの後期ゴシック様式の教会です。14世紀後半から15世紀に約80年かけて建立されましたが、1689年にハプスブルク軍の攻撃で外壁が黒コゲになったことから、この様に呼ばれるようになりました。教会内部には1839年に造られた4000本のパイプと4つの鍵盤を備えたルーマニア最大級のパイプオルガンがあります。また、16〜18世紀のトルコ、アナトリア産の絨毯が飾られています。
山上教会
時計塔のある広場から屋根のある木造階段を上がるとある14世紀の教会です。ここからは町を一望できます。
屋根のある木造階段入口

8日目(10月1日)

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旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

成田に帰国

悠久のポルトガル8日間

7日目(9月30日)

今日の観光を終えてシナイアから再びブカレストにバスで戻り、夕食のレストランに行きましたら途中から結婚披露パーティーが始まりましたので新郎新婦と一緒に皆さん写真に納まりました。今宵の宿泊はアテネ・パレス・ヒルトンです、部屋の窓から革命広場が見えました。

ビエルタン(Biertan)

ビエルタンの要塞教会
シギショアラから南西に27kmにあるピエルタンには世界遺産登録された要塞教会があります。16世紀にオスマン朝の襲撃に備えて三重の防塁に囲まれているのはここだけで、町全体が望める見張り台もあり、その姿はまるで城そのものです。教会の敷地内には食糧倉庫もあり、長期の攻防戦にも耐えられるようになっていまが、実際には攻撃されたことはなかったようです。
ローマの円形劇場跡
旧市街の断崖にある2世紀に建てられた半円形の劇場跡です。遠くにはロドビ山脈も見える抜群の場所で約3000人が収容できる保存状態の良い劇場です。
外壁や天井のフレスコ画
城塞都市の入口門
ペリショール城、
ペレシュ城と同じ敷地内にあるカロル1世の狩猟用の城で1902年に完成した中世ドイツ風の質素ですが美しい外観です。

国立考古学研究所付属博物館
もともとは大寺院を意味するビュユック・ジャーミヤと呼ばれた1494年に建てられたイスラム寺院でしたが19世紀から博物館として利用されています。博物館前の大統領官邸では衛兵の交代式が行われます。

2012年9月24日〜10月01日

学校博物館

3日目(9月26日)

ヴラド・ツェペシュの像
国立美術館と民族博物館
かっては王宮として使用されていたブルガリア・ルネッサンスとバロック風の壮麗な外観の黄色い建物です。
市庁舎
聖母誕生教会
凱旋門
第一次世界大戦の勝利を記念して1919年に木造漆喰塗りの物で造られたが1930年に造り変え現在の姿になりました。周辺のロータリーには菩提樹やマロニエの並木道が続きますがパリのシャンゼリゼとは異なり華やかな賑わいは、ありません。
将校倶楽部施設
国立歴史博物館
オデオン劇場
聖処女教会
民族博物館
アラフランガ
帰りは、ミュンヘン経由のルフトハンザ便です。今年は9月22日からオクトーバーフェストが開催されていましたので機内食も名物料理付きのメニューでした。ミュンヘン空港内のバーでもビール、白ソーセージとプリッエルのオクトーバーフェスト特別セットなども出ていました。オクトーバーフェストと言う代わりに会場名にちなんだヴィーゼ(緑地)のバイエルン語、ヴィーズン(Wiesn)という別称も頻繁に使われます。例えばWiesn2012の様に。またミュンヘンの醸造組合はこの催しのために、特別に多量のホップを用いて高アルコール度で醸造した特別のビール(ヴィーゼンビィアー、緑地ビールの意)を会場では提供しますが、エコノミークラスの機内では、もってのほかでしょう、、、、、。
革命広場周辺、
今日は、帰国日ですが空港に向かうまでの時間の散策にホテル前の革命広場周辺を歩きました。テレビで世界中に放映された1989年の民主革命の銃撃戦の舞台になったのが革命広場です。石畳の広場を取り巻いて共和国宮殿(現、国立美術館)、旧共産党本部、大学図書館、アテネ音楽堂、アテネ・パレス・ヒルトン・ホテル、が立っています。
教会とはまったく関係ないですが、この人は現地の観光客です。近くでお祭りがあったので、このような猫の化粧をしたそうです。
ペレシュ城、
1875年にカロル1世がルーマニア王室の夏の離宮として美しい自然に囲まれたこの地に、8年の歳月をかけて建てたルーマニアで最も壮麗なドイツ・ルネッサンス様式の城です。
ブラン城、
小説の吸血鬼「ドラキュラ」の居城のモデルとなった城で、ブラン村の山上にそびえ立つ典型的な中世の城砦です。14世紀末に祖父のワラキア公ヴラド1世がここを居城としました。15世紀にワラキア公ヴラド3世(別名ヴラド・ツェペシュ(串刺し公))がオスマントルコとの戦いで捕虜にした兵士を見せしめの為に槍で串刺しにした異常な残酷さからドラキュラのモデルになりました。ドラキュラはルーマニア語で悪魔(ドラクル)も意味しています。
聖ニコラエ教会、
街の中心から徒歩で15分程離れたスケイ地区と呼ばれる、先住ルーマニア人がドイツ移民から移住を強いられて住み着いた街にある、ルーマニア正教の教会です。教会の前が統一広場で、教会内には1760年に建築されたルーマニア語で初めて教育が行われたルーマニア最古の学校があり、現在は学校博物館となっています。

6日目(9月29日)

スファトゥルイ広場周辺、
街の中心の、この広場には1420年に建てられた旧市庁舎があり、高さ60mの見張り塔は、ひときわ目立ちます。賑わいの絶えない広場の周辺には多くのレストランや青空が市場が開いています。広場から南東にそびえる標高865mのトゥンパ山のロープウェイやハリウッドの様に街の名前を書いた大きな表示板も見る事が出来ます。

ブラショフ(Brasov)
中世の街並を残す美しい古都で、町は12世紀にドイツ商人が建設し、ルーマニア人、ハンガリー人の3民族により発展してきたのでドイツの香りが強く感じられます。ルーマニアの他の町と異なった独特の雰囲気がある町です。。

5日目(9月28日)

昨日はブカレストからブラショフに移動して宿泊。今日は、カルパチア山脈で囲まれたトランシルヴァニア地方の、ここブラショフのホテルを起点にシギショアラとピエルタンの観光に行きます。

今日のランチは、国立歴史博物館の裏にあるスタヴロポレオス教会のむかいにある1879年創業のカルク・ベレ(Caru'cu Bere)で、ここの地ビール(400mlで8レイ、約200円)とチキン・シュニッエルを頂きました。従業員の女性も皆、美しく店内ではバイオリンの生演奏もあり非常に雰囲気の良い店でした。

ブカレスト(Bcharest)

シナイア僧院、
17世紀にワラキア公カンタクジノが、この地を訪問したのを記念して建てられた僧院で、町の名前の由来にもなっています。正面の大教会は19世紀にドイツから招かれてルーマニア王になったカロル1世が建立したものですが、古い教会は17世紀創建当時のまま保存されています。
カロル1世の銅像
シナイア(Sinaia)
町の歴史は17世紀にシナイア僧院が建立された時に始まり、18世紀にはブカレストの王侯貴族達の別荘地として繁栄したので宮殿風の小さな館が所々に立ち並ぶ街並の町です。現在は「カルパチアの真珠」と呼ばれ、ブカレストからも近い避暑地、スキーリゾートの観光地です。
かって居住区を分けていたスケイ門
シギショアラ(Sighisoara)
ブカレストから北西約300kmにあるトランシルヴァニアの中心に位置する町で、町は14世紀に造られた時計塔を中心とした城塞都市で、13世紀にこの土地に入植してきたザクセン人によって建設されました。中世の面影を色濃く残した街並には観光地化されていない素朴な魅力があります。また、吸血鬼「ドラキュラ」のモデルとなったワラキア公ヴラド・ツェペシュの生家もあります。
大学広場周辺
名前の通りブカレスト大学に面した広場で、革命の舞台になった所です。博物館、劇場などの文化施設や、レストランなどが集中する繁華街、学生街で活気にあふれています。

ルセ(Ruse)
ドナウ川を挟んでルーマニアと国境を接するルセは「バルカンではなくヨーロッパに属する町」と呼ばれる雰囲気がある町です。この街のホテル・リガで待合わせたルーマニア側のバスに荷物共々乗り換えてドナウ川に架かるフレンドシップ・ブリッジを渡り、なんなくルーマニア入国です。パスポート・コントロールと両替を済ませてブカレストに向かいますが旧共産圏の伝統でしょうか、国境の橋や、周辺の撮影は一切禁止でした。

イワノボの岩窟教会
ロム川の流れにより形成された渓谷が広がる険しくも美しい自然の残る所に、多く見られる岩をくり抜いて造られた岩窟教会は12世紀にキリスト教の隠者によって造られ始めたものです。教会内部には、世界文化遺産に登録された13世紀から14世紀頃に描かれたとされる色鮮やかなフレスコ画が残され、今でもはっきりと見ることが出来ます。
大学図書館

イワノボ(Meteora)
ドナウ川を挟んで国境を接するルセの町の手前約20km南にある緑豊かな自然の町です。この街の一番の見どころは世界遺産のイワノボの岩窟教会です。

サモヴォドスカタ・チャルシャ
チャルシャは市場の意味で、ここには古くから金銀細工、革製品、織物、木彫り、絵画などの小さな店、工房が軒を連ねている職人街です。仕事振りを見ながら石畳の街並の散策は雰囲気があり楽しいものです。

ヴェリコ・タルノヴォ(Veliko Ternovo)
かってはタルノヴォと呼ばれ、1187年から1399年に第二次ブルガリア帝国の首都として栄え、最盛期にはビザンツ帝国(東ローマ帝国)をも圧倒し、バルカン半島のほぼ全域を支配した事もあった。この町を有名にしているのは、中央ヨーロッパでも際立つ様な森に包まれたいくつもの丘と周囲を蛇行するヤントラ川の切り立った崖の独特の美しさです。

カザンラク(Kazanlak)
バラの谷で一番大きな町で、バラ祭りで有名な所です。カザンラクとはバラを加工する際に使う「銅の釜」を意味します。祭り以外の時期は静かな町ですが近郊には世界遺産のトラキア人の墓や1878年の露土戦争でロシア・ブルガリア連合軍が歴史的勝利を収めたシプカ峠などがあります。

トラキア人の墓
1944年に防空壕建設中に偶然発見された紀元前4世紀から紀元前3世紀頃のものとされる墳墓内に描かれたトラキア人のフレスコ画が世界遺産です。現在、見れるのは精巧なレプリカですが、戦闘場面や葬送儀式の様子が描かれています。
ジュマヤ広場周辺
広場への坂の途中には聖処女教会があり、広場の地下にはローマの競技場跡が残されています。かたわらには14世紀にオスマン朝のスルタンだったムラト2世の時代に建てられたジュマヤ・ジャーミヤがあり、この広場には2000年の歴史が一堂に会しています。
ルーマニア(Romania)
ブカレスト(Bcharest)
ルーマニアの首都、現地語の発音ではブクレシュティ(Bucuresti)。20世紀初頭には「バルカンのプチ・パリ」と言われたほどの美しい街並を誇っていましたが、現在その面影をとどめているのは旧市街のごく一部と凱旋門に続く通り沿いだけのようです。独裁を続けた共産党チャウシェスク政権により古い教会や歴史的建造物は破壊され、とてつもなく巨大な建物群に変られました。
国民の館
故チャウシェスク大統領が命じて造らせた巨大な宮殿で、世界中の官庁、宮殿の中ではアメリカの国防総省(ペンタゴン)に次ぐ規模だそうです。宮殿内部は純金の装飾が施され、大理石もルーマニア中から集められ、贅の限りが尽くされ「国民の・・・」とは名ばかりで、彼の私欲を満たす為に国民は飢餓を強いられと言われます。更に国民の館を起点に約4kmに渡るパリのシャンゼリゼ通りとまったく同じ「統一大通り」を作ろうとしましたが、実際には幅が6m広くなってしまいました。。
シプカ僧院
1878年の露土戦争でロシア・ブルガリア連合軍がトルコ軍に対して歴史的勝利を収めたシプカ峠の戦で戦死したロシア兵を偲んで建てられた周囲を圧倒するような金色の玉ネギ屋根の僧院です。これによりブルガリアはオスマン朝支配から脱する事が出来ました。
バラ博物館
ダマスク・ローズと呼ばれる種類のバラからの香油の蒸留工程を説明する展示物が陳列されている地域の産業博物館です
中央広場周辺
広場の横にはローマの公開会議場跡が残されています。
広場の地下のローマの競技場跡
バーニャ・バシ・ジャーミャ
スヴェタ・ネデリャ広場周辺
街の中心の広場に建つ、広場と同名の丸屋根の聖ネデリャ教会はブルガリア正教会の建物。聖ペトカ地下教会はオスマントルコ治世下の14世紀、イスラム全盛の世でのキリスト教会は地下道から屋根だけを地表に出した形のを採らざるを得なかった。近くにそびえ立つ背の高いイスラム寺院バーニャ・バシ・ジャーミャとは対照的です。この辺は地下鉄工事の際に発見された古代の城塞都市セルディカの遺跡の一部が残っています。
聖コンスタンティン・エレナ教会
1832年に古代キリスト教会跡地に建てられた、旧市街で遠くからも目立つ緑色の鐘楼を持つ教会です。
ネベット・テペの遺跡
ここは紀元前4世紀にトラキア人の一部族が要塞を築いたところで、旧市街の繁華街や、新市街を囲む3つの丘がよく見える場所です。
ゲオルギアディ・ハウス
ヒサル・カピア(要塞門

プロブディフ(Plovdiv)
トラキア平原のほぼ真中のマリッツァ川沿いにある国内第二の都市です。ローマ時代の円形劇場教から民族復興期の屋敷まで新旧の建物が見事に同居する美しい街並の町です。ヒサル・カピア(要塞門)は紀元前4世紀にマケドニアのフィリップ2世により最初に造られましたが、ローマ、オスマン朝と支配者が変るたびに破壊と修復が繰り返されました。ゲオルギアディ・ハウスは1848年に富豪のトルコ人により建てられた屋敷を歴史博物館として、またハジ・ゲオルギが1847年に建てたバロックと民族復興様式がミックスした屋敷は民族博物館民族博物館に利用されています。また西洋の様式と民族復興様式がミックスされたアラフランガという独特の建築様式もあります。

今日の夕食はブルガリアの代表的料理のカヴァルマ、肉と野菜類をトマト味で煮込んだ土鍋料理で、上に卵やチーズが載せられています。
聖ネデリャ教会
聖ペトカ地下教会
ユダヤ教のシナゴーグ
聖ゲオルギ教会
現存するソフィア最古の建物といわれ、ローマ帝国古代都市セルディカの一部です。4世紀に建てられた円形教会で内部には12〜14世紀に描かれたフレスコ画が残されています。
イヴァン・ヴァゾフ国立劇場
市民庭園の噴水前にあるブルガリアの国民的作家の名を冠した劇場です。
旧共産党本部
聖ニコライ・ロシア教会
ロシアとブルガリアでは、同じ正教とは言っても宗派が違う為に、自らの宗教上のアイデンティティを守る為に1913年に建立されたロシア正教教会。
ヴラド・ドラクルの家
ヴラド・ドラクルが1431年から4年間、ハンガリー王によって幽閉されていた家が、小説の吸血鬼「ドラキュラ」のモデルとなった息子のヴラド・ツェペシュの生家です。現在はカサ・ヴラド・ドラクル(Casa Vlad Dracul)と言うレストランになっていて、ドラキュラの仮装をした店員の写真サービスも行われています。昼食は、ここでルーマニアの代表的なサルマーレ(キャベツで挽肉などの具を包んだ料理)と、パパナッシュ(ブラショフ発祥のドーナツ風のデザート)です。
聖ソフィア教会
6世紀に建てられたビザンツ様式とロマネスク様式の初期のキリスト教会で、首都ソフィアの名前はここに由来するそうです。現在の建物は1900年以降に復元された物です。
アレキサンドル・ネフスキー寺院
ブルガリア独立のきっかけとなった露土戦争のロシア人戦死者の慰霊のの為に1882年から40年の歳月をかけて完成したバルカン半島最大の教会でネオ・ビザンツ様式の傑作です。
ボヤナ教会
ソフィアの南西ヴィトシャ山麓に建つ、ひとつの教会ながら増築により1048年に創建された聖ニコラウス聖堂と1259年創建の聖パンティレイモン聖堂、1845年創建の第三聖堂とから成り、その見事なフレスコ画で世界的に有名です。特に1259年制作の「最後の晩餐」は世界遺産に登録されていますが、写真撮影は禁じられています。

道路標識は上がブルガリア語、下が英語表記でした。ソフィアから300Km、国境の町ルセまで18km付近の牧歌的な風景です。

リラの僧院
僧院の歴史は10世紀にさかのぼり小さな寺院から、14世紀に時の王の庇護の下にブルガリア正教の総本山の僧院として中世の宗教・文化の中心となりオスマン・トルコの支配下でも、この僧院でのキリスト教信仰は黙認されていました。建物は1833年の大火で、ほとんど焼失しましたが、フレリョの塔だけが14世紀建立のまま残りました。聖母誕生教会は復旧し、民族復興様式と呼ばれる建物で再建されました。ここには、当時を代表するイコン画家により外壁や天井にフレスコ画が描かれ教会正面には数多くのイコンで飾られた壁、イコノスタ(聖障)があります。
時計塔
14世紀にシギショアラがギルドによる自治都市となったのを記念して建てられた町のシンボルで高さは60mあります。1670年に街の大火で焼失しましたが再建され、現在も機械仕掛けの「からくり時計」として、深夜0時に人形が動きます。
フレリョの塔
アテネ音楽堂
アテネ・パレス・ヒルトン・ホテル

4日目(9月27日)

共和国宮殿(現、国立美術館)
旧共産党本部

出発前にホテルの部屋から見たヴェリコ・タルノヴォの古都の美しい街並

僧院の入口
アテネ・パレス・ヒルトンの部屋からの革命広場
僧院への道の入口に建つ創始者イヴァン・リルスキの像
宿泊したホテルの13階の部屋からの日の出の街並
クレッレスク教会
革命広場に面して建つ18世紀建造の典型的なルーマニア正教の教会です。入口のポーチの天井には善と悪を裁く神の姿が描かれた18世紀当時のフレスコ画を見ることが出来ます。
ジュマヤ・ジャーミヤ

ソフィア(Sofia)
周囲を山に囲まれたブルガリアの首都で、ヨーロッパの首都としてはマドリッドに次ぐ高所にある標高550mの盆地です。町の歴史はアドリア海と黒海を結ぶ交通の要所として紀元前7世紀に古代トラキア人により建設され、紀元後にローマやビザンツ帝国、オスマントルコによる支配される時代が続き第二次大戦後は旧ソ連に忠実な国家建設が進められたが、現在は民主化された町です。サマータイムを使用していますので日の出7:00、日の入り19:00でした。

2日目(9月25日)

今日は、まったくの移動日です。ルフトハンザ航空便で経由地のドイツ)のミュンヘンに到着後に目的地のブルガリアの首都ソフィアに到着です。

1日目(9月24日)

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