ダルバート・タルカリ
ハリティ寺院
ストゥーパ前に置かれたドルジェ(大金剛杵)
展望台からのカトマンドゥの街
いよいよ今日でヒマラヤの見納めですが、ランタン・リルンが見送ってくれたようです。
ダルバール広場、
「ダルバール」とは「宮廷」という意味です。名前のとおり、3つのマッラ王朝時代にはカトマンズ王国の中心地となっていましたのでパタンとバクタプルにも同様のダルバール広場があり、王たちが美しさを競い合って建てた広場のため、建物の装飾の美しさにはどの広場にも目を見張るものがあります。ここのダルバール広場に立ち並ぶ20数棟にも及ぶ寺院にはいろいろな時代のものがあり、生き神様の住むクマリの館やハヌマン・ドカと呼ばれる旧王宮を始めとする見どころが多くあります。しかしながら私達が到着した時は日没と停電のためによく見ることが出来ませんでしたので、昼間の参考写真を見ながら夜景?を楽しんで下さい????。
カスタマンダブ寺院、カトマンドゥの由来になったネパール最古の建物です。カスタマンダブとは「木の家」の意味で1本の大木から造られたと言う伝説がある、巡礼者の宿として使われていました。
シヴァ・パールヴァティー寺院
クマリの館
ランタン・リルン7225m
バイラヴェナート寺院
ニャタポラ寺院

9日目(12月14日)

朝食後に、ポカラから空路でカトマンズへ約30分の移動です。空港のチェックイン荷物の計量は、今は懐かしいアナログの量りです。今回は飛行機の中からマチャプチャレやアンナプルナIIIの姿を眼下に見ることが出来ました。
フェワ湖のボート・クルーズ
船頭さんが漕いでくれる4〜5人乗りの手漕ぎボートに乗りました。湖のなかの小島にはヒンドゥー教の寺院があり湖畔からボートを借りていく事が出来ます。
デヴィズ・フォール
現地名はパタレ・チャンゴですがDeviというスイス人女性が落ちて行方不明になってからこの名で呼ばれているフェワ湖から来る川の水が地中に吸い込まれて、岩壁の穴から滝となって流れる浸食によって造られた不思議な地形の場所です。
ビンドゥバシニ寺院
小高い丘の上にあるヒンドゥー寺院で、境内にはシヴァ神の妻でヒマラヤ人の良妻賢母のパールヴァティーの化身、勝利の女神ドゥルガー、繁栄神ヴィシュヌ、ヴィシュヌの化身のひとつでハンサムで、女性に人気の神様クリシュナを祀るシカラ様式の寺院が並んでいます。ちょうど地元の人の結婚式が行われていましたので、地元ガイドさんの案内で見学と参加をさせていただきました。
フェワ湖
ポカラの街
宿泊したポカラ・グランデ・ホテルの屋上からの日の出です、山はアンナプルナIIIが朝もやの中から、かすかに見えます。
ポカラの街
アンナプルナII
ラムジュン・ヒマール
6986m
アンナプルナII
7937m
アンナプルナIV
7525m
アンナプルナIII
7555m
マチャブチャレ
6993m

デリー(Delhi)
ヤムナー河西岸に広がる歴史深いインドの首都です。商業、政治の中心であったので多くの歴史的建造物も残っています。街はムガール帝国の足跡を色濃く残すオールド・デリーとイギリス支配の時代に整備されたニュー・デリーと、のどかな農村部の3つの顔があります。庭園の美しい宿泊したレゾート・ホテルの門から散歩に一歩外に出ると、街は車の排気ガスと道路からの土埃で空気もよどんでいますが人々の活気のあふれた生活力を感じます。すぐにタクシー、オートリクシャー(小型オート三輪車)、サイクルリクシャー(三輪自転車)の客引き、土産売り、物乞いが近寄ってきます。道は車、バイク、自転車、人、牛、犬、ヤギなどが自由に動き回っています。道路脇にゴミを捨てる人、ゴミを拾って生活する人、余ったゴミを食べる牛や犬が混沌とした中に秩序立つたインド的共同体生活が行われているようです、、、

今日はアグラから列車に乗ってのんびりとベナレスへ約600km(約9時間)の旅の予定です。インドは世界第5位の鉄道王国で全土でコンピュター化されオンライン予約や時刻表の確認などが可能だそうですが、電化は大都市近郊と幹線だけでディ−ゼル車が主流です。駅前は客待ちのオートリクシャーの渋滞で道路がふさがれてバスが入りませんので荷物はポータさんによる人海戦術です。列車の遅れは日常茶飯事だそうで、10:30発車、19:30到着予定の列車がホームに来たのが11:00。インドで30分遅れは良いほうですが、到着したのは何ん〜と夜中の1:15で約5時間遅れでした。あ〜疲れた、、、、でも隣り合わせたインドの老人からは、カレーとチャパティをご馳走になったり、ヨガを教えていただいたりと楽しい時間を過ごしました。
ホテルの庭園
国立美術館
クトゥブ・ミナール
ヒンドゥー、イスラーム両様式が混ざった高さ72.5mの塔で、石造りの塔としてはインドで一番の高さです。5層の塔の外側にはコーランの文句を図案化した彫刻が刻まれています。時のスルタン、クトゥブウッディーン・アイバクがヒンドゥー教徒に対する勝利記念に建てたものです。塔の脇には破壊したヒンドゥー寺院の石材を使って建てられたインド初のモスクがあります。中庭のアーチの前には4世紀に建てられた高さ7m程の鉄柱がありますが、純度は100%近く、いまだに錆びていません。塔の北側にはクトゥブより高い塔を建てようとして挫折したアラーイーの塔の基部が残っています。
仏塔の側面の文様
アショーカ王が建てた石の円柱の基部
ハリ・シャンカール寺院、にはヴィシュヌとシヴァの両性の神性を持つハリ・シャンカールを祀り、支柱には官能的な彫刻が施されています。
博物館のマニ・ケシャブ・ナラヤン・チョーク
旧王宮
タージ背後にあるヤムナー河の対岸
敷地内のモスク
アーグラ城
デリーにあるラール・キラーと並ぶ巨大なこの城は、16世紀から19世紀にかけてインドを支配したムガール帝国の栄光と強大な権力の象徴です。ムガール帝国第3代皇帝アクバルにより1565年に築かれました。内部には宮殿が並び、ヤムナー河を見晴らす眺めは印象的です。第5代皇帝シャー・ジャハーンが自分の息子によりここに幽閉され、はるかに妻の墓であるタージ・マハルを眺めていた塔がムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)です。
ジャハーン・ギール宮殿
宝物殿と貴賓謁見の間(右)
パンチ・マハル(五層閣)
火葬場のマニカルニカー・ガトー
庭園よりアマル・スィン門を望む
ディーワーネ・アーム(一般謁見の間)
宝石がはめ込められていた謁見の間の玉座
貴賓謁見の間(の中央には房状の装飾が彫刻された石柱が建ち、2階の回廊の四方から延びる橋でこの上にある玉座に渡る事ができる構造になっています。皇帝はここから謁見しました。
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旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

成田に帰国

カトマンドゥ(Kathmandu)盆地
スワヤンブナート、
ネパールきっての歴史を持つ仏教寺院。カトマンドゥの起源とされる伝説の地の小高い丘の上にストゥーパ(仏塔)に描かれた「四方を見渡すブッダの智慧の目」がカトマンドゥの街を見守っている様にも見えます。

ナガルコット(Nagarkot)
ナガルコットはカトマンドゥより北東に約35km離れた標高2100mの丘で、カトマンドゥ周辺にあるヒマラヤの眺望の良い場所の中で最も人気の高いビューポイントとして知られる場所です。カトマンドゥ空港に到着してからバクタプルの街を経てナガルコットにあるCountry Villaで食事をしながらテラスからの眺望を楽しみます。東にエベレスト、正面にゴサインクンド丘陵、西はアンナプルナ山群まで東西約200Kmに渡り連なるヒマラヤ山脈を望めます。

新郎新婦と仲人が椅子に座り、嫁ぎ先の家族、親族が新郎・新婦の足をタライの上で洗いながら、洗った水を口につけて一族になった絆を示します。参列者は、新婦にご祝儀袋を渡して額に既婚者になった事を表す赤い色を着けてる儀式を行いました。結婚式のご祝儀は、すべて新婦の物になり万が一の時の足しにするものだそうです。インドで見たハデ婚と異なり、田舎のつつましいジミ婚でしたが、参加者として雰囲気は微笑ましくホンワカ気分でした。
ポカラの街中のバザールは、中国製の安い品々が溢れていて既存の商店に影響があるほどで、山の村からも人々が買出しにやってくるそうです。野菜などは、日本のODAの援助で種子や苗を入手した農民が換金作物として育てた物が売られていますので新鮮で日本と同じ物が結構売られています。
トウマディー広場、
この広場で目立つのが、18世紀初めに建てられた高さ30mの五層屋根のニャタポラ寺院です。正面の階段両側には下から順に、伝説上の戦士、象、獅子、グリフィン、女神の石像が守護神として一対に置かれています。ニャタポラ寺院の右側には17世紀に起源を持つバイラヴェナート寺院があります。
55窓の宮殿
ゴールデン・ゲート
パシュパティー寺院
旧王宮、
マッラ王朝時代に建てられた王宮の入口は、ゴールデン・ゲート。向かって左側の建物は、国立美術館として公開されています。向かって右側は17世紀から18世紀にかけて造られたネワール建築の傑作である木彫の窓の並びが見事な55窓の宮殿です。
ダルバール広場、
ライオン・ゲートと呼ばれる門をくぐって広場に入ると、北側には旧王宮をはじめとして、たくさんの寺院に囲まれていますが1934年の大地震で被害を受ける前は、もっと多くの寺院があったそうです。
ライオン・ゲート
ラメシュワール寺院
ポカラ(Pokhara)
ポカラは、カトマンドゥから西へ約200Kmにある山梨県の河口湖とほぼ同じ標高約800mに位置するフェワ湖とアンナプルナ連峰を望む高原リゾートです。名前の由来は、ネパール語の池を意味する「ポカリ」からきており街の西側に広がるフェワ湖と、その背景に広がるアンナプルナ連峰の景色が見事な場所です。ホテルにチェックインして街の散策に行こうとした時に、にわか雨が降り始め雨が上がると今まで雲に覆われていたアンナプルナ連峰の山々の雄姿が幸運にも見る事ができました。宿泊したポカラ・グランデ・ホテルの部屋からも、屋上からも日没まで楽しめました。
午後は空路でカトマンズからポカラへ行きます.が、この時もヒマラヤはガスで覆われて見えませんでした。
今日の昼食はチベット料理です。ネパールで何故チベット料理かと言うと地理的にも文化的にもつながりが深いのでネパールの食生活に溶け込んでいます。メニューはモモと呼ばれる小龍包や餃子と同じ形の蒸した物にギャコクと呼ばれるスープに肉団子、魚、豆腐、卵、春雨、野菜などを入れて煮込んだ鍋料理です。ご飯や焼ソバと一緒に食べますが口に合い非常にやさしい味で、美味しかったです。
クンベシュワール寺院
1392年にマッラ朝ジャヤシッディ王により建てられ17世紀に増築されたシヴァ神を祀る寺院です。ネパールではバクタプルのニャタポラ寺院とともに数少ない五重塔をもつ寺院のひとつです。
ゴールデン・テンプル
12世紀の建立とされていますが、現在の建物は19世紀に建てられた物です。本堂の屋根は金箔で覆われた見事な仏教寺院です。
見事な木彫装飾のムル・チョーク
旧王宮
カトマンドゥやバクタブルの王宮より歴史的には古いのですが、主要な部分は17〜18世紀に建てられた物です。王は装飾窓から広場に集まった臣下を謁見したそうです。王が即位するごとに増築され、最大で12のチョーク(中庭を囲む建物)がありましたが、現存するのはスンダリ、ムル、と現在パタン博物館に使用されているマニ・ケシャブ・ナラヤン・チョークの3つだけです。
王宮前のシッディ・ナラシン・マッラ王の像
スンダリ・チョーク
パタン(Patan) 
カトマンドゥ盆地にマッラ3王国があった15〜6世紀頃の時代に首都として栄えた古都、別名「美の都」と呼ばれ旧王宮と多くの寺院が建ち並ぶダルバール広場周辺などに、その名残を見ることが出来ます。町の外側四方には、長い仏教の歴史を表す紀元前3世紀にアショーカ王が建てたとされるストゥーパも残っているネワール族の文化と美を伝える町です。
ホテル・ヒマラヤのロビー
パタンのホテル・ヒマラヤ
インドの観光を終えてベナーラスから空路で、隣国ネパールのカトマンズへ向います。今夜の宿泊先はホテル・ヒマラヤです
ガンジス河の沐浴場見学
早朝は、沐浴に来る周辺の住民多く集まり、あたかも現世でのカースト階層による差別を離れて皆一様に聖河に浸っていました。この沐浴風景はバナーラスの風物詩です。またボートに乗って見るガンジス河の向こうに昇る日の出の美しい風景も印象的です。
火葬場のマニカルニカー・ガトー
ここで火葬するために布にくるまれ竹の担架に乗せられて運ばれた死者は、一度、聖なるガンガーに浸してから荼毘に付され、遺灰はすべて河に流され、あとには何も残りません。ここでは24時間、休みなく煙が上がっている場所です。
パーラト・マーター寺院、
Mother India Templeと呼ばれていますが、内部には大理石で造られたインド亜大陸の立体地図があります。
タージ・マハル
ヤムナー河畔に建つ、ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが若くして亡くなった妻ムムターズ・マハルのために1631年から22年の歳月をかけて建立した総大理石の霊廟です。白大理石に施された象眼細工、左右対称の美しさを持つ世界一豪華な墓でもあり天文学的な費用をかけて完成させました。基壇の大きさは95m四方、本体は57m四方で高さ67m、四隅のミナレットの高さは43mの巨大さです。真偽のほどは定かではありませんが、シャー・ジャハーンはヤムナー河の対岸に黒大理石で自分の墓を建て橋で結ぶ壮大な計画を立てましたが自分の息子によりアーグラ城に幽閉され結局幻に終わりました。

アーグラ(Agra)
歴史は古く紀元前3世紀に登場しプトレマイオスの世界地図にも記された都市です。16世紀半ばにムガール帝国第3代皇帝アクバルが首都をおき、以後1世紀足らずの間に帝国の中心として繁栄しました。1638年にはシャー・ジャハーンが都をデリーに遷都しましたが、ここに残る史跡はこのムガール時代に建造された壮大な物です。

アラーイーの塔の基部
最新のIpadミニで写真を撮っていた美しいお嬢さんの家族
フマユーン廟
ムガール帝国第2代皇帝フマユーンの廟は、その妃が1565年に庭園の中に廟を置く形式で建設しました。後に建てられたアーグラにあるタージ・マハルに影響を与えたインド・イスラーム建築の傑作とされています。別名デリーのタージ・マハル
ネパール Nepal
カトマンドゥ(Kathmandu)盆地
標高約1330mの盆地にあるネパールの首都で、かっては「人よりも神々のほうが多く住む町」と言われていましたが1990年の民主化以来、激変し農村部からの人口の流入で都市基盤のインフラ整備が間に合わず計画停電が毎日ある状態です。道路も車やオートバイの増加で、交通渋滞や大気汚染が深刻化したアジア特有の雰囲気と喧騒がある町です。大国インドと中国に囲まれ資源の少ない最貧国のひとつですが、心は豊かで物乞いなどはあまり見かけず、街も奇麗に清掃されていました。
ガンジス河
ガンジス河も英語名なので地元ではGanga、「ガンガー」と呼ばれています。全長2500kmの大河で、河沿いには多くの聖地がありますので「聖なる河ガンガー」と呼ばれます。ヒンドゥー教徒の巡礼の目的地となっており、インドのみならず世界中から信者が集まってきます。ヒンドゥーの教えでは、ガンガーの水で沐浴をすると、すべての罪を浄められると言われています。市内のガンジス河岸にあるガートと呼ばれる階段状の堤は、沐浴場として使用され一般に開放されていて、多くの信者と観光客で賑わっています。人々は歯を磨き洗濯をし、また火葬した灰をこの河に流す事は死者に対する最大の敬意とされていますのでヒンドゥー教徒の火葬場にもなっていますので、聖と俗が混在する場所でもあります。小船に乗りガートを見ますが、供物の花売りの子供達が、たくましくも船の中にまで売り込みに来ました。

バナーラス(Banaras)
かっては英語名Benaresの誤読で「ベナレス」と呼ばれていましたが正しくはVaranasi、「ヴァーラーナスィー」です。しかしこの発音がむずかしいので現地語の別名Banaras、「バナーラス」が旅行者の間では一般的に使われるようです。この町は、ヒマラヤの水を集めたインドの母なる河「ガンジス河」が悠々と平原を流れ、三日月形に曲がる所にあります。 3000年以上も前から仏教の聖地、ヒンドゥー教最大の聖地、シヴァ神の聖都として世界中から信者が訪れる街でもあります。古い町はガンジス河西岸沿いの地区で寺院やバザールが集中しています。バナーラス駅の北側がイギリス植民地時代に開かれた新市街で、銀行や高級ホテルが多くあります。

ダメーク・ストゥーパ、
サールナートのシンボルとなっている直径26m、高さ40mを超える巨大な仏塔でブッダが初説法をした場所の上に6世紀頃に造られたとされています。一部は破壊されていますが、今も塔の周りを回ってお参りする人々の姿が見られます。また、かっての僧院の跡やアショーカ王が建てた石の円柱の基部も残っています。隣接する考古学博物館には、5世紀に作られたブッダが覚りの内容を語り聞かせる初転法輪像やインドの国章となっているアショーカ王石柱の頂上にあったライオン像など当地の出土品が展示されていましたが撮影禁止でした。

サールナート(Sarnath)
バナーラスから北東に約10Kmのところにある四大仏跡のひとつです。ブッダが6年に渡る苦行をして、ブッダ・ガヤーで悟りを啓いた後に、当時多くの宗教者が集まっていたバナーラスを目指して、そして郊外のサールナートに着いた後、かって共に修行した5人の修行者に、自分の悟った真理を始めて説法したとされる初転法輪の地で、仏教徒にとっての重要な聖地です。

*四大仏跡とは、釈迦が誕生したルンビニー、悟りを開いたブッダガヤ、初めて説法したサールナート、入滅したクシナガラの4ヶ所を指します。このうちルンビニーだけがネパール領で、他はインド領内にあります

ムルガンドゥ・クティ寺院、
新しい寺院ですが中に入ると戦前に日本人画家、野生司香雪(のうすこうせつ)によるブッダの生涯を描いた壁画があります。庭にはブッダガヤからの菩提樹も植えられています。

昨夜は遅かったので気が付きませんでしたが、日曜日でしたので宿泊したバナーラスのホテルの中庭でも結婚式があったようで庭に、新郎新婦が鎮座する舞台と椅子がありましたので見てきました。

私達の列車は電気機関車で座席はエアコン付きの2段寝台車(2A)です。ベットは上下2段で幅や高さは余裕がありますが、日本と比べると室内はあまり奇麗ではありませんが、洗濯済みのサッパリしたシーツを貸してくれます。
駅前広場
ポータさんによる荷物運搬
駅前はオートリクシャーの渋滞

4日目(12月09日)

5日目(12月10日)

ファテープル・シークリー
インド史上最大のムガール帝国の礎を築いた第3代皇帝アクバルが王子ジャハーンギール誕生にちなんで1571年に都をこの地に移転しました。富と権力をかけて約5年で建設された都は3km x 1.5kmの広大な城壁都市でしたが、水不足が原因で、わずか14年で打ち捨てられ再びアーグラに遷都しましたので、現在もそれほど痛まない状態で残っています。

3日目(12月08日)

ホテル中庭の披露宴会場
4世紀に建てられた鉄柱
クリシュナン寺院、はネパールでは珍しい石造りの寺で、2階にクリシュナ、3階にシヴァ、4階にブッダを祭り、前にはクリシュナンの化身であるヴィシュヌの乗り物、鳥人ガルーダの像が立っています。

今日は、まったくの移動日です。キャセイパシフィック航空便で香港経由して目的地のインドの首都デリーに到着です。空港内は乗降客しか入れないので比較的すいていましたが、外に出ると夜中にも関わらず入口には人人の山と野犬の出迎えには驚きました。

2日目(12月07日)

ネパール・ビザの申請もほぼ同様で、在日ネパール大使館のH/Pから申請用紙を入手して申請します(費用3000円)。やはりこちらも受取日時が申請翌々日の14:00〜16:00と指定されますので郵送依頼が便利です。ネパールの場合は簡易書留で2人まとめて同封して頂けますので500円切手ですみます。
デリーの市内風景
デリーは独立の父マハートマー・ガーンディとの縁が深い場所で記念館や博物館、公園等が整備されています。他方、印パ紛争の難民や地方からの人口流入、都市化による住宅不足、交通渋滞、停電、大気汚染などの都市問題をかかえつつも首都の魅力から観光客相手のコブラ使いや物乞いも多くいて貧富、清濁の入り混じった街です。
マハートマー・ガーンディ公園
観光客相手のコブラ使い
ヴィシュワナート寺院、シヴァ神を祀り、正面には2頭のゾウ、横にはシヴァの乗り物である牡牛の石像があります。
下流のマーラヴィーヤ橋
インドの結婚式
一般的には乾季の今頃の時期、働いている人が多いために金曜日や土曜日の夕方から深夜にかけてが多いそうです。お金持ちの新郎はマハラジャの衣装を身にまとい白馬や馬車に乗り楽隊や電飾の山車を引き連れて街中をパレード行列しながらホテルで待つ新婦のもとに向かい、ホテルなどの中庭を貸切って数百人規模の披露宴を行うそうです。披露宴では、飲食、音楽、ダンス、花火で豪華に盛り上がるそうです。デリーからアーグラに向かう途中の車窓からも多くのパレードを見ました、また宿泊先のアーグラのクラーク・シラーズ・ホテルでも深夜遅くまで盛り上がっていました。
レッド・フォート(ラール・キラー)
ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンはアーグラからデリーに都を戻した。これが現在のオールドデリーで、その中心ラール・キラーは1639〜48年に建設された巨大な城です。主な建物が赤砂岩で造られているためにレッド・フォート(赤い砦)と呼ばれていますが、19世紀半ばのインド大反乱で多くが破壊されてしまいました。

10日目(12月15日)

香港発6:00の便で成田に帰国

インド旅行では、下痢に対する注意などが観光案内書や訪問された方からのアドバイスで良く聞かれますので、それに従い細心の注意をしました。夏より冬の季節、雨季より乾季の時期を選び、例えば歯磨き、うがい等でも口に入る水はミネラル・ウォーターを使い、水洗いされた生野菜のサラダや、ジュース等も出来るだけ避けていました。清潔なホテルやレストランの食事でしたので、お蔭様で下痢する事もなく無事旅行を終えられました。同じグループの中で体調を崩した人の話を聞いたり見たりしていると、誰しもが水には注意していましたが、結局はバイキング等の食事での食べ過ぎ、飲みすぎが原因ではないかと思いました。腹八分目が一番です。
シヴァ寺院
カーラ・バイラブ
ランタン・リルン7225m
チョーレパタン,
ポカラから約10km、フェワ湖南側丘陵に建つ日本山妙法寺へのハイキングです。ここはヒマラヤの絶景ポイントのひとつで標高1113mの丘の上には、真っ白な世界平和ストゥーパが建ち、アンナプルナ連峰からの美しいご来光を観賞しました。

8日目(12月13日)

バクタプル(Bhaktapur)
カトマンドゥ、パタンと並ぶ盆地内の古都ですが、一度はカトマンドゥ盆地全域の首都でもあった15〜18世紀にかけてのマッラ王朝時代に最盛期を向かえネワール文化とともに発展をとげた街です。赤茶色のレンガの建物がびっしりと並び訪れる旅行者もそれほど多くなく、ネパール中世の街並が今も残ります。映画「リトルブッダ」で出家前のシッダールダの撮影にもこの街の風景が生かされました。ナガルコットからの途中の道路脇には日本と似た田園風景と良く手入れされた棚田の美しさが目に入ります。 

ヒマラヤ遊覧飛行、
ネパール語で「ヒマール」と呼ばれ、神々が住む神聖な場所としてあがめられいるヒマラヤは、東はブータン、西はパキスタンまでの約2800kmに渡る大山脈には8000mを越える巨峰が14座、そのうち8座がネパールにあります。写真の様に真近に見るために、カトマンドゥ・トリブヴァン国際空港からの遊覧観光を予定して朝6:30から約2時間スタンバイしましたが結局、山は雲に覆われたままでフライトは中止になり残念!
2006年以降、地球温暖化の影響で夜間に雲が下がらず上空に留まることが多くなったようです。

7日目(12月12日)

6日目(12月11日)

ガンジス河に祈りを捧げる儀式「アルティ」見学
ダシャーシュワメード・ガートの礼拝は日没時に礼拝僧が河に花を浮かべ、燭台の火を掲げ、ドラと太鼓の音が鳴り響き、聖なるガンガーにプージャー(祈拝)を捧げます。船の上から見るとロウソクの火や照明に照らされて一帯は劇場の空間の様相になります。
アーグラの市内風景
古い町で、道が狭く、道端には露店が出ていますのでデリーより交通渋滞はひどそうです。デリーとアーグラの間に今年の10月にハイウエーが開通しましたが、走ってみますと日本の普通の道路の様に完全舗装がされている程度でした。言い換えるとインドの普通の道は舗装がハゲて凸凹や穴があり、路肩は土のままですから土埃がすごいです。トラックは悪魔よけの為にデコトラの様な面白い装飾を施しています。牛は、ともかくバイク、自転車は平気で道路を逆走するのはお国柄でしょうか、、、、、運転席の近くの席で前を見ているだけでも緊張してぐったりと疲れま〜す。~
アマル・スィン門の内側

1日目(12月06日)

バタン博物館には、ネワール文化によって彩られたヒンドゥーと仏教の像や装飾品などのコレクションが展示されています。
インドとネパールの入国にはビザが必要です(写真 下)。
インド・ビザの申請はインド・ビザ申請センター東京のH/Pでオンライン申請または申請用紙をダウンロード(又は窓口で入手)して申請します(費用2135円)。詳しい事はインド・ビザ申請センターのH/Pに掲載されていますが、実際の体験談から気づいた事は: オンライン・申請の場合、予約指定日時は、一応の目安で余り厳格ではなく朝9時から11時までが午前中の受付、遅れると午後(13:30以後)扱いです。手書き申請書類の場合は来場者番号札を取り番号順に呼ばれて内容をチェックして受理されます。私が行った日は午前中は1番から130番までで残りは午後扱いでした。通常、申請から入手までは3〜4日後の17:00〜17:30が受取時間でそれ以外は認められませんので、560円の切手を貼った住所記入した封筒を用意して書留郵便での送付を依頼すると便利だと思います。

悠久のポルトガル8日間


第5代皇帝シャー・ジャハーンが幽閉生活を送りながら、妻の墓であるタージ・マハルを眺めていたムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)。

2012年12月06日〜15日

食事も済み、カトマンズ発 23:30の飛行機で香港乗り継ぎで帰国の途につきます。
ホテルの部屋からの眺め
アンナプルナII
ネパール最後の夕食は、定番の民族舞踊を見ながらのインドのターリー料理風のダルバート・タルカリと呼ばれる、ダル(豆スープ)、バート(ご飯)、タルカリ(おかず)、アチャール(漬物)が組合わさった、お代わり自由なネパール定食といった食事です。
ダルバール広場
この広場には、マッラ王朝の最盛期にあたる16〜18世紀にかけて造られた建物が多く、旧王朝の向には沢山の寺院が並び、さながらネパール建築の見本市会場の様相です。特にクリシュナ、シヴァ、ブッダを祭ったクリシュナ寺院は有名で寺院の前にはガルーダの像が立っています。
ホテル部屋からみた披露宴会場
ホテルの披露宴会場入口
マハラジャの衣装を身にまとった馬上の新郎
披露宴参加のインド美女達+1
タージ・マハル正門
マナスル
8163m
ドルチェ・ラクパ6966m
フルビ・チャツ6722m
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