今日は、まったくの移動日です。エミレーツ航空便で成田空港からドバイ経由で翌朝にテヘランに到着です。

1日目(3月07日)

2日目(3月08日)

昼食はアブ・グーシュトと呼ばれる壷で煮込んだスープにナンを細かくちぎって具を混ぜて食べる料理です。禁酒国ですので飲物はノン・アルコールのビール(350mlで約80円位)ですが以外にもレストランには女性だけのグループも飲食とエンターティンメントを楽しんでいました。
ナシールアルモスク
バラのタイルが特徴の通称、ローズモスク。カジャール朝時代に富豪ナシール氏の邸宅に建てたモスクで1887年に完成したそうです シラーズはバラの名所でタイルにバラの花が描かれている事から「ローズモスク」と呼ばれています。また太陽の光がステンドグラスに反射して美しい光景が映し出されます。ムカルナス(鍾乳石飾り)と多面状天井が連続するエイヴァーン(一方が完全に開き、三方が壁で囲まれて、天井がアーチ状となっているホール)は見ごたえがあります。。
近くのシラーズ大学生
「騎馬戦勝図」
宮殿内部は博物館として公開されています。王座の間の壁一面には6枚の歴史画が描かれています。
真っ直ぐに伸びる王の道
「悪魔と王の闘争像」
馬の彫刻柱
アパダーナ東階段のレリーフ、
アパダーナ東階段のリーフの場所はペルセポリス遺跡の中でも一番のハイライト、此処だけは屋根が付けられています。2500年前のアケメネス朝ペルシャは広大な範囲を統治した巨大国家で、その中には23の属国を統治していました。毎年お正月(ノウルーズ)には(ゾロアスター教のお正月は春分の日、つまり今の暦の3月21日です)各国からペルセポリスへ貢ぎ物を持って使者が参上します。その時の様子を細かく描いたのがこのレリーフです。階段横にある壁面には、ペルセポリスに貢物を運んできた属国からの使者達の様子や貢物の動物などが国ごとに特徴的に緻密に描かれた浮彫が残っています。
バーザーレ・ヴァキール、
ザンド朝時代を彷彿させるレンガ造りの美しいバーザールです。バザール内では、衣料品、生地、日用雑貨、絨毯、香辛料、ドライ・フルーツなどなど売っている賑やかな市場です。
ショハダー広場とキャリーム・ハーン城塞、
街の中心はショハダー広場、東の角にシラーズのシンボル、キャリーム・ハーンの居城として使われた四隅に円塔をもつ四角形の城塞、南側には旧市街が広がりザンド朝時代の寺院や市場があります
大階段、
ペルセポリスは宮殿が南北400m、東西300m、高さ12~14mの広大な人工基壇の上に築かれました。そのため遺跡の入口は西側の111段の階段を登って上がります。
階段の段差は10cmと低く、各国の代表者(老人)にもきつくなく、また馬でも上がれるようにとの配慮からだそうです。
未完成の門、
馬の彫刻と思われる門ですが、建設中にアレキサンダー大王に破壊されました。

ナクシュロスタム(Naghsh-e Rostam)
ペルセポリスから約6km北東にある岩山にあるアケメネス王朝歴代の4人の王が眠る墓です。墓の様式は、十字型に掘られた岩壁に玉座を臣民が支える「王座かつぎ」と、ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダのレリーフです。墓の下部には馬上の騎士のレリーフが施されています。特に捕虜となったローマ皇帝ヴァレリアヌスの手首をつかむサーサーン朝の王シャープール1世の「騎馬戦勝図」の姿は高さ7mもの大きさで描かれています。

アルタクセルクセス2世王墓
タチャラ(ダレイオス1世の冬の宮殿)
ハディーシュ(クセルクセス1世の宮殿)
ゾロアスター教の神殿
ヤズド(Yazd)
イランのほぼ中央に位置し、乾いた風と強い日差しの典型的な砂漠都市です。ヤズドは遠隔の砂漠の地にあって攻めにくく、大規模な戦闘とそれに伴う破壊や惨劇を免れてきました。旧市街は迷路のように路地が入り組み、日干しレンガの上から土で固めた家々が続き、窓が殆ど設置されてない家は、風を取り入れるためのバードギール(風採り塔)がつけられ、それがアクセントとなって独特の街並を造っています。宿泊したホテル・サファイエも5つ星ですが外観を模しています。サーサーン朝期、ヤズドはゾロアスター教の中心地でしたので、イスラーム統治下に入った、今も多くの信徒がすんでいます。
沈黙の塔
ゾロアスター教徒の遺体を葬る鳥葬の場として使われていた岩山の塔です。ゾロアスター教では火、水、土を神聖視していましたので、それらを汚す事になる火葬や土葬は許されなかったために鳥葬にしたものです。そのために塔には屋根がありません。鳥葬は20世紀半ばから禁止されており最後の鳥葬は50年前行なわれた、現在はゾロアスター教徒もイスラーム教徒と同様に土葬になりました。
イランの南西部からイラク、トルコ、それぞれの国境線となる壮大なザクロス山脈を越えるとゾロアスター教の聖地ヤズドです。「ざくろ」はここが原産地で、そこから名が付いたと言われます。ヤスドに向う途中の車窓からはアンズの花がきれいに見えましたが、途中から天気が雨になり冠雪したザクロス山脈(標高3500m)の山頂部分は雲の中でした。
ホテル・サファイエ
アミール・チャグマーグ、
15世紀に建てられた、寺院やバザールなどの複合施設です。同名の広場を望むバザールの入口には2本のミナレットが建っています。
岩山の塔からヤズドの町と荒野の眺め
マスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)、
金曜日には礼拝のため多くの人々が訪れるモスクです。サーサーン朝時代のゾロアスター教寺院の跡に建設されましたヤズドのシンボル的なモスクで、イランで最も高いミナレット(塔)があります。当初のモスクは11世紀初頭に造られましたが、現在のものは14世紀に建造されたものです。
高さ8.5mの木造のナフル(ムハラーンの神輿)
モスク周辺の旧市街とバザール見学とパン屋さんで焼きたてパンの試食です。
キャラバン・サライ
スィー・オ・セ橋、
アッバース1世の計画的な街造りの時にエスファハンを南北に貫くチャハール・バーグ通りをつなぐ橋として1606年に完成した長さ300m、幅14mの歩行専用の橋でハージュー橋の西2Kmほどにあります。スィー・オ・セとはペルシャ語で33を意味しアーチが33ある事から呼ばれています。宿泊したコウサル・ホテルの部屋から橋が見えました。
今日は一日イスファハンの市内観光ですが、ありにくの雨です。砂漠地帯なので月に一、二回くらいの雨しか降らないので現地の人々にとっては恵みの雨、皆さん雨の中でも傘もささずに気持ちよさそうに雨を楽しんでいましたが、、、、。
礼拝は中庭の段の上に絨毯を敷いて行いますが、天候の悪い時は、この地下の礼拝所を使います。
漆喰で造られたミフラーブは、コーランの文言や唐草模様をあしらった繊細な物です。
イマーム広場に再び戻ってきてモスク、宮殿やアーケード、バザールの観光です。
イマーム・モスク(マスジェデ・イマーム)
サファヴィー朝(1508~1722年)を代表する建築物。アッバース1世の命により、1612年に着工、1638年に完成したモスクです。アッバース1世は1628年になくなったため、ペルシアンブルーに輝くこのモスクの完成を見ることはできませんでした。イスラム革命前は「シャーのモスク(王のモスク)といわれていた壮大な寺院です。広場に面した蜂の巣のような鍾乳石造りのエイヴァーン(2本の角のようなミナレットのある門のようなもの)と、その奥にさらに45度ずれた方向に向かってのエイヴァーンとドームがある。広場に併せた為に、エイヴァーンがメッカの方向を向いていないので、メッカの方向を向いたエイヴァーンをさらに造ったのだそうです。エイヴァーンに4本のミナレットがあるが、それぞれ52メートルと48メートルの高さを誇っています。
ドームの天井には光が入ると孔雀の羽が現れる
車窓からの山並の景色

テペ・シャルク
ここは7000年 以上の昔に遡る遺跡です。 現在見える丘のような地形は4500~4700年 前に造られたジグラート即ち階段 ピラミッド型神殿の跡です。 入口近くに土砂崩れで死亡したと される5500年前の成年男子と少女の骨が展示されていました。ここ での最も興味ある発見物は刻印のある粘土片で、ルーブル美術館とテヘラン博物館に展示されています。

奥と広場がわのエイヴァーンは45度折れた配置
奥のエイヴァーン
広場側のエイヴァーン
出発前のホテルの窓からの眺め
キャラキャス山

8日目(3月14日)

風通しよく四方が開いている離宮の天井には精緻なモザイク画が描かれています。
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旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

成田に帰国

すべての観光を終えてテヘラン発21:20のエミレーツ航空978便でドバイ経由で帰国です。
四方にエイヴァーンがある中庭には2つの泉があり、東のエイヴァーン前のものは、手足を清めるための泉水です
クセルクセス門、
大階段を登るとペルセポリス宮殿の正門であり、シンボルであるクセルクセスの門が現れます。クセルクセス1世により建てられた「万国の門」とも言われます。まず西側ゲートには高さ5.4mのアッシリアの伝統をひく2頭の牡牛像が、そして門をくぐった反対側の東ゲート側であの超有名な人面有翼獣神像の対のレリーフが迎えてくれます。また振り返って見ると門の真中をとおり正面大階段の前から真っ直ぐに王の道が伸びています

フィーン庭園
サファヴィー朝アッバース1世の命で造られた、イランが持つ水の技術を駆使した、芸術性豊かな豊富な水と美しい木々に囲まれた庭園です。水はイラン高原から、カナートとよばれる地下水道をくぐって、運ばれてきます。水路には水色のタイル、水色の陶製のツボがならび、先端から水が噴きだす。究極の水の贅沢。夏の離宮なので建物は風通しよく四方が開いていて中央に泉水が配置されています。イランの水の技術と芸術はシルクロードをへて日本につたわり、曲水の宴などとなって花ひらいたといわれています。2011年にはペルシャ式庭園の一つとして世界遺産登録されました。

イマーム広場のライトアップ
サファヴィー朝の王アッバース一世がオアシス都市のイスファハンを首都とし、その中心とされたのがイマーム広場です。1598年に建設に着手して数十年の歳月をかけて街の中心に南北512m、東西159mという広大な長方形で、周囲を整然たる2層のアーケードで取り囲み、四辺にそれぞれにモニュメント的な建築を配置し、政治(宮殿)・経済(バザール)・信仰(モスク)の施設を集めました。回廊には絨毯、工芸品などのお土産屋が軒を連ねています。有名な「イスファハンは世界の半分」という言葉は、この広場のためにある、と言われるとおり広場そのものが巨大な美術品かオープン・ミュージアムの様です。
イスファハン(Esfahan)
イラン高原の荒涼とした砂漠の中に、忽然と現れる緑の町、「イランの真珠」ともたとえられる古都イスファハン。町を貫くザーヤンデルード川が、この町をオアシスとして発展させてきました。古くから東西交易の要衝だったイスファハンが、繁栄の頂点に達したのは17世紀。サファーヴィー朝第5代の国王、アッバース一世がここを首都に定めたのがきっかけでした。町の中心はイマーム広場。その周囲には巨大なバザールが広がり、世界中から人や富が集まりました。その繁栄ぶりは、「イスファハンは世界の半分」とまで称されるほどでした。
ハージュー橋、
アッバース2世の時代1666年に完成した長さ133m、幅12mのザーヤンデ川の中でも優美な姿が美しい二層構造の橋です。上層部は、テラスがあり宴が繰り広げられたとされています。下層部は、33のアーチを備え、アーチは必要に応じて開閉されるため、川の水量を調節する水門でしたが、今は川には水がありません。
時間があるのでホテルにチェックインする前にイスファハンの市内観光と夕食です。
コーラン(クルアーン)門、
シラーズの街の北東にある玄関口で眼下に街を見下ろせるスポットで、門の上部には古いコーランが置かれている小部屋があり、旅人の安全を見守っているそうです。

シラーズ(Shiraz)
シラーズはテヘランから約600Kmのイラン南西部の都市でファールス州の州都です。ザグロス山脈中に位置し、海抜1486mの高地にあるので四季を通じて気候は穏やかで、町には緑が多くバラの美しさは特に有名です。ファールス州は紀元前700年ごろから栄えた強大なアケメネス朝ペルシア帝国の中心地でした。1750年から1794年までは、ザンド朝ペルシアの首都であったことから「ペルシャの顔」とも言える町です。

シラーズ空港

カシャーン(Kashan)
カシャーンはテヘランとイスファハンのちょうど真中にある小さな町、イラン中央部のキャヴィール砂漠の端を通るコムとケルマンを結ぶ「王の道」沿いにあるオアシス都市です。

アブヤーネ村(Abyaneh)
イスファハーン州にあるアブヤーネ村は、キャラキャス山の急斜面の山すそにあるため、この村独特の伝統的な区画を作り上げています。この村の家は、外から見ると数階建てになっており、急斜面に建てられているので、上にある家のテラス、庭が、下にある家の屋上になっています。このような外観により、村全体は美しい階段のように見えます。家の壁はレンガや赤粘土で覆われており、格子窓と美しい木製の扉と共に、独特の魅力をかもしだしています。 男性の服装は裾の広いズボン、2000年前、かつて、この村が、ゾロアスター教の村であったころのままだとか、女性は白地にピンク・赤のバラ柄のスカーフにスカート姿をし、村の人々は昔ながらの生活を営んでいるなど、、、。文化的な特徴、すなわち、古くからの伝統の保護、古い建築様式といった要素から、イランの国家遺産に登録されています。

今日は、昨日と打って変わって快晴の観光日和ですが旅の最終日、イスファハンから途中アブャネ村、カーシャーンに寄りながらテヘランに向かい夜の便で帰国です。

7日目(3月13日)

広場側のエイヴァーンの裏側
シェイク・ロトフォッラー・モスク(マスジェデ・シェイク・ロトフォッラー)
イマーム広場にあるもう1つのモスクです。アッバース1世がレバノンの著名な説教師ロトフォッラーを招聘するために建造し、17年かけて1618年に完成したモスクです。通常のモスクの特徴であるミナレットや中庭がないのは、王室専用だったので礼拝を呼びかける必要がなかったからです。アーリー・ガープー宮殿と地下道で繋がっていて王妃らは外へ出ることなく礼拝に訪れることができました。イマーム・モスクが男性のモスクと呼ばれるのに対して、こちらは女性のモスクと呼ばれています。このモスクの装飾は絵柄タイルではなく小さい彩色タイルをモザイク状に並べて絵柄を作っている精緻なものです。特にドームの内部天井には光が入ると華麗な孔雀の羽を思わせる装飾です。
アリ・ガプ宮殿
15世紀(ティムール朝)の建物をアッバース1世(サファヴィー朝)が迎賓館として増改築し、その後アッバース2世がバルコニーと3階以上を増築しました。6階建ての建物で、バルコニー中央には大きな池があり、18本の柱で屋根を支えているイランで最初の高層建築とされています。バルコニーからは広場全体が見渡せます。
小さなドームが連続する天井を支える為に、小径間のレンガ造りのアーチが連立する空間です。
マスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)、
創建は8世紀にまでさかのぼるイスファハンで最古のイスラム寺院です。焼失後に、現在まで残っているうちの大部分を12~14世紀に再建、その後増改築を繰り返したので様々な時代の建築様式、タイル・ワークなどが見られるイスラム寺院建築の集大成です。
ヴァンク教会(アルメニア正教教会)
元々は、サファヴィー朝のアッバース1世が、イスファハン造営を目的に、現在のアゼルバイジャンとイランとの国境付近から動員されたアルメニア人のためのキリスト教会です。建物は幾何学文様のタイルや窓枠、ドーム造りをふんだんに取り入れており、ペルシャ伝統様式を見事に融合させた外観が特徴です。教会内部には、「最後の審判」等の『旧約聖書』に登場する場面の描写図が金色を多用して描かれているほか、敷地内にあるアルメニア博物館には、重さ0.7gの世界最小の聖書や、聖書の一節が彫刻された毛髪が展示されていることでも有名です。

6日目(3月12日)

14ページ、重さ0.7gの世界最小の聖書
アルメニア博物館
「最後の審判」の図、下は地獄、上は天国
アーテシュキャデ(ゾロアスター教寺院)、
アーテシュキャデとは「火の家」の意味で、随所にペルセポリスの建築様式が取り入れられた世界最古の一神教であるゾロアスター教寺院です。1500年以上前から絶えず燃え続ける聖火を見ることができます。建物の外壁正面上部には「翼ある日輪」で表されたゾロアスター教の善の神、アフラ・マズダの像があります。
バードギール(風採り塔)を備えたアーブ・アンバール(貯水槽)
バードギール(風採り塔)

5日目(3月11日)

キュロス2世の墓、
ュロス2世の墓は、ピラミッド型に石段を積み上げた堂々たる物で高さ11m、6層の段塔の上に切妻屋根の墓室が載っています
アパダーナ(謁見の間)、
ダレイオス1世によって建てられ属国からの使者との謁見や祭儀の場として使われた宮殿です。高さ19m、計36本の柱があったそうですが、現在はそのうちの12本が残っているだけです。
今日は、シラーズから途中のコ-ラン門に寄りペルセポリスに向います。その後、ナクシュロスタムとパサルガダエを観光してヤスドまで行きます。泊まったパルス・ホテルの前には立派なイスラム寺院がありました。

4日目(3月10日)

ハ-フェーズ廟
イランで最も知られ敬愛されている叙情詩人ハーフェーズが眠る廟です。ハーフェーズは彼の名前ではなく、7歳でコーランを全て暗記していたということから、「コーランの暗唱者」という意味です。貧しく、旅に出ることも出来ず彼は生まれ育ったシラーズで生涯のほとんどを過ごしましたが、当時その名声は中央アジアからアゼルバイジャン、バクダードまで知れ渡っていました。ゲーテも彼の詩集から多くの影響を受けた事も有名です。敷地内には美しい花々が咲き乱れ多くの人々がハーフェーズの棺に触れてお参りしていました。
エラムガーデン
ペルシャ語で「楽園」を意味するエラムを名に持つ、数々のシラーズの庭園の中でエラム庭園は最も華がある庭園です。2011年にはペルシャ式庭園として世界遺産に登録されています。有名なバラ園もありますが庭園自体の美しさはいつ訪れても楽しむ事が出来ます。エラム宮殿は19世紀に建てられたガージャール朝の代表傑作(タイルワーク)と、その正面には、花に囲まれた池があり、階段状に水が落ちていく水路が長く通り、その先の両脇には糸杉が列をなしています。
アリ・エブネ・ハムゼ廟
シーア派イマームレザーの弟ハムゼの廟としてシラーズの中でも格式の高い廟です。たまねぎ形のドームは特徴的ですが内部は入ってビックリ、中はキラキラ、総鏡張りのモザイクでまるで万華鏡のようです。キラメク天井は圧巻ですが、寄付で賄われているのだそうです。イスラム諸国では女性は肌を露出してはいけないという習慣があり、入口で借りて全身を覆う布(チャドル)の着用が義務付けられていますので臭い暑いで大変のようでした。
宝石博物館、
イラン中央銀行の地下金庫にある博物館で、革命以前に王家が所有していた宝石のコレクションを見学できます。まず入る前にすべての荷物を預けなければならず、勿論撮影なども一切不可。ボディチェックを受けてから金属探知機、非常に分厚い扉の中に入って見学するので、我々が大きな金庫に入れられたような感じです。また、館内の展示品のガラスに手を触れただけで警報器が作動するようになっていますので見学中にも何度か警報がけたたましく鳴りました。絵葉書を購入して写真をUpしましたが、1736年にインドに遠征したナーデル・シャーが戦利品として持ち帰ったらしい「孔雀の玉座」には全面宝石がちりばめられ、使用しているは宝石2万6千個・・・そして世界一の大きさの182カラットのピンクダイヤモンド「光の海」もう大きすぎてダイヤに見えないくらいです・・・「宝石の地球儀」には5万1366個の宝石が埋め込まれイランにあたる部分にはダイヤモンド、海に当たる部分にはエメラルドがはめ込まれています。
タジリシュ・バザール、
テヘランが首都になったガージャール朝以来、テヘランの経済の中枢としての役割を果たしてきた現地の人で賑わう市場です。迷路のように所狭しとお店が立並び、香辛料や絨毯などイランならではの商品が並びます。まるでひとつの町のように銀行や寺院などもあります。ちょうど訪れた頃は、ゾロアスター教暦によるイランの正月ノウルーズ(3月21日の春分の日)の準備で買物客で賑わっていました。
ゴレスターン宮殿、
テヘランが首都になったガージャール朝(1779年~1905年)の王宮として建てられ戴冠式などの王家のレセプションの場として使われていた宮殿で「薔薇の園」を意味します。美しいペルシャ式庭園もあり、内部は博物館として一般公開されています。
テヘラン(Tehran)
イランの首都であるこの町の起源ははっきりはしていないが発掘調査からは紀元前6000年の住居跡が見つかっています。交易の主要都市として栄え、首都を宣言したのは1795年でした。その後、1934年には砦を壊して近代都市として整備されていきました。オイルマネーによる繁栄と専制政治による急進的な西欧化は市民の反発を買い、1979年にはイラン革命が起きてシャー(皇帝)は失脚し、ホメイニー師による革命政権が誕生しました。その後のイラン・イラク戦争ではスカッド・ミサイルの標的となり街は破壊され、また当時はソ連式の集合住宅が無計画に作られて歴史的建造物を失い、更に現在では50階を越えるアパートなどの高層建築のビルが増えています。車もバイクも多いのですが駐車場が慢性的に不足しているために街は常に渋滞していました。

ペルセポリス(Persepolis)
ペルセポリスは、オリエント全域を支配した大帝国アケメネス朝ペルシャの王宮として、ダレイオス1世によって紀元前520年に築かれました。紀元前331年にアケメネス朝ペルシャを滅ぼしたアレクサンドロス大王が率いるマケドニア軍によって焼き払われ廃墟となりました。その後7世紀にアラブの侵入で偶像崇拝を嫌うイスラム教徒により残った彫刻の顔の部分などを削り取られたりしてさらに荒廃してしまいましたが、いたるところに残る石像やレリーフが、当時の様子を伝えています。栄華の大都市が廃墟と化した巨大なペルセポリス遺跡はイラン最大の見どころのひとつで世界遺産にも登録されています。ヨルダンのペトラ遺跡、シリアのパルミラ遺跡とともに「中東の3P」と呼ばれています。

エイヴァーン
ペルスセポリスの牡牛の柱頭
3世紀のミイラのソルトマン
「孔雀の玉座」
「光の海」
「宝石の地球儀」
テヘランより朝一番の国内線でシラーズに向う予定でしたが飛行機は1時間半以上遅れましたが、おかげでテヘランのメフラバード空港からは「ざくろ」の原産地で、ここから名前を取ったといわれるザクロス山脈を見られました。
ペルセポリスの謁見の間のレリーフ(玉座の王像)
今夜の宿泊は街の中心にあるエンゲラブ、町中にはイラン革命の指導者ホメイニー師の肖像があちらこちらにありました。
イラン入国にはビザが必要です(写真 左)。
現在個人が日本国内でイランビザを取得する事は、諸般の事情でほぼ不可能に近い状態の様です。観光目的で行く場合、イラン在住の家族・知人にイラン外務省で入国ビザの許可申請手続きをしてもらい、イラン外務省からの許可番号を入手してからの申請ですので個人での申請は結構大変です。従って旅行代理店に依頼しました。ビザ費用は6500円の実費と旅行社の代行手数料が必要です。
また敬虔なイスラム教徒の国ですので、女性は外出時には髪を覆うスカーフと長袖の着用が必要ですし、飲酒は宗教上一切できませんので販売もされていません。経済制裁の影響で物価のインフレ率が激しいようで入国時には1USDが25000イラン・リアル(IRs)でした。
イラン考古学博物館
考古学的、歴史的にも重要な美術品を集めたイラン最大の博物館です。建物は本館と別館に分かれていて、本館はイスラム化以前、別館はイスラム化以降の展示品で構成されています。本館ではペルセポリスから運ばれた壁画のレリーフ等、古くからの歴史を感じることが出来ます。

3日目(3月09日)

この国は危険な国のイメージで日本に伝えられていますが、行って見ると親日家が多く各地で声を掛けられますし、写真も一緒に撮って欲しいとよく頼まれました。かってはペルシャと呼ばれシルクロードの途上に位置したことで東西交易の中心として様々な文化が栄えましたが、地政学上の優位さから隣国をはじめとして諸外国からの侵略戦争にも耐えた長い歴史をも持つ国です。

昼食はイスファハンに向う途中のナイン(Naein)の町のレストランでチェロウ・モルグという鶏肉ご飯です。
人面有翼獣神像
スキタイからの武装した兵の行進
リディアからの使者
アルメニアからの使者
イオニアから羊や布を運んで

パサルガダエ(Pasargadae)
パサルガダエはペルセポリスの北東87キロメートルにあるペルシャ帝国の最初の首都であり、紀元前546年に、キュロス2世の手によって建設が開始されましたが、その建設は途上に終わってしまいました。というのも、紀元前530年前後の戦争中に、キュロス自身が死亡したからです。ダレイオス1世がスーサに遷都するまで、パサルガダエは、ペルシャ帝国の首都として機能しました。パサルガダエ考古遺跡は、1.6平方キロメートルの広さであり、キュロス2世の墓と伝えられる建造物、丘の近くにそびえるタレ・タフト要塞と王室の庭園から構成されています。パサルガダエに残る庭園は、イランで最初の四分法に基づいて建設されたペルシャ式庭園でもあります。しかし今では見渡す限り広大な荒地が広がり、ところどころにポツンと柱やレリーフが残るキョロス2世の宮殿跡や大王の墓(アレキサンダー大王はキュロス大王を尊敬していて墓は破壊を免れ残ったらしい)があるだけです。この場所の大部分に古代遺跡の残骸が眠っているらしいが発掘の予算もなくそのまま放置されているようです。

牡牛を襲うライオン
イマームモスクを見学した後は、アーケード内のお店や、バザールで自由時間です。ミーナー・カーリーと呼ばれる銅の器や皿にエナメルで彩色した製品は繊細な模様と色合いがモスクのドームのようです。
サーディ廟
イラン国民に愛され続ける叙情詩人サーディーが眠る廟です。1291年に亡くなるまでの生涯で約30年間を中東や、北アフリカ、インドなどを放浪して「ゴレスターン(薔薇園)」「ブースターン(果樹園)」といった代表作を書いています。美しいペルシャ様式の糸杉の庭園が特徴的です。ここでは、女子小学生の遠足に会いましたら彼女らが歌を歌ってくれたので全員での記念写真撮影です。
ホマ、
幸福の鳥を意味する双頭鷲像でペルセポリスのスフィンクスとも呼ばれ、イラン航空のロゴにもなっています。
アルサケス朝パルティア王子像
チェヘル・ソトン庭園
「四十の柱」と言う意味ですが実際には20本の柱が、正面の池に映り、合わせて40本に見えることからきています。建築当時は柱はすべて鏡で覆われていたそうです。迎賓館として1647年に建てられた華麗な宮殿ですが、庭自体はアッパース1世時代に造られた物でアーリー・ガープー宮殿までつながっていました。2011年に「ペルシャ式庭園」のひとつとして世界遺産登録されています。

悠久のポルトガル8日間

イマームドアと呼ばれる漆喰の窓

2014年3月7日~14日

百柱の間とアルタクセルクセス2世の王墓、
百柱の間は歴代の大王が公式行事を行った玉座殿です。間口90m、奥行き100mの広さを100本の柱で支えられていたことから百柱の間と呼ばれているペルセポリス最大の広間です。入口には馬の彫刻柱があり、西側にある王が牡牛に剣を突きつけている「悪魔と王の闘争像」は、悪に対する王の力を示すレリーフです。正面のラフマト山の中腹には、アルタクセルクセス2世王墓(在位404BC~358BC)があります。王墓は、高さ12m、横6mほどの十字型のファサードに王様の像が彫られています。岩窟墓で中には入れませんが大きな石棺があるそうです。ここからはペルセポリスが一望できます
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