4日目(6月13日)
2014年6月10日〜14日
ジン・ブロックスとオベリスクの墓,
入口に入って最初に目にする遺跡がジン・ブロックで聖霊が宿ると伝えられています。右側の4つの尖塔がエジプトのオベリスクに似ている事から2階建ての遺跡がオベリスクの墓と呼ばれています。
2日目(6月11日)
通貨はJD(ヨルダン・ディナール 1JD=\145)ですが観光地ではUS$が使えますので両替の必要はありませんでした。
今日は、まったくの移動日です。成田空港からアラブ首長国連邦(UAE)の首都アブダビ経由でアンマンに向います。
1日目(6月10日)
5日目(6月14日)
ローマ円形劇場,
その先に見えてくるのは紀元106年以降、ローマ帝国の支配を受けローマ式建造物が造られるようになり岩山をすり鉢状に掘った 3000人を収容できるこの劇場もナバテア人の巨大な建造物です。
1万年も前の住居跡や各時代の遺跡も多く、なかでもペトラはヨルダン観光のハイライトです。ほかにも世界7不思議のひとつの死海もあります。またヨルダン渓谷は、トルコから東アフリカまでつながる大地溝帯の一部で、何百万年も前の地殻の隆起により形成され 死海は当初、南はアカバから北はチベリアス湖(ガリラヤ湖)まで、全長が 360 km に渡っていました。死海の周辺は世界で最も標高が低い場所で、渓谷の底からは、東西に向って隆起が続き、長い間に西側にパレスチナ高原、東側にヨルダン高原を創り出した地質学上でも特異な場所です。地上にこういった地球のプレートの割れ目が現れる場所は世界でもアイスランドとここの2ヵ所だけです。
特にオスマン・トルコの支配の後、列強諸国の利害において人為的に国境線が引かれ、それが少なからずその後のパレスチナ問題に代表される数々の困難な状況を生んできました。ヨルダンの正式国名は「ヨルダン・ハシミテ王国」で、シリア、イラク、サウジアラビア、イスラエル、パレスチナ暫定自治区と国境を接し(イスラエル、パレスチナ暫定自治区とはヨルダン川と死海が国境です)立憲君主制をとり、イスラームの預言者ムハンマドの従弟アリーとムハンマドの娘ファーティマの夫妻にさかのぼるハーシム家出身の国王が世襲統治する王国です。イラク情勢やパレスチナ問題などでもその名が出ますが、特にイスラエルとの和平協定のあとは政治的には安定しており、多くの観光客が訪れています。
エド・ディル,
岩を削って造られた 約800段の階段を上がる坂を上りきり、下の神殿前広場に下りると、はるか上には峡谷を見渡す感動的なエド・ディル修道院が建っています。エル・カズネより一回り巨大な高さ45m、幅50mのオボダス王の霊廟とされるペトラ最大の神殿です。ペトラ最大の建造物は標高1000メートルの山頂にあるためか、ここまで辿り着く人は少ないので人が少なめです。
王家の墳墓,
岩から精巧に削りだされた何百もの墓には複雑な彫刻が施されています。これらの墓は、多くが地震で崩壊した住居とは異なり、来世まで持ちこたえるよう頑強に造られており、現在でも
500 ほど残っています。特に王家の墓と呼ばれる岩窟墓群は、ビザンチン時代には教会として使われ最大の物は3階建てのローマ帝政期の宮殿建築を模倣してコリント式の柱があります。右から壷の墓、シルクの墓、コリント式の墓、宮殿の墓と名付けられています。
エル・カズネ,
1.2Kmも続く谷底を這うような狭い岩の回廊を抜けてシークの出口に到達すると突然、岩の割れ目から巨大な建造物が現れます。エル・カズネ(宝物殿)です。崖を削り、彫り抜いた神殿風正面を持つ幅約30m、高さ43mのナバテア人の偉大な王の墳墓として
1 世紀初頭に造られた物で、ハリソン・フォード主演の映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」の舞台にもなりました。宝物殿と言う名前の由来は建物の一番上に乗っている壷の中に宝物が隠されていると信じられた事によるそうですが、中は殺風景な部屋があるだけで何も発見されていません。
アブダビからアンマンに向けて出発です。眼下はペルシャ湾
エティハド航空の本拠地アブダビに到着は夜明け前の4:35、不思議な形の建物は管制塔だけでなくターミナル内部もエキゾチックです。
シーク,
巨大な砂岩の割れ目みたいな道に入ります。もう冒険心がくすぐられますねぇ。「失われた都市」にはシークと呼ばれる絶壁に挟まれた道を行きます。絶壁の高さは60mから90mもありほぼ垂直に切り立ち、砂岩に含まれているミネラル分が光って岩の色はいろいろ変化し目のくらむようなすばらしさです。 難攻不落の都市として現在にその姿を残すのはこのシークのおかげです。
ペトラ(Petra)
ヨルダンの中南部にあるペトラは、紀元前2世紀ごろに遊牧民ナバテア人が築いた岩山都市です。アラビア、エジプト、シリア、フェニキアなどの交易の要衝として1世紀初頭に最盛期を迎えますが、106年にローマ帝国によって征服されました。建造物や彫刻群に古代東方文化とヘレニズム文化との融合が見られる、世界でも最も有名な考古学遺跡の一つですが、栄華を誇ったナバテア王室も106年にローマ帝国によって征服され、さらに363年の大地震で多くの建物が崩壊したことによりその歴史を閉じます。都市は砂に埋もれ、長く人々の記憶から忘れられることになったのです。
ペトラは 考古学的には重要な都市でありながら、14 世紀以後、ペトラはヨーロッパから完全に忘れ去られてしまい「失われた都市」と呼ばれたことがありました、ペトラは砂岩をくり抜いて造られた遺跡ですが、遺跡に至るまでに大きな岩盤の間隙をを通り抜けて行かねばならず、難攻不落の都市だったからです。 その後、スイスの冒険家ヨハン・ルードヴィッヒ・ブルックハルトに1812 年に「再発見」されるまで、ペトラは現地の人たちだけの地となっていました。ぺトラ遺跡といえば「インディー・ジョーンズ」の映画で聖杯を探して最後にたどり着いたのがここペトラ遺跡という設定です。
3日目(6月12日)
アイン・ムーサ(Ain Musa)
ペトラの町の入口近くにあるモーセが岩を杖でたたくと水が湧き出たという話の舞台の場所です。「アイン」は泉、「ムーサ」はモーセのアラビア語読みです。更に進むとワディ・ムーサ(Wadi
Musa)の街の中心部を過ぎると高台からは中・高級ホテルが立ち並ぶ遺跡入口に続くツーリスト・エリアが見渡せます。ペトラの保護の為すべての観光施設は遺跡の外にあります。
午後は「砂漠の道」(Desert Highway)と呼ばれる舗装された広い道を延々と、途中にはヴェトウインと呼ばれる遊牧民のキャンプやラクダの放牧地を見ながら。アマーン(Ma'an)まで走りペトラに向います。
聖ジョージ教会、
ギリシャ正教の教会で、6 世紀に作られたエルサレムと聖地パレスチナ周辺をモザイクで表した有名な「パレスチナの地図」と呼ばれるモザイク画が床に描かれています。1896
年に、昔のビザンチン教会跡にを調査した時に発見されそうです。200万個もの色鮮やかな色彩のストーンが敷き詰められ、6世紀当時のヨルダン川や死海、エルサレムなどの様子が描かれています。
地図が描かれたモザイク画は、元はおよそ 21 × 7m の大きさがありましたが、大半は火災や新しい教会の活動、そして湿気の影響により破損し現存しているのはそのうち四分の一ほどです。
マダバ(Madaba)
アンマンから5000 年の歴史を持つキングスハイウェイをわずか 30Km ほど行ったところにある町です。旧約聖書の中のモーセの出エジプト記に書かれたモーセ終焉の地ネポ山の東に位置し、洗礼者ヨハネが活躍した場所でもあると伝えられていますのでヨルダンはイスラム教徒が9割の国ですが、この町はキリスト教徒の街です。歴史的には見逃すことのできない世界最古といわれるエルサレムを含むパレスチナの地図がモザイク画として残されている町です。
ヨルダンは国土の80%がシリアからサウジアラビアへと続くシリア砂漠が占めています。それはただ砂が広がっているだけでなく、岩山が続き小石が散らばる荒地のような中に、所々にぽっんと小さな集落がある風景です。首都アンマン郊外のクイーン・アリア国際空港に10:25到着、いよいよヨルダンの旅が始まります。まずはバスでマタバへ向います。