死海(Dead Sea)
ヨルダン渓谷内にある死海は海抜マイナス410mにあり長さ 75Km、幅約14Kmで、 北側の大部分はとても深く、場所によっては深度400mにも達します。 それに対して南側の入り江はかなり浅く、平均すると4mにも満たないほどです。 地球の表面で最も低い位置にある死海の広大な水面には、ヨルダン川を始め、多くの川が注ぎ込んでいます。 水が死海に注がれると、行き場がなくなりそこに閉じ込められ、そこで水が蒸発し、濃厚な塩分濃度(33%)とミネラル成分の含有量が非常に多いため、死海には動植物は生息していません。死海の最大の魅力は、何と言っても 驚くほど温かく、大きな浮力を持つ海水は、なめれば塩辛いを越えて痛く苦い程ですが、不思議と誰でも穏やかな日差しを浴びながら海面に浮かびます。周辺は人口も少なく、静かで落ち着いた場所ですが、死海一帯は、旧約聖書に出てくる 5 つの都市、ソドム、ゴモラ、アドマン、ゼボイム、ゾアルがあった場所として考えられています。
昨日は19:40に死海の沿岸にあるDead Sea Spaホテルに到着しましたので、今朝はさっそく起床してすぐにホテルのプライベートビーチでの死海浮遊体験とプールでひと泳ぎしました。

悠久のポルトガル8日間

4日目(6月13日)

ワディ・ムーサ(Wadi Musa)の街
死海がはっきり見えます
モーセの泉
15:40にペトラを出発して、デザート・ハイウェイ、途中からデッド・シー・ハイウェイを経由し死海の夕陽を見ながらバスで死海に向います。

2014年6月10日〜14日

ジン・ブロックスとオベリスクの墓,
入口に入って最初に目にする遺跡がジン・ブロックで聖霊が宿ると伝えられています。右側の4つの尖塔がエジプトのオベリスクに似ている事から2階建ての遺跡がオベリスクの墓と呼ばれています。

2日目(6月11日)

モーセの記念の場所
ツーリスト・エリア
西アジアに位置するこの地域はヨーロッパ、アジア、アフリカ大陸の十字路になっている事から、さまざまな支配者の野望のもとにさらされて、激動の歴史をくぐり抜けてきました。

通貨はJD(ヨルダン・ディナール 1JD=\145)ですが観光地ではUS$が使えますので両替の必要はありませんでした。

今日は、まったくの移動日です。成田空港からアラブ首長国連邦(UAE)の首都アブダビ経由でアンマンに向います。

1日目(6月10日)

コリント式の墓は、エル・ハズネに似たフォルムです、左側の宮殿の墓は3階層からなる王家の墓の中では最大の建築物ですが風化がかなり進んでいます。
列柱通り、
幅10m、カスル・アル・ピントまで約225m続く列柱通りはローマ帝国の支配下になってから、もともとのナバタイ人の通路を大理石を敷詰めて大改造したものですが、現在の朽ち果てた姿からは想像できませんがかっての市街地の中心でしたので重要な建物が集まっています。最初に王家の墳墓を見てから丘の上をる歩く道をとおり全体を把握してからエド・ディルからの帰り道に、この列柱通りを歩きました。
すべての観光を終えて、砂嵐の舞い上がるアンマン空港から砂塵の如く帰国です。

5日目(6月14日)

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旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

成田に帰国

王家の墓に向って列柱通りを歩く
列柱通りを歩く、後方はカスル・アル・ピント
神殿前広場にある、END OF THE WORLDの看板にしたがってエド・ディルの前にある、岩の山にさらに登ってみると、、、、

ローマ円形劇場,
その先に見えてくるのは紀元106年以降、ローマ帝国の支配を受けローマ式建造物が造られるようになり岩山をすり鉢状に掘った 3000人を収容できるこの劇場もナバテア人の巨大な建造物です。

最高の景色を見ながら、ここから再び今まで来た道を2時間半かけて戻ります。
エル・ハズネを背中に、ペトラよ、さようなら。
今日は、この旅の最大目的であるヨルダン国内で最初に世界遺産登録されたペトラ遺跡の観光です。早朝にホテル周辺を散策するとペトラ遺跡発見者のブルックハルトが地元民に財宝の盗掘者に疑われないために偽名を使い、モーセの兄アロンの墓に「いけにえの羊」を捧げると装って遺跡を訪れた理由に使ったジャバル・ハールーン頂上にある1459年に建てられた白いドームのアロンの墓も見えました。
ジャバル・ハールーン頂上にあるアロンの墓
8時にホテルを出発し数分ほど歩くと遺跡の入場口に到着、ここからシークの入り口まで1kmほど平坦な道が続いています。ペトラは、これまで見てきた世界の遺跡の中でも、広大で巨大な砂岩がそびえ立つ中にぽつぽつと遺跡が存在する独特の世界が漂っています。エド・ディルまで往復10Kmの道のりですが、体力の無い方には馬車もあります。
早朝であったのとホテルのプライベートビーチのためか人も少なく、ゆったりと浮遊体験を楽しみました。あたかも椅子に座るように海のうえに座ると胴体はもちろん、手も足もすべてのパーツが浮いてきます。板みたいにまっ平らになって浮いている、なんとも奇妙な感じです。すごかったのは、泳ごうと思っても浮きすぎて泳げなかったこと。水をしっかりかくにはある程度体が沈んでいないとダメなんだと気がつかされます。いろいろ移動する方法を試してみましたが、いちばん効率的だったのは手をオールの様にして漕いで移動することでした。立ったまま水中を歩こうとすると足が浮いてきてしまうので何もしていないと海に垂直に立っていられませんが、歩くように漕ぐとなんとか体が進みますがバランスが非常に難しかったです。ここは、やっぱり浮いたまま、まったりするのが一番のようです。死海の泥を体に塗って(泥パック)楽しむのもまた一興です。

1万年も前の住居跡や各時代の遺跡も多く、なかでもペトラはヨルダン観光のハイライトです。ほかにも世界7不思議のひとつの死海もあります。またヨルダン渓谷は、トルコから東アフリカまでつながる大地溝帯の一部で、何百万年も前の地殻の隆起により形成され 死海は当初、南はアカバから北はチベリアス湖(ガリラヤ湖)まで、全長が 360 km に渡っていました。死海の周辺は世界で最も標高が低い場所で、渓谷の底からは、東西に向って隆起が続き、長い間に西側にパレスチナ高原、東側にヨルダン高原を創り出した地質学上でも特異な場所です。地上にこういった地球のプレートの割れ目が現れる場所は世界でもアイスランドとここの2ヵ所だけです。

壷の墓の内部
大神殿は、紀元前1世紀に神殿として造られた物で岩壁に彫られた建築物を除くとペトラ最大の建造物です。2階部分には600人収容可能なテアトロンも残されています。
途中のビュッフェレストランBAISINで腹ごしらえ。ペトラ遺跡内にはここにしかレストランがないので食事の選択肢は限られますが、ここで昼食を食べた後、ペトラ遺跡の最奥地エド・ディルに向かって出発します。坂道や階段を1時間ほど登って行かないとたどり着けないハードな場所にありますが.、ロバに乗せてもらうとラクラク20分位で登ってくれるそうで、お値段は1人10 JD(約1500円)からの交渉だったそうです(乗った方の話からです)。

特にオスマン・トルコの支配の後、列強諸国の利害において人為的に国境線が引かれ、それが少なからずその後のパレスチナ問題に代表される数々の困難な状況を生んできました。ヨルダンの正式国名は「ヨルダン・ハシミテ王国」で、シリア、イラク、サウジアラビア、イスラエル、パレスチナ暫定自治区と国境を接し(イスラエル、パレスチナ暫定自治区とはヨルダン川と死海が国境です)立憲君主制をとり、イスラームの預言者ムハンマドの従弟アリーとムハンマドの娘ファーティマの夫妻にさかのぼるハーシム家出身の国王が世襲統治する王国です。イラク情勢やパレスチナ問題などでもその名が出ますが、特にイスラエルとの和平協定のあとは政治的には安定しており、多くの観光客が訪れています。

教会の床のモザイク
ネボ山の山頂に立つと、ヨルダン川沿いの渓谷、死海、ジェリコ、エルサレムにまたがる大パノラマが眼下に広がります。
眼下に見るエド・ディルも最高
カスル・アル・ピントは、いけにえを捧げたと考えられる祭壇で、テメノス(聖域)・ゲートと呼ばれる凱旋門で俗界から隔離されています。
凱旋門
ネポ山、
モーセが埋葬された場所で、ヨルダンでは聖地として崇められています。 かつてモーセがそうしたように、ネボ山の山頂に立つと、ヨルダン川沿いの渓谷、死海、ジェリコ、エルサレムにまたがる大パノラマが眼下に広がります。ネボ山は、初期キリスト教徒の巡礼の地であり、旧約聖書でモーセが「あれが約束の地だ」と率いてきた民にパレスチナに向かう事を促し、山頂から見守った場所とされています。ネボ山の最初の教会は、モーセを祀るため、4 世紀後半に建てられました。現在は聖フランシスコ教会として使われています。教会の外に立つヘビをあしらった十字架は、砂漠へと向かうモーゼが引き連れていたヘビと、キリストが磔にされた十字架を表しています。
教会の入口には2000年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が訪れた記念碑があり、下方には、UNUS DEUS PATER OMNIUM SUPER OMNES「一つの神、万民の父が、万民の上にいます」と書かれています。
ホテルを10:30にCheck-outして、死海からネポ山に向います。ネポ山の中腹の高台には軍の装甲車がカモフラージュしてパレスチナ方向に対峙しているのを見ると、安定しているとは言え地政学的に緊張感のある場所である事を再認識させられました。その後マトバを経由してアンマンからの帰国です。
海抜0mの標識

エド・ディル,
岩を削って造られた 約800段の階段を上がる坂を上りきり、下の神殿前広場に下りると、はるか上には峡谷を見渡す感動的なエド・ディル修道院が建っています。エル・カズネより一回り巨大な高さ45m、幅50mのオボダス王の霊廟とされるペトラ最大の神殿です。ペトラ最大の建造物は標高1000メートルの山頂にあるためか、ここまで辿り着く人は少ないので人が少なめです。

王家の墳墓,
岩から精巧に削りだされた何百もの墓には複雑な彫刻が施されています。これらの墓は、多くが地震で崩壊した住居とは異なり、来世まで持ちこたえるよう頑強に造られており、現在でも 500 ほど残っています。特に王家の墓と呼ばれる岩窟墓群は、ビザンチン時代には教会として使われ最大の物は3階建てのローマ帝政期の宮殿建築を模倣してコリント式の柱があります。右から壷の墓、シルクの墓、コリント式の墓、宮殿の墓と名付けられています。

ファサード通り、
エル・ハズネを過ぎた渓谷には 岩から精巧に削りだされた建物が道の両側に並び、ファサード通りと呼ばれています。これらの建物の上部には階段状の模様が施されナバテア人は死者の魂が、この階段を伝って天国へ昇ると信じていました.。
エル・カズネ前の広場に出ると、そこはビジネス。古代の戦士やラクダが観光客目当ての写真のために待っていますので、記念に一枚。

エル・カズネ,
1.2Kmも続く谷底を這うような狭い岩の回廊を抜けてシークの出口に到達すると突然、岩の割れ目から巨大な建造物が現れます。エル・カズネ(宝物殿)です。崖を削り、彫り抜いた神殿風正面を持つ幅約30m、高さ43mのナバテア人の偉大な王の墳墓として 1 世紀初頭に造られた物で、ハリソン・フォード主演の映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」の舞台にもなりました。宝物殿と言う名前の由来は建物の一番上に乗っている壷の中に宝物が隠されていると信じられた事によるそうですが、中は殺風景な部屋があるだけで何も発見されていません。

こんな砂岩の崖がどーんと迫力ある風景を見ながら、しばらくこんな道を歩きます。
ステラと呼ばれる石板にはナバタイの主神ドゥシャラーや女神ウッザーや碑文が彫られています。
その先には、2頭のラクダを連れたキャラバン(隊商)の像ががあります。像の上部は失われているが、腰に布を巻き、足にサンダル風の靴を履いているのがわかります。

アブダビからアンマンに向けて出発です。眼下はペルシャ湾

エティハド航空の本拠地アブダビに到着は夜明け前の4:35、不思議な形の建物は管制塔だけでなくターミナル内部もエキゾチックです。

壷の墓、ファサードの頂点に壷の彫刻があることからそうよばれています。テラスは高台なので眺めが良いです。
シーク内にはナバタイ人が水源地から水を引いた水路が道の脇にあったり、あがめていた神々が岩壁に彫られています。

シーク,
巨大な砂岩の割れ目みたいな道に入ります。もう冒険心がくすぐられますねぇ。「失われた都市」にはシークと呼ばれる絶壁に挟まれた道を行きます。絶壁の高さは60mから90mもありほぼ垂直に切り立ち、砂岩に含まれているミネラル分が光って岩の色はいろいろ変化し目のくらむようなすばらしさです。 難攻不落の都市として現在にその姿を残すのはこのシークのおかげです。

ペトラ(Petra)
ヨルダンの中南部にあるペトラは、紀元前2世紀ごろに遊牧民ナバテア人が築いた岩山都市です。アラビア、エジプト、シリア、フェニキアなどの交易の要衝として1世紀初頭に最盛期を迎えますが、106年にローマ帝国によって征服されました。建造物や彫刻群に古代東方文化とヘレニズム文化との融合が見られる、世界でも最も有名な考古学遺跡の一つですが、栄華を誇ったナバテア王室も106年にローマ帝国によって征服され、さらに363年の大地震で多くの建物が崩壊したことによりその歴史を閉じます。都市は砂に埋もれ、長く人々の記憶から忘れられることになったのです。
ペトラは 考古学的には重要な都市でありながら、14 世紀以後、ペトラはヨーロッパから完全に忘れ去られてしまい「失われた都市」と呼ばれたことがありました、ペトラは砂岩をくり抜いて造られた遺跡ですが、遺跡に至るまでに大きな岩盤の間隙をを通り抜けて行かねばならず、難攻不落の都市だったからです。 その後、スイスの冒険家ヨハン・ルードヴィッヒ・ブルックハルトに1812 年に「再発見」されるまで、ペトラは現地の人たちだけの地となっていました。ぺトラ遺跡といえば「インディー・ジョーンズ」の映画で聖杯を探して最後にたどり着いたのがここペトラ遺跡という設定です。

3日目(6月12日)

アイン・ムーサ(Ain Musa)
ペトラの町の入口近くにあるモーセが岩を杖でたたくと水が湧き出たという話の舞台の場所です。「アイン」は泉、「ムーサ」はモーセのアラビア語読みです。更に進むとワディ・ムーサ(Wadi Musa)の街の中心部を過ぎると高台からは中・高級ホテルが立ち並ぶ遺跡入口に続くツーリスト・エリアが見渡せます。ペトラの保護の為すべての観光施設は遺跡の外にあります。

午後は「砂漠の道」(Desert Highway)と呼ばれる舗装された広い道を延々と、途中にはヴェトウインと呼ばれる遊牧民のキャンプやラクダの放牧地を見ながら。アマーン(Ma'an)まで走りペトラに向います。

聖ジョージ教会
ギリシャ正教の教会で、6 世紀に作られたエルサレムと聖地パレスチナ周辺をモザイクで表した有名な「パレスチナの地図」と呼ばれるモザイク画が床に描かれています。1896 年に、昔のビザンチン教会跡にを調査した時に発見されそうです。200万個もの色鮮やかな色彩のストーンが敷き詰められ、6世紀当時のヨルダン川や死海、エルサレムなどの様子が描かれています。 地図が描かれたモザイク画は、元はおよそ 21 × 7m の大きさがありましたが、大半は火災や新しい教会の活動、そして湿気の影響により破損し現存しているのはそのうち四分の一ほどです。

マダバ(Madaba)
アンマンから5000 年の歴史を持つキングスハイウェイをわずか 30Km ほど行ったところにある町です。旧約聖書の中のモーセの出エジプト記に書かれたモーセ終焉の地ネポ山の東に位置し、洗礼者ヨハネが活躍した場所でもあると伝えられていますのでヨルダンはイスラム教徒が9割の国ですが、この町はキリスト教徒の街です。歴史的には見逃すことのできない世界最古といわれるエルサレムを含むパレスチナの地図がモザイク画として残されている町です。

ヨルダンは国土の80%がシリアからサウジアラビアへと続くシリア砂漠が占めています。それはただ砂が広がっているだけでなく、岩山が続き小石が散らばる荒地のような中に、所々にぽっんと小さな集落がある風景です。首都アンマン郊外のクイーン・アリア国際空港に10:25到着、いよいよヨルダンの旅が始まります。まずはバスでマタバへ向います。

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