パシュパティナート寺院
火葬の炎が上がる川岸のガート
パシュパティナート寺院の対岸からは火葬場が見える
火葬の準備をしている
チョモランマ・ベースキャンプ 5200m
9:25到着。ベースキャンプBCはネパール側のカラ・パタールとチベット側のロンボクとの2か所あります。ここからチョモランマ頂上までの距離は約36.5Km。ゲートは概ね標高5,100mに位置し,ロンボクよりここをベースとしたトレッキング客などを対象とした大きなテントや露店が並んでいます。テントでまずはティー・タイムで小休止。5200mで息が苦しいが深呼吸でハァハァをしながらチョモランマの方へ、すると上空の雲が消えて一転、ドドーンとその姿を見せてくれました。「ありがてー」と100回言いたい気分です。息が上がるけど叫びたい、ジャンプしたい!とにかく最高!!カメラのシャッターも止まりません。テントで昼食のチベット麺を食べて同じ道を戻ります。11:45出発
ロンボク(絨布)寺
午後になるとチョモランマは、すっかり雲の中でした。
オールドティンリー(定日)4350m
ネパールへと向かう中尼公路上では、チベット高原で最後の宿場町。町の周囲は草原になっており開けた道の南側にヒマラヤ山脈の眺望が開かれています。ほかのチベットの町と比べるとオールドティンリーはチベット色が濃厚で、民族衣装とトルコ石の首飾りを身につけた人々を数多く見かけます。約1000m下りましたが呼吸は全然楽になりました。ここはヒマラヤ展望の町としても知られ、とくにチョー・オユー(8,201m)を間近に望むことができます。
宿泊した雪豹客桟の入口
マカルー
8463m
チョー・オュー
8201m
チョモランマ
8848m
ローツェ
8516m
アニ・ツァングン寺(尼寺)
ラサの旧市街、大昭寺(ジョカン)の南側にある尼寺。本堂がひとつあるだけの小さなお寺で、ご本尊は十一面千手観音です。 歴史は古く、若い尼僧が100人以上いるラサ三大尼僧院の一つです。チベット仏教でも男尊女卑があるようで、男子寺院では公的援助がありますが尼寺では、全て自助努力を強いられています。その一環としてカフェも経営していたのでミルクティーを飲んで休憩。ソンツェンガンポが瞑想したといわれる部屋やマニ車の中身を作っている部屋も見せていただきました、またここは唯一、寺院内部の写真撮影もOKでした。
世界最高所駅(海抜5,068m)であるタングラ駅(唐古拉駅)
急な階段を登りデヤン・シャルに向かいます。

清蔵鉄道
西部の青海省西寧とチベット自治区首府ラサ(拉薩)を結ぶ高原鉄道。総延長1,956Kmで青蔵線とも呼ばれ、青海の青と西蔵(チベット)の蔵から青蔵鉄道と命名されています。1984年までに一期工事が行われ、2001年からの二期工事を経て2006年7月1日に全通しました。外国人がラサまで乗車する場合は、チベット入域許可書が必要です。列車はゴルムド駅で高地用のNJ2型ディーゼル機関車に交換し、世界鉄道最高地点の海抜5,072m のタングラ峠(唐古拉峠)、その近くの世界最高所駅(海抜5,068m)であるタングラ駅(唐古拉駅)を通過します。平均海抜は約4,500m、また海抜4,000m 以上の部分が960Km もあり、このような高所に鉄道が建設されるのは世界でも例がなく、まさに世界の屋根を走る鉄道と言えます。等級にもよりますが実質的には鉄道利用よりも航空運賃のほうが安いですが、車窓風景や食堂車での食事など、鉄道ならではの一泊二日の旅行が楽しめる絶大な人気を誇る観光路線となっています。また、標高5、000mになると酸素は平地の約半分になるのでゴルムド~ラサ間では車内に酸素を供給して平地の80%の酸素濃度を保って高山病に対応しています。

西寧〜ラサ間の青蔵鉄道では直特の軟臥(一等寝台で4人1室のコンパートメント)を利用して車窓から「世界の屋根」を見ながらの秘境のチベット高原を行くチョツト贅沢な列車旅の始まりです。食堂車では、車窓に展開するパノラマを楽しみながら食事ができますし、ワゴンサービスの車内販売もありました。
軟臥(一等寝台で4人1室のコンパートメント
食堂車の様子
朝食の「お粥」
昼食
ワゴンサービスの車内販売
給湯設備
車窓に目を転じ、崑崙(コンロン)山脈を越えると、可可西里(ココシリ)と呼ばれる、標高4500m程度の広大な無人地帯で、ほぼ手つかずの自然の中に多くの野生動物が棲む自然保護区があります。キャン(チベットロバ)、チルー(チベットカモシカ)、ヤクなど希少動物が生息しているのが見えます。
キャン(チベットロバ)
チルー(チベットカモシカ)
トト河、長江の源流
ツォナ湖
唯一、下車できる那曲(ナクチュ)駅、海抜4513m
4つの7千m峰を持つニェンチェン・タンラ山脈(7162m)
青海チベット鉄道とエベレスト14日間
エヴェレスト、又はチョモランマ(チベット語)、サガルマータ(ネパール語)はヒマラヤ山脈の最高峰.標高8,848m,1953/5/29,英登山隊のヒラリー(ニュージーランド)とテンジン(ネパールシェルパ族)が初登頂。チョモランマの左側はローツェだ.チベット語で,ローは南,ツェは峰なので,「南峰」となり,チョモランマの属峰的な名前です。でも標高8,516mと,世界4番目の高峰で,1956年ようやくスイス隊が初登頂に成功したという難度の高い山です。この2峰の朝日のグラデーションを、お楽しみください。
ヤムドゥク湖
ラサからおよそ120Km、ガンバ・ラ峠(4,784m)から、ヤムドゥク湖(=トルコ石の湖の意味)を望みます。チベット仏教三大聖湖(ヤムドゥク、ナムツォ、もう1ヶ所は西チベットのマナサロワール湖)のひとつ。標高4,400mに位置し、紺碧の湖水が荒涼とした大地に美しく映えます。大正元年に入蔵した日本人僧侶・青木文教が、湖の美しさを「磨きたての瑠璃板のようであった」と評したほどです。また、かつてダライ・ラマの後継者の選定は、この湖畔でも占われていたといわれています。
デヤン・シャルから見た白塔
クマリ館
1757年にカトマンズ最後のマッラ王朝の王、ジャイ・プラカース・マッラによって建てられた、生き神と信じられているクマリが住んでいる館です。2頭のライオン像がその入り口を守っています。クマリはタレジュー神(ドゥルガ)の化身であると信じられており、ネワール・サキャ族の由緒正しい家の出身の、少女の中から選ばれます。身体にシミやケガのない美しい目の子、専従の世話人によって育てられ、祭りの日以外は外出ができません。初潮を迎えるまでクマリの地位にとどまるそうです。他の地域にもクマリは何人かいますが、このカトマンズのクマリが最も重要なクマリであるとされます。ちょうど16:00からクマリが窓から顔を見せてくれますので、いくらかお布施をして見てきましたが写真撮影は禁止でした。
ダルバール広場
「ダルバール」とは「宮廷」という意味です。その名のとおり、マッラ王朝時代にはカトマンズ王国の中心部でした。王たちが美しさを競い合って建てた広場なので、その建物の装飾の美しさには目を見張るものがあり、広場に立ち並ぶ20数棟にも及ぶ寺院にはいろいろな時代のものが混在していましたが2015年4月の地震で大きな被害を受けて、ほとんどの建物や寺院が倒壊し、痛々しい限りです。現在、復旧作業が勧められていました。この広場には生き神の住むクマリの館を始めとする見どころが多くあります。また、周囲にはハヌマン・ドカと呼ばれる旧王宮もあり、いつも観光客で賑わっています。広場の近くには庶民のバザールもあります。
 東京ディズニーランド上空です。
 広州発9:15で羽田14:20着のフライトで帰国です。
民族舞踊付きレストランで定番の、ネパール料理ダルバート・タルカリ、これは、ダル(豆のスープ)、バート(ご飯)、タルカリ(おかず)がワンプレートに盛り合された定食を頂き、空港へ。 カトマンドゥ発23:15で広州経由の羽田への夜間飛行です。
ニューロードは、商店が並ぶカトマンドゥの目抜き通りです。しかし、蜘蛛の巣のような電線には驚きです。
シヴァ神の化身カーラ・バイラヴ
いたる所で補修工事中です。シヴァ・パールヴァティー寺院は倒壊をまぬがれましたが、広場中央にあったひときわ高いシヴァ寺院は9段の基壇を残して完全倒壊。インド神話に登場する神鳥ガルーダ像の前にあるナラヤン寺院も完全倒壊でした。
2頭のライオン像が守っているクマリ館
今日は、早朝6:30のイェーテ・エアーライン302便でヒマラヤの上空6000mからエヴェレストを見るマウンテン・フライトに行ってきました。カトマンドゥ上空には少し雲があるように思えましたが上空は雲もなくバッチリ、ヒマラヤの山々を見ることができました。また飛行中のコックピットをも見せてくれました。約1時間のフライトでUSD150でした。

13日目(5月27日)

2国間の友好橋を渡ってネパールへ。いきなり派手なトラックと人混みです。中国側のイミグレーションは立派な大きな建物だったが、ネパール側のイミグレは掘っ建て小屋みたいなとこで荷物をひっくり返されチェックされ,そして、そこから少し進んだところにあるホテルの一階を間借りしたところで、”入国審査”がありました。入国手続きの後、ネパール側の国境の町ラスワガディへ中国側は道路はアスファルトで舗装されていてとても綺麗で快適でしたが、対してネパール側は、未舗装の岩だらけ、埃だらけの道で正直きつかったです。

10日目(5月24日)

シェカール(協格爾)4200m
シガツェから中尼公路を走ること約5時間、ツォー・ラ(4,500m)、カツォー・ラ(5,220m)の峠を越えて、シェカール(4,200m)の町に到着です。ヒマラヤはシェーカル手前でようやく姿を見せ、待望のチョモランマは天気が良ければ街道沿いのビューポイントから展望することができるそうですが残念。シェーカル(ニューティンリーとも呼ばれる)は、食堂や民宿、ガソリンスタンドが並ぶ中尼公路の宿場町。チベット高原を縦横に走り回るドライバーたちはこの町で休息をとります。一歩町を出れば、チベットの荒涼とした大地が延々と広がっています。

洋風の生活様式です
おじいさん(左)とご主人(右端)
標高4500mの広大な無人地帯

2日目(5月16日)

ラブシシャーロ
ザウクマ
ディエカス
ニクマ
シシャパンマ
チョー・オユー(8,201m)のサンセット、世界6番目の高峰で初登頂は1954年オーストリア隊。最も登り易い8000m峰と言われているそうだ。
上海から中尼公路は5193Kmでオールドティンリです。

ロンボク(絨布)
ロンボク村はチョモランマ・ベースキャンプの訪問拠点。標高5,000m、ベースキャンプまで約7㎞の地点です。ここからチョモランマは迫力の山容を見せてくれますが、頂上に雲がかかり気になります。ベースキャンプの宿泊は原則不可(要登山許可、その場合もテント泊のみ)、観光では訪問のみとなります。ベースキャンプからは、より間近にせまるチョモランマの大パノラマを見ることができるはずと信じて先に進みます。

マカルー
8463m
ローツェ
8516m
チョモランマ
8848m
マーカルは、標高8,462mとローツェに続き世界5番目の高峰.1955年仏隊が初登頂.日本人では1970年に初登頂しているそうだ.
早朝6:00、真っ暗の中ホテルを出発。エヴェレストを目指して途中の2度の検問(ルル検問所と、エヴェレスト国家公園)、クネクネと九十九折の道を登り、空が明るくなり雲がピンク色に染まる頃、ギャウ・ラ峠に到着。思わず叫びたいくらいの気分、マカルー,ローツェ,チョモランマ,チョオユーの8,000m峰、少し下ると遠くにうっすらとシシャパンマ(8027m)まで見えました。マカルー,ローツェ,チョモランマ,チョオユーの8,000m峰は中国とネパールの国境に在るが、シシャパンマ(8027m)だけは中国領内にあります。

カツォー・ラ峠
ここで、中ネ公路の最高地点5,220mを迎えます。幾重にも重なる5色のタルチョがはためき、安全を祈願した積み石がいたるところに見られます。晴れていれば、ここから最初のチョモランマを臨むことができますが雲が多くてNG。代わりにカンプレ山(7020m)が顔を出していました。

再び、中尼公路に戻り標高をあげていきます。
再び、エヴェレストが見られるポイントに、正面にエヴェレストがありますが雲が頂上にどっぷりと覆っています。夕方のこの時間は、雲も多く残念!。
サキャ南寺
サキャ寺はチベット仏教四大宗派(ゲルク派、ニンマ派、カギュ派、サキャ派)の一つサキャ派の総本山です。 1073年、クン・クンチョクギャルポが北寺を創建、その後1268年に元の帝師パクパがトゥム川の南岸に南寺を創建しました。寺は正方形の堅固な二重の城壁に囲まれ、その四隅には望楼が設置されていて要塞の様な感じです。寺院であると同時に,行政府の役目も果たしたようです。サキャ派がモンゴルから譲られたチベットの覇権を握った時期があったそうだが,そのとき本山であると同時に政治の中心でもあったそうです。赤銅色に塗られた城壁には、白と濃紺のストライプが施されているが、赤銅色が文殊菩薩、白が観音菩薩、濃紺が金剛手菩薩をそれぞれ表しており、これがサキャ派の大きな特徴だそうです。
途中、中尼公路を左に折れてサキャに向かいます。工事中の道はガタガタ。大型トレーラーがスタックして、うちのドライバーさんが大活躍。

ツォー・ラ峠(4530m)
幾重にも重なる5色のタルチョには経文が印刷されていて風が吹くたびに祈りが世界に広がります。峠の丘を登るだけでも息が苦しいですが、峠に住む子供たちは元気そのもので高地も全然平気な様子でした。

強公村にある318国道の5000Km地点モニュメント、
318国道は中華人民共和国上海市人民広場とチベット自治区シガツェ市ニャラム県(チベット ガリー地方)ダムを結ぶ中国の国道で、その全長は5476kmに及び、中国最長の国道です。成都からラサまでは川蔵公路(せんぞうこうろ)、ラサからダムまでは中尼公路(ちゅうにこうろ)の一部となり、中尼公路はネパールの首都カトマンズまで続いています。

白居寺(パンコル・チョーデ)
チベット語で「吉祥輪大楽寺」の意。特定の宗派に属さない寺院で、15世紀始め頃の明王朝時代にラプテン・クンザン・パクパにっよって創建された寺院です。1階には本尊の三世仏(過去、現在、未来の三仏)。奥には6~7m高さの釈迦牟尼像、両サイドに167体の菩薩像・観音菩薩・弥勒菩薩・文殊菩薩・金剛仏・千手観音菩薩・ソンツェンガンポ像・パンチェンラマ9・10・11世の写真があり、2階には十八羅漢、大きな壁画や立体曼荼羅があります。塑像、壁画はインド、ネパール、漢民族の様式を取り混ぜたチベット独自の様相が感じられます。大集会堂の左には、白色の巨大なストゥーパがあります。パルコル・チョルテンと呼ばれる8階13層、高さ34mの仏塔です。

シガツェの町
シガツェ・ゾン
市街地の北側の山の上に築かれた古城。かってはポタラ宮に四的するような王宮が建っていたが、中国人民解放軍の侵攻によって破壊され、2007年から再建されました。ここからシガツェの町の様子が一望できます。
タシルンポ寺
創建は1447年、ゲルク派の開祖ツォンカパの弟子で、後にダライ・ラマ1世となったゲンドゥン・ドゥプにより創建されました。チベット・ゲルク派6大寺院の一つであり、シガツェを代表する大寺院です。ダライラマ5世の時代にタシルンポ寺の僧院長が阿弥陀如来の化身であるパンチェン・ラマとしての地位を得て以来、歴代パンチェン・ラマによる政治・宗教の中心として繁栄しました。境内にはパンチェンラマ1世から10世の霊塔を安置した霊塔殿の他、高さ26mの弥勒坐像を祀る弥勒仏殿、大集会堂などがあります。ダライ・ラマと同様に、その地位が代々転生によって継承されるパンチェン・ラマ制度は、ダライ・ラマ5世が、自分の死んだ師匠を阿弥陀如来の化身と認定したことに始まります。以後、同寺はパンチェン・ラマ1世の転生者が座主をつとめるようになりました。
シャル寺
ギャンツェ・シガツェ間に位置する寺院で、創建は1087年、1333年には中国から多くの大工を集めて拡張工事をしたため、現存する建物はチベット・中国の折衷様式となり中国様式が混ざっているため、1Fがチベット式の大教で、2Fは中国式の殿堂で瓦屋根があるのがこの寺院の特徴です。14世紀の工事を指揮したのは当時の住職であったプトンです。彼はチベット大蔵経典の編集を行ない仏典の解説書を著した大学者でした。彼の門下生は寺院の名前からシャル派と呼ばれました。
これも手作りの、立派な仏間
居間、家、装飾、家具も全て村人たちでの共同制作だそうです。
今日は、チベット第二の都市シガツェへ向かいますが、その前に突撃民家訪問です。セサンさん宅は10人家族、全く知らない私達の訪問にも優しくおもてなし。バター茶、乾燥チーズや裸麦の焼酎なども、最後にはカターのプレゼントまで只々恐縮です。

8日目(5月22日)

タンカと呼ばれる掛軸様の仏画
パルコル・チョルテン
白居寺から見たギャンツェ・ゾン(城砦)
ギャンツェ・ゾン(城砦)

ギャンツェ(江孜)3950m
古くからインドとの交易路の要衝として栄えたギャンツェは、チベットの歴史上、ラサ、シガツェに継ぐ第3の町です。1904年、開国を求めてチベットに侵攻したヤングハズバンド率いるイギリスの「武装使節団」とのあいだで戦闘が行われたのが、岩山にそびえるギャンツェ・ゾン(城砦)。結局、イギリス側の近代的火器の前に、わずか半日でギャンツェ・ゾンは陥落。ダライ・ラマ13世がモンゴルに亡命しているうちに、イギリスの優先権を認める「ラサ条約」が結ばれることになった歴史があります。ここは外国人旅行証が必要な町なので取得できたので行けました。

奥にあるマニ塚
チャクポ・リ(薬王山の磨崖石刻)
17世紀のダライ・ラマ5世の時代に、ここには薬王廟があって多くのチベット医学の医者が集まっていました。ポタラ宮の南西側にある薬王山の南西側には、大小1000体を超える仏像が彫りこまれた磨崖石刻と呼ばれる石刻群があります。これは、14世紀の有力貴族が、葬儀にタンカ(仏画)も掲げられなかった貧しい市民の為に彫らせた物です。その先には、お金を出せばその場でお経を彫り込んだ石(マニ石)を彫る人がいて、奥にあるマニ塚に積み上げていくのですが、ついに塔を造るほどになりました。

6日目(5月20日)

レストランでの民族舞踊
学堂
色拉(セラ)寺
デプン寺、ガンデン寺、タシルンポ寺と並び、ゲルク派四大寺院のひとつに数えられ、1419年ツォンカパの没年に完成。最盛期には5000人の僧が学んだ、現在でも全寮制の仏教総合大学の役割を担っています。明代の永楽帝の時代により奉じられた経典や仏像は今もセラ寺の宝物となっています。また、日本人とも縁が深く、河口慧海や多田等観が修行したことで知られています。中庭に行くと、学僧達の問答が白熱していました。立っている人は手を打って質問、座っている人は答える。これを毎日2時間行う。娯楽もなくジョークも禁止されている彼等には楽しみな時間でもあるそうです。

拉薩(ラサ)3650m,
チベット自治区の区都、1300年以上の歴史を持つ古都で、チベットの政治的・宗教的中心地です。 チベット語で、「神の地」を意味します。7世紀にチベットを統一した吐蕃(とばん)王国のソンツェン・ガンポ王により、チベット(当時は吐蕃王国)の都として定められました。しかし、9世紀半ばに吐蕃が滅亡すると地方政権が乱立し戦争に明け暮れする場所になりました。17世紀に勢力を伸ばしていたモンゴルのグシ・ハンの後押しを受けたダライ・ラマ5世がチベットを統一して再びラサは首都となりポタラ宮を建設し、寺院を拡張してきました。その後、中国人民解放軍がラサを占拠してダライ・ラマ14世がインドに亡命する1959年まで、ラサは政治の中心であると同時にチベット族の聖地として信仰の対象でもありました。現在はジョカン(大昭寺)を中心とした旧市街(チベット族居住地区)と、ポタラ宮西側に近年開発が進んでいる新市街(漢民族居住地区)とに分かれています。ラサの南側にはキチュ川(ラサ川)が流れ、ラサの北側の山腹にはデプン寺やセラ寺などの大僧院があります。

ラサには3連泊して身体を高地順応させます。今日は、市内観光でポタラ宮、ノルブリンカ寺、セラ寺を見学します。
デヤン・シャルから見た広場塔

4日目(5月18日)

西寧駅に近づくと清蔵鉄道の列車がみえてきました。駅は2014年に完成した今風の外観です。
清蔵鉄道の発車時刻に余裕があるので近くのバザールを見学して時間調整をしました。
青海蔵文化博物院
歴史、医学、絵画など、チベットの文化を集約し展示している博物館です。ここには、最高レベルの絵師を集めて完成したギネスブックにも掲載されている程の、チベットの歴史を絵解きにした、2.5x618mの壮大な「タンカ(布に描かれた仏画)」があります
入口の中門
大経堂
祈寿殿と時輪大塔
普逝八塔

青海湖の遊覧
中国最大の塩水湖で紺碧の水をたたえた湖は一周約360Km、面積4500平方Km(琵琶湖の六倍)もの規模を誇り、湖面の海抜3199mで、周囲の草原に豊かな水分供給をしています。遊覧船に乗って二郎剣まで行き電気カートで戻ってきました。ほとりには、チベット仏教関連の建物、タルチョ(祈禱旗)やテントが風情を添えています。

日月山峠、
青海湖の東に標高3520mの日月山と言う峠があり、かっての唐と吐蕃(古代チベット王国)の国境でした。ここは7世紀に西寧を出発した唐の文成公主が、吐蕃へ嫁ぐ際に立ち寄り、母からもらった鏡を割って唐に別れを告げたと言われる場所で、日亭と月亭が立っています。眺望が素晴らしいです。
ヒマラヤの山々の写真を、パンフレットも合わせて見てください。
MELUNGTSE
  (7181m)
GAURI SHANKAR
   (7134m)
CHHOBA-BHAMARE
     (5970m)
9:20(時差あり)に4WDに分乗して国境を出発。ここからカトマンドゥまで約180Km、ガタガタの悪路を埃にまみれて走ります。途中、警察のストップもあり、路上には上からの落ちてきた岩あり、工事中に足止めされ、ゴールはなかなか遠いです。ネパールの田舎の村を眺めながらガタガタ車は進みます。17:00カトマンドゥ市に、人も車もどんどん増えて、賑やかな町です。チベットとは全く異なる景色です。18:20宿泊先のゴカルナフォーレスト・ホテルに到着。かっての貴族の館を改装したホテルなので街中とは全く異なる雰囲気です。

11日目(5月25日)

7日目(5月21日)

約22時間の鉄道の旅も17:55、拉薩に到着
拉薩(ラサ)駅

クンブム(タール寺)
西寧から約30Km、高速道路で30分ほどの湟中(こうちゅう)にあるチベット仏教の四大宗派の一つで、1379年にゲルク派の創始者ツォンカパが誕生した寺として有名です。また、この地に建てられたゲルク派六大寺院のひとつです。 以前は4,000人以上もの僧が在籍し、チベット仏教センターとして重要な位置を占めていました。現在は観光地として整備され、多くのお堂を見学することができます。 山の斜面の広大な敷地に数多くのお堂が林立し、入り口までの参道には沢山の土産物屋が並んでいます。このタール寺の中で一番の見所は、ツォンカパの霊塔が安置されている金色に輝く屋根を持つ大金瓦殿。その前では多くの巡礼者が五体投地で祈りを捧げる姿が見られます。その他、タール寺の三絶と呼ばれる壁画、酥油花(バター彫刻)、堆繍(アップリケのように布を貼り合わせたもの)のタンカなども見所のひとつですが、内部は撮影禁止でした。


中国が測量して高さ8844m定めた地点モニュメント
ライトアップされたポタラ宮と広場

今日は、まったくの移動日です。羽田空港から中国南方航空便で約4時間のフライトで18:50広州着。入国審査では写真、指紋もとられました。

2018年5月15日~28日

広州上空

7:05ホテルを出発して、最初にオールドティンリの展望ポイントへ正面はチョオユー、標高8,201m,そして左手にチョモランマのピークが朝日を浴びて段々とピンク色に染まりました。今日は、シシャパンマ・ベースキャンプを訪ねてから国境の町、吉隆にむかいます。

夕方、一度ホテルに戻り、再びレストランで民族舞踊を見ながら食事してからライトアップされたポタラ宮の見物です。

2012年12月にネパールに行った時にヒマラヤ山脈の雄姿に感動し、次回は中国側からのヒマラヤ山脈を見て、再びネパール側から見ようと計画しましたが、2015年4月25日発生したネパール地震で以前の国境の町コダリが壊滅的な被害を受けて以来、中国とネパールの国境は第三国の観光客が通過出来なくなりました。しかし、今回やっと3年振りに、新たに中国チベット自治区の吉隆(ジーロン)から陸路でヒマラヤを越えてカトマンズまで行くことが可能になりましたので行ってきました。チベットの都ラサだけなら飛行機でも簡単に行けますが、ヒマラヤ越えの高度順応を兼ねて、5000m以上の峠を越える清蔵鉄道 (青は青海省、蔵は中国語でチベットを表しますので、青海チベット鉄道の意味です) で車窓から「世界の屋根」を見ながらの秘境のチベット高原を行く贅沢な列車旅です。西寧〜ラサ間の青蔵鉄道では軟臥(一等寝台で4人1室のコンパートメント)を利用し、高地順応を兼ねて清蔵鉄道で西寧(2275m)からラサ(3650m)迄行き、10日かけてギャンツェ(3950m)、シガツェ(3900m)、シェカール(4200m)、ロンボク村(5000m)と身体を高地順応させながらBC(5200m)に到達しました。エベレストのベースキャンプ(5200m)と、シシャパンマのベースキャンプ(5000m)をも訪ねました。チベット自治区に、旅行をするには、チベット自治区観光局の発行する「入境許可証」や国境近くの山岳地帯への「入山許可証」等々を取得する必要があります。原則として個人での自由な旅行は禁止されていますので、旅行社でのツアー手配で事前に申請をする必要がありました。

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旅行記を見ていただき有難うございます。何かの参考になれば幸いです。

成田に帰国

東京スカイツリー

14日目(5月28日)

広場から出ると、さまざまなお土産屋さんや物売りが店を広げていました。
バサンタプル広場
完全倒壊したナラヤン寺院とシヴァ寺院跡
神鳥ガルーダ像
ハヌマン・ドカ(旧王宮)
いくつもの建物や寺院、中庭から構成されている。「ハヌマン}とはヒンドゥー教のサルの神、「ドカ」とは門の事で、門の脇に赤い傘をかぶせられたハヌマンの像があることから、この名で呼ばれています。建物は補強材で支えれられたままの修復中でした。
最初に世話人が顔を見せてからクマリがでます
パシュパティナート寺院
パシュパティナート(Pashupatinath)
カトマンズから東に5km、ガンジス川の支流である聖なるバグマティ川の川岸にあるネパール最大のヒンドゥー教寺院。インドのヒンドゥー教徒にとっても重要な寺院で、インド亜大陸にある四大シヴァ寺院の一つでもあります。 シヴァラートリー(シヴァ神の誕生日)の日にはインド・ネパール中の巡礼者がこの寺院に詰め掛けます。破壊神であるシヴァは様々な化身を持ちますが、獣の王「パシュパティ」もその化身の一つです。 この場所には879年からシヴァ寺院があったことがわかっていますが、現存の寺院は1697年にマッラ王朝のブパティンドラ王によって建てられたものです。しかし、キラテシュワール寺院にある最古のシヴァ・リンガから推測するに、紀元前3世紀には最初の寺院が建てられたのではないかと言われています。パシュパティナート寺院は23.6mの高さをもち、寺院の四面には金色の扉が付いており、扉の両側にはヒンドゥー教の神々の像があります。 この寺院にはヒンドゥー教徒以外は入ることはできません。 橋の近くにはアルエ・ガートという火葬場があります。ヒンドゥー教徒はここで火葬されるのですが、一番川の上流にある火葬場は王族のものなので庶民は使うことはできません。この火葬場は24時間いつもフル回転だそうです。また、中に入ることは出来ませんが、バグマティ川の対岸から寺院の様子が良く見えます。
飛行証明書です
ネパール側から見た中国の入管
ネパールの手荷物検査場
ネパールの移民局
いきなり派手なトラックと人混み

ネパール(Nepal)
正式名称は、ネパール連邦民主共和国、面積は約14.7万kmです。東、西、南の三方をインドに、北方を中国チベット自治区に接する西北から東南方向に細長い内陸国で、国土は世界最高地点エベレストを含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成っています。多民族・多言語国家であり、民族とカーストが複雑に関係し合っています。約60%がインド系、40%がモンゴル(チベット)系です。宗教もヒンドゥー教(元国教)、仏教、アニミズム等とその習合が混在しています。

キーロン(吉隆)2600m
国境の町で、鉄道は,ラサからシガツェまではすでに完成しており,2020年までにその先の吉隆まで延伸の予定。吉隆からネパール側のラスワガディまでは30Kmほど,カトマンズまででも120Km余りの場所にあります。ネパール大地震以来、チベットの樟木(ジャム)からネパール側への通関がずっと閉鎖されていましたが、今回吉隆(ジーロン)からネパールへの通関が開通することにより、チベットから陸路でネパール側へ抜けらるようになりました。 その需要を当て込んでか街中、あちこちで工事中、おまけに昨夜は電力不足で計画停電でした。道をクネクネ下り、途中9:00の公安でのパスポート・チェックを受けて、やっと10:00国境通過。
監視カメラです

12日目(5月26日)

ギャウ・ラ峠
シェーカルとロンボク(チョモランマ・ベースキャンプ)の間に立ちはだかる標高5,128mの峠。ここは8,000m峰四座の大パノラマが展開する貴重な絶景ポイントです。朝日に浮かぶオレンジ色の光線は世界最高峰のチョモランマ(8,848m)の頂から照らし始め、すぐ左隣のローツェ(8,516m)、少し離れたマカルー(8,463m)、右端のチョー・オユー(8,201m)と順々に染め上げてゆきます。やがてギャチュン・カンやチャンツェといった7,000mも光を帯び、ヒマラヤの全貌が浮かび上がる様は圧巻です。しばし見とれてしまいました。

サキャ(薩迦)4100m
サキャとは、灰色の地を表す標高4,100mにあるチベット仏教サキャ派の誕生地です。町は東西に流れるトゥム川を中心として南北に二分されています。この町がチベットの歴史で脚光を浴びるようになったのは、11世紀にサキャ派の開祖クンチョク・ギエルポがトゥム川の北側にあるボンポ山の山腹にサキャ北寺を建立してからです。もともと南寺、北寺でひとつの寺院であったが1966年からの文化大革命で北寺が徹底破壊され、南寺のみが残っている状態となっていましたが、今は再建中です。

5日目(5月19日)

西寧(シーニン),
青海省の省都で標高2,275mの高地にあります。古くはシルクロードの南ルートと言われる唐蕃古道の要衝として発展してきた歴史のある町です。人口の約80%は漢民族が占めますが、回族、チベット族、モンゴル族、満州族など、ほかにも少数民族が住んでいます。2006年にチベット自治区ラサまでの青蔵鉄道の開通後は鉄道旅行の起点の町として、訪れる観光客は年々増えているそうです。その為か政府のスローガンと共に建築ラッシュ(中国どこでも)で高層ビルが急激に増えつつあります。

1日目(5月15日)

中国国境の町で、サルも見送りをしてくれました。
チベット人ガイドのジョガさんともお別れ。監視カメラ付きバスでした。

ペクッオ湖
目の覚めるような真っ青な湖、シシャパンマも一緒に見ることができる最高のローケーションです。山々、キラキラ光る湖を眺めながらのピクニック・ランチです。 この辺りは人工物などなにもなく、他に観光客もいない秘境的な雰囲気になってきました。砂漠の中のオアシスで見事な色をしています。ただし塩湖なので水は飲むことができません。

シシャパンマ・ベースキャンプ
前日眺めたマカルー,ローツェ,チョモランマ,チョオユーの8,000m峰は中国とネパールの国境に在るが、このシシャパンマだけは中国領内にあり、また世界で8,000m峰は14座あるが,最後に登頂された8,000m峰はシシャパンマ(8027m)だったそうです。また初登頂は1964年5月2日中国隊によって成されたそうです。
シシャパンマを望むタン・ラ(峠:5,126m)に立ち寄り、中尼公路から道をそれ、シシャパンマ・ベースキャンプへの約23Kmガタガタ道へ進みます。10:25シシャパンマ・ベースキャンプ着。チョモランマBCの様にテントや人影など全然なし。私達の独占状態です。野生のロバもいました。
左手にチョモランマのピークが朝日を浴びています
テント内部ではストーブを焚いていました

9日目(5月23日)

今日は、更に高度を上げてシェカール(4200m)へ、途中、チベット仏教サキャ派の誕生地サキャ寺に寄り、カツォー・ラ峠(5220m)を超えてベースキャンプに向かう為の高地順応をします。
ナンカルジェ村で昼食後、カローラ峠(5,045m)から、ノジンカンツェン(7191m)の山麓に広がるカローラ氷河を遠望します。5000mなので酸素が平地の約半分なので空気が薄いです。
今では珍しい雪豹の毛皮
帕拉(ばつら)荘園
ギャンツェは、ラサを中心とするウ地方と、シガツェを中心とするツァン地方を結ぶ交通の要衝であると同時に、ニャンチュ河が生み出した肥沃な土地でしたので、昔は多くの貴族が町の周囲に荘園を持っていました。帕拉(ばつら)荘園は、共産党が入ってく前の貴族の家で、文革時に壊された後に修復した建物の中でも保存状態が良い物の一つで、当時の暮らしぶりがよくわかります。昔のチベットは、中国より欧州的な生活、文化でした。敷地内にある建物の部屋数は40を超えるほどです。持ち主は、300年以上の歴史を持つ王族の血筋の貴族ですが、現在はダライ・ラマ14世と共に亡命中です。
宿泊したギャンツェ飯店
パルコル・チョルテンから見た街並み
大集会堂
ラサに別れを告げて中尼公路(318国道)を進みます。右手にカイラスを水源としてインドのガンジス河に流れるヤルツァンポ川を見ながら進みます。
マニ車の中身は経典を丸めて作ります
カフェで居合わせた現地のシニア・カップル
バルコル(八廊街)
ラサ旧市街の中心部にあるジョカンの周囲をぐるりと巡る長さ約1Kmの道の事ですが、道沿いにチベット様式の白色建物が立ち並んでいます。中国語では八角街とも呼ばれていますが、チベット族にとっては聖地ジョカンを取り囲む巡礼路で、必ず時計回りに進みます。
ケルサン・ポタン
ノルブリンカ東門
ノルブリンカ
歴代ダライ・ラマの夏の離宮で、 1740年代にダライ・ラマ7世の時に建てられて以来、歴代のダライ・ラマがここで夏を過ごしました。ノルブリンカ最大の宮殿はダライ・ラマ14世が建てたタクテン・ミギュル・ポダンです。彼が設計などをしてチベット様式の外観とはことなり、トイレ付きのシャワールームを設けるなど、新しいものが好きだった14世らしく、内部はかなり近代的な造りになっていますし、ラジオやレコードプレーヤーなども置かれています。1959年3月17日のチベット動乱により14世はここからインドへと亡命しました。中に展示されている時計は、ダライ・ラマが宮殿を出た当時の時間21:00をさしたまま止まっています。現在、広大な敷地は人々の憩いの場となっています。ノルブリンカ宮殿は2001年に「ラサのポタラ宮歴史地区」として世界遺産に追加登録されました。

ポタラ宮
チベットの人々から「ツェ・ポタラ(最高の王宮)」と崇められてるポタラ宮。「ポタラ」とは「補陀落」を意味し、観音菩薩の住まう場所、つまり観音浄土を表しています。7世紀にソンツェン・ガンポ王がマルポ・リ(紅丘)に宮殿を造ったとの伝説から、ダライ・ラマ政権を確立し、チベットにおける聖俗の最高権威者となったダライ・ラマ5世が、ここにポタラ宮の建設を始めたのは今から350年前。建築には50年の歳月を要し、完成したのは1695年のことです。後にダライ・ラマ14世がインドへ亡命するまでの約250年の間、チベットの政治・宗教の中枢として機能してきました。東西約360m、南北約300m、高さ110mの宮殿は、政治を執り行う白宮と宗教儀礼を司る紅宮から成ります。宮殿内部は迷路のように入り組んでおり、極彩色の壁画で彩られています。壁画にはチベット建国史や神話、人々の暮らしぶりなどが描かれており、かつてのチベットの様子を伺うことができます。ポタラ宮は1994年に世界遺産に登録されました。ポタラ宮は、毎年チベット暦の正月(通常2月前後)前に信者たちによって白色ペンキで塗替えられます。

乗車するのは、20:30発Z6811の7号車25号下段
今日は、タール寺、チベット医薬博物館を見学後に、清蔵鉄道でラサに向かいます。

3日目(5月17日)

広州(グァンジョウ),
広東省の省都であり、華南最大の都市。紀元前3世紀ごろには都が造られました。広東省のみならず、華南地域全体の経済、文化、教育、交通などの中心都市の一つであり、一般に北京市、上海市に次ぐ3位の都市です。特別行政区である香港と密接な貿易関係にある広州市は深圳市などともに中国では比較的裕福な地域です。気候は湿潤で一年中花が咲くことから「花城」とも呼ばれる広州は、..「食は広州に在り」といわれる中国料理の王である広東料理の故郷であり、その中心地。香港の方が洗練されているかもしれませんが、歴史的には広州が本場です。しかし今回は単なる中継乗換地点で通過です。宿泊先は新世紀酒店(New Century Hotel)。

MAKALUE
(8463m)
LHOTSE
(8516m)
EVEREST
(8848m)
LHOTSE
(8516m)
EVEREST
(8848m)
PNUPTSE
(7855m)
PUMORI
(7161m)
GYACHUNGKANG
(7952m)
CHO-OYU
(8201m)
広州空港
早朝の便で広州から約3時間で青海省の省都・西寧に到着。
カトマンズ(Kathmandu))
古より交易の要衝として栄えたカトマンズ盆地(標高約1330m)。ここには、かつて栄光の都カンティプールと呼ばれたネパール王国の首都カトマンズ、1979年ユネスコの世界文化遺産に指定された古都 カトマンズは、人口およそ170万人のネパールの首都で、1990年の民主化を機に急速に成長を遂げています。首都にしては小さな印象を受けますが、ここはネパール随一の大都会。レンガ造りの街並みは中世の世界に迷い込んだような印象を受けます。街のいたるところに小さな寺院があり、宗教都市としての趣に溢れいます。まだ地震後の復旧工事は街のいたるところで行われており”埃高き街でした”。
ボダナート(Boudhanath)
カトマンズを訪れる観光客のほとんどの方が訪れるチベット仏教の聖地がボダナート。カトマンズの町から東へ約7kmの所にある、南アジア一大きな仏塔を持つとされる寺院で、高さは36m。ボダナートはかつてのチベットとの交易のルート上に位置し、ここを通るチベット商人の休息地として、そして旅の無事を感謝し帰路の安全を願う祈りの場所となってきました。1950年代からは中国から亡命してきたチベット人の多くがこのボダナートの周りに住むようになり「リトル・チベット」として発展。ボダナートはネパールにおいてチベット人の信仰と暮らし生活を知ることができる場所で、マニ・コル(マニ車)を回しながら歩く巡礼者の姿やチベット僧が参拝する姿を目にします。熱心な信者の中には五体投地で参拝する人たちも。
一般的にボダナートが建立されたのは5世紀といわれていますが、確証に欠けるため実際の建立年代は不明です。仏塔は真上からみるとそれ自体がマンダラになっています。四層の台座は地、半球体のドームは水、目が描かれた部分と13層の尖塔は火、頂上の円形の傘は風、先端の尖塔は空、というチベット仏教における宇宙を構成する五大エネルギー(地、水、火、風、空)を象徴しています。ドームの下にある108のくぼみには、ひとつひとつに仏像が彫られています。 ボダナートの周りにはチベット族やタマン族の経営する商店、おしゃれなカフェがたくさんあり、マニ車やチベット・アクセサリー、ククリ、手織りのカーペットなど色々なものも売られています。
宿泊した定日珠峰賓館
シェカールの街の入口

シガツェ(日喀則))3900m
標高3,900mにあるラサに次ぐチベット第2の都市。仏教の高僧パドマサンバヴァがこの地を通った時、山河が素晴らしかったためここに留まり修行をし、ここがラサに次ぐ都市となると予言したといわれています。 清蔵鉄道のシガツェ迄の延伸工事が進んでおり、車で移動途中に目にすることができます。

今日は、3泊したラサから交易路の要衝として栄えたギャンツェへ向かいます。途中のカンパ・ラ(峠)でヤムドク湖を展望してからカロー・ラ(峠)を越えます。
湖畔(4441m)に下ります。
ジョカン(大昭寺)
7世紀創建。チベット仏教界で最も神聖な場所だと考えられており、チベット人にとって生涯に一度は巡礼したい場所で、門前には常に信仰篤いチベットの人々が祈りを捧げています。 五体投地によりつるつるに磨かれた門前の敷石を見ると、遙か昔から人々の信仰を集めてきたことを実感することができます。寺はパルコル(八角街)と呼ばれる巡礼路に囲まれており、マニ車を片手に時計回りに巡礼する人々の姿を見かけます。伝説によると、ラサの地形が凶相をしていたので、相を変えるために湖を埋めて寺を建てました。こうしてできたのがジョカンだそうです。歴史上では、ソンツェン・ガンポ王の2人の王妃、ネパール出身のティツンと、唐から嫁いだ文成公主が、王の菩提供養のために建てたと考えられています。
宿泊先のシェラトン
ダライ・ラマ14世が建てたタクテン・ミギュル・ポダン
中庭への入口
中庭の問答修行
ホテルの入口
ギャチュンカング
7952m
チョー・オユー
8201m
チョモランマ
8848m
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