2010年03月24日 07:55発 草津 - 大津 (草津から14.3Km/日本橋から480.7Km)五十三次
今日が東海道中の最終日、朝から気合が入ります。草津宿は東海道と中山道の分岐点(つまり追分)、JR草津駅の先の草津川隧道をくぐると左手に「右東海道いせみち」「左中仙道美のぢ」と刻まれた追分道標があります。国指定史跡の本陣が現存する。宿帳には、忠臣蔵の吉良上野介や浅野内匠頭、皇女和宮、シーボルト、新撰組の土方歳三などの名も見ることができる宿場の歴史は古い。広重画の中に描かれた「やばせ道標」の所には400年の伝統を持つ街道名物「うばが餅」屋がかってここにあった。街道を進むと幾多の合戦の舞台となった瀬田の唐橋を渡ると膳所の城下町に入る。
追分道標 草津本陣「田中七左衛門本陣」
広重画 草津「名物立場」 うばが餅屋の絵 広重画の右隅の人物の間に描かれてる「やばせ道標」
草津名物「うばが餅」18粒入り680円 瀬田の唐橋
2010年03月24日 10:55発 大津 - 三条大橋 (大津から11.7Km/日本橋から492.4Km
膳所の木曽義仲と芭蕉の墓がある義仲(ぎちゅう)寺の前を通り、いよいよ最後の宿場「大津」、古い家並みの街道の途中に明治時代にロシア皇太子が切られた大津事件碑がある。名神高速高架下を過ぎ国道1号を渡ると京を守る三関(鈴鹿、不破、逢坂)の一つ逢坂(あうさか)の関、ここからは下り道、走井には広重画に描かれた井戸が月心寺に保存されている。山科の追分で京道と伏見街道に分かれるが京道を進むと小関越・三井寺観音道・道標があり、さらに山科の商店街を進むと五条別れ道標、いよいよ最後のアプローチ。JR線をくぐり旧道の登坂をいくと143号線と合流して九条山を越え最後の分岐点になる蹴上の交差点を左折すると三条通り、白川橋を越えて「三条大橋」に到着。橋を渡りきると西詰めに東海道中先達の「野次喜多」像が微笑みかけ、橋のたもとの鴨川沿いの土手には桜が咲き、足かけ2年にわたる東海道中一人歩きも無事完歩。 次は中仙道で京を目ざそう!!
義仲(ぎちゅう)寺 JR大津駅のホームにある「北緯35度線」
大津事件の石碑が手前左隅 逢坂(あうさか)の関址碑
走井(はしりい)と書かれた井戸のある月心寺 小関越・三井寺観音道・道標
史蹟・五条別れ道標 白川橋と知恩院、祇園、清水寺への道しるべ白川道標
現在の三条大橋、欄干の擬宝珠は往時のままで池田屋騒動の時に付いた刀傷があります 広重画「三条大橋」 橋は天正18年(1590年)に豊臣秀吉が完成させた
番外編 三条大橋周辺
幕末の勤皇志士・高山彦九郎像 池田屋騒動の時に付いた刀傷は西から二番目の左側にある
三条大橋西詰にある道中安全祈願の弥二喜多像 三条大橋のたもとの鴨川沿いの土手の桜
2010年01月14日 7:30発四日市 - 石薬師(四日市から10.7Km/日本橋から398.0Km)四十四次
四日市宿は、三滝橋のたもとにある400年続く藤堂高虎ゆかりの「なが餅」の笹井屋の周辺から始まる。日本橋から数えて百里目になる日永の一里塚を過ぎると「日永の追分」、東海道、伊勢参宮道が通る交通の要所で伊勢参りの人々で賑わった。近鉄追分駅を過ぎると弥次・喜多が居合わせた金毘羅参り途中の旅人と、饅頭の食べ比べで金をかけた勝負をし、その男が実は食べたふりをして袂に饅頭を隠していて彼らを騙した話の天保8年(1837)創業の「追分饅頭」(1個105円)の店がある。杖衝坂の上りの先は国道1号との合流を繰り返しつつ石薬師宿に至る。歩数は13062歩。
「なが餅」の笹井屋 四日市名物「日永のなが餅」(630円)
「すぐ京いせ道」道標 0)日永の追分、「左伊勢参宮道、右京大坂道」
「追分まんじゅう」の岩嶋屋 古い家並みが続く杖衝(つえつき)坂
2010年01月14日 9:20発 石薬師 - 庄野(石薬師から2.7Km/日本橋から400.7Km)四十五次
宿場名の石薬師とは、石薬師寺のご本尊、薬師如来が石でできていることに起因する門前町で安藤広重の浮世絵にもこのお寺が描かれている。宿内には昔の雰囲気をとどめる旧家が何軒か残っている。小澤本陣も、そのひとつで歌人の佐々木信綱の生家もあり、「信綱かるた道」として街道が整備されている。蒲川橋を渡り国道1号と関西本線を何度かわたると庄野宿。ここまでの歩数は6037歩
広重画 石薬師「石薬師寺」 現在の石薬師寺
「信綱かるた道」 小澤家本陣跡
佐々木信綱の生家 蒲川橋わきにある一里塚跡
2010年01月14日 10:30発 庄野 - 亀山 (庄野から7.8Km/日本橋から408.5Km)四十六次
庄野宿は、東海道の宿場の中で最後に整備され、これにより東海道に53の宿場がそろった。石薬師宿からの距離が東海道で2番目に短いことでも知られている。江戸時代は油屋であった小林家を庄野宿資料館として公開しています。庄野集会所が本陣跡、さらに高札場跡、脇本陣跡と続き川俣神社を過ぎると街道は国道1号の410kmポストに合流します。亀山宿までの歩数は12184歩。
庄野宿の入口 庄野宿資料館の小林家
庄野宿本陣跡 川俣神社脇の中冨田一里塚
2010年01月14日 13:25発 亀山 - 関 (亀山から5.8Km/日本橋から414.3Km)四十七次 
亀山宿は亀山藩六万石の城下町。亀山城の多門櫓(たもんやぐら)が、城下町の面影を今に伝えている。江戸口門を入ると本陣跡、東町問屋場跡があり、曲がりくねった道を進むと所々に古い家並みが残っている。梅巌寺の先の京口坂が西の入口でかっては壮麗な門があり広重が描いています。街道を進むと大岡寺綴、鈴鹿川土手、JR線と国道1号を横断すると関宿。15:10無事到着、宿内をゆっくり見学して今日はここまで。歩数は9057歩。
街道沿いの旧家 亀山宿
亀山城の多門櫓 旧舘(たち)家住宅(枡屋)
広重画に描かれた京口門跡 大岡寺綴
東海道名物 三河・尾張味めぐり
2010年01月04日 8:30発 御油 - 赤坂 (赤坂から1.7Km/日本橋から299.0Km)三十六次
御油は、こじんまりした宿場ですが1772年(安永元年)に幕府の株をもとに、みそ・たまりしょうゆの醸造を発展させた町でもあります。隣の赤坂宿までわずか1.7キロ五十三次で最も短い距離ですが、ものすごく手入れのゆき届いた天然記念物の松並木が残されています。弥次さんが狐に化かされたと言う話の舞台はここですが、広重画に描かれている様に客引き悪女・悪女郎も多かったようで旅人らを無理矢理引きずり込もうとしているさまが描かれています。歩数は3939歩。 
広重画 御油・旅人留め女 江戸より76里目の御油一里塚
「姫街道」の追分 昔ながらの味噌・醤油店
大津屋の屋号で始ったイチビキの味噌蔵 600m続く御油の松並木
2010年01月04日 9:10発 赤坂 - 藤川 (赤坂から8.8Km/日本橋から307.8Km)三十七次
「夏の月 御油より出でて赤坂や」の芭蕉句碑や樹齢800年の楠木のある関川神社をすぎると赤坂宿。ここには江戸時代そのままの風情の旅籠・大橋屋があり今も当時の姿のまま営業しています。他に曲輪を商う尾崎屋などレトロの建物や看板も目につく町並には感激です。本宿にある家康家康が幼少期を過ごした法蔵寺には京の三条大橋でさらし首になった新撰組・近藤勇の首を同士が奪いここに埋葬したと云われる首塚があります。藤川への歩数は15126歩
芭蕉句碑がある関川神社 19代続く旅籠・大橋屋の建物は1715年頃のもの
古い酒額を掲げた伊藤屋酒店 赤坂宿の民家
間の宿だった本宿の冠木門 法蔵寺にある近藤勇の首塚と胸像
2010年01月04日 12:00発 藤川 - 岡崎 (藤川から6.6Km/日本橋から314.4Km)三十八次 
藤川の東入口には広重が描いた棒鼻図(棒鼻とは宿場の出入口)とうりに石垣・杭が再現されている。脇本陣は門構えを残して今は資料館です。西の棒鼻は藤川小学校前にあり、吉良道標を過ぎ名鉄の踏切を渡ると400m程の松並木が続きしばらく行くと大岡越前守陣屋跡の先に大平の一里塚。岡崎ICの下をぬけると岡崎宿です15:00着。今日はここまで。歩数は8080歩。 
広重画の藤川 藤川宿東棒鼻跡
脇本陣跡、現在は藤川宿資料館 脇本陣周辺
大岡越前守陣屋跡 大平の一里塚
東海道中宿場図 後編
江尻の「追分羊羹] \970
府中・石部屋の「安倍川餅」\600
丸子・丁子屋の「とろろ汁」\1300
東海道名物 駿府味めぐり
2009年9月05日 9:00発 吉原 - 蒲原 (吉原から11.1Km/日本橋から146.7Km) 十五次
暑さのためか今日は朝からボケまくり富士市内で道に迷いずいぶんと時間のロスをしましたが、おかげで富士川に架かる全ての橋6本(国道1号線に架かる新富士川橋から水道橋を含め東名の橋まで)を間近に見る事が出来ました。富士川を越えると岩淵、この辺は「栗の粉餅」が昔からの名産。蒲原は風情のある街で昔ながらの建物がよく手入れされ残っており案内板も良く整備されています。ここまでの歩数は18181歩。  
新富士川橋上より富士川と新幹線橋梁を望む 富士川橋上より富士川と東名高速の橋を望む
「栗の粉餅」が売られている店 蒲原宿なまこ壁の佐藤家
蒲原宿本陣跡 広重の描いたと思われる「蒲原夜の雪」の場所にある記念碑
2009年9月05日 13:10発 蒲原 - 由比 (蒲原から3.9Km/日本橋から150.6Km) 十六次
蒲原からは平坦な道を進みます。由比と言えば由比正雪と「桜えび」。駅近くにある桜えび通りから由比海岸へ向かい漁協直営の「かきあげ屋」へ、とれたての桜エビをかき揚げにする美味しい店と知人から薦められた所なので意気揚々として訪れましたが、あいにく今日は臨時休業でお休み。とたんに元気が無くなり次回の再チャレンジに託して今日は由比宿で終了です。再現された由比本陣は、通常の本陣と異なり石垣と木塀で囲まれた広い敷地内にあり、敷地には東海道広重美術館や物見櫓などもあります。由比本陣前には脇本陣の「温飩屋(うんどんや)」や、由比正雪の生家と伝えられ四百年続く染物屋の「正雪紺屋」もあります。朝からのここまでの歩数は24829歩。一週間後に、「桜エビとシラスの釜揚げ丼」(\650)と「桜えびのかき揚げ」(\250)を食べてきました。安さと旨さに大感激、絶対的推奨品です。大満足これも旅の楽しみの一つです。 
由比本陣物見櫓 由比本陣表門
由比正雪の生家「正雪紺屋」 脇本陣の「温飩屋(うんどんや)」
由比の地酒「正雪」の蔵元 由比の「桜エビとシラスの釜揚げ丼」と「桜えびのかき揚げ」
2009年9月11日 10:30発 由比 - 興津 (由比から9.1Km/日本橋から159.7Km) 十七次
先週食べ損ねた桜エビをまず最初に食べて、ああ口福。旧道を行くと古い家並みが残っており街道歩きの楽しさに満足。古くから東海道最大の難所として、新潟県糸魚川市の親不知と列び「東海道の親不知」と言われる「薩た峠」の登りがやがて始まります。峠道からは駿河湾の眺望がひらけミカン畑の中を進み振返れば足下に東名高速と国道1号、JR東海道線が走り海の向こうには富士山が悠然とまさに広重の絵と同じ絶景です。峠を下って興津川を渡ると興津宿ここまでの歩数は14323歩。 
寺尾の旧道の家並み 寺尾の名主・小池邸の屋敷跡
望嶽亭藤屋、山岡鉄舟が幕末世話になった茶屋 広重画の「由比・薩多嶺」の景観
現在も広重の描いた、そのままの雄大な景観が広がる薩た峠
2009年9月11日 11:40発 興津 - 江尻 (興津から4.1Km/日本橋から163.8Km) 十八次
興津を訪れた宮様に気に入られた「宮様まんぢう」の先に奈良時代に創建された古刹、清見寺があり、徳川家康とのゆかりも深く手植えの臥龍梅があります。地元には「臥龍梅」と言う美酒もあり手に入れてきました。(日本酒の話に酒評を書きました)庵原川を渡ると江尻宿。旧道へ入るところは「細井の松原」で、かって千本あった松もわずか一本のみで寂しく枝を広げています。興津からのここまでの歩数は7955歩。
興津宿東本陣址の碑 清見寺山門
清見寺境内 清見寺裏山の五百羅漢
西園寺公望公の別荘・坐漁荘 細井の松原と「無縁さんの碑」
2009年9月11日 13:05発 江尻 - 府中 江尻から10.5Km/日本橋から174.3Km) 十九次
江尻は駿河では府中に次ぐ宿場でしたが今は清水銀座の商店街に変遷をとげ面影はありません。旧道を行くと追分道標の横に300年続く老舗「追分羊羹」があります、ここでは試食もさせて頂き、店の座敷と美しい庭も拝見させていただきました。追分の羊羹屋のすぐ先には、講談などでも知られる都鳥の供養塔があります。これは文久元年(1861)、かわいがっていた子分の森の石松を殺した都田の吉兵衛、通称「都鳥」を、次郎長があだ討ちした旅籠のあった場所だそうです。草薙神社大鳥居から再び旧道に入り何度かJR東海道線を渡りなおして府中宿に入る手前に旧東海道記念碑があるが、その先の旧道は消滅して地下道となったりして国道1号を渡り伝馬町通りの下伝馬本陣跡に15:45に着く。江尻からここまでの歩数は15784歩。 
竹の皮に包まれた昔からの名物の「追分羊羹」 店の座敷と美しい庭
都鳥の供養塔 草薙神社大鳥居
旧東海道記念碑 下伝馬本陣跡碑
和風旅館
2010年03月23日 14:40発 石部 - 草津 (石部から11.7Km/日本橋から466.4Km)五十二次
石部宿は「伊勢まいり石部で堅い仲となり」、堅いはずの石部で分別さかりの長右衛門がお半との艶話で桂川で心中する事になった歌舞伎の舞台での二人の馴れそめの宿です。途中の六地蔵には江戸時代の贅を尽くした豪商「和中散本舗」の立派な建物があり当時の道中薬として徳川家康が讃えたほど繁盛した事がうかがえます。目川立場は街道名物「目川田楽」が有名で、田楽の発祥の店と言われている「伊勢屋」を広重が描いています。草津までの歩数は18074歩。
JR石部駅前にある石部宿冠木門 「和中散」本舗
旧六地蔵村の一里塚 旧六地蔵村の家並み
旧手原村の稲荷神社付近にある「東経136度子午線」 目川立場の「田楽発祥の地」碑
2010年01月15日 6:15発 関 - 坂下 (関から6.5Km/日本橋から420.8Km) 四十八次
関宿は、東海道で唯一歴史的な町並が残ることから昭和59年に伝統的建造物群保存地区に指定され東西1.8kmに渡り江戸・明治期に建てられた古民家200軒余りが保存されてます。電柱も取り除かれ当時の町並が続く様はものすごく感動的です。町屋を公開した資料館も2軒あり、案内板等も完備され建物ウオッチング、宿場町の雰囲気を満喫できる必見の宿場です。いよいよ最後の難所、鈴鹿峠越えをめざして今日は早朝に出発です。坂下までの歩数は7888歩。
町屋ですが二階が漆喰の塗籠壁、窓は虫籠窓、店の入口には「ばったり」と呼ぶ上下稼動の棚まであります 寛永年間からの関名物菓子「関の戸」を販売する深川屋
歴史資料館として公開している旅籠・玉屋 関まちなみ資料館
百六里庭・眺関亭からの宿場の家並みが望めます
宿場の家並み 一休禅師ゆかりの地蔵院、国の重要文化財
夜明け前の関宿
2010年01月15日 7:50発 坂下 - 土山 (坂下から9.7Km/日本橋から430.5Km)四十九次
関宿を出て国道1号線を進むと正面に広重が坂下の画題にした筆捨山が見える。宿場の景観は道路の拡幅で失われ石碑が残るだけです。片山神社前から峠道が始まり杉木立の中を進むと鈴鹿山の鏡石への分岐点、山賊が隠れて旅人を襲ったとか。難所と言われる鈴鹿峠も歩いてみると案外と楽勝でした。ここから先は滋賀県。四国の金毘羅さんから移設した鈴鹿峠の万人講大石灯篭に着いて、あとは下り道。
片山神社と峠道入口 鈴鹿山の鏡岩
鏡岩から国道1号を見下ろす 鈴鹿峠の杉木立の道
鈴鹿峠頂上の三重・滋賀の国界道標 万人講大石灯篭
2010年01月15日 11:00発 土山 - 水口 (土山から10.5Km/日本橋から441.0Km)五十次
峠を下ると「坂は照るてる鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」と唄われた馬子唄の碑のある山中城址。巨大な第二名神の高架下をくぐり広重の画題になった旧田村川板橋を架け替えた海道橋を渡ると鈴鹿の盗賊を退治した坂上田村麻呂が祀られる田村神社。宿場はその先から旧道沿いに連子格子の町屋が並び、家屋には旧屋号が掲げられて雰囲気を残しています。宿の中心には東海道伝馬館、問屋場跡、本陣跡がある。野洲川を渡り先に進むと鐘楼門のある地安寺の前をとおり徳原の集落に出ると重厚な構えの家が多く情緒を感じる。水口宿までの歩数は16323歩。 
山中城址にある馬子唄の碑 田村神社
問屋場跡 土山本陣跡と町並
鐘楼門のある地安寺の 大野・徳原の家並み
2010年01月15日 14:25発 水口 - 石部(水口から13.7Km/日本橋から454.7Km)五十一次
宿場の歴史は古く、室町時代に伊勢参宮の宿村として設けられ、城下町としても栄えた。宿に入ると東海道が3つに分かれ、また一つに戻る面白い構造をしている。街道筋には古い家並みや再現された高札場が雰囲気を残しています。近江鉄道の踏切を越えると角櫓が復元された水口城資料館がある。この先は街道が一直線にのびる北脇縄手と呼ばれる田の中の道を行き横田川(野洲川)の渡しに着く。
再現された高札場 街道沿いの家並
町中にある「からくり時計」 三筋に分かれた東海道
水口城資料館 街道沿いの美冨久酒造
2010年01月13日 宮 - 桑名 (宮から28.0Km/日本橋から374.8Km) 四十二次
桑名へは文字どうり七里(28km)の船旅で日本橋からの347kmのテクテク歩きが止まります。陸路では佐屋街道を取るようですが、ここは現代の黒船、電車にて木曽、揖斐、長良の木曽三川をいっきに越えて伊勢の国へ入ります。名古屋発11:48のJR関西本線で桑名に12:14着で京都・三条大橋まで残りの117.6kmの歩く旅の再開です
「七里の渡し」から宮宿方向を望む 「渡し場」付近の船だまり
2010年01月13日 12:45発 桑名 - 四日市 (桑名から12.5Km/日本橋から387.3Km)四十三次
宮宿との間の「七里の渡し」跡には、伊勢神宮の「一の鳥居」が建てられ、遷宮ごとに建て替えられている。宿場は城下町であると共に河口の港町として繁栄したが今は護岸整備が進み昔の面影は無い。「その手は桑名の焼き蛤」は地元名物だが今は高級料亭の料理となってしまった。再現された「火の見櫓」のある矢田立場の先を国道1号と平行して四日市に向かい海蔵橋を越えると四日市。今日の歩数は18944歩
「七里の渡し」 七里の渡し、伊勢神宮の「一の鳥居」
本陣跡の船津屋 桑名城跡の堀の石垣
矢田立跡の火の見櫓 街道沿いの「富士の光」蔵元・安達本家酒造
2009年12月14日 9:30発 吉田 - 御油(吉田から10.2Km/日本橋から297.3Km)三十五次
吉田宿は現在の豊橋市のほぼ中心でたいそう賑わった宿場でした。宿場名物「菜飯(なめし)田楽」の老舗もありましたが今回はパス、寒くなると芭蕉の句が実感されます。岡崎の矢作橋、瀬田の唐橋とともに東海道の三大橋の一つ「豊橋」を越えると豊川稲荷の遥拝所。下地の家並みは戦災に遭わずに往時の趣を残しています。豊川放水路を越え名古屋鉄道沿いに進むと御油13:00着、今日の歩数は18309歩。
吉田城曲尺手(かねんて)門碑 湊町の芭蕉句碑 「寒けれど二人旅寝ぞ たのもしき」
豊川にかかる「豊橋」 江戸時代は吉田大橋と呼ばれた 豊川稲荷の遥拝所
下地の古い家並み 豊川稲荷への参道の大鳥居
2010年01月05日 7:00発 岡崎 - 知立 (岡崎から14.9Km/日本橋から329.3Km)三十九次
岡崎宿は、家康の生誕の城下町。敵の進入を防ぐため、複雑に東海道を曲げた「岡崎二十七曲」と呼ばれる道が今もなお残っている。宿場の中心伝馬町には銘菓「あわ雪」の老舗や藩の迎賓館であった御馳走屋敷跡がある。中岡崎を過ぎると八帖町、八丁味噌の老舗の味噌蔵が並ぶ路地は風情があり町の西側は、かって東海道では最長の木橋が架かっていた矢作川。この橋の上での秀吉(日吉丸)と蜂須賀小六の出会い伝説がある。 
岡崎二十七曲り碑と冠木門 御馳走屋敷跡に建つ岡崎信金資料館
岡崎城天守閣 昔の八帖村道標
味噌蔵の並ぶ路地 1645年創業の角久の八丁味噌蔵
2010年01月05日 9:20発 知立 - 有松 (間の宿 有松)
知立は初夏の馬市が有名で広重も「首夏馬市」を描いています。ここの松並木は馬市で馬をつなぐ為にめずらしい側道が付いています。江戸時代は池鯉鮒(ちりゅう)と呼ばれており、この名前は知立神社の池に鯉や鮒が多くいたので名付けられたとか。付近には知立古城跡や名物「あんまき」の老舗があります。落着いた家並みの今岡を過ぎ境川を渡ると三河から尾張へ入ります。岡崎から知立への歩数は20455歩
日本橋より84里目の来迎寺の一里塚 並木八丁とも呼ばれる知立の松並木
問屋場跡付近の今では珍しい網で作った酒額の看板 知立は江戸時代には池鯉鮒(ちりゅう)と書かれていました
落着いた家並みのある今岡付近 対で残る阿野の一里塚
2010年01月05日 12:30発 有松 - 鳴海 (知立から11.0Km/日本橋から340.3Km) 四十次
織田信長と今川義元の決戦があった場桶狭間古戦場跡を過ぎると間の宿・有松、東の松野根橋から西の祇園寺までの約800mは凄過ぎる、有名な有松「絞り染め」で富を築いた豪商の町は漆喰による塗籠造、瓦屋根の町屋、「なまこ壁」の蔵が両脇に残り今も当時の面影を残した豪壮な景観はおそらく東海道あるいは日本一でしょう。江戸時代の繁栄ぶりは広重の画からも想像できます。鳴海宿までの歩数は18885歩。
桶狭間古戦場伝説地 井桁屋
服部家土蔵 竹田家
岡家 広重画 鳴海「名物有松絞」
2010年01月05日 13:45発 鳴海 - 宮 (鳴海から6.5Km/日本橋から346.8Km)四十一次 
名古屋らしく鯱鉾をのせた笠寺観音を過ぎJRの踏切を渡ると伝馬町、熱田神宮の門前町です。宮宿の宮とは、熱田神宮の略。宿場は、東海道唯一の海上路「七里の渡し」をはじめ、東海道の脇街道である佐屋街道や中山道垂井宿に向かう美濃街道への分岐点として大いににぎわった。「ひつまぶし」の蓬莱陣屋の前を進むと渡し船着場跡は「宮の渡し公園」として整備されています。15:30無事到着、今日はここまで。歩数は8279歩。 
笠寺の一里塚 鯱鉾をのせた笠覆寺(笠寺観音)
熱田神宮の初えびす 熱田神宮
熱田湊常夜灯 七里の渡し跡
2009年12月13日 10:20発 舞阪 - 新居 (舞阪から5.9Km/日本橋から268.8Km)三十一次
広重画は想像画なので舞阪では絵の様な岩山は見えないが描かれている富士の姿もこの辺が最後になる。ここには旧東海道では唯一の脇本陣の遺構が残り建物が復元されています。浜名湖畔に出ると今切の渡しは漁港になり、雁木と呼ばれる階段状の桟橋も今では北雁木だけが残っている。弁天神社、弁天島をすぎ浜名橋を渡ると新居宿。新居宿までの歩数は9230歩。 
広重画「舞阪・今切真景」 茗荷屋脇本陣跡
北雁木跡から浜名湖 弁天神社
2009年12月13日 12:00発 新居 - 白須賀(新居から6.5Km/日本橋から275.3Km)三十二次
「女あらため」が厳しい新居の関所を通過すると重厚な佇まいを残す旅籠紀伊国屋があります。屋号がしめす様に紀州藩の御用宿を勤めていたそうです。街道は左に曲がり、この交差点周辺が宿の中心です。古い家並みを更に進むと新居一里塚跡を経てしばらく行くと松並木の続く浜名旧街道に入る。大津波で高台に移るまで白須賀宿があった元町の一里塚に至る。新居からの歩数は5981歩。
浜名橋の先に新居の関所 新居の関所
新居宿旅籠「紀伊国屋」資料館 飯田武兵衛・本陣跡
新居の一里塚跡 「浜名旧街道」の松並木
2009年12月13日 14:00発 白須賀 - 二川(白須賀から5.7Km/日本橋から281.0Km)三十三次
潮見坂は街道でも有数の景勝地、広重も遠州灘を背景に、この風景を描いています。また潮見坂上は徳川家康が茶室を造り武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る織田信長をもてなした所でもあります。宿場には遺構は残っていませんが折れ曲がった道や、火事の延焼を防ぐ防火樹として槇が道の両側に植えられた街並を残しています。国境の境川を越えるといよいよ西国の文化圏。白須賀からの歩数は13760歩。
広重画・白須賀「汐見阪図」 潮見坂公園から見た遠州灘
潮見坂公園 境宿の古い民家群かっては1420本の松があったそうです
2009年12月13日 15:50発 二川 - 吉田 (二川から6.1Km/日本橋から287.1Km)三十四次 
国道1号をひたすら歩き続けて二川に入ると直ぐに二川宿案内所の川口屋と、その角に一里塚跡があり、町割りや落ち着いた家並みは宿場町の雰囲気が保存されホッとした気分に癒されます。江戸時代から続く「味噌・溜」商の看板が掲げられた東と西の駒屋。馬場家の建物を整備公開した二川本陣資料館の旅籠、御菓子司・中原屋の所に高札場跡碑があり、店の前が西の枡形になっています。二川からの歩数は7645歩。17:00吉田着 
二川宿案内所の川口屋の角に一里塚跡がある 江戸時代からの味噌屋「東駒屋」
味噌溜「西駒屋」 二川宿本陣
二川宿本陣(馬場家)資料館 復元された高札場
2009年12月12日 9:50発 袋井 - 見附 (袋井から5.8Km/日本橋から235.7Km)二十八次
青春18キップで旅の再開です。江戸、京都のどちらから数えても27番目の「どまん中」の袋井宿。茶屋では地元の方々のお茶・菓子の暖かいもてなしがありました。 近くの曹洞宗観福寺もまん中にあやかって、その名も「へそ寺」。木原の許禰(こね)神社付近は武田信玄と徳川家康が戦った古戦場跡があり家康の腰掛石まである。その先には遠州鈴ヶ森刑場跡がある。迷った寄道を含めて歩数は11270歩。 
東海道どまん中茶屋 袋井宿東本陣公園
「へそ寺」の曹洞宗観福寺 本町宿場公園
木原畷(なわて)古戦場跡 遠州鈴ヶ森刑場跡
2009年12月12日 12:17発 見附 - 浜松 (見附から16.4Km/日本橋から252.1Km)二十九次
ひときわ目を引く現存する日本最古の洋風木造小学校校舎の旧見附学校の手前が本陣跡で、その先に脇本陣大三河屋門が再建されています。街道沿いには府八幡宮があり楼門は1635年建立の県指定文化財だそうです。街道は磐田駅前を右折して天竜川に向かい橋を渡るのですが天竜川橋には歩道が無いので横の新天竜川を渡ると明治時代に私財を投げ出して天竜川の治水工事に尽くした金原明善の生家前を通り浜松への歩数は19182歩
本陣跡 旧見附学校
脇本陣大三河屋門 府八幡宮
新天竜川橋の橋上にある日本橋から250Kmの標識 金原明善の生家
2009年12月12日 15:40発 浜松 - 舞阪 (浜松から10.8Km/日本橋から262.9Km)三十次 
遠州鉄道を越えて浜松宿に入ると往時の面影は残念ながらまったく無く標識と案内板だけである。東海道線に沿って進み舞阪駅入口を過ぎると立派な旧東海道松並木が700m続き、その先には見附石垣、一里塚跡。舞阪の家並みはそんなに古いわけではないがどこか宿場の雰囲気を感じさせる町です。今日はここで終わり17:30着。ここまでの歩数は14625歩。 
浜松宿の標識 可美一里塚跡(江戸から66里目)
330本の松が700m続く旧東海道松並木 かっては1420本の松があったそうです
見附石垣 舞阪一里塚跡と新町常夜灯
2009年10月12日 8:55発 島田 - 金谷(島田から3.9Km/日本橋から206.9Km)二十四次
大井川はさすがに大河です。大井川橋の歩道を渡るのに15分もかかりました。金谷には今は何も残っていませんがSLで有名な大井川鉄道の起点、この街を過ぎると金谷坂の石畳が始まります。丸石ばかりの道は歩きにくいが、登りきると牧ノ原の大茶畑が一望できますが、再び菊川坂の下りの石畳が続き足腰にこたえます。金谷宿までの歩数は5851歩
川に架かる大井川橋 石畳茶屋
金谷坂石畳 牧ノ原台地に書かれた「茶」の字
2009年10月12日 9:55発 金谷 - 日坂(金谷から6.5Km/日本橋から213.4Km)二十五次
石畳の次は「小夜の中山峠」、箱根峠、鈴鹿峠とともに東海道の三大難所の一つが待っています。広重画にも、峠のけわしさと夜泣石伝説の石が描かれています。いろんな事情で本物の石は現在、国道一号線脇にあります。茶店・扇屋で夜泣石伝説にちなんだ名物子育飴(\100をいただきながら女将さんから子供時代には下の日坂まで学校通いをした事を聞かされ昔の人のすごさに感服しました。峠の眺めは素晴らしく茶畑の緑も楽しめます。金谷からの歩数は13959歩。
名物「子育飴」)の茶店・扇屋 佐夜鹿(佐夜の中山)の一里塚
広重画「佐夜ノ中山」道の真中に「夜泣石」が描かれている 現在の小夜の中山
久延寺「夜泣石」 「夜泣石」が広重画の様に本来あった所
2009年10月12日 11:50発 日坂 - 掛川(日坂から7.0Km/日本橋から220.4Km)二十六次 興
小夜の中山峠のふもとに開かれた日坂は開発から免れたために、昔の町割がそのまま残り現業の旅籠「池田屋末広亭」や武士階級の旅籠「川坂屋」など、江戸時代の建物が残されており雰囲気の良い町です。町外れには枕草子にも書かれた願いが事のまま叶うと評判の専任八幡宮(ことのままはちまん)が鎮座しています。日坂からの歩数は9833歩。  
扇屋本陣跡 池田屋末広亭
旅籠 川坂屋 宿の外れの高札場
専任八幡宮(ことのままはちまん) 日本橋から57番目の伊達方一里塚
2009年10月12日 14:30発 掛川 - 袋井(掛川から9.5Km/日本橋から229.9Km)二十七次 興
掛川は大河ドラマ「功名が辻」の山内一豊が掛川城に入城してから整備し大きく発展した城下町です。偶然にも訪れた時は三年に一度の掛川大祭で町中には獅子舞、奴道中、祭り屋台それに観光客で賑わっていました。掛川城も再建され天守閣のある立派な物です。広重は町外れの大池橋で「秋葉山遠望」を描いていますが今は建物が邪魔で昔のようには遠望できません。16:05着、歩数は8517歩。 
掛川大祭での祭り屋台
掛川城大手門 掛川城天守閣
清水銀行の壁面にある山内一豊・千代のレリーフ 掛川城の城門を移築した円満寺の山門
2009年10月11日 8:55発 府中 - 丸子 (府中から5.6Km/日本橋から179.9Km) 二十次
「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九の生まれた所が府中。駿府城は将軍職を引退した徳川家康のゆかりの居城でしたので家康像や手植えのミカンの木などがあります。静岡市の繁華街と重なるので昔の宿場の面影はまったくありませんが、この街道沿いには昔からの街道名物が多く楽しみのコースで観光客も結構多い所なので、混雑を避けるために、お店の開店時間に合わせて名物「安倍川餅」、「とろろ汁」とハシゴしながら弥次・喜多気分で歩きました。丸子宿までの歩数は8507歩。 
府中 弥次喜多の像 駿府城巽櫓
駿府城本丸跡にある徳川家康像 創業二百年の老舗、安倍川餅の「石部屋」
広重の描いたと同じ、賎機山を背景に安倍川 広重画の府中「安倍川」の川越風景
2009年10月11日 11:30発 丸子 - 岡部 (丸子から7.8Km/日本橋から187.7Km)二十一次
丸子橋手前には1596年創業の丸子の名物「とろろ汁」の丁子屋があり、広重の描く鞠子「名物茶店」そのままの風情が残っています。絵の中では弥次・喜多二人がとろろ汁をすすっていますが膝栗毛では茶屋の夫婦喧嘩に遭遇して食べ損なっています。これから峠越えの旅人は出された、おひつの麦飯を完食して、秀吉の小田原征伐の際に開削された宇津之谷(うつのや)峠に向かいます。さしたる峠道ではありませんが、雰囲気は最高です。往時の雰囲気が残る宇津ノ谷集落には秀吉から褒美にもらつた陣羽織を展示している「お羽織屋」もあります。丸子からの歩数は11121歩。
広重画の鞠子「名物茶屋」の丁子屋 丸子の名物「とろろ汁」の丁子屋
丸子橋を渡ると直ぐの丸子本宿高札場 往時の雰囲気が残る宇津ノ谷集落
秀吉から拝領した陣羽織を展示している「お羽織屋」 宇津ノ谷峠からみた集落
2009年10月11日 13:30発 岡部 - 藤枝 (岡部から6.7Km/日本橋から194.4Km)二十二次
歩いていて雰囲気と気持ちの良かった宇津の谷峠を下ると岡部宿。小さな宿場だが旅籠であった柏屋を整備した歴史資料館があり、その先には本陣跡がある。藤枝の宿場はそのまま商店街になり史蹟は残ってないが、本能寺の変の折に明智光秀の攻撃を避けるために伊勢の住人・小川孫三が徳川家康を手引きして無事帰国させた恩に藤枝の白子町を与えた由来記が商店街の一角にある。岡部からの歩数は12561歩。 
広重画 岡部「宇津之山」 宇津の谷峠
旅籠・柏屋歴史資料館 岡部宿本陣跡の隣りにある岡部宿公園
藤枝の白子町を与えた由来記 日本橋から50里目の志太一里塚
2009年10月11日 15:40発 藤枝 - 島田 (藤枝から8.6Km/日本橋から203.0Km)二十三次
現在は藤枝である旧青島村の地酒「喜久酔(きくよい)」の蔵元の前を通り、島田に向います。島田宿は難所の大井川の川越を待つ人々で賑わった所ですが街中にはその面影はありません。途中東海道から寄り道をして明治12年から残る全長896.5m、幅2.7mの世界最長の木造橋の蓬莱橋を渡ってきました。問屋場跡を過ぎると川越の開始・終了の合図になった大善寺の梵鐘。川の手前の大井川川越遺跡には復元公開された家屋が並んでいます。いよいよ「越すに越されぬ」大井川越えです。島田駅17:15着 藤枝からの歩数は9965歩。 
「喜久酔(きくよい)」の蔵元 木造橋の蓬莱橋
問屋場跡碑 大善寺の鐘楼
川越遺跡には用水が流れ番屋・札所などが復元されている 川越遺跡の川会所
2009年6月07日 8:45発 三島 - 沼津 (三島から5.8Km/日本橋から118.0Km) 十二次
三嶋大社前をゆっくりと8:45に出立し町中の本陣跡を過ぎ道を進むと街道沿いに伏見の一里塚(宝池寺と玉井寺の対の一里塚を合わせて)があります。富士川の合戦のために、黄瀬川八幡に陣をかまえた源頼朝に奥州からはせ参じた義経が兄弟が対面した対面石などが八幡神社境内に残っています。沼津は武田氏が築いた三枚橋城以来の城下町で、市内へは昔の遊郭であつた川廓(かわぐるわ)通りをへて狩野川のあゆみ橋に到着。ここまでの歩数は7630歩。 
清水町にある宝池寺門前の一里塚 源頼朝と義経が対面した記念の対面石
沼津の川廓(かわぐるわ)通り 三枚橋城の外堀跡
2009年6月07日 10:30発 沼津 - 原 沼津から5.9Km/日本橋から123.9Km) 十三次
沼津宿から寄り道して,名勝「千本松原」で富士山を見てからは旧東海道に戻り原宿を目指して直進。近くには「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とも歌われた臨済宗の名僧 白隠禅師が得度した松陰寺がある。お昼は広重が描いたとされる浮島から富士山を眺めながら口福
千本浜道にある乗運寺 名勝「千本松原」で富士山を望む
富士の霊水を用いた原の地酒「白隠正宗」の蔵元 白隠禅師が得度した松陰寺
浮島から望む富士山 広重画の原「朝之富士」
2009年6月07日 12:00発 原 - 吉原 原から11.7Km/日本橋から135.6Km) 十四次
原からは東海道線に平行して街道を直進します。東田子の浦駅手前で踏切を越えると望嶽碑のある立円寺、昭和放水路の橋詰には浮島沼の干拓に尽力した増田平四郎像があります。街道を更に進むと毘沙門天(妙法寺)の参道である階段前にでましたので寄ってみましたが派手な建物でした。遠望できていた大昭和製紙の赤白煙突に別れを告げると元吉原宿跡、JR吉原駅に14:05着、ここまでの歩数は30787歩。
東田子の浦駅前にある六王子神社 立円寺にある望嶽碑
増田平四郎像 毘沙門天(妙法寺)
2009年5月02日 箱根 - 三島 (箱根から14.7Km/日本橋から112.2Km) 十一次
関所で昼食を取り12:30に再び歩き始め箱根峠をこえ甲石坂から下りの旧街道や国道1号に出たり入ったりしながら秀吉の小田原攻めで落城した山中城跡に着きます。ここには今でも昔の土塁や畝堀などが残っています。ここで下り続きの足を休めて、しばし小休止。再び長い下り坂、急で長く背負っていたご飯が暑さで強飯(こわめし)になった事から「こわめし坂」とも呼ばれる下長坂です。国道のバイパスの合流地点にある箱根路の石碑を過ぎ、初音ケ原の松並木を歩きJR東海道本線をこえる愛宕坂・今井坂を過ぎてやっと平坦な三嶋の街中に着く。源頼朝が源氏再興祈願をし旗揚げした事でも知られる伊豆の国一ノ宮「三嶋大社」に立ち寄り、足の爪に痛みを感じつつ三嶋駅に16:25に着く。小田原からの総歩数は45877歩。 ほっと一息のビールがおいしい。
旧街道入口 旧街道にある、かぶとの形をした兜石
山中城跡 「こわめし坂」とも呼ばれる下長坂
三嶋大社
2009年5月02日 小田原 - 箱根 (小田原から16.5Km/日本橋から97.5Km) 十次
東海道最大の難所、箱根八里越え(小田原-三島間は平均20%前後、最大40%の急勾配)を敢行しました。北条五代祭りの前日に小田原城北の丸から朝7:30に歩き始めると、途中に昔からの名物として『東海道中膝栗毛』で喜多さんが菓子の「ういろう」と勘違いして食べてしまった大衆薬の「ういろう」を売るを外郎(ういろう)家の城のような店が目を引きます。箱根湯元の三枚橋から旧道を登ると後は登り坂つづきで、坂の名前もおもしろい。女転し坂、割石坂をすぎ寄木細工で有名な畑宿本陣跡につく、関東大震災・伊豆沖地震で埋もれた江戸時代の石畳を掘り起こして再現した石畳の坂が整備されています。更に猿滑坂、追込坂を登ると茅葺の新しい甘酒茶屋、権現坂を下って、やっと芦ノ湖に着きました。芦ノ湖畔の箱根一里塚、樹齢約350年の杉並木を経て箱根関所に12:00に到着。ここまで所要時間約4時間半、歩数22742歩。
小田原城北の丸 外郎(ういろう)家の城のような店
割石坂 畑宿本陣跡
甘酒茶屋 石畳の坂
富士山と箱根神社の鳥居が目に入る芦ノ湖
江戸から二十四里の旧街道一里塚 芦ノ湖畔の杉並木
箱根関所京口御門 箱根関所
2009年3月05日 大磯 - 小田原 (大磯から15.6Km/日本橋から81.0Km) 九次
大磯には宿場町より明治時代からの別荘地の面影が多く残る町で島崎藤村、伊藤博文、吉田茂の旧宅などがある。藤村と妻・静子の墓がある地福寺では梅が良い香りをはなっていました。俳人・西行をしのんで江戸初期に創設された三大俳諧道場の一つ鴫立(しぎたち)庵も街道沿いにあります。この辺は随所に松並木が残り、途中の二宮には「江戸より十八里」の押切坂一里塚があります。酒匂川を越えて小田原市内に入ると名物の蒲鉾屋の店や看板が多く目に入ります。城址公園近くには薪を背負いながら勉強した二宮金次郎(尊徳)を祀った報徳二宮神社もあります。北条氏の城下町を代表する小田原城址公園に着いて今までの最長距離の歩数は25005歩でした
大磯・化粧(けわい)坂付近の松並木 島崎藤村夫妻の墓がある地福寺
三大俳諧道場の一つ鴫立(しぎたち)庵 大磯中学前から伊藤博文の旧宅(現在の大磯プリンスホテル)前に残る松並木。
小田原宿なりわい交流館 二宮金次郎(尊徳)を祀った報徳二宮神社
小田原城・御堀端の桜も三分咲きでした 小田原城・天守閣
2008年6月01日 戸塚 - 藤沢 (戸塚から7.8Km/日本橋から48.8Km) 六次
吉田大橋の手前を左に曲がると「かまくら道」ですが東海道は吉田大橋を越えて戸塚駅前に向います。現在、整備中のJR戸塚駅前から沢辺本陣跡、戸塚の名の起こりとなった富塚(とみつか)八幡宮を過ぎると上方見附跡。ここから急な登り坂を上がりきって国道1号線と合流して、しばし行くと、なだらかな坂道には松や大きな木の並木が続き木陰の下の空気が非常に心地よく道も車道と分離して歩きやすい道です。道端には道祖神や石仏が多く残されている。道場坂(通称、遊行寺坂)を下ると藤沢宿の入口、時宗総本山遊行寺、正式名称は藤沢山無量光院静浄光寺が見えてきます。今日の歩数は9109歩。
広重画の戸塚宿・吉田大橋 現代の吉田大橋、越えたら直ぐにJR戸塚駅
富塚(とみつか)八幡宮 上方見附跡
坂には松並木や道祖神、石仏等が多く残っている 時宗総本山・遊行寺
2008年5月24日 保土ヶ谷 - 戸塚 (保土ヶ谷から8.8Km/日本橋から41.0Km) 五次
保土ヶ谷駅からすぐ東海道と金沢道(みち)の分岐点となっている金沢横町の道標をすぎ国道1号と合流すると保土ヶ谷宿本陣があり今でも門が残っている。旧道の権太坂を登る途中には旅の行き倒れ人を埋めた「投込み塚」もあります。坂を登りきった所が武蔵と相模の国境にある境木(さかいぎ)地蔵尊、「牡丹餅」をだす茶屋があり富士山が見える高台の景勝地でもありました。境木より薄暗い焼餅坂を下り品濃坂の切通しには道の両側に塚が昔のまま残っている。東戸塚駅前をすぎ再び国道1号と合流してから不動坂を過ぎ吉田大橋を越えたら、早朝に江戸を出立した一般的な旅人が最初に宿泊する戸塚の宿場。今日の歩数は8593歩。
相鉄天王町駅前広場の旧帷子橋跡にある碑 旧東海道の東側にある金沢横町道標四基
保土ヶ谷宿本陣跡 「投込み塚の碑」 天保9年の建立の銘
境木(さかいぎ)地蔵尊 品濃坂の途中にある品濃一里塚跡
2008年5月17日神奈川 - 保土ヶ谷 (神奈川から4.9.Km/日本橋から32.2Km) 四次
駅前の東海道分間延絵図を参考に宮前商店街を行くと州崎大神の前が横浜開港の中心地、神奈川湊の荷揚場跡です。英国士官宿舎や仏国公使館になった甚行寺などの寺社も多くある。国道1号・15号が合流する青木橋をこえ旧東海道を行くと、台町の坂の途中には東海道中膝栗毛や広重の絵に描かれている当時から続く料亭「田中屋」、坂を上りきると広重の絵に描かれた景勝地の場所になるが、今日では周りにはマンションが建ち、海は埋立てられ当時の面影は、まったくありません。さらに進み浅間神社前をすぎ帷子川を渡り相鉄天王町駅広場をすぎるとJR保土ヶ谷駅。今日の歩数は5165歩。
州崎大神の前が横浜開港の中心地 仏国公使館になった甚行寺
青木橋を渡った坂の上にあるアメリカ領事館になった本覚寺 坂本龍馬の妻「おりょう」も働いた田中屋
神奈川台関門跡の碑、この付近が右の広重の絵に描かれた神奈川湊を見下ろす景勝地 神奈川宿の画題は、「台之景」とある、今も残っているのは台町の坂と料亭だけです。
2008年5月10日 川崎 - 神奈川 (川崎から9.7Km/日本橋から27.3Km) 三次
川崎駅前の案内板や石の道標に従い旧街道を進む、と芭蕉が故郷の伊賀の国へ帰るときに見送りに来た門人達と別れを惜しんで句会を開き、芭蕉が見送り客へ「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」と返歌を詠んだ場所には、「麦の別れ」の句碑があります。ここを過ぎ鶴見川橋をこえると橋際には開港した横浜に入る人の取り締まりや攘夷派浪士の警備のための旧鶴見橋関門跡が残っています。その先の国道15号に合流する付近に幕末の「生麦事件」の発生現場があります。神奈川宿(JR東神奈川駅)まで日本橋から7里、昔は女性や老人でも1日の行程でしたが、私の今日の歩数は8173歩。
芭蕉の「麦の別れ」の句碑 市場村の一里塚跡。江戸から五里目の一里塚
旧鶴見橋跡 鶴見橋関門旧跡
生麦事件発生現場にあるプレート 「生麦事件の碑」は現場と離れた別の所にある
2008年4月26日  品川 - 川崎 (品川から9.8Km/日本橋から17.6Km) 二次
品川駅の先の八ッ山橋を渡り旧街道の入口には大きな案内板があり、北品川本通り商店街、青物横丁を抜け立会川にかかる涙橋を渡ると鈴ヶ森刑場跡、ここには八百屋お七の火あぶりの柱の台石や磔石などが残っています。ここからは再び第一京浜(国道15号)に沿って歩き京浜急行蒲田駅近くの梅屋敷公園には「距日本橋三里十八丁」蒲田村の碑があります。六郷川(今の多摩川)を渡ると神奈川県・川崎。2番目の宿場です。今日の歩数は9003歩。
品川本陣跡(聖蹟公園) 涙橋(浜川橋)は鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を見送る別れ場所
鈴ヶ森刑場跡 「距日本橋三里十八丁」蒲田村の碑
安藤広重・画の川崎 「六郷の渡し船」 多摩川にかかる新六郷橋

最近、震災時帰宅支援マップなる、歩いて都心から自宅へ帰るための地図が店頭に多く並んでいます。これは実際に災害などで公共交通機関や自家用車を使うことができない時に、現実的にどうやって都心から帰宅・避難するのかと言うことをテーマにした地図ですが一度試しに歩いてみたいと思い、どうせ歩いてみるならば自宅近くを東海道が通るので明るく目的を持って歩き続けて京都・三条大橋まで歩くと一石二鳥かなと思いテクテク歩きを思い立ちました
東京・日本橋から京都・三条大橋まで124里半(492Km)昔は12泊13日が標準の行程のようでしたが、はて何日かかるやら皆目検討がつきませんが、まずは歩きはじめました。

壷屋の助六寿司弁当(\480)
小松屋本家の知立名物「あんまき」(1本¥150)
蓬莱軒の「ひつまぶし」(\2730)
東海道中宿場図
前編
2009年2月12日 平塚 - 大磯 (平塚から2.9Km/日本橋から65.4Km) 八次
暑さ寒さにかまけて8ヶ月も中断してしまいましたが梅の花の香りに誘われて再び歩き始めました。JR平塚駅前から繁華街である旧東海道を行くと右手に江戸見附、脇本陣、高札場、本陣跡が続く、これらは石碑があるだけだが西組問屋場跡の近くには、むかし桓武天皇(平氏の祖)の三代孫が没した墓、「たいらつか」から平塚の地名が生まれたと伝えられる「平塚の塚」があります。花水川近くに来ると高麗(こま)山が広重画の昔と同じ姿を見せています。高麗山を見ながら広重の時代に想いをはせ化粧(けわい)坂を下り松並木が残る旧道行くと大磯の街に着く。今日の歩数は8977歩
平塚宿本陣跡 平塚宿西組問屋場跡
平塚の塚 花水橋の東詰にある平塚宿京方見附跡の碑
広重画の平塚宿。高麗(こま)山と富士山が描かれている 現在の高麗山、広重画のように富士山は見えませんでした。
2008年6月17日 藤沢 - 平塚 (藤沢から13.7Km/日本橋から62.5Km) 七次
広重画の藤沢宿の画題は「遊行寺」。正面の丘に遊行寺があり、鳥居は江の島弁財天へ道の入口です。遊行寺前から江の島道に別れを告げて西に小田急線、引地川をこえて行くと国道1号に合流する。道の両側に松並木が所々残っていて街道の雰囲気が良い。JR茅ヶ崎駅入口にある「茅ヶ崎一里塚」を過ぎ鳥井戸橋付近の南湖は、吉原と共に「左富士」が見える名所だが今の季節はかすんで見えません。鳥井戸橋の道の反対側には鶴嶺八幡宮の入口の大鳥居があります。鶴嶺八幡は、源氏が関東に進出した際、初めて氏神として祀った神社と言われています。相模川(馬入川)にかかる馬入橋の真中に日本橋から63kmのポストがあり、渡りきると平塚。国道と分かれてJR平塚駅。今日の歩数は11011歩。
広重画の藤沢宿 現代の遊行寺橋、正面に遊行寺の屋根、10年程前まで朱塗りの鳥居が橋のたもとにありました。
元禄時代に杉山検校が立てた「江の島弁財天」への石の道標。 JR茅ヶ崎駅入口にある「茅ヶ崎一里塚」
南湖の左富士。上りの東海道で左に富士が見える名所 鶴嶺八幡宮の入口の大鳥居
2008年4月20日 日本橋 - 品川 (日本橋から7.8Km) 一次
現在も街道・道路の起点で日本橋の橋の真中に日本国道路元標が埋設されている。首都高速が橋の上を横切り殺風景な風景だが始めの一歩をここから開始。中央通りを南下し京橋、銀座と日本一の繁華街を過ぎて行くと途中に江戸歌舞伎発祥の地碑や銀座発祥の地碑などがありますが、再び首都高速の下をくぐると新橋駅。 新橋からは第一京浜(国道15号)に沿ってビルの間に垣間見える歴史に名が残る徳川家の菩提寺の増上寺の大門、赤穂浪士の墓がある泉岳寺や江戸城無血開城の会見が行われた薩摩藩屋敷跡や「高輪大木戸」跡の史蹟を見ながら行くと高輪歩道橋付近に「日本橋まで7km」の道標があり、過ぎるとすぐに品川駅。やっと最初の宿場ですが、今日は足慣らしの第一歩なので、ここで終りです。今日の歩数は4977歩。
日本国道路元標の複製 高速道路の真下にある日本橋
安藤広重・画の日本橋 現在の日本橋は首都高速の下
江戸歌舞伎発祥の地碑 芝・増上寺の大門
浜松町付近の水路 薩摩藩屋敷跡にある西郷・勝会見の碑
高輪・泉岳寺 高輪大木戸跡
ふとしたきっかけで始めた東海道五十三次一人歩きの旅も、暇を見つけながらの旅でしたが2008年4月20日に東京・日本橋をスタートして2010年3月24日に京都・三条大橋に至り、足掛け2年、延べ26日で無事終了しました。府中(静岡)までは日帰り、その先は宿泊の繰返し旅でした。
入口に
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