近江路の街道筋にあった蔵本
2011年3月12日08:15 赤坂 - 垂井(赤坂から5.2Km/日本橋から439.9Km)五十七次
赤坂宿をあとにしばらく進み、途中の美濃国分寺跡に寄道してから垂井宿に入る。この宿も枡形に曲がっていて角の旅籠・亀丸屋の周辺には古い家並みが続いています。美濃国一の宮「南宮神社」の石鳥居や垂井の名前の由来とも言える垂井の泉があり、天然記念物の大ケヤキの根本から今も湧き出ています。この湧水を利用して和紙を作る官設紙すき場があり美濃紙の発祥地とも伝えられています。その先には脇本陣の門と玄関が移築されている本龍寺があります。ここで東日本大地震後に家と始めて電話連絡が取れ安心しましたが大事を取り今回はここで中止して帰宅する事にしました。垂井駅から10:00の電車に乗り途中で新幹線に乗り継ぎました。大津波警報が発令されましたので在来線が豊橋・熱海間が運転見合わせの影響もあり、新幹線も多少の混雑がありましたが無事帰宅できました。
元旅籠・亀丸屋と町並 旅籠・長浜屋のお休み処
商工業の栄えた面影 南宮神社鳥居
垂井の泉 本龍寺
2011年3月28日06:20 垂井 - 関ヶ原(垂井から5.4Km/日本橋から445.3Km)五十八次
始めて夜行列車の「ムーンライトながら」を利用して来ました。関ヶ原は今も昔も交通の要所で国道が宿内を走り、宿場の往時をしのぶ史跡はほとんど無く脇本陣の門が名残をとどめている程度です。むしろ関ヶ原合戦の場所として有名で、戦死者の首実検の為に首を洗った井戸や首塚が町の東西にあり、徳川家康をはじめ多くの武将の陣跡、戦場跡などの旧跡が多く残っています。古代律令制時代に畿内周辺に設けられた三関(美濃の不破関、伊勢の鈴鹿関、近江の相坂関)の一つ不破関址を過ぎると山道に入り今須峠を越えたら今須宿です。
脇本陣跡 東首塚跡
首洗い井戸 関ヶ原合戦開戦の地
西首塚跡 不破の関址
2011年3月28日08:00 関ヶ原 - 今須(関ヶ原から3.9Km/日本橋から449.2Km)五十九次
今須は中仙道美濃十六宿の最西端の宿です。町並としては古い家が2,3軒ある程度で、問屋場跡の家が当時の姿を今に伝えています。今は途中で途絶えてしまった「車返しの坂」の先が美濃と近江の国境「寝物語の里」。国境の細い溝を挟んで二軒の旅籠があり、壁越しに寝ながら他国の人と話ができる事から寝物語の里と呼ばれる様になったとか。ゆったりとした時代のほんのりとした話ですね。ここから美濃路に別れを告げて近江路を進みます。
今須宿本陣跡 問屋場跡
車返しの坂 国境の寝物語の里
中津宿のはざま酒造
太田宿の御代桜酒造
鵜沼宿の菊川酒造
美濃路の街道筋にあった蔵本
2011年3月11日11:00 鵜沼 - 加納 (鵜沼から16.7Km/日本橋から415.4Km)五十三次
この区間は国道21号線やその旧道とが重複し交通量も多く町並も中仙道の面影はほとんどありません。加納宿(岐阜)は中仙道の宿場で数少ない城下町で美濃十六宿中、最大規模でしたが、戦災で町並が一変してしまい枡形の道筋だけが残っています。市内に入り直ぐに江戸時代の関取鏡岩の碑や、安良町、南広江には昔からの道標もありますが本陣などは跡碑があるだけです。関が原合戦直後に移築された加納天満宮を過ぎ、斉藤道三、織田信長ゆかりの岐阜城を見ながら往時を想いつつ先に進みます。岐阜の町を出てから、あの東北関東大地震がありましたが、この時は歩行中でまったく気がつかず後で知ることになりました。
関取鏡岩の碑と道標 安良町の中仙道・西京道標
南広江の「右岐阜 谷汲」道標 加納天満宮
2011年3月11日07:00 伏見 - 太田 (伏見から7.8Km/日本橋から390.9Km)五十一次
昨日の続きを名鉄・日本ライン今渡駅からスタートして太田宿へ向かう。太田宿は「太田の渡し」を控えて栄えた宿場で、代官所も置かれた地域の行政文化の中心でした。現在の宿は、昔の姿のままに街道を保ち雰囲気を残しています。宿の入口には500年の歴史を持つ祐泉寺、旧小松屋は休憩所兼資料館として無料公開されています。永楽屋さんや、卯建の上がる家並みも保存され脇本陣は今も住居として使われ中仙道随一の脇本陣遺構と言われるほど立派です。脇本陣の隣には昔の太田宿を紹介する中山道会館が、向かいには「御代桜」醸造の酒蔵の黒壁が宿場情緒を醸し出しています。本陣前に8:40到着。
旧小松屋(吉田家住宅) 永楽屋と家並
脇本陣林家住宅 太田宿中山道会館
御代桜醸造の酒倉 本陣表門
2010年11月07日10:50  上松 - 須原(上松から12.6Km/日本橋から298.0Km)三十九次
寝覚集落の先には広重の浮世絵に描かれた「小野の滝」がある。木曽川の渓谷美を楽しみながら須原宿に入ると軒先には丸太をくり抜いた水舟に裏山からひいた水をたたえた光景が見られます。脇本陣の西尾家は昔からの造り酒屋、古い旅籠の面影を残す「かしわ屋」等があり、また宿のはずれには重要文化財の定勝寺の豪壮な本堂・山門が目を引きます。今年はここまでで終了。15:00到着
木曽八景の一つ「小野の滝」 宿場内にある水舟
須原宿旅籠「かしわ屋」 定勝寺本堂
2010年11月06日08:35 贄川 - 奈良井(贄川から7.3Km/日本橋から256.2Km)三十四次 
贄川は木曽路に入っての最初の宿場です。木曽は木とともに生活した所で、それぞれの集落が漆器の平沢、曲げ物の奈良井、お六櫛の薮原と木工品で有名です。平沢は重要伝統的建造物群保存地区に指定され街道沿いに約800mに渡り古くからの漆器店や工房が並び白漆喰の壁と千本格子のコントラストが美しい町並です。川沿いの道を進んで奈良井宿に入ると、りっぱな檜の標柱があります。
平沢の家並み 平沢の家並み
奈良井川沿いの道 奈良井宿の檜の標柱
奈良井は難所・鳥居峠のふもとで「奈良井千軒」とうたわれ繁盛した宿場で江戸時代の街並みがそのまま保存された伝統的建造物群保存地区に指定されています。寛政5年(1793)創業で軒下に杉玉のさがる杉の森酒造や多くの文人が泊まった徳利屋、上問屋資料館など見所も多く江戸時代にタイムスリップした気分を楽しめます。ちょうどこの時にクラッシックカーで各地の世界遺産を巡る「ラリージャパン2010」の参加車68台がここ奈良井宿を通過しました。宿のはずれには高札場や水場があり、その先には鎮(しづめ)神社。奈良井宿をでると直ぐに鳥居峠旧道が始まります。上り下りの多い道ですが自然歩道として整備されていますので歩きやすい道です。
出梁造りの家並み 杉の森酒造
総檜造りの木曽の大橋 旅籠徳利屋(郷士館)
上問屋資料館 鍵の手の家並み
2010年11月06日07:00 本山 - 贄川 (本山から7.8Km/日本橋から248.9Km)三十三次
今朝は外気温0度で霜が降りた日出塩駅から出発。国道を進み日出塩集落を過ぎると、旧松本藩と尾張藩の境であった木曽路の北の入口には「是より南、木曽路」の碑があります。更に進むと桜沢には茶屋本陣、片平には土木遺産の「片平橋」が紅葉に包まれている。贄川駅をすぎ関所橋を渡ると石置き屋根など当時の姿に復元された贄川番所や、木曽地方の町屋建築を伝える重文の深沢家住宅は江戸期に財をなした商家で見ごたえがあります。
霜が降りた原野と紅葉の山 「是より南、木曽路」の碑
桜沢茶屋本陣百瀬家 土木遺産の片平橋
復元された贄川番所 商家・深沢家住宅
2010年11月05日14:40 洗馬 - 本山 (洗馬から3.3Km/日本橋から241.1Km)三十二次
「そば切り発祥の地」 本山そばの里の看板を過ぎて宿内に入ると旅籠風の民家や昔の屋号を大書きした看板を出している家々が並び宿場の雰囲気を感じさせてくれます。本陣、脇本陣ともに跡碑が立つのみで現在は何も無い。宿からそのまま国道に合流して進むと日出塩の集落、入口には江戸から61番目の日出塩一里塚がある。この先からは山の底を縫うようにして伸びる木曽路が続きます。
道祖神・庚申塔などの石仏が続く田園風景 旅籠風の民家
出桁造りの川口屋 本山宿の碑
宿の民家 日出塩の一里塚
2010年10月18日10:45 望月 - 芦田 (望月から4.8Km/日本橋から184.2Km)二十六次
望月宿の手前の瓜生坂頂上には念仏百万遍塔などが立つている。望月宿は2008年11月以来二度目の訪問ですが、宿場町の面影を残す古い建物もよく残っており本陣跡には門が再建され歴史民族資料館が併設されている。旅籠と問屋を兼ねた大和屋は真山家の屋号で二階が下よりせり出した出梁造りで天明5年(1765)の望月宿最古の建物で国の重要文化財です。次の茂田井は、宿場と宿場の間にあった間の宿で道幅が狭かったために国道は迂回し、昔の家屋がそのまま残り白壁の土蔵が続く坂道の脇を澄んだ用水が流れる街道で武重本家酒造と大沢酒造の2軒の造り酒屋があり絵になる程の美しい町並です。大沢酒造では「名主館」の無料見学や利き酒をさせて頂きました。集落のはずれには茂田井の一里塚があります。。
瓜生坂頂上 望月宿の町並
望月宿の町並 大和屋・真山家住宅
白壁の土蔵が続く坂道の脇を用水が流れる茂田井宿
武重本家酒造 大沢酒造「茂田井名主館」
宿の町並 茂田井の一里塚跡
2010年10月18日12:30 芦田 - 長久保(芦田から5.7Km/日本橋から189.9Km)二十七次
芦田宿の本陣御殿は本瓦葺の屋根に唐破風の豪壮な造りですが改修工事中でした。江戸期の旅籠「津ちや」は現在も宿内唯一の旅館として健在です。宿場を出ると中仙道筋で往時の松並木の姿を最も残している笠取峠への松並木道へ入り、そのまま峠越え、途中の一里塚の横には立派なしだれ桜の木があります。道はくねくねと旧道を下り長久保宿へ。
芦田宿土屋家本陣 山浦家脇本陣跡
旧旅籠「津ちや」金丸土屋旅館 笠取峠松並木
笠取峠の一里塚跡 笠取峠頂上
2010年11月06日10:55奈良井 - 薮原(奈良井から5.3Km/日本橋から261.5Km)三十五次
鳥居峠は分水嶺で北は奈良井川として日本海に、南は木曽川として太平洋に注がれている。頂上には御嶽遥拝所があり御嶽信仰にまつわる石仏も多い。峠の急坂や石畳の道を下ると薮原。宿場の名産「お六櫛」は浮世絵に描かれる程の当時の名物商品・土産で現在も手びき職人がその伝統を伝え工芸品として製造販売されています。
頂上の御嶽遥拝所 御嶽神社遥拝所から望む御嶽山
鳥居峠頂上 昔のままの旅籠「こめや」
「お六櫛」の古い看板 櫛問屋の家並み
2010年11月05日13:05 塩尻 - 洗馬(塩尻から7.2Km/日本橋から237.82Km)三十一次
中央線を越えると一対完全に残っている平出の一里塚がある。洗馬は北国往還善光寺道との分岐点、何度も大火にあい現在は宿場の面影も無く人通りも少ない静かな町です。人目を引くのは赤い山門の万福寺と宿名になった木曽義仲の馬を洗った伝説の「太田の清水」の流れ。この先はのどかな田園風景が続きます。
平出一里塚 中仙道・北国往還の追分道標
洗馬宿本陣跡 赤い山門の万福寺
2010年10月17日12:00 坂本 - 軽井沢(坂本から9.6Km/日本橋から149.5Km)十八次
かっては関所と碓氷峠をひかえて栄えた坂元宿を過ぎ旧道に入ると溶岩節理の岩石がゴロゴロしている峠最大の難所、刎石坂の急登がいきなり始まる。その後はゆるやかな尾根道を多くの石仏や馬頭観音を見ながら森林浴気分で進む。最後の長い登りの山中坂を上り切ると中仙道と和宮道の分岐、土道が舗装路に変わり碓氷峠頂上に14:30無事到着。
坂元宿 永井脇本陣跡
坂本宿旅籠かぎや 柱状節理の岩の刎石坂
刎石の覗(のぞき)から坂本宿を望む
中仙道・和宮道分岐の思婦石 碓氷峠頂上の「力餅」屋
2010年10月17日9:10 松井田 - 坂本(松井田から10.4Km/日本橋から139.9Km)十七次
やっと記録的な猛暑も終わり涼しくなりましたので街道歩きの再開です。最初に目に付くのは、いくつものピークから成り日本三大奇勝の一つとされる妙義山です。信越線の線路際には五料茶屋本陣の名主屋敷・中島家が復元されています。この付近は妙義山を見ながらの上り坂の始めで横川に向かいます。JR横川駅前で、おぎの屋の「峠の釜飯」で昼食を済まし、碓氷の関所では今も残る通行手形改めの時に手をついてお辞儀する「お辞儀石」の窪みの深さに往時を想いつつ、難所の碓氷峠越え、歩くだけの山道に気合を入れて向かいます。
妙義山の奇峰 五料茶屋本陣の名主屋敷
JR信越線・横川駅 横川茶屋本陣・武井家
碓氷関所の東門 碓氷関所の「おじぎ石」
2010年10月17日15:20 軽井沢 - 沓掛 (軽井沢から4.5Km/日本橋から154.0Km) 十九次
皇女和宮や参勤交代の諸大名が休憩した群馬・長野の県境にある熊野神社からはカラマツ林の中を旧軽井沢へ下る。往時の姿は「つるや旅館」とロータリー付近に宿の地形を残すだけですが、軽井沢銀座には、この季節でも賑わっていました。傾斜の強い三角屋根、大きな尖塔、名建築として軽井沢の中でも代表的な聖パウロカトリック教会は、「木の十字架」「風立ちぬ」(堀辰雄)、「掌の小説」(川端康成)にも登場し、また多くの著名人もここで結婚式をあげています。
上信国境の熊野神社 峠の下り道
往時の茶屋「御宿つるや」 街道筋の紅葉
聖パウロカトリック教会 軽井沢ロータリー
2010年5月03日11:05 新町 - 倉賀野 (新町から5.9Km/日本橋から103.5Km)十二次
神流川古戦場は本能寺の変を知った前橋城主・滝川一益が仇討ちに京へ出陣したすきに北条氏邦が兵を出して滝川軍を敗退させ滝川一益の天下取りの夢が失せた場所です。新町宿には古い建物はほとんど残っていませんが、烏川へ向かう途中には養蚕で財を成した川端家の豪奢な住宅があります。烏川堤のサイクリングロードを歩み岩鼻に入り倉賀野へ進みます。
群馬県境の神流川橋 神流川古戦場跡碑
明治天皇行在所跡の碑 登録文化財の川端家住宅
2010年4月29日 8:00 桶川 - 鴻巣 (桶川から7.2Km/日本橋から47.7Km) 七次
宿内の街道沿いには古い商家が並んでいます。江戸末期の間取りのままの武村旅館や紅花仲買商の島村家の三階建ての土蔵などがあります。その先には未公開だが幕末の公武合体で皇女和宮が将軍へ輿入れの時に宿泊した本陣跡が現存しています。また本陣近くの中山道宿場館には付近の観光資料があります。
旅籠だった武村旅館 島村家土蔵
御茶処 蔵造りの商家
桶川宿碑 北(京)口の木戸跡の碑
2010年4月01日 8:00 日本橋 - 板橋 (日本橋から9.8Km) 一次
日本橋橋際の三分咲きの桜に見送られて再び京都・三条大橋への旅立ちです。往時を偲ぶ建物は旧幕府学問所・昌平校だった湯島聖堂、神田明神さらに加賀藩前田家上屋敷跡に建つ東大の赤門などが残っています。巣鴨地蔵通り商店街は「とげぬき地蔵」の高岩寺の参拝客で賑わう”おばあちゃんの原宿”で下町情緒が残る中山道の街道です。
日本橋、上は首都高速 湯島聖堂
神田明神 東大の赤門
巣鴨地蔵通り商店街 巣鴨の「とげぬき地蔵」高岩寺
2011年3月30日08:00 守山 - 草津(守山から5.9Km/日本橋から511.0Km)六十八次
昨日の続きを東門院守山寺前から開始です。「京発ち守山泊まり」が昔は一般的でしたので逆に今日は京まで歩きます。栗東駅を過ぎ草津市へ入ると、まちがいやすいJR高架線のトンネルをくぐり、線路脇の細道を抜けると道が開けて、古い町並が残る道を進みます。「きたなか」商店街を抜けて草津川の下のトンネルをくぐった所が江戸時代の追分。右から来る東海道と合流、是より先は東海道と考えると、一応ここが中仙道の終点です。9:15着 ここから先は昨年、東海道道中で歩いた道ですが再び京をめざします。
草津入口の町並 「きたなか」商店街
覚善寺前の道標 高札場
草津追分道標 草津宿本陣
2011年3月08日12:25  須原 - 野尻 (須原から7.2Km/日本橋から305.2Km) 四十次
青春18切符を使い八王子始発6:29の松本行に乗り10:50に塩尻で乗換えて前回の続きから旅の再開です。野尻宿手前の倉坂からうしろを振返ると中央アルプス(木曽駒ケ岳等)の素晴らしい山並がみえます。野尻宿の道は「七曲り」と呼ばれ外敵を防ぐため街道をくねくね曲げており、ここに昔の面影が残っています。古い民家も少しですが残っています。宿の終りの家は「西のはずれ」と言う屋号の吉村家。その先は険しい山が木曽川にせまり道を確保するのが難しかった所ですが現在は国道が整備されています。JR十二兼駅を過ぎると南寝覚(ねざめ)と呼ばれる美しい渓谷「柿其峡」(かけぞれきょう)があり、国道を進み三留野宿へ入ります。
中央アルプスの山並み 野尻宿の道は「七曲り」
旅館庭田屋 「西のはずれ」の吉村家
「柿其峡」(かけぞれきょう)
2010年10月18日14:10長久保 - 和田(長久保から7.8Km/日本橋から197.7Km)二十八次
長久保宿の入口にある松尾神社は酒の神様。町は竪町と横町が隣接する形で、表門と御殿が残る石合家本陣御殿は中仙道最古の建物また、造り酒屋だった釜鳴屋は100坪の広さと卯建(うだつ)を残す江戸初期の商家で県内最古の町屋です。宿内には歴史資料館・一福処濱屋もあり公開されています。和田宿への道は山の中に吸い込まれるように続きます。
長久保宿本陣石合家 釜鳴屋
歴史資料館・一福処濱屋 中仙道長久保宿左ぜんこうじ道標
和田宿は中仙道最大の難所和田峠を控えて賑わった宿です。文久元年(1861)の大火で宿場の大半が焼失しましたが皇女和宮降嫁の際の宿泊地に決まり幕府の援助で宿場復興しました。この時の遺構が多く残り本陣は「本陣資料館」、旅籠かわちやは「歴史の道資料館」となっています。今日は早めの16:20に旧名主屋敷の本亭旅館に到着、明日の和田峠越えに備えます。
これより和田宿 歴史の道資料館「かわちや」
和田宿本陣 本亭旅館(旧名主屋跡)
和田宿の町並
2010年4月29日 15:05 深谷 - 本庄(深谷から11.4Km/日本橋から86.5Km) 十次
また艶話で恐縮しますが熊谷は飯盛女を置かなかったため、深谷に女が多く集まったとか、そのためか宿で一夜を共にした旅人が振り返り女との別れを惜しんだと言われる「見返りの松」を越えると宿の東口。、街道沿いには300年の歴史のある造り酒屋の蔵を利用した街角映画館と現役の酒蔵のレンガ造り煙突がそびえ立ちレトロな雰囲気があります。幕末に高島秋帆が幽閉された岡部陣屋跡も途中にあります。
「見返りの松」の碑 東口常夜灯
本陣跡の碑 深谷シネマ(旧七ッ梅酒造)
滝澤酒造 史跡・高島秋帆幽囚団地入口
和風旅館
2011年3月29日13:00 武佐 - 守山(武佐から13.7Km/日本橋から505.1Km)六十七次
鏡宿からの坂を下ると平宗盛の胴塚があり、ここが「平家終焉の地」と言われています。壇ノ浦で敗れて平家総大将・平宗盛は捕らわれの身となり途中のこの地で処刑され首だけが京都に運ばれ胴を埋めたと伝わりますが、あまりにも貧相な塚でした。野洲川付近では広重も描いた近江富士の三上山が見えます。宿内には元首相・宇野宗佑氏の実家でもある立派な屋敷や街道文化交流館などの伝統美を保った建物が目に付きます。その先には地名の由来となった東門院守山寺があります。土橋を越えて今宿に入ると古い家並みが残り、滋賀県内でただひとつ残る今宿の一里塚を過ぎると閻魔堂の十王寺。今日も長い距離を歩きましたので、ここまで。
近江富士の三上山 宇野本家
中仙道・街道文化交流館 東門院守山寺
今宿の家並み 閻魔堂の十王寺
2011年3月29日11:10 愛知川 - 武佐(愛知川から9.8Km/日本橋から491.4Km)六十六次
寄道先から北町屋に戻り再び中仙道を進みます。途中の、和歌、紀行文や平家物語にも登場する名高き老蘇(おいそ)の森を見ながら進むと武佐に入ります。静かな宿内には古い建物が結構残っています。宿役人・平尾家、400年以上前からの商家・大橋家や門と土蔵が残る本陣跡などです。宿を出てすぐに、宗教争いで首をはねられた法然の弟子・住蓮坊の首を洗ったと伝わる住蓮坊首洗池があります。さらに進むと鏡宿に着きます。ここは武佐と守山間が長いので作られた間の宿です。旅籠跡、本陣跡もありますが、鎌倉時代に栄えた証拠とも言える義経伝説が多く残っています。義経ゆかりの鏡神社、元服之池、宿泊した館跡、元服式に使った烏帽子を掛けた烏帽子掛け松などです。義経人気はいまだに衰えていません。
町並 脇本陣跡の武佐町会館
商家・大橋家 本陣跡
住蓮坊首洗池 烏帽子掛け松
2011年3月29日09:10 愛知川 - 五個荘 (近江商人発祥の地 てんびんの里)  番外
北町屋を右折すると「近江商人発祥の地」の一つ五箇荘・金堂の町並があるので中仙道途中での寄道をして訪れました。ここは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている所です。かつては、てんびん棒を担いで商売に活躍しやがて、木綿問屋、呉服店から百貨店へとビジネスを広げ財を成した近江商人たちは、郷里を離れることなく、五箇荘・金堂の本宅を守り進んで社寺や公共のために尽くしたそうです。町は白壁や舟板張りの土蔵の近江商人屋敷が風情豊かに並んでいます。「澪標(みおつくし)」の作家・外村繁の生家も公開されています。
てんびんの里モニュメント 弘誓寺
外村 繁邸 外村宇兵衛邸
中江準五郎邸 寺前・鯉通りの家並み
2011年3月29日07:25 高宮 - 愛知川(高宮から7.8Km/日本橋から481.6Km)六十五次
近江鉄道豊郷駅の近くには高宮で集散される近江麻布で財を成した丸紅・伊藤忠商事の創始者、伊藤忠兵衛の生家があります。その先には北前船交易で財を成し日本で始めて鮭缶を製造したた藤野又十の屋敷もあります。この辺は近江商人の故郷のひとつでしょうか。冠木門風のゲートをくぐると愛知川宿、街道沿いには古い家も多少残っていますが宝暦8年(1758)創業の元旅籠「竹の子屋」(料亭・竹平楼)の門構えは目を引きます。道は宿を出ると愛知川の御幸橋を越え五個荘(ごかしょう)に入ると古い家並みも残っています。
伊藤忠兵衛の生家 又十屋敷(豊会館)
冠木門風の愛知川宿ゲート 愛知川宿の町並
料亭・竹平楼の門構え 五個荘の家並み
2011年3月30日13:00 大津 - 三条大橋 (大津から11.8Km/日本橋から537.2Km) 
ちょうど一年前の同じ頃に東海道歩きで、ここに来ていますので最初の時程の感激はありませんが、橋の手前に見える高山彦九郎の像を見て、橋を渡り終え、弥次喜多の像の前に立つと、ついに江戸日本橋から136里(約537Km)余りの旅は終了。振り返ってみると2010年4月01日に東京・日本橋を出発してから途中での東日本大震災もありましたが2011年3月30日に京都・三条大橋に至り、1年間、延べ20日で無事終了しました。今回は松井田(群馬)までは日帰り、その先は宿泊の繰返し旅でした。これで「東海道」と「中仙道」が終わりました。
高山彦九郎の像 弥次喜多の像
三条大橋 広重画 京都・三条大橋
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2011年3月28日11:25 醒井 - 番場(醒井から3.9Km/日本橋から462.9Km)六十二次
番場宿には本陣、脇本陣跡があったが、今は見るべき物も無い静かな町です。聖徳太子の創建と伝えられる蓮華寺には北条仲時ら一行460余名の墓と「番場の忠太郎」地蔵があります。後方に冠雪した伊吹山を見ながら緩やかな上り坂を進み、名神高速道のトンネルの上を越えると摺針(すりはり)峠頂上。かっては望湖堂と呼ばれる茶屋があり皇女和宮や朝鮮通信史などが休息され眼下に琵琶湖の展望を楽しみました。今は内湖が干拓されたので湖ははるか奥になりましたが雄大な景色はほっとします。峠を下り国道と合流すると「おいでやす彦根市へ」のモニュメント、鳥居本宿はすぐです。
蓮華寺境内 冠雪した伊吹山
摺針峠入口道標 摺針峠入口
望湖堂跡 琵琶湖の展望
2011年3月28日12:25 番場 - 鳥居本(番場から5.0Km/日本橋から467.9Km)六十三次
鳥居本へ入ると江戸時代の街道情緒があふれています。和紙に柿渋を塗って作った昔の鳥居本合羽(かっぱ)は、軽量で雨の多い木曽路に向う旅人に重宝され文化・文政年間(1804-30)には合羽所が15軒もあったそうです。現在も昔の合羽(かっぱ)の店は古びた看板が掛けられたまま残っていました。町には虫籠窓に土塀の家や茅葺の家も残っていますが圧巻は名物の和漢健胃薬・赤玉神教丸本舗の有川家は、宝暦年間(1751-1764)の建物。本陣、脇本陣の建物はありませんが町の雰囲気が良いです。「右彦根道、左中仙道」と刻まれた道標は文政10年(1827)に建てられました。一里先に彦根城があり、次の高宮にある多賀大社の参詣者で賑わった宿です。多賀大社の一の鳥居があったことから鳥居本の名の由来と言われています。道標を過ぎると宿は終り、やがて小野の集落。ここは小野小町の生誕の地と言われ街道沿いに小さな御堂があり小町塚と呼ばれています。そのさきには「是より多賀みち」の道標もあります。
合羽所「木綿屋」の看板 合羽所「松屋」の看板
赤玉神教丸本舗の有川家
常夜燈と町並 文政10年の道標
小野小町塚 「是より多賀みち」の道標
2011年3月28日09:10 今須 - 柏原 (今須から3.9Km/日本橋から453.1Km) 六十次
近江に入っての最初の宿が柏原、東西13町(約1.5km)にもおよぶ中山道の中でも大規模な宿場町で街道沿いには昔からの家が残っています。本陣跡の先にはひときわ目立つ連子格子の大きな家があります。伊吹山のヨモギを原料にした「伊吹もぐさ」を商う伊吹堂亀屋さんです。広重もこの店を描き、店内には大きな福助人形が絵に,描かれている様に今も昔のままに置かれていますが、撮影禁止でした。看板や大きな福助人形をみても、もぐさを買い求める多くの旅人で繁盛していたことがうかがえます。柏原宿歴史館の先には郷宿跡と呼ばれる脇本陣と旅籠の中間で身分の高い武士や公用で旅する庄屋が利用した家も残っています。一色の一里塚跡を過ぎると醒ヶ井宿です。
伊吹堂亀屋 造り酒屋跡
町並 郷宿跡
2011年3月12日07:00 美江寺 - 赤坂(美江寺から8.7Km/日本橋から434.7Km)五十六次
昨日の東北関東大地震以降は家に電話連絡がつかない状態が続きましたが、自宅付近は問題無いのと電車が正常運行していましたので大垣から美濃赤坂まで電車移動して、今日は赤坂宿から開始です。赤坂宿は江戸期に「赤坂湊」の海運と西国三十三ヶ所結願の谷汲山華厳寺への道・谷汲街道の分岐点として巡礼者で賑わった宿です。和宮もここ赤坂本陣に宿泊しましたが、降嫁に際して行列が通る街道筋に面した家が見苦しいのを、徳川幕府の威信の為に一斉に50数軒が建替え(俗に言う姫普請)させましたので、その名残の立派な家屋が残っています。街道からの見栄えをよくするために表側だけが二階建てという家もあったようです。工費は10年返済の予定でしたが、幕府が明治維新で瓦解したので、その後うやむやになり結果として宿は大喜びだったとかで歴史上の喜悲劇もこのような所にもありました。赤坂宿が57番目の宿場にちなんだ「五七処」と呼ぶ地元案内所もあります。
赤坂湊の跡と常夜灯 赤坂宿碑と谷汲街道道標
本陣跡碑と和宮碑 黒壁の町並
姫普請の立派な家並み 宿場の駅「五七処」
2011年3月11日15:00 加納 - 河渡 (加納から5.9Km/日本橋から421.3Km) 五十四次
河渡(ごうど)は長良川の渡しの為に作られた小さな宿です。今は、渡しが無いので代わりの河渡橋を渡ると馬頭観音で親しまれる愛染堂や一里塚跡碑の辺りが宿の入口です。宿は戦災や長良川改修等で昔の家は消失しましたが、ここから先の本田は延命地蔵尊や代官所跡が残る古い集落です。
馬頭観音の愛染堂 河渡宿一里塚跡碑
本田の延命地蔵尊 代官所跡
2011年3月10日13:00 細久手 - 御嶽(細久手から11.8Km/日本橋から378.3Km)四十九次
「和泉式部の廟所」と言われる所は全国に数ヶ所ありますが、彼女もまた歌を詠みながら御嶽まで来たのでしょうか。御嶽宿は小さな宿ですが蟹薬師と呼ばれる願興寺の門前として栄え、当時の門構えを残す本陣や中仙道資料館「みたけ館」、商家・竹屋などが無料で一般公開されています。しばらく進むと蟹薬師のお告げで鬼退治ができ、その首を埋めた塚を経て国道を行くと伏見宿です。
和泉式部廟所 願興寺(蟹薬師)
中仙道資料館「みたけ館」 御嶽本陣
商家・竹屋 鬼の首塚
2011年3月10日10:45 大湫 - 細久手 (大湫から5.9Km/日本橋から366.5Km)四十八次
細久手も大湫と同じく奥深い山の中で本陣も脇本陣も無く尾張徳川家の「定本陣」であった大黒屋だけが140年前と変わらぬ姿で営業しています。県道から旧道に入ると旅人が道中安全を願った秋葉坂三尊、山道の物見峠は和宮が休憩する為に御殿が作られ事から御殿場と言われ眺めの良い所があります。坂を下り「一呑の清水」と呼ばれる名水場を過ぎると、旅人が自らを元気づけるために歌を唄った謡峠、急な曲がり坂のため牛馬の鼻が擦り切れて欠ける事から「牛の鼻欠け坂」があります。地理的にはこの辺が山間地と平坦地の境界であることが中仙道の特徴だそうです。きっとこの先は平坦な道が続くのでしょう。
細久手宿旅籠・大黒屋 一呑の清水
深物見峠の御殿場から恵那山 本陣跡の皇女和宮歌碑
謡峠の石畳 牛の鼻欠け坂
2011年3月10日07:00 大井 - 大湫 (大井から13.7Km/日本橋から360.6Km)四十七次
朝7:00に恵那駅前のホテルを出発し旧中野村をへてJR中央線踏切を渡ります。踏切脇には竹や木で作った杖が置いてありましたので借りましたが、これが山道で大変役立ちました。道は直ぐに十三峠入口、尾根を越える峠道が大半で距離も三里半と長く歩き応えがあります。ほぼ中間に休息所として深萱立場が設けられた。再びいくつかの峠越えを経てやっと大宿。奥深い山の中の宿ですが皇女和宮が降嫁の時に泊まっています。本陣跡の小学校脇には彼女の歌碑が建てられています。町には格子戸や土塀の古い家も残っていますが今は過疎の町。宿を出ると石畳が300年前の姿で伝わる琵琶峠の入口、十三峠を越えてヤレヤレですが再び峠越え、、、
中野村庄屋屋敷 十三峠入口
深萱立場にある藤村高札場 本陣跡の皇女和宮歌碑
風情が漂う虫篭(むしこめ)窓の町屋 琵琶峠の石畳
2011年3月09日12:30  落合 - 中津川 (落合から3.9Km/日本橋から337.1Km)四十五次
復元された茶屋坂の高札場が宿の入口、宿内の情緒は豊かです。卯建(うだつ)を上げた堂々たる肥田家の庄屋・脇本陣屋敷、街道の両側に古い家並みが並ぶ「横町」には栗きんとんで有名な川上屋の脇に「右木曽路左なごや」の道標が残っています。先の角を曲がると清酒「恵那山」を造る、はざま酒造の卯建が乗る風格のある建物が続きます。中津川橋を越えてからしばし田園風景の中を進むと和宮も休憩した坂本の茄子川茶屋本陣。その先が恵那市との境です。
高札場跡 脇本陣・肥田家
「右木曽路左なごや」道標 はざま酒造
田園風景 茄子川茶屋本陣・篠原家
2011年3月09日07:50  妻籠 − 馬籠 (妻籠から7.8Km/日本橋から328.7Km)四十三次
7:50に阪本屋さんを出立、早朝の妻籠宿を振り返りながら大妻籠を経て、しばらく石畳の山道を登る。まだ二日前に降った雪が残る吉川英治作「宮本武蔵」の舞台になった男滝・女滝を見ながら馬籠峠を越える。馬籠宿は島崎藤村が「木曽路はすべて山の中」と書いた様に山の斜面の両側に石垣を築いて家々を造った「坂のある宿場」。10:40に馬籠着。だらだら坂をくだると高札場、脇本陣資料館、本陣跡に造られた藤村記念館がある。記念館の裏手の丘には島崎家菩提寺の永昌寺があり島崎正樹(藤村)の墓からは恵那山が良く見える。宿場を出て田園地帯を進み木曽路から美濃路に進む
大妻籠 宮本武蔵の舞台になった男滝
標高801mの馬籠峠 十辺舎一九の歌碑
島崎藤村碑と馬籠展望台 馬籠宿入口
馬籠宿の町並
馬籠本陣・藤村記念館 宿の町並と水車小屋
2010年11月06日12:45 薮原 - 宮ノ越(薮原から7.5Km/日本橋から269.0Km)三十六次
宮ノ越の宿場はわずかに残っている程度ですが木曽義仲ゆかりの地でもあり一族の菩提寺徳音寺、義仲館などがある。途中の山吹山、巴橋や巴淵の名は義仲の愛妾にちなんでいる。宿をはずれ原野駅を過ぎた所に「江戸、京双方から67里38町(約268km)」の中仙道中間地点がある。やっと半分まだ先は長いぞ、、、、
巴淵 木曽義仲一族の菩提寺徳音寺
徳音寺の義仲・巴の墓 義仲館の二人
宮ノ越本陣跡 原野の中仙道中間地点
2010年11月07日07:40  宮ノ越 - 福島(宮ノ越から7.0Km/日本橋から276.0Km)三十七次
福島宿は木曽谷の中で最も谷が深い所にある。中仙道の中間の宿場として、また四大関所(箱根、新居、碓氷、福島)の一つの町で名所旧跡も多く、復元された関所、尾張藩の山村代官屋敷や関所上番を勤めた藤村ゆかりの高瀬家があります。宿のはずれにあたる上ノ段地区は「枡形」に地形が曲がり戦国時代に引かれた用水やなまこ壁の土蔵、古い町屋等が残り宿場の雰囲気が感じられます。
福島関所跡 山村代官屋敷
福島宿上ノ段の家並み
福島宿上ノ段の用水 なまこ壁の土蔵
2010年11月05日9:45 下諏訪 - 塩尻(下諏訪から11.4Km/日本橋から230.6Km)三十次
下諏訪駅9:36に降り甲州道中・中山道合流の碑前から今日はスタート。岡谷道追分の先の今井には番所跡や茶屋本陣がある。この先からいよいよ塩尻峠への登り、峠の展望台からは諏訪湖、八ガ岳、富士山、南アルプスが見える絶景。峠の下りでは御嶽山、乗鞍岳と山並続く大パノラマ。長野自動車道を過ぎると「立場」で賑わった柿沢集落の家並みを楽しみながらを下ると塩尻宿。ここは国道筋にあり古い建物もちらほら残る。改修工事中だった旧旅籠の小野家住宅、その先には重文の豪農堀内家の「本棟造り」住宅で屋根に「雀おどり」と呼ばれるこの地域独特の飾りがついている。今宵の旅の楽しみは塩尻宿陣屋跡にある笑亀酒造の地酒です。
甲州道中・中山道合流の碑 今井茶屋本陣
塩尻峠展望台から左は八ヶ岳、中央やや右は富士山、右は南アルプスの山並
柿沢集落の家並み 塩尻宿本陣跡
塩尻宿陣屋跡にある笑亀酒造 堀内家の「本棟造り」住宅
2010年10月17日16:30 沓掛 - 追分 (沓掛から4.2Km/日本橋から158.2Km) 二十次
軽井沢も少し外れると寂しくなります、国道沿いに進むと中軽井沢駅(旧名は沓掛)。この宿は軽井沢と追分に挟まれてあまり振るわなかったとか。その先の間の宿・借宿(かりやど)は上州下仁田への間道につながり物資輸送の中継地として栄えたそうです。そのためか随所に馬頭観音もあり、連子格子の家が点在し往時をしのぶには十分な雰囲気です。しなの鉄道・信濃追分駅に17:15到着。今夜は佐久平に宿泊。
馬頭観音 間の宿・借宿の連子格子の家
追分の町並 しなの鉄道・信濃追分駅
2010年5月03日12:45 倉賀野 - 高崎(倉賀野から5.9Km/日本橋から109.4Km) 十三次
倉賀野は中山道と日光例幣使道の分岐点で追分には閻魔堂があり道標と常夜灯があります。常夜燈の基部には寄進者に相撲の雷電為右ェ門、柏戸利助などの名前がありました。また烏川と利根川の最上流の河岸場で船運の要所として栄えた所です。脇本陣の須賀家の建物は現存し高札場も復元されて歴史の香りも残しますが過疎化が進んでいるようです。
日光例幣使道追分道標と常夜燈 常夜燈の基部の寄進者名
倉賀野宿道標 脇本陣の須賀端家
復現された高札場 倉賀野神社
2010年5月03日14:15 高崎 - 板鼻 (高崎から7.2Km/日本橋から116.6Km) 十四次
高崎は井伊直政の城下町でしたので本陣や脇本陣は置かれていません。商業都市として賑わった所ですが神社仏閣を除くと江戸期の面影は少ないです。街道は17号線から18号線沿いに変わり、君が代橋からは上毛三山(赤城山、榛名山、妙義山)の展望がひらけます。街道筋には八幡宮の大鳥居や特産の高崎ダルマ店が並び、達磨市で有名な少林山達磨寺を碓井川の対岸に見ながら進むともうすぐ板鼻宿です。
連雀町の旧山源漆器店 家並みと旧中仙道の標識
君が代橋からの上毛三山 18号線沿いの藤塚一里塚跡
高崎だるまの「大門屋」 八幡宮の大鳥居
2010年4月03日 10:30 上尾 - 桶川 (上尾から3.7Km/日本橋から40.5Km)六次
渓斎英泉の「木曽街道六十九次」上尾宿には宿の手前にある現存する加茂神社が描かれているが、駅前にある氷川鍬神社が上尾宿の中心だった。遍照院には殿様の小姓と恋仲になり十五歳で亡くなった薄幸の遊女・お玉の墓がある。身分違いの恋、あるいは道ならぬ恋だったのでしょうか。
氷川鍬神社 上尾宿と本陣の説明板
遊女・お玉の墓がある遍照院 延享二年(1745)の庚申塔
平成の上尾宿道標 明和六年(1769)の庚申塔
2010年4月29日 12:00 熊谷 - 深谷(熊谷から11.1Km/日本橋から75.1Km)九次
熊谷は熊谷直実の出身で氏神として高城神社に祀られている。昭和20年の大空襲で町は消失しましたので歴史的な物はあまり残っていません。町の中心を流れる疎水は星渓園から流れる星川です。旧道に入り樹齢300年の大ケヤキの新島一里塚をすぎるとやがて籠原に入ります。
熊谷酉の市起源碑 高城神社
本陣跡の碑 星渓園から流れる疎水
星渓園 新島一里塚の大ケヤキ
2010年4月01日 11:55 板橋 - 蕨 (板橋から8.9Km/日本橋から18.7Km) 二次
板橋は近藤勇の終焉の地で新撰組隊士の永倉新八によりこの墓が建立されました。宿場のはずれには男女の縁を切りたい時に、この榎の樹皮を煎じて飲むと願いがかなうと信仰された榎が残っています男女の話はいつの世にもあるようですネ。埼玉県との県境の荒川を今は戸田橋で越えると蕨宿
新撰組 近藤勇の墓 右手の商店街が板橋宿
宿名の由来となった板橋 石神井川
縁切り榎(えのき) 志村の一里塚
2010年4月03日 8:10 大宮 - 上尾 (大宮から7.8Km/日本橋から36.8Km) 五次
大宮は武蔵国の一宮、氷川神社の門前町として栄えた町です。さいたま新都心駅をすぎると氷川神社の参道が現れます。古くはこの参道が中山道でしたが神域を通行するのは不都合と言う事で道筋を西寄りに改めたそうです。街道は一本道です。東北・上越新幹線のガード下をぬけて上尾へ
氷川神社参道 氷川神社・社殿
氷川神社 大山・御嶽山道標
浮世絵に描かれた加茂神社 南方神社と桜
2010年4月01日 16:10 浦和 - 大宮 (浦和から4.9Km/日本橋から29.0Km) 四次
焼米坂をすぎると浦和宿の手前には調(つき)神社があり、月(つき)ちなんで狛犬や手水の口もウサギの像で変わっていて面白いです。町に昔の面影は少なく本陣の跡碑が仲町公園に、二と七のつく日に市を開き大いに賑わった浦和宿二・七市場跡が慈恵稲荷の参道にある程度です。やがて与野駅を過ぎた頃にあるケヤキ並木を進むと大宮です。今日はここで終わり。
焼米坂 調神社の狛犬はウサギです
調神社の手水もウサギです 浦和の宿碑
本陣跡の仲町公園 二七の市場碑
2010年4月01日 14:55 蕨 - 浦和 (蕨から5.4Km/日本橋から24.1Km) 三次
蕨宿に入るとすぐに民族資料館分室があり昔の遺構を残しています。また歴史民族資料館は本陣跡にあり当時の生活様式などを再現して拝観無料で公開しています。また宿には古い趣のある旧家が何軒か残されており宿場の雰囲気を高めています。辻の一里塚を過ぎると、焼米を売る茶店が多くあった焼米坂をすぎると浦和宿
蕨宿道標 民族資料館分室
歴史民族資料館の内部 蕨宿本陣
旧家のひとつ鈴木薬局 辻の一里塚跡

2010年10月18日7:30岩村田 - 塩名田(岩村田から5.0Km/日本橋から172.9Km)二十三次
今日は和田峠手前の和田宿までの約30Kmを目指して出発。岩村田は宿場町というより交通の要で米の集散地でしたが、現在はさびれています。皇女和宮降嫁の時に双幹の雌雄松はめでたいと野点(のだて)を行った相生の松を過ぎるとリンゴ畑や田んぼののどかな田園風景が広がります。更に進むと室町時代の一間社流れ造りの本殿が重要文化財に指定されている駒形神社を過ぎ坂を下ると塩名田宿。
相生の松 りんご畑
庚申塔 駒形神社

東京・日本橋から京都・三条大橋まで東海道と比べて距離も長く136里(537Km)、宿場も東海道の53宿に対して69宿を数えますが、東海道完全踏破ののち東海道中で体験した街道歩きの楽しさを求めて再び京を目指して歩きはじめました。平坦な海沿いの道が多かった東海道と違い山深い地域を通り、いくつもの峠を越える中山道は現在も歴史ある建物や昔と変わらぬ景色が多く残る魅力的な街道であることを期待して、、

2011年3月28日10:00 柏原 - 醒井(柏原から5.9Km/日本橋から459.0Km)六十一次
醒井(さめがい)宿は、居醒(いさめ)の清水、十王水、西行水と呼ばれる三水の湧水を集めた地蔵川が街道沿いに流れる情緒あふれる美しい町並です。宿入口から加茂神社、地蔵堂と続き、今は料亭になっている本陣跡や問屋場跡を利用した資料館もあります。向かいには白壁の美しいヤマキ醤油があり、この湧水を今でも仕込みに利用しているそうです。道は国道21号線に沿って進み高速・米原JCTの下をくぐり久礼(くれ)の一里塚跡をすぎると次の番場宿もすぐです。
加茂神社からの醒井宿 地蔵川
本陣跡 醒井宿資料館
ヤマキ醤油 元庄屋・江龍家
中仙道宿場の雛人形
2011年3月09日10:10  馬籠 - 落合 (馬籠から4.5Km/日本橋から333.2Km) 四十四次
馬籠を出て新茶屋に入ると石畳の道になり「是より北 木曽路」の碑と落合の一里塚があり、木曽路が終りここから美濃路が始まります。勾配がきつく、その昔難所のひとつと言われ今もその姿をのこす十曲峠を下る。途中には子供の虫封じの薬師として知られる医王寺があります。宿には加賀前田家から贈られた門を構える本陣跡や格子のある町屋が少し残っている程度です。
新茶屋からの中津川の風景 「是より北 木曽路」の碑
十曲峠の「石畳道」 三大薬師の医王寺
落合本陣 町並
2011年3月08日16:30  三留野 - 妻籠(三留野から5.9Km/日本橋から320.9Km)四十二次
中仙道の宿場で最も保存が良いのが妻籠宿です。道筋には江戸時代の姿がそのまま残されています。口留番所跡から宿が始まり高札場、水車小屋と続き、約800mの通りの中央付近には総檜造りの脇本陣奥谷や再現された本陣があります。その隣が宿泊した築150年の阪本屋さんです。ご主人の話では妻籠本陣は島崎藤村の母の実家だったそうです、また脇本陣奥谷(林家住宅)は藤村の初恋相手の「ふゆ」さんの嫁ぎ先ですし、そして藤村は隣の馬籠本陣兼庄屋に生まれた人なのです。人の住む所にはさまざまな人間模様があるものだと想いつつ宿場を探索し、江戸時代の雰囲気を最も残す寺下地区の酒屋で地酒の「木曽路」を求め、部屋のコタツにあたりながらゆったりした気分で晩酌を楽しみました。
脇本陣奥谷 再現された本陣
元旅籠の阪本屋 下嵯峨屋・松代屋
あぶらや 上田屋
妻籠宿寺下
白木屋 上嵯峨屋
2010年10月19日7:30 和田 - 下諏訪(和田から21.5Km/日本橋から219.2Km)二十九次
今日は次の宿場まで中仙道で最長距離を、しかも山道を歩きます。宿内には茅葺屋根のバス停が多くあります。峠道を行くと接待茶屋に出ます、再び山道に戻ると所々に石畳が残る道を蛇行しながらビーナスラインを5回程越え急坂を上りきると頂上の古峠。下りは「賽の河原七曲」足場の不安定なささくれた急斜面から次第に林間コースになります。途中には幕末の水戸天狗党浪士の墓があり、諏訪大社御柱祭の「木落し坂」を過ぎると眺望が開け諏訪大社下社春宮、近くの謎の「万治の石仏」にお礼参りして町中に進む。下諏訪は中仙道69宿場のうち唯一の温泉場、湯煙に打たれながら本陣に14:00到着。今回はここまで、旅の土産は下諏訪土産の定番、下社秋宮の隣の新鶴本店の塩羊羹です。
茅葺屋根のバス停 接待茶屋
和田峠頂上(標高1600m) 水戸天狗党浪士t塚
木落し坂とモニュメント 諏訪大社下社春宮の御柱
330年鎮座する万治の石仏 下諏訪の温泉場
下諏訪宿本陣岩波家 新鶴本店の塩羊羹
2010年10月18日8:40 塩名田 - 八幡(塩名田から3.0Km/日本橋から175.9Km)二十四次
塩名田宿は千曲川の渡しの場の宿として栄え、町は中宿、下宿、河原宿に分かれています。古い家並みが残り坂を下ると千曲川。川には九艘の舟を浮かべ舟の上に板を敷いた舟橋のなごりの穴のある「舟つなぎ石」が河原に残っている。御馬寄(みまよせ)には田んぼの中に江戸時代中期に造られた大日如来像が静かにたたずんでいます。次の八幡宿との距離は中仙道最短です。
塩名田宿丸山本陣 中宿の町並
河原宿の町並 千曲川舟つなぎ石の解説板
舟つなぎ石 御馬寄の大日如来像
2010年5月03日15:40 板鼻 - 安中 (板鼻から3.3Km/日本橋から119.9Km) 十五次
板鼻は碓氷川の渡し場を控える宿場として繁栄した。皇女和宮が降嫁の時に宿泊所とした木島本陣の書院が保存され資料館として公開されている。この本陣宿主人の木島七郎左衛門が旅人の安全を願って石橋を架け祈ったのが寒念仏橋供養塔の由来だそうです。宿内には堰が流れ落着いた雰囲気がある宿場です。今日はここまで。
寒念仏橋供養塔 宿内の町並み
皇女和宮の宿所 庚申塔と刻まれた道標
2010年4月29日 9:35 鴻巣 - 熊谷 (鴻巣から16.3Km/日本橋から64.0Km)八次
鴻巣は江戸時代から雛人形の産地として有名で現在も人形町には雛人形店が軒を連ねています。雛屋歴史資料館には多くの人形や資料が展示されています。鴻巣宿は慶長7年(1602)に現在の北本市の本宿村からここに移したのが始まりだそうです。宿内には地名の由来になった鴻神社があり、コウノトリと大蛇の伝説も残っているようです。又この付近には昔風の建物がいくつか残っています。北鴻巣駅近くに羅生門の鬼退治で活躍した渡辺綱を祀る氷川八幡社があり彼の文武の誉れを讃えた宝暦9年(1759年)建立の箕田碑があり、武蔵武士発祥の由来を今に伝えています。
中山道旧北本宿の案内板 人形町の雛人形店街
旧家の家並み 鴻神社
氷川八幡神社 箕田碑
櫛問屋の家並み
2011年3月30日09:15 草津 - 大津 (草津から14.4Km/日本橋から525.4Km)六十九次
瀬田の唐橋は広重画にも描かれ、擬宝珠を持った優美な橋で屈指の名勝ですが、瀬田川に架かる唯一の橋として戦乱のたびに、戦略拠点とされ何度も焼け落ちて架け替えられました。京阪石場駅前を過ぎると大津の古い家並みが始まります。街道筋には日露戦争が始まる前の明治24年(1891)に「大国ロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていなかった」津田巡査が訪日中のロシア皇太子に切りつけた大津事件の「露国皇太子遭難之地」碑があります。領土問題は今も、昔も根が深い問題です。国道161号線に突当たった所が、札の辻跡で当時の宿の中心だったようです。
瀬田の唐橋 大津事件の碑
以前から気になっていた日本橋の道路の真中に埋設されている道路の起点、日本国道路元標の本物を拝んできました(写真左が路上の本物)右は道路脇にあるレプリカです。本物は擦られて凸部が輝いています。
野洲の宇野勝酒造
草津宿の太田酒造
草津宿の古川酒造
2011年3月28日14:00 鳥居本 - 高 (鳥居本から5.9Km/日本橋から473.8Km)六十四次
近江鉄道の踏切手前にある高宮宿の標柱をこえると宿が始まり、かっては麻織物の集散地としても大変賑わい卯建の上がる家などの古い家並みが残っています。多賀大社の入口にあたる門前町で町の中央に大鳥居がどーんと構えています。門前町ならではの古い提灯屋さんもあります。本陣の小林家を過ぎ犬上川を渡る高宮橋で宿場は終る。この橋は川渡りが有料だった江戸時代に地域住民の浄財で架けて渡り賃を取らなかったので無賃橋と呼ばれていました。今日は早朝からの歩きでしたので、ここで終えて宿泊予定の南彦根に移動です。16:00
高宮宿の標柱と常夜燈 家並、宿駅「座・楽庵」
多賀大社の大鳥居 提灯屋と町並
本陣跡の門 犬上川の「むちんはし」石碑
2011年3月11日16:15 河渡 - 美江寺 (河渡から4.7Km/日本橋から426.0Km)五十五次
長良川や揖斐川の氾濫を治めるために十一面観音を安置した寺を美江寺と名付けた事に由来する宿ですが、戦国時代に焼失し、本尊は斉藤道三により岐阜に移されました。明治の濃尾震災でも潰滅的な被害を受け、その後再建されたものですが今は名前にその存在を伝えています。今日はここで終了。夜のTVで東北関東大地震を始めて知る事になりました、、、
「右岐阜加納ニ至ル」道標 美江神社
美江寺宿跡碑 美江寺観音堂
2011年3月11日08:40 太田 - 鵜沼 (太田から7.8Km/日本橋から398.7Km) 五十二次
太田宿を出てからは日本ラインと呼ばれる木曽川の奇岩・河川美を見ながら堤防沿いに進みます。並行する国道とJR高山線をくぐり、うとう峠を越えて11:00に鵜沼宿に入ると大安寺大橋には常夜灯や欄干が江戸時代風に整備され風情があります。この周辺は明治24年の濃尾大地震の被害で江戸時代の建物は殆ど残っていませんが再築された元旅籠の町屋館や、脇本陣・坂井家があります。菊川酒造の明治時代の倉庫群は有形文化財です。茗荷屋梅田家が唯一残った江戸の旅籠の姿を残しています。宿を出ると木曽川の対岸に犬山城が見えてくる、その先には農村歌舞伎舞台「皆楽座」が津島神社境内にあります。
日本ラインの木曽川 大安寺大橋
旧大垣城鉄門 鵜沼宿町屋館
脇本陣坂井家 菊川酒造の倉庫群
茗荷屋梅田家 犬山城
津島神社 津島神社境内の「皆楽座」
2011年3月10日16:20 御嶽 - 伏見 (御嶽から4.8Km/日本橋から383.1Km) 五十次
伏見宿は国道21号線が貫く交通量の多い町で往時の面影はほとんどありません。もとは木曽川の湊として賑わった所ですのでJR太多線を過ぎた辺りの今渡りの渡し場跡の碑や、「木曽の桟(きざはし)、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と詠われた中仙道三大難所の一つと言われた「太田の渡し」の川石で作った石畳がかっての記憶をとどめてる程度です。17:20に伏見本陣跡到着。今日は可児のホテルで宿泊して終了。
伏見本陣跡碑と境界碑 太田橋と渡し場跡
2011年3月09日14:00 中津川 - 大井 (中津川から9.8Km/日本橋から346.9Km)四十六次
大井(恵那市)は名古屋、伊勢に通じる下街道の分岐点で大いに繁盛した宿場で、本陣門、長屋門、旅籠、町屋等昔の建物も多く残っています。宿内の中仙道は昔どおりの長さ、幅で枡形が六ヶ所も設けられていますので宿場全体に往時の面影が色濃い所です。大井橋で宿は終わり現在は代わりに商店街が続いています。ゆっくり町を堪能して17:00には宿泊先のホテルに移動して、今日はここまで。
大井宿本陣跡 ひしや資料館
蔵のある家並 宿役人問屋役・林家
風情が漂う町並 庄屋・古屋家
御嶽宿の商家・竹屋
中津川宿の西陶園
大妻籠宿の県宝・藤原家
2011年3月08日15:10  野尻 - 三留野(野尻から9.8Km/日本橋から315.0Km)四十一次
三留野(みどの)宿の名前は木曽氏の館があって「御殿(みどの)」と呼ばれた事に由来しているそうです。町の中央に本陣跡があり、古い家並みも残る静かな所です。先のJR南木曽駅に隣接する貯木場の奥には福沢桃介が水力発電開発のために架けた全長243mの木橋「桃介橋」があります。山里の道を進むと巴御前ゆかりの袖振り松が木曽義仲のかぶと観音の前にあります。中世の中仙道は蛇石と呼ばれる巨岩の横の沢沿いに上がった様ですが元禄時代に今の妻籠城近くを通る道になりました。坂を下ればいよいよ妻籠宿です。
本陣跡 旅籠の雰囲気のある町屋
貯木場と奥の「桃介橋」 巴御前ゆかりの袖振り松
蛇石 妻籠城跡碑
薮原宿・湯川酒造「木曽路」
須原宿・西尾酒造「木曽のかけはし
福島宿・七笑酒造「七笑」
木曽路の街道筋にあった蔵元
2010年11月07日08:40  福島 - 上松(福島から9.4Km/日本橋から285.4Km)三十八次
福島宿の先の御嶽遥拝所近くの峠道からは冠雪した御嶽山がよく見える。名所「木曽の桟」は山腹の急斜面を横断する道を補強するための橋で石垣積みでしたが現在は国道になっています。上松駅付近の町並に宿場の面影が残る程度ですが、寝覚集落の「たせや」と越前屋が立場茶屋の姿を今に伝えています。この2軒の間を下ると木曽川の激流が浸食して作り出した渓谷美の奇勝「寝覚の床」があります。
御嶽山 木曽川の渓谷
木曽の桟(かけはし) 立場茶屋「たせや」
立場茶屋「越前屋」 寝覚(ねざめ)の床
2010年10月18日9:40 八幡 - 望月 (八幡から3.5Km/日本橋から179.4Km)二十五次
宿の入口に宿名の元になった八幡(やわた)神社があります。総欅の隋神門や拝殿は国の重文です。特に拝殿の高良社は流造り、こけら葺の構造で五百年前の姿を今に伝えているそうです。宿場町の名残はほとんどありませんが本陣跡があります。望月の入口には宮廷貴族姿の道祖神など、多くの道祖神、石仏があります。瓜生坂をを下ると望月宿が一望できます。
八幡神社隋神門 八幡神社高良社
八幡宿本陣跡 宿の町並
2010年5月03日 8:45 本庄 - 新町 (本庄から11.1Km/日本橋から97.65Km) 十一次
本陣門が明治期洋風建築の歴史資料館の近くに移築保存されており、また街道沿いの土蔵や旧本庄商業銀行のレンガ造りの建物などの建物ウオッチングが楽しめる宿場です。県境近くの陽雲寺は武田信玄婦人が晩年を過ごした寺です。この付近で偶然にも安中市の委託で安中市旧中山道ガイド「旧道日和」を製作した方に声をかけられ、この碓氷峠越え道の資料を頂き感謝感激のハプニングでした。神流川(かんながわ)古戦場跡で知られる神流川を渡ると群馬県の新町宿です。
田村本陣の門 歴史資料館(旧本庄警察署)
レンガ倉庫(旧本庄商業銀行) レンガ造りの蔵
金讃神社 武田信玄婦人ゆかりの陽雲寺
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