2011年5月06日08:00韮崎宿 - 台ヶ原宿 (韮崎宿から15.7Km/日本橋から170.3Km)三十二 
韮崎の町を離れて旧道を進む途中には、茅葺門を残す家や道祖神、お地蔵さんなどが数多くあり風情を感じます。しかしながら道は長いです。特に、この区間は甲州街道の最長区間ですので、どんどん歩くしかありません。甲府より七里の旧甲州街道一里塚(七里塚)を過ぎて尾白川橋を越えると、ようやく台ヶ原宿です。ここは緩やかな坂道に古民家や造り酒屋が並び、甲州街道の中で最も昔ながらのたたずまいを残す宿場で「日本の道百選」にも選ばれています。本陣跡の隣には慶応3年(1867)建立の秋葉大権現常夜石灯篭があります。杉玉のさがる「七賢」の蔵元は寛延三年(1750)創業です。ここは脇本陣を兼ねていて明治13年(1880)の明治天皇の行幸の際には母屋の奥座敷を行在所(あんざいしょ/仮の御所)として使われた碑が門の脇に建っています。向かいは創業110年の和菓子屋さんです。その先には御茶壷道中の一行が宿泊する荒尾神社の社家として元禄13年(1700)に建てられた宿場最古の民家・台原信氏宅があります。宿の外れには往時には「諸国旅人御宿鶴屋」と称した旅籠のつる屋旅館があります。道は白須、前沢の集落へと入り国道20号線に合流するとサントリー製樽工場前にでます。ここではウイスキーの良い匂いを楽しむだけで、もくもくと街道を進みます。
茅葺門を残す旧家 宿の入口案内
石灯篭と本陣屋敷跡 山梨銘醸「七賢」の蔵元
脇本陣・明治天皇菅原御在所碑 和菓子屋「金精軒」
台原信氏宅 旅籠の鶴屋
2011年5月07日08:00蔦木宿 - 金沢宿 (蔦木宿から12.2Km/日本橋から192.6Km) 三十五
富士見駅から30分ほど歩いて昨日分かれた地点から8:00に再開です。富士見公園を右手に進むと原の茶屋公民館前に明治天皇駐蹕之処碑があります。旧道を進み途中のカゴメ工場の桜並木を見ながら進むと道筋には庚申塔、馬頭観音、道祖神、供養塔など石仏石塔群のオンパレードです。坂を上がって行くと両側に御射山神戸の一里塚があります。ここは両塚残っておりますが西塚(左)の欅は樹齢約400年の往時の物で、現在も樹勢尚盛んです。金沢宿本陣跡碑は金沢交差点の角の火の見櫓前にあります。11:30到着。その隣には、連子格子や木鼻の彫刻など江戸後期のたたずまいを保つ近江屋の朽ち果てる寸前の古い建物が残っています。更にその先には昔、馬方宿を営んでいたという小林家には、家の前の大きな石の前に「馬継ぎ石」があります。権現の森を過ぎ、ひたすら街道を進み中央道の高架橋をくぐると宮川の交差点、すぐ先の左右には神社やら味噌の醸造元が並んでいます。マルイ味噌の味噌蔵の向かいに明治天皇茅野御小休所跡があります。上川橋を渡って茅野駅前に出ると諏訪大社上社の大鳥居に圧倒されます。昨年も4月4日に諏訪大社・上社の御柱祭(おんばしらさい)で来まして宮川の木落しを見たことを想い出します。街道を進み上原郵便局の所で右折して中央線ガードをくぐり旧道を行くと甲州道中と大門街道が分岐する大門追分になり大小の道標と石灯篭が残っています。神戸一里塚碑を過ぎ先に行くと木製の灯篭があるのが足長神社です。神社の先で国道に合流する辺りから上諏訪宿に入ります。
明治天皇駐蹕之処碑 御射山神戸の一里塚
木鼻の彫刻のある近江屋の建物 「馬継ぎ石」がある馬方宿・小林家
上川橋からの八ヶ岳
諏訪神社上社の大鳥居 大門追分の道標
2011年5月07日14:30上諏訪宿 - 下諏訪宿 上諏訪宿から5.1Km/日本橋から210.9Km)三十七
街道途中に、江戸時代の面影がそのまま残る茶屋・政屋(橋本屋)があります。門は高島城門を移築した物か、あるいは写しと言われていますが医薬門という格式の高い門です。その角の路地からは諏訪湖全体が見えます。その先の津島神社参道横には詩人・島木赤彦の茅葺の自宅「柿陰山房」があります。 街道が諏訪湖に最も近づき眼下に見えて昔は石を投げれば湖に届くような場所が名勝・石投場です。横には明治天皇駐輦址碑もありましたので、石投げを楽しんだのかも知れません。いよいよ最後の一里塚跡にやってきました。ここは江戸から53番目残りはあと11町(1.1km)です。途中に承知川に永くかかっていた一枚石の橋石が街道沿いの擁壁に埋め込まれています。これは武田信玄が川中島の合戦に赴く途中、諏訪大明神に戦勝祈願をした際に社殿の立替等を約束しました。帰途この橋を渡ろうとした時、信玄の馬が突然立ち止まり頑として動かなくなりました事から神との約束を思い出し「神のお告げ承知仕り候」と申し上げたら馬が歩き出したと言います。以来この川を承知川、石橋を承知川橋と呼ぶようになったそうです。ついに諏訪大社下社秋宮に到着です。上社前宮(茅野市)・上社本宮(諏訪市)、下社春宮(下諏訪町)と並んで全国に広がる諏訪信仰の総本社です。大鳥居から番屋跡前を抜けると塩羊羹で有名な新鶴本店の前をすすむと、「下諏訪宿・甲州道中中仙道合流之の地」碑に着きます。ここは甲州街道の終点ですが、中山道との合流点になり、昨年歩いた中山道の宿場に属しています。駐車場奥の問屋場跡碑の看板前に「甲州道中終点・中仙道下諏訪宿問屋場跡碑」があり、ここで甲州道中の終点となります。16:00着 4月10日から歩き始めて約1ヶ月、延べ7日間で無事終了出来ました
茶屋・政屋(橋本屋) 島木赤彦の茅葺の自宅「柿陰山房」
諏訪湖の眺め
石投場と明治天皇駐輦址碑 石投場から望む諏訪湖
甲州道中最後の一里塚跡碑 承知川橋石
諏訪大社下社秋宮 甲州道中終点・中仙道下諏訪宿問屋場跡碑
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2011年5月07日10:00 金沢宿 - 上諏訪宿 (金沢宿から13.2Km/日本橋から205.8Km)三十六
上諏訪は甲州街道として最後の宿場です。諏訪大社上社の門前町であり、江戸時代は高島藩城下町としても発展しました。 町に入ると直ぐに蔵造りの呉服屋さん、元町の角から街道沿いには多くの酒蔵が建ち並びそれらが今も現役で活躍している町並は他ではなかなか見かけません。霧が峰の伏流水と酒造りに適した気候がもたらした賜物でしょうか。また日本酒好きには垂涎の場所です。宮坂醸造は寛文2年(1662)創業で清酒「真澄」だけでなく神州一味噌の製造元、酒ぬのや本金酒造は宝暦6年(1756)創業、「横笛」の伊東酒造、寛政元年(1789年)創業の麗人酒造、舞姫酒造と、ウーン試飲したい気持ちを、まだ先に進まなくてはいけないので、じっと我慢しての建物ウオッチングだけです。上諏訪四湯(精進湯、虫湯、小和田の平湯、湯の脇平湯)のひとつとして大社参詣の清めに庶民が利用した精進湯が今も公衆浴場として残っていまが、虫湯は武家専用の蒸風呂で跡碑が残るだけです。樹形のりっぱな吉田の松は樹齢300年程で高島藩士吉田式部彦衛門が、元禄3年大阪城守備の任務から帰ったときに持ち帰ったものと記されています。街道が大きく曲がる所に高島藩別邸の庭園・指月庵があります。いよいよ町を離れ下諏訪へ旧道を行きます。
蔵造りの呉服屋 「真澄」の宮坂醸造
酒ぬのや本金酒造 「横笛」の伊東酒造
麗人酒造 舞姫酒造
吉田の松 指月庵
2011年5月06日13:45教来石宿 - 蔦木宿 教来石宿から4.6Km/日本橋から180.4Km)三十四
蔦木(つたき)宿は信濃入りして最初の宿場です。宿は街道に面して屋敷割りをしたり枡形道が残されていたりして宿場としての形態が整えられています。宿の案内板によると甲州道中43番目の宿場です。蔦木宿本陣址には復元された本陣表門と明治大帝御駐輦跡碑があります。宿は釜無川沿いの低地にあるため水害から守る目的で「信玄堤」と呼ばれる堤防や植林をしました。川除古木はその時に植えられた名残の古木(サイカチ)です。この先は国道20号と旧道を出入りしながら旧瀬沢村に入り、坂を上りきると八ヶ岳を背景に遅咲きの桜と桃の花が美しさを競いながら迎えてくれました。林間の道を進むと寛政年間(1789-1800)に高島藩に願い出て植えられた赤松が長さ160mに続く芧木(とちのき)風除林があります。その先には現存する47里目の重修の一里塚があります。標高950mの標識の先で広い道に出ましたので明日の事も考えて今日はここまで。16:30 これから富士見駅に向かいます。
宿の案内板 本陣表門
川除古木と信玄堤 坂の途中にある享和2年の石碑
八ヶ岳を背景に桜と桃の花の饗宴
芧木(とちのき)風除林 重修の一里塚
2011年5月06日12:30台ヶ原宿 - 教来石宿 (台ヶ原宿から5.5Km/日本橋から175.8Km)三十三 
国道20号線沿いに明治天皇御小休所址碑がある所が教来石(きょうらいし)本陣跡です。宿場は旅人のためではなく甲州と信濃の国境の警備が目的でした。そのために山口関所が設けられていました。宿名の由来は国の境を清める「清ら石」の祭紀からと伝えられています。道は再び国道に出ると新国境橋の手前に教来石出身の江戸時代前期の俳人山口素堂の大きな句碑があり有名な「目には青葉 山ほととぎす 初かつお」の句が刻まれています。急な登りの旧道485号線へ入って直ぐにあるのが、南無日蓮大菩薩碑の奥にある日蓮上人高座石です。疫病に苦しむ村を訪れた上人が三日三晩この岩上に立って説法した伝説があります。その先の真福寺には珍しい鐘楼造りの山門が建っています。寺を過ぎ右側に現れたのが「応安の古碑」、石碑の刻文としては諏訪郡内最古で600余年前の物です。
明治天皇御小休所址碑 山口の関所址碑
山口素堂の句碑 日蓮上人高座石
真福寺の鐘楼造りの山門 応安の古碑「子乃神」
2011年5月05日13:05甲府柳町宿 - 韮崎宿甲府柳町宿から14.0Km/日本橋から154.6Km)三十一 
坂を下今井に向かって下りJR中央線のガード下をくぐり右折して線路沿いに行くと「泣石」と言う巨石があります。新府城・落城の時に武田勝頼一行が、ここで振り返り涙をながした所で、岩から水が流れ出したと言う伝説も残っています。下志田集落にある船山神社の石鳥居は応永4年(1397)の建立で指定文化財です。塩川橋を越えると、いよいよ韮崎宿、遠目にも昭和36年に七里岩の上に建立した平和観音が見えてきます。宿内の井筒屋は昭和5年創業の味噌屋さんですが風格のある土蔵造りの建物です。本陣跡の先には雲岸寺があり、裏手の崖上に窟観音があります。街道は甲府を過ぎてからは宿場間の距離が長くなり今までは日帰りの旅でしたが、今回からは宿泊して旅を続けます。明日に備えて今日はここまで。16:45着 
泣石 船山神社の石鳥居
平和観音 宿内の井筒屋
本陣跡碑 雲岸寺・窟観音
2011年4月29日15:50 駒飼宿 - 鶴瀬宿(駒飼宿から2.0Km/日本橋から120.7Km 二十六
日川を立会橋で渡ると直ぐに金岡自画地蔵尊碑があります。その先に「鶴瀬の口留番所」といわれ、主に物資の流通の警戒と「入り鉄砲・出女」を取り締まった鶴瀬関所跡碑があります。関所を過ぎると入口右手に鶴瀬宿標柱があり、「江戸より第三十一宿、江戸へ三十里二十七丁、甲府へ五里一丁」とあります。この場所が鶴瀬本陣跡でもあったそうです。小さい宿場なので駒飼宿と合い宿で継立業務を交互に行ったそうです。今日はここで終了16:30 
鶴瀬関所跡碑 鶴瀬宿標柱
2011年4月29日09:45 花咲宿 - 初狩宿 (花咲宿から6.7Km/日本橋から104.8Km) 二十一
下初狩と中初狩も合い宿です。国道沿いの初狩小学校の前に松尾芭蕉句碑があります。芭蕉は江戸の大火で焼出され当時、谷村に住む弟子を頼って来たそうです。明治天皇御小休遺跡碑の所が本陣跡の小林家です。国道は左手に大きく曲がり笹子川を船石橋で渡ると。路傍に「御舟石所在地ハ従是東三拾間余」と刻まれた石碑が立ち、その横には、りつぱな船石碑銘があり漢文で説明が書かれていましたが内容はちょっと勉強不足で理解できませんでした。
松尾芭蕉句碑 本陣跡
船石碑 船石碑銘
2011年4月29日12:20 阿弥陀海道宿-黒野田宿阿弥陀宿から1.3Km/日本橋から110.2Km)二十四
笹一酒造から約100mほどで、笹子町吉久保から笹子町黒野田となり、ここは街道最大の難所・笹子峠を控えた宿場です。JR中央本線のガードの手前、左側の登り坂の突き当たりに小さな笹子駅の駅舎があります。旅人たちに人気だったのは笹子峠の茶屋で売られた「力餅」でしたが、明治36年中央線の開通により峠の交通も途絶えていつか忘れられてしまいましたが、ここで復活させた「笹子もち」が車内販売や駅売り名物となりました(よもぎ餅、5ヶ入り410円)。宿のはずれにある明治天皇行在所跡碑が建つ所が本陣跡。街道の途中にある普明院の門前に「江戸日本橋ヨリ二十五里」と刻まれた一里塚碑があります。いよいよ笹子峠越えです。
笹子餅屋 「笹子もち」
本陣跡 一里塚碑
2011年4月29日12:30 黒野田宿 - 駒飼宿 (黒野田宿から8.5Km/日本橋から118.7Km)二十五
笹子峠には国道20号線から県道212号線へ左折します。県道と山道を出入りしながら進むと、峠の途中には出陣する兵士が矢を射立てて戦勝を祈願したといわれる「矢立(やたて)の杉」があります。幹は途中で折れ根元辺りは空洞になって人が入れるほどの巨木です。すぐ先の笹子トンネル道標に従い進むとレンガ造りのトンネルが現れます。昭和33年(1958)の新笹子トンネルの開通で今では大役を終えた登録文化財です。街道はトンネルの右を越えて行きますと標高1,096mの峠頂上に着きます。ここからは下り道です。途中にある甘酒茶屋跡碑や桃の木茶屋跡碑を過ぎ、殆ど車の通らない県道わきの散りゆく桜をめでながら下って天狗橋を渡ると駒飼宿です。3時間あまりの峠越えでした。駒飼宿は笹子峠の山間の小さな宿です。明治天皇御小休所址碑のあるところが本陣跡で、宿の案内板もあります。織田、徳川連合軍に追われた信玄の子、武田勝頼は、この宿の近くの天目山麓(てんもくさんろく)で自害して風林火山の旗印のもと武勇を馳せた武田氏は滅亡しました。再び国道20号線に合流します。
笹子追分 矢立の杉
笹子トンネルと案内板 笹子峠頂上
桃の木茶屋跡碑 県道脇の桜
明治天皇御小休所址碑 駒飼宿の案内板
2011年5月05日11:20 石和宿 - 甲府柳町宿(石和宿から6.0Km/日本橋から140.6Km 三十
石和を出てから途中にある酒折宮は日本武尊を祀る古事記や日本書紀に登場するお宮です。JR身延線のガードを越えると修復工事中でしたが塗籠め土蔵造りの繭糸問屋であった石川家住宅があります。道は枡形に従い折れ進むと甲府の繁華街に入りますが戦災と都市化で宿場の風情はまったく残っていません。また町名改正で昔からある伝統的な町名(例えば魚町、鍛冶町など)が全国どこにでもあるような中央、丸の内などに変わってしまいましたので柳町は、もうありません。現在は丸の内です、、、、、甲府は舞鶴城の城下町で、武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城され徳川家康の時代からは幕府の直轄地となりました。幕末の戊辰戦争では官軍に包囲されると幕軍(甲府勤番)は一戦も交えず開城明け渡してしまいましたので、近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊は、この知らせを聞いて戦意喪失したそうです。城の本丸は大火で焼失、維新後は廃城となり、今は当時の物としては石垣が残るだけです。明治44年の御料林の御下賜を記念して舞鶴城跡に建設された謝恩塔は甲府のシンボルです。さて街道は甲府駅前から真直ぐ延びる平和通りと交差する所が相生歩道橋で国道20号線は左折して町の南を通りますが街道は52号線を韮崎方向へ直進します。その先の丸の内郵便局東信号交差点の歩道に、「南 みのぶみち」「西 志んしうみち」の復元された新しい道標があります。荒川をこえ中央道をくぐった辺から竜王町になります。竜王町と双葉町境の辺は開発が進み道筋もずいぶん変化しています。竜王新町交差点を右折すると、珍しいまん丸の道祖神があります。道はゆるやかな上り坂になり、その名も赤坂です。坂の途中の高さ4.3mもある赤坂供養塔を見ながら進み頂上に出ると、南アルプスや八ヶ岳の山並みが見えます。
酒折宮 石川家住宅
舞鶴城公園と甲府のシンボル謝恩塔
甲府(舞鶴)城址 復元された道標
珍しいまん丸の道祖神 赤坂供養塔
2011年5月05日08:30 勝沼宿 - 栗原宿(勝沼宿から3.4Km/日本橋から128.4Km) 二十八
栗原宿は、江戸時代には毎月4と9の日に市が立ち、勝沼宿と共にこの一帯の農産物や織物などの集積地として栄えましたが、現在は宿の跡らしきものは残っていません。途中の大宮五所大神には明和・安永(1764~1780)当時としては珍品の浮世絵芝居絵が絵馬として奉納されています。八代将軍徳川吉宗の次男田安宗武は領地として、この辺を拝領し管理の為の陣屋を置き、現在濠の一部と石積み跡が水上稲荷社として残っています。道筋には立派な旧家の門があります。日川橋を渡り土手道を進むと国道411号線に合流しますが、この辺は「日本一の桃の里」として知られる一宮町なので道路標識が「甲州桃太郎街道」となっています。 
大宮五所大神 田安陣屋跡
旧家の門 「甲州桃太郎街道」道路標識
2011年5月05日07:30 鶴瀬宿 - 勝沼宿(鶴瀬宿から4.3Km/日本橋から125.0Km) 二十七
街道歩きも、いよいよ半道中過ぎました。国道をすすみ洞門トンネルの右手前の坂を登ると観音堂があり、灯篭の間を抜けて崖道を下り、国道をくぐる様に旧道を進むと共和地区のひなびた街道に出ます。再び国道に合流して進むと柏尾橋の袂に近藤勇の像があります。幕末の戊辰戦争で近藤率いる甲陽鎮撫隊が板垣退助率いる官軍と戦い近代兵器の官軍の前に総崩れした柏尾古戦場跡です。その先には「ぶどう寺」と呼ばれる大善寺があります。勝沼宿の中心には脇本陣跡や本陣槍掛けの松、街道筋には商家の家並みが残っています。特に明治期に建てられた地下1階、地上3階建ての土蔵は目を引きます。明治天皇勝沼行在所跡碑の横が「ようあん坂」で「海抜400米、山梨縣廰ヨリ16.27粁」と石柱に刻まれています。街道は途中で山梨市へ入り上栗原交差点に着きますと栗原宿の入口です。
柏尾古戦場跡に建つ近藤勇の像 大善寺山門
本陣槍掛けの松 商家「仲松屋」
地上3階建ての土蔵 「ようあん坂」の海抜・距離碑
2011年4月29日08:00 鳥沢宿 - 猿橋宿 (鳥沢宿から3.5Km/日本橋から92.4Km) 十七
江戸時代、岩国の錦帯橋、木曽のかけ橋と共に三大奇橋「猿橋」の見物人で賑った宿場です。長さ31m、幅3.3mの木橋で、渓谷が深いため橋脚がたてられず両岸から張り出した四層のはね木で支える珍しい橋の構造と周囲の景観との調和が美しい事から国の名勝に指定されています。橋は街道の通り道でもあり渡る事ができます。かって近藤勇の甲陽鎮撫隊が柏尾の戦いで官軍に破れ敗走するときに橋を焼き落とす事を計画したが、住民が難渋する事を考え中止した逸話も残っています。橋を渡ると蕎麦の大黒屋があり、ここに逗留していた国定忠治が追っ手に追われて傘を開いて桂川に飛び降りた話もあります。駅前を過ぎ先に進むと阿弥陀寺の石柱があり、石仏や道祖神の古い石碑の中に猿橋一里塚碑があります。
(*)ちなみに「木曽の桟(かけはし)」は山腹の急斜面を横断する中仙道の道を補強するための橋で石垣積みでしたが残念ながら現在は普通の国道になっています。
三大奇橋「猿橋」 四層のはね木構造
桂川の渓谷美と猿橋
猿橋 猿橋の一里塚
2011年4月22日14:05 上野原宿 - 鶴川宿 (上野原宿から2.0Km/日本橋から76.6Km) 十三
かっての街道は鶴川の渡しを「徒歩(かち)渡し」でしたが今は橋を渡ると鶴川宿です。ここも大火で宿を焼失しています。ほぼ直線の宿内をぬけると道は大きく左に曲がり、やがて中央道と平行して側道を進み橋をわたると日本橋から19番目の大椚(おおくぬぎ)一里塚跡碑があります。その先には境内に地名の由来となった大クヌギがあった大椚観音があります。街道は中央道沿いのために、分断されたり、失われたりしている所が多く、武田信玄が築いた長峰砦も以前とは異なる場所のようです。
鶴川橋 鶴川宿碑
街道沿いの土蔵 大椚(おおくぬぎ)一里塚跡碑
大椚観音堂 長峰砦跡碑
2011年4月22日13::30 関野宿 - 上野原宿 (関野宿から3.7Km/日本橋から74.6Km) 十二
街道は境川を渡ると桂川に架かる白い境川橋が見える手前を右折しツヅラ折の坂を登ると諏訪番所跡があります。中央道の上を諏訪橋で渡ると赤い鳥居の疱瘡(ほうそう)神社があります。水疱瘡や皮膚病にご利益がある神様です。ここの脇に塚場の一里塚跡があり、日本橋から17番目、甲斐の国では最初の一里塚です。新町二丁目交差点付近が宿の中心で、数軒ある蔵造りの旧家が往時の面影を残しており本陣門もJAクレインの向かいの路地を入った所に残っていました。街道は宿のはずれで四差路になり上野原警察署の裏を通る形になり鶴川入口歩道橋に出て国道20号線を越え30号線野田尻方面に坂を下ります。
諏訪番所(関)跡 疱瘡(ほうそう)神社
蔵造りの旧家 本陣門
2011年4月22日9:30 小仏宿 - 小原宿 (小仏宿から6.3Km/日本橋から62.2Km) 八
ウグイスや野鳥の声を聞きながら峠道をぐんぐん登ると約30分程で頂上に着きます。茶屋跡を抜けると開けた場所になり明治天皇御小休所跡碑や高尾山道標などがあります。頂上の標識には東京側は小仏バス停2.8Km、高尾駅7.4km、神奈川県側は底沢バス停3.5km、相模湖駅5.5Kmとあります。下り始めるとすぐに中央道を走る車の騒音が聞こえてきますが相模湖側は、歩いている人も少なく快適です。中央道の高架下には明治時代の馬頭観音像がありますが、ここがかっての甲州道中と交わる所ですが、中央道の橋脚工事で消滅したようです。国道20号線を進むと小原宿。郷土資料館・小原の郷の先には、かつて宿屋と養蚕農家を兼ねた本陣清水家住宅があります。神奈川県下では東海道と甲州道中合わせて26軒の本陣がありましたが唯一現存している建物だそうです。無料で見学ができ、内部には竹で編んだ駕籠(かご)や機織(はたおり)、大八車などが展示され、当時の人々の生活を知ることができます。
明治天皇御小休所跡碑 高尾山道標
馬頭観音像 郷土資料館・小原の郷
小原宿本陣 本陣の広間
2011年4月16日10:05 日野宿 - 横山宿 (日野宿から7.0Km/日本橋から46.1Km) 六 
日野を出ると街道沿いには日野自動車やコニカ・ミノルタの工場が続きますが、所々に門構えの立派な旧家も数軒残っています。淺川を大和田橋で越えて横山宿(現在の八王子)に入ると竹の花公園に旧竹之鼻一里塚跡碑があります。駅前の市守大鳥神社前を過ぎ八王子駅入口交差点が宿の中心です。ここは甲州や上州で生産された絹の集積地として栄えた街道最大の宿場町でした。一本道を進むと追分町になり文化8年(1811)建立の「左甲州道中高尾山道」道標があります。その横が八王子千人同心屋敷跡です。徳川家康は江戸防衛の為に旧武田家・家臣を召し抱え千人同心をここに配置しました。この千人同心は軽輩ながら直参意識が強く近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊を多摩の百姓と見下し通行の際、非協力的であったと言われています。これも歴史上と言うよりも人間の心理のアヤでしょうか。
門構えの立派な旧家 竹之鼻一里塚跡
市守大鳥神社 八王子駅入口交差点
「左甲州道中高尾山道」道標 千人同心屋敷跡碑
2011年4月22日08:30 駒木野宿 - 小仏宿 (駒木野宿から2.9Km/日本橋から55.9Km) 七
前回の続きを高尾駅からはじめます。中央線のガード下をくぐり南浅川をこえて旧道に入ると車も少なく、ゆっくりと道を進むと小仏関址碑と駒木野宿碑が並んで建っています。関跡碑の前には関所を通る通行人が手形を置いた手形石と、その手前に手をついて頭を下げた手付石があります。無事関所を出て小仏峠に向かい西に進むと蛇滝口付近に旅人の喉をうるおした湧水があります。現在の京王バス終点付近が宿の中心です。バスが止まると高尾駅前で待っていた多くのハイカーがここで乗降りします。ハイカーは舗装路が苦手なのでしょうか?9:30さらに先に進み駐車場をすぎると、いよいよ峠道となりますが今はハイカー用に整備された道です。近藤勇らの甲陽鎮撫隊は旧道を大砲二門をもっての雪中行軍だったそうです。昔の人はえらい、バスにも乗らず峠道もいとわず、、、
両界橋から南浅川 小仏関所跡
駒木野宿碑 蛇滝口付近の湧水場
2011年4月16日08:00 府中宿 - 日野宿 (府中宿から7.6Km/日本橋から39.1Km) 五 
前回の続きの府中から出発です。途中の国立市谷保に天満宮があります。菅原道真は大宰府に、子供の道武は、ここに流されました。道武が父・道真を偲んで木像を彫りましたが、出来具合かあまり良くない事から野暮天(谷保天)の語源に、なったと言われています。日野橋五差路を過ぎて日野渡し場の横を通り多摩川を立目橋で越えると日野宿です。本陣は文久3年(1863)に再建された物です。門の脇に天然理心流佐藤道場跡碑があります。当主の佐藤彦五郎の妻は土方歳三の姉で、土方はここの生まれ、近藤勇がこの道場に出稽古にきていました。そしてここで土方歳三や沖田総司は近藤勇に出会い剣を学びました。新撰組は幕末に鳥羽伏見の戦いで破れた後、江戸に戻りましたが無血開城を考えた勝海舟は、過激派の新撰組が府内にいるのを好まず近藤勇を大名格の若年寄に取立て、軍資金や武器を与え甲府での防衛を命じました。近藤らは甲陽鎮撫隊を組織し甲府へ向かう途中、青春を過ごしたここ日野に立ち寄り大歓迎を受けました。本陣の向かいの図書館の横が問屋場、高札場跡です。
谷保天満宮 日野の渡し場跡碑
立目橋から 日野宿本陣
天然理心流佐藤道場跡碑 問屋場、高札場跡碑
2011年4月10日15:30 布田五宿 - 府中宿 (布田五宿から7.2Km/日本橋から31.5Km) 四
京王線の踏切を越えると、いよいよ府中です。武蔵国府八幡宮は桓武天皇の頃に一国一社の八幡宮として創建された古刹です。その先には徳川家康が関ヶ原の戦いでの戦勝を祈願した大国魂(おおくにたま)神社があります。府中宿の起点でもあり、武蔵総社または六所宮としてそれ以後、徳川幕府の尊崇が厚かったお宮です。旧甲州街道と府中街道が交差する所に高札場跡と向かいには問屋場跡があります。ここまでの甲州道中は国道沿いの道が多く古い家並みや眺望は、あまり望めませんでした。しかし道中の初日を無事ここで終える事ができました。16:40着
武蔵国府八幡宮 大国魂(おおくにたま)神社
高札場跡 問屋場跡
2011年4月10日13:10 高井戸宿 - 布田五宿 (高井戸宿から8.5Km/日本橋から24.3Km) 
仙川に架かる大川橋を越えると国領、下布田、上布田、下石原、上石原の五宿あわせて一宿の機能を分担した布田五宿です。問屋業務や人馬の用立ては月の内、6日づつ各宿で担当したそうです。調布駅近くの布多天神社は布田五宿の総鎮守です。旧武蔵国多摩郡上石原村は近藤勇の出生地であり新撰組ゆかりの地です。西光寺には彼の坐像があります。近藤の遺体は東本願寺法主が受け取り埋葬したとされていますが、一説には同志により奪還され、愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られ近藤の首塚があります(東海道中で見てきました)。また東京都調布市の龍源寺や処刑場の近隣であるJR板橋駅前にも旧同士だった永倉新八により建立された墓所もあります(中山道中で見てきました)。西光寺の門は仁王像が安置された楼上に釣鐘のあるユニークな鐘楼門が残っています。
仙川 布多天神社参道
近藤勇坐像 西光寺の鐘楼門
2011年4月10日10:10 内藤新宿 - 高井戸宿 (内藤新宿から7.9Km/日本橋から15.8Km) 
高井戸も上高井戸、下高井戸と2宿に分かれていましたが、上高井戸をめざします。現在、内藤新宿宿場跡は日本最大の繁華街の新宿駅周辺です。当初、日本橋を出て、最初の宿は高井戸であったが、宿間の距離が長かったため、元禄11年(1698)高遠藩内藤家の屋敷があった場所に新しい宿を設けた事から内藤新宿と呼ばれます。新宿駅を過ぎると文化服装学院前の満開の桜に目が止まります。しばし頭上に首都高速の高架の圧迫感を感じつつ、江戸町民の飲用水確保の為に作られた玉川上水跡の緑道と並んで街道を進み鎌倉街道入口交差点の先に甲州道中(上北沢)一里塚跡があります。高井戸陸橋周辺が宿の中心ですが、昔の面影はまったくありません。
新宿御苑新宿門 新宿・文化服装学園前
玉川上水跡 甲州道中一里塚跡碑
2011年4月10日08:35 日本橋 - 内藤新宿 (日本橋から7.9Km) 
ちょうど一年前の同日の同じ時刻頃に中仙道歩きで、桜に見送られながら、江戸五街道の起点のここを出発しています。今回は初めて西に向かいます。いきなり東京駅の連絡通路を通り丸の内側へ出て皇居のお堀沿いをぐるりとジョギング中の市民ランナーをよけながら半周して現在の甲州街道である国道20号線半蔵門前で左折して新宿通りを進みます。四谷駅前の桜に慰めながらビルの谷間を歩き続けて宿の入口になる新宿御苑大木戸門入口に10:10に着きました。御苑の花見客がアルコール持ち込み禁止の手荷物検査の大行列でした。
日本橋、上は首都高速 皇居・二重橋
皇居・桜田門 四谷駅前交差点
2011年4月29日09:30 大月宿 - 花咲宿 (大月宿から1.5Km/日本橋から98.1Km) 二十
下花咲と上花咲も合い宿です。上花咲宿には本陣を務めた星野家があります。天保年間に焼失しましたが再建されたものです。間口12間、切妻造り、鬼瓦葺きの母家、文庫蔵は当時の面影が残り、今でも生活の場として使われています。建物の前には明治天皇花咲御小休所碑があり、明治13年(1880)に立寄られています。国道の左手には下花咲一里塚跡があり庚申塔や芭蕉句碑などもあります。中央道、大月警察署を過ぎて笹子川とJR中央線を源氏橋で渡り、さらに道を進むと砕石所の構内のジャリ道になり、不安を感じながら事務所前を通り抜けてJR中央線の踏切を越えると再び国道にもどりました。100Kmポイントを見つけて道を間違えなかった事と、ほぼ道中の半分来た事に一安心。
上花咲宿本陣の星野家 上花咲付近の道
和風旅館
2011年4月29日11:50 白野宿-阿弥陀海道宿白野宿から2.0Km/日本橋から108.9Km)二十三
白阿弥陀海道宿の名は奈良時代の僧・行基が刻んだ阿弥陀如来像を祀(まつ)る堂が宿の入り口にあった事からと言われています。国道にかかる新笹子橋を渡らず、そのまま真直ぐ進み直角に渡る旧笹子橋が旧道です。橋の正面には笹一酒造、ここにはギネスに登録されている大きな「世界平和大太鼓」(直径4.8m、胴長4.95m、重量約2トン)や、明治天皇も飲まれたと言う笹子峠の湧水「御前水」もあり自由に飲む事ができます。
旧笹子橋 湧水「御前水」

甲州道中は東京・日本橋から下諏訪を結ぶ53里11町(211Km)の街道で五街道のひとつに数えられています。甲州道中は徳川幕府が、豊臣恩顧の外様大名らが江戸へ攻めてきた時の逃げ道としてつくられましたので半蔵門を出るとすぐに甲州道中につながります。参勤交代でこの街道を通った大名は、信州の高島、高遠、飯田の三藩と甲斐の諸藩にすぎず、公用の通行といえば、江戸城への「お茶壷道中」の他、幕府と甲府勤番、代官所との連絡が主でした。下諏訪は、甲州道中の終点にあって古くから諏訪大社の門前であり、当時中仙道で唯一温泉の湧く宿場でもあったことから大いに賑わったそうです。Wkipediaによれば「お茶壷道中」とは、徳川幕府が宇治茶の献上を命じた時に、将軍家伝来の茶壷に最高級茶を詰めて往路は東海道、復路は中仙道、甲州道を通り甲斐の国・谷村(現・都留市)の勝山城の茶壷蔵に納めて、富士山の冷気にあてて熟成させてから江戸に運んだ行列です。

2011年4月29日11:15 初狩宿 - 白野宿 (初狩宿から2.1Km/日本橋から106.9Km) 二十二
白野宿は先の阿弥陀海道、黒野田の三宿による合い宿で月の内の何日かごとに問屋業務を三宿で分担していました。宿は国道の裏通りとして道筋が残っていますが、特に古い家並が続いているわけではなく、りっぱな山門の宝林寺が目立つ程度です。中央線のガード下をくぐり左折し線路沿いの道を進むと稲村神社があります。神社神社前には親鸞上人念仏供養塚があります。神社の境内には、根元から三本の幹に分かれた三又杉の巨木があり、周りには馬頭観音や怪しげな形の合体道祖神が置かれていました。再び中央線のガード下をくぐり国道に戻り阿弥陀海道宿を目指します。
宿内の家並み 宝林寺の山門
親鸞上人念仏供養塚 稲村神社の三又杉
2011年5月05日09:30 栗原宿 - 石和宿(栗原宿から6.2Km/日本橋から134.6Km) 二十九
笛吹川を渡り、松並木の下道を行くと笛吹川の名前の由来になった笛吹権三郎像があります。ここからは温泉郷として知られる石和。昭和36年(1961)にぶどう畑からお湯が湧き出でて以来、温泉地として人気を呼びJRの駅名も石和温泉駅に改名しました。近くの御朱印公園には往時の豪族屋敷である八田家書院があります。ちょうど子供の日のイベントで少女らによる筝曲演奏が茅葺の母屋でありました。宿入口の遠妙寺の仁王門は指定文化財です。石和本陣は明治時代の大火で焼失し土蔵を残すだけです。小林公園の一角には、さすがに石和温泉なんと足湯があり観光客がくつろいでいました。甲運橋の袂には万延元年(1860)の道標があり「左甲府・身延道」に従い進みます。途中の街道沿いには何軒かりっぱな旧家が残りますが、しばらく単調な道が続きます。
八田家書院 遠妙寺の仁王門
石和本陣跡 石和温泉の足湯
「左甲府・身延道」道標 街道沿いの旧家
2011年4月22日16:15 野田尻宿 - 犬目宿 (野田尻宿から3.4Km/日本橋から84.3Km) 十五
街道は矢坪橋で中央道を渡るが、桜や桃の花の美しさにつられて渡らずに100m程進むと談合坂SAになります。戻って坂道を進むと、とても旧甲州街道とは思われないような民家の庭先のような所を過ぎ山道になり急に切り立った崖の「座頭転がし」と説明のある所を過ぎて県道に合流してしばらく行くと途中の小高い丘の上に犬目兵助の墓があります。ここが富士山絶景ポイントのようですが、当日は雲が多くて未確認です。その先が葛飾北斎の『富嶽(ふがく)三十六景甲州犬目峠』で有名な犬目宿です。火の見櫓の先に明治天皇御小休所跡碑がある所が本陣です。田園風景を楽しみながら下り恋塚温泉の入口を過ぎると21番目の恋塚一里塚があります。山神社の前から分かれて恋塚集落を行くと大きな約250年前の元馬宿の建物があります。再び県道30号線に合流して下ると上野原市から大月市の市境標識を越えて中央道の下をくぐると鳥沢宿、今日はここで終了です
(*)犬目兵助(犬目村の兵助)とは、天保時代の大飢饉で餓死者が続出した時に米屋を襲い、甲州郡内一揆の首謀者のひとりで地元では義民とされています。
矢坪金毘羅神社の山道 犬目宿碑
矢坪橋から談合坂PAを見る
君恋一里塚 馬宿
2011年4月22日12:40 吉野宿 - 関野宿 (吉野宿から2.8Km/日本橋から70.9Km) 十一
沢井川に架かる吉野橋のたもとに廿三夜塔と百万篇供養塔があります。藤野駅近くの街道沿いの旧家の土蔵が、しだれ桜に覆われた風情は目を引きます。国道沿いの民家の庭先に相模の国では最後になる関野本陣跡の説明版があります。明治21年(1888)及びその後二度の大火で宿場の面影を残す建物はすべて焼失したとの事です。道は名倉入口から斜め左の下り坂を進むと相模川の支流境川が流れ、相模(神奈川)と甲斐(山梨)の国境を境沢橋で越えるといよいよ「風林火山」甲斐の国です。
土蔵と、しだれ桜 関野本陣跡
2011年4月22日11:40 与瀬宿 - 吉野宿 (与瀬宿から3.8Km/日本橋から68.1Km) 十
街道沿いにある藤野町郷土資料館は明治30年(1905)に建てられた旅籠「ふじや」です。無料で生活道具や吉野宿の模型などが見学できます。向かいが吉野宿本陣跡で江戸時代には珍しい木造五階建ての楼閣で街道最大であったと言われていましたが明治時代に大火で土蔵を残して焼失してしまいました。道は国道20号線沿いのなので足早に進み沢井川を渡り次の関野宿をめざします。
藤野町郷土資料館 吉野宿本陣跡
2011年4月22日11:15 小原宿 - 与瀬宿 (小原宿から2.1Km/日本橋から64.3Km) 九
小原宿を出て平野道標に従い旧道を進み与瀬歩道橋の所で国道20号線に合流します。相模湖駅前の国道周辺がかっての与瀬宿です。江戸時代は鮎料理が評判の宿として知られていたそうです。郵便局の先の国道沿いにある明治天皇與瀬御小休所跡碑が本陣跡ですが、今は雑草や木に覆われていました。右折して旧道を行くと、慈眼寺や与瀬神社の前を通り巻くように沢沿いの道を「貝沢橋を渡り一里塚へ」道標に従い旧道を進むと、しばらくして国道に再び合流し吉野宿をめざします。
与瀬神社 与瀬神社より相模湖を望む
この御茶壷道中は、将軍が飲み徳川家祖廟に献ずるものである事から権威付けされ摂関家並で、御三家の行列であっても、駕籠から降りて、馬上の家臣はおりて、道を譲らねばならなかった。単なる「お茶」に「大名行列」以上の権威付けをした事でした。つまり、大名でもないのに一般庶民は御茶壷に頭を下げ、一度抜かれれば二度と追い越せない事になってしまいました。これには庶民は大変不満だったようです。わらべ歌の、「茶壷に追われて戸をピシャン 抜けたらドンドコショ」と家に隠れたといいます、この「御茶壷道中」を皮肉った一般庶民の抗議の歌なのです。この馬鹿げた、御茶壷道中は三代将軍・家光の時の慶長十八年(1613)から慶応二年(1866)まで250年間も続きました。とまあー前置きが長くなりましたが、、、、御茶壷道中に遭遇しないように注意しながら一歩をあるき始めました。一般に甲州道中四十四次となっていますが、途中の宿場の数は45宿です。2ヶ所で1宿というところもいくつかあります、又宿間が非常に短い所もありますので、今回は宿名表記だけにします。
2011年4月29日09:10 駒橋宿 - 大月宿 (駒橋宿から1.8Km/日本橋から96.6Km) 十九
大月宿は寛文9年(1669)に駒橋宿から分かれた宿場で大月駅よりやや西寄りが宿の中心です。大月市役所の先の左側にある明治天皇御召換所址碑の所が本陣跡です。道をそのまま進むと大月橋の手前が追分で、3本の追分道標が立っています。「左富士街道、右甲州街道」と刻まれています。かっての甲州街道は右に向かい桂川を渡りましたが現在は消滅していますので大月橋を渡って先に進みます。江戸時代、富士山を信仰する富士講の人たちが、この追分から相模の国に通じる富士山道を行き交い、大いに賑った事が容易に想像できます。
大月駅前交差点 追分道標
2011年4月29日08:40 猿橋宿 - 駒橋宿 (猿橋宿から2.4Km/日本橋から94.8Km) 十八
国道を斜め右下の坂を下り大月駒橋郵便局前を通ると東京電力駒橋発電所の巨大な導水管の前に出ます。ここが明治40年(1907)に東京に始めて水力発電の電気が送られた「東京送電水力発祥の地」です。近代日本の土木遺産である「駒橋発電所」は今でも稼動しているそうです。この先で中央線を踏切で越えて50m程で国道に出ます。この辺が駒橋宿で旅籠4軒だけの小さな宿場でした。あまり宿場の面影のある通りではありませんが先に進むと右正面に岩殿山が見えてきます。岩殿山は武田二十四将のひとり小山田氏の居城があった所です。JR中央線駒橋跨線橋をくぐると大月宿に入ります
東電・駒橋発電所の導水管 岩殿山
2011年4月29日07:10 犬目宿 - 鳥沢宿 (犬目宿から4.6Km/日本橋から88.9Km) 十六
前回の続きを7:10に鳥沢から始めます。下鳥沢と上鳥沢は、わずか5町(約550m)しか離れていない合い宿で、問屋業務などは半月毎に交代で勤めていたようです。鳥沢小学校には市指定天然記念物のコノテカシワの巨木があります。かってはこの木の辺りに一里塚があったそうです。JR鳥沢駅あたりが上鳥沢。街道沿いには昔の面影を残す建物もありますが上鳥沢の本陣跡は明治天皇駐蹕地碑のところです。「駐蹕」はチュウヒツと読み、天子が行幸の途中で、一時乗り物を停めること。また、その土地に駐留すること、らしいです。要するに明治天皇が来て、降り立った場所です。それにしても、街道歩きをしていると驚きますが明治帝は全国いろいろな場所を訪れています。ただし乗り物に乗ってですが。
街道沿いの旧家 明治天皇駐蹕地碑
2011年4月22日15:20 鶴川宿 - 野田尻宿 (鶴川宿から4.3Km/日本橋から80.9Km) 十四
野田尻は山の中の小さな宿でしたが明治19年(1886)の大火で焼失しています。明治天皇御小休所址碑の所が本陣跡、その向かいに野田尻宿碑と案内板がありますが、元旅籠の大黒屋跡です。街道は少し蛇行して進むと突当たり手前の左に、水不足に悩む村民の為に水を沸き立たせたと言う伝説の「お玉ヶ井」碑があります。正面の角には派手に説明板を掲げている臨済宗西光寺があります。天長6年(824)の創建ですが、中央道建設で移転、新築されています。中央道建設により分断された道を中央道の上の橋で渡り進むと道路擁壁上に20番目の荻野一里塚跡碑があります。街道は県道30号線にそってさらに進みます。
山中の野田尻宿 明治天皇御小休所址碑
野田尻宿碑と案内板 「お玉ヶ井」碑
臨済宗西光寺 荻野一里塚跡
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