2012年7月26日 平泉見物 - 一関 (平泉から3.9Km/深川から659.0Km) 
平泉は、奥州藤原三代の栄華の跡、源義経の最期の地であり、松島、象潟と並ぶ「奥の細道」のハイライトです。芭蕉は悲劇の英雄・源義経が最期を遂げた地に実際に立ってみたいという思いを抱いて、みちのくを旅してきたので、真っ先に高館(たかだち)に登りました。「高館(たかだち)義経堂」の案内標識に従い右に曲がると、丘に登ってゆく階段がありますので、拝観料¥200を払って上ると。義経が藤原秀衡から与えられた居館、高館(たかだち)が、この丘の上にあります。山頂には天和3年(1683年)に伊達藩主により義経堂を建立し木像を安置しましたので、生々しい採色の義経像を芭蕉は6年後に目にしています。そのすぐ近くには大きな芭蕉句碑「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」があり、眼下には北上川と衣川が合流し束稲(たばしね)山が正面に見えます。
高館を下りJRの踏切を越えて北に進むと国道4号線に面した中尊寺の入口、月見坂に着きます。中尊寺は慈覚大師の創建になるもので、奥州藤原氏の初代清衡によって堂塔伽藍が建立され奥州平安仏教の中心として繁栄しました。覆堂内にある金色堂(拝観料¥800)は天治元年(1124)の造立で、中尊寺創建当時のままの優美な姿を伝えています。金色堂が覆堂(鞘堂)によって保護されるようになったのは鎌倉時代からと推定され、昭和40年(1965)には現在の新覆堂が完成しました。これに伴い旧覆堂は経蔵の北側に保存されています。芭蕉の訪問時には金堂、旧覆堂と経堂があっただけでした。金色堂脇には「五月雨の降のこしてや光堂」の1746年に建てた古い句碑が、また経堂と旧覆堂の間には芭蕉像と奥の細道碑があります。
芭蕉は衣川まで足を延ばしてから一関に戻りますが、中尊寺から戻る途中の金鶏山の右手に、藤原秀衡が宇治平等院を模して建立した無量光院の跡があります。現在は周囲の水田の形からかっての「浄土の池」を想像するだけで発掘調査の結果待ちでしょうか。平泉駅前の信号を右折して500mほどの所にある毛越寺(拝観料¥500)は、奥州藤原氏二代基衡(もとひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。堂塔は40を数え中尊寺をしのぐほどの規模といわれていますが度重なる災禍で建物は殆ど焼失しましたが「大泉が池」を中心とする浄土庭園がほぼ完全な状態で保存されています。庭園の鑓水(やりみず)と呼ばれる水路に盃を浮かべ流れに合わせて和歌を詠む「曲水の宴」が毎年5月の第4日曜日には行われ平安時代の優雅な情景が再現されるそうです。
藤原氏3代100年で、永久の浄土を実現しようとし繁栄を誇った奥州平泉文化が跡形も無くなり、まったくの農村を見たときに芭蕉は人の営みのむなしさ実感し先の高館の想いとで「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」の名句を残しています。毛越寺には芭蕉の真筆を彫った句碑と新渡戸稲造の訳による珍しい英文訳の句碑「The summer grass・・・」もあります。全行程の三分の一ですが奥州街道の北限をきわめた気分で一関に戻ったのではないでしょうか。
「高館(たかだち)義経堂」 義経堂内の義経像
芭蕉句碑「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」 義経堂から望む北上川と束稲(たばしね)山
中尊寺金色堂 金色堂内部は撮影禁止ですのでNetで入手した映像です
「五月雨の降のこしてや光堂」の句碑 経堂
芭蕉像と奥の細道碑 旧覆堂
無量光院の跡 毛越寺「大泉が池」
毛越寺庭園の鑓水(やりみず) 毛越寺鐘楼と常行堂
芭蕉の真筆の「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」句碑 英文訳の句碑「The summer grass・・・」
2012年9月18日 塩竃 -松島 (塩竃から11.8Km/深川から518.0Km
塩竈は陸奥国一の宮塩竈神社の門前町として発展した町で、現在でも神社門前の街道筋には古い造りの家などが残っています。芭蕉は塩竈に1泊した翌日5月9日早朝に塩竃神社に参拝しました。芭蕉が期待した「塩竃桜」は唐門の右手に、感心した鉄の燈篭は本殿右手にあります。文治3年(1187)7月10日の日付が刻まれた鉄製の燈籠は、奥州藤原三代秀衡の三男忠衡(和泉三郎)の寄進で「文治の燈篭」と言われています。境内東の志波彦(しわひこ)神社の鳥居前の茶屋の近くの木陰の中に「おくのほそ道文学」碑が建っています。碑には、「おくのほそ道」の「塩釜」の章段と「塩釜明神」の章段が刻まれています。志波彦神社前からは庭園と千賀の浦(塩釜港)が一望できます。参道を下って新町川を渡り仙石線本塩竃駅から5分位のところに御釜神社がありますので寄ってきましたが東日本大震災の影響で社務所の復旧工事中で「塩釜の釜」は見物出来ませんでした。「芭蕉船出の地」の碑が壱番館の道路向かいにありますので、埋立てられる前の当時、ここから芭蕉は船で松島に向かいました。私は松島行きの船が出る「塩釜マリンゲート」に向かい、「島めぐり芭蕉コース」という観光船に乗り塩釜から松島まで約50分の船旅を楽しみました。松島は天橋立、安芸の厳島にならぶ日本三景の一つとして名高く芭蕉も何よりも松島を楽しみにしていました。五大堂は小さな島の上に建っており、「すかし橋」という下が透けて見える橋を渡り、お堂を拝観した後、雄島に向かいます。芭蕉は松島で「島々や千々に砕きて夏の海」という句を詠んでいるのですが、推敲の段階で削除されています。雄島には芭蕉の句碑などがありますが、東日本大震災の津波で島に架かる橋が崩落して立入禁止でしたのが残念です。松島といえば瑞巌寺、伊達家の菩提寺で本堂も庫裡も国宝ですが現在は修復工事中でした。津波も瑞巌寺中門の手前まで来たそうです。芭蕉も雄島近くの浜に上陸した後、早速、瑞巌寺に参詣しています。瑞巌寺には、修行場として彫られた多くの石窟が参道脇にあり、鐘楼の外には「おくのほそ道碑」があります。この碑は嘉永4年(1851年)の建立で、「おくのほそ道」の「松島湾」の章段が刻まれています。松島での観光が終わった芭蕉は仙台の北野屋加右衛門の紹介で泊まった旅館「熱田屋」の2階から松島の月を鑑賞したといわれています。私は高台にある西行戻りの松に行き、そこからの松島の景観を眺めました。
余談ですが、大小230余の島々が浮かぶ松島湾の美しさを一望出来る所として、江戸時代の儒学者 舟山万年が「東に大高森の壮観、西に扇谷の幽観、南に多聞山の偉観、北に富山の麗観」と称したことから「松島四大観」と言われる展望台が湾を囲むようにありますので、少し離れた大高森を除いて行って来ました。
塩竃神社表参道 唐門の右手にある「塩竃桜
塩竃神社本殿 国の重文の文治の燈篭
おくのほそ道文学」碑 庭園と千賀の浦(塩釜港)
御釜神社の「神釜」。4個の鉄製の皿(釜)が納められている 「芭蕉船出の地」の碑
千賀の浦に浮かぶ歌枕の籬島(まがきじま) 「島めぐり芭蕉コース」の観光船
仁王島、後ろは桂島 鐘島
五大堂と「すかし橋」 橋が崩落して行けなかった雄島
瑞巌寺の石窟 瑞巌寺の「おくのほそ道碑」
西行戻りの松 西行戻り松からの松島の景観
多聞山の偉観、馬放水道をはさんで白亜の灯台が建っているのが地蔵島、そして馬放島、桂島と点在する島が連なる
扇谷の幽観、正確には双観山展望台から松島の全景が眺められます。
富山の麗観、新富山展望台は人家に近い為、松島の街並と松島湾を一緒に見渡す事ができます。
2012年9月16日 飯坂 -桑折 -貝田 -斉川 -白石 飯坂から28.9Km/深川から433.5Km) 
飯坂温泉駅前の芭蕉像に見送られ新十綱橋で対岸に渡り県道124号線・通称湯野街道を桑折(こおり)方面に向かいます。JR東北線を地下道で渡るり桑折の町の中に入って行くと、国の重要文化財に指定されている明治16年に建てられた旧伊達郡役所が残っていますが、東日本大震災の影響で現在は休館されていました。近くの 法円寺には芭蕉の「田植え塚」や像があります。田植塚というのは、芭蕉が須賀川の等躬宅で詠んだ「風流のはじめやおくの田植唄」の短冊を桑折の俳人 佐藤馬耳が入手して享保4年(1719)ここに埋めて塚を築いたものです。宿場内を進むと少し先で奥州街道と羽州街道の追分となり奥州街道を進むと、やがて町並みは途絶えて田園地帯となります。奥州街道は、やがて国道4号線に合流します。上野台体育館を過ぎた左手に「弁慶の硯石」の案内板を見つけましたので寄道しました。この地は源義経にもゆかりの深い場所で、逃避行後に平泉にいた義経を鎌倉からの再三の求めに怯えた藤原泰衡は義経を討つが、その3ヵ月後には鎌倉の源頼朝の軍勢が奥州を攻め、その時奥州平泉勢が厚樫山(阿津賀志山)(あつかしやま)中腹から「『防塁」を築いたのが現存しています。厚樫山は国見峠の別名で防塁を築いたので「伊達の大木戸」と呼ばれました。両者はここ阿津賀志山の麓で戦い、結果、奥州藤原家は滅亡しました。再び国道4号線に戻り国見町立県北中学校の先のY字路を右手に進み橋を渡った先の十字路を左折して国道4号線のガードを潜って進むと、その先に国見神社へ登る階段が現れ、さらに進んでいくと右手に「義経の腰掛け松」が現れます。金売り吉次の手引きで平泉に下向する途中の義経が、ここで松に腰掛けて休んだという松だそうです。初代の松の根本はお堂の中です。再び国道4号線に戻り先に進むと、仙台方向に向かっては見落としがちですが、吉田果樹園の直ぐ先に「国史跡 阿津賀志山防塁」の標識の出ている所から入ります。防塁跡のすぐ手前が国見峠で「旧奥州道中国見峠長坂跡」の説明板があります。坂を下って国道4号線に戻り、県境を越えて馬牛沼から山間を緩やかに下って行くと「鐙摺(あぶみすり)坂」という標識があります。昔は、鐙が摺れるほどの険しい道だったので鐙摺坂と言ったそうです。山の斜面には碑がたくさん置かれており、やがて田村神社に着きます。この神社の境内に甲冑堂と言う中に甲冑姿の女性像が二体安置されている六角形の立派な御堂があります。これは義経の家来として活躍し討ち死にした佐藤継信・忠信兄弟の妻であると言われていますが、生々しい彩色の像の様ですが外からはうかがう事ができませんでした。芭蕉が実際に二人の像を見て感動したのは、福島県・医王寺のそれではなくここ宮城県・白石市の像であると言うのが定説のようです。甲冑堂の先で、道は斎川宿に入って行きます。宿内に崩れかけた塀と門に囲まれている検段屋敷跡が現れ、屋敷内には明治天皇の小休所の石碑が立っています。国道に出て、新幹線の高架をくぐると東京から301kmの標識があり、やっと300kmを越えて白石に入ります。芭蕉らは一泊していますが、どこに泊まったかは不明です。
旧伊達郡役所 法円寺の芭蕉「田植え塚」
法円寺の芭蕉像 弁慶の硯石
義経の腰掛け松 阿津賀志山防塁への案内板
阿津賀志山防塁跡 「鐙摺(あぶみすり)坂
田村神社 田村神社の甲冑堂
Netで入手した甲冑堂内の佐藤兄弟の妻の写真 検段屋敷跡
2012年07月23日 郡山 -日和田 -二本松 -福島 (郡山から46.7Km/深川から410.9Km) 
郡山宿は、戊辰戦争で町の8割りが焼けたと言われています。日和田への道は国道355号線で途中には街道の雰囲気が漂う松並木の名残の松が点々と現れて、やがて東北本線の線路を陸橋で越えると日和田。町の少し先に万葉の古代から歌に詠われた代表的な歌枕の一つ「安積山(あさかやま)」があります。現在は、安積山公園として整備されており、芭蕉もこの地を訪れ、「花かつみ」と云われるヒメシャガを探したが、見つけることなく、失意の内に二本松までやってきた芭蕉は、ここで市内の観光もせずに、宿場を素通りして安達ケ原へ直行しましたが、現在は芭蕉訪問300年記念の1989年にヒメシャガが植樹されていたり、公園にも芭蕉の小径や奥の細道文学碑が整備されています。道はやがて広い国道4号線に合流した少し先に長大な陸橋が架かっており、この安達ヶ橋は国道と東北本線の線路を越え、更に阿武隈川を渡って対岸につながっています。この橋を渡って少し行ったところに謡曲や歌舞伎の鬼女伝説で有名な安達ケ原の「黒塚」があります。芭蕉も舟で対岸に渡り、ここを見物していますが、ほとんど様子を書かずに去っていますが、曾良が詳しく記録しています。この黒塚から100m程離れた観世寺境内に鬼がこもった岩屋がありますので拝観料400円を払って見てきましたが境内には真偽の程はともかく芭蕉が腰をかけたと言う休み石もありました。八軒町の左手に高村智恵子の生家である造り酒屋が現れ裏手には智恵子記念館がありますが時間がないので入館しないで先に進むことにしました。県道114号線が左に分かれてゆくので、この陸羽街道を暫く進んで行くと信夫橋が現れる。信夫橋を渡ると、その先はいよいよ福島宿です。かって信夫橋のたもとにあった昔の道標は現在、近くの福島一中の北側の校庭の隅に移設されていました。
松並木の名残の松 植樹された「花かつみ」ヒメシャガ
安積山公園の芭蕉の小径 安積山公園の奥の細道文学碑
安達ケ原の「黒塚」 観世寺
笠石(鬼女がこもった岩屋) 芭蕉が腰をかけたと言う休み石
高村智恵子の生家である造り酒屋「花霞」 高村智恵子の生家と智恵子記念館
2012年07月23日 白河 -矢吹 (白河から15.7Km/深川から328.1Km 
忘れていた訳ではありませんが、8ヶ月ぶりに奥の細道紀行を再開しました。今まではテクテクと芭蕉の歩いたみちを追体験しながら歩いて来ましたが、季節を考えたり、天気の良い日を選べば暑いし、芭蕉も馬に乗ったりしたなあ〜と、、、色々考えて、ここから先は暫くは、現代の馬である125ccのバイクに乗って奥の細道を行くことにしました。折りしもパナソニックが出した歩行、自転車、車で使えるポータブルナビを装着すると芭蕉の訪れた史跡・旧跡・寺院などの案内が便利になりました。白河から陸羽街道を進み矢吹町に入る手前の五本松の松並木の続く旧道は昔の面影がよく残されている。この松並木は、時の白河藩主・松平定信が領内の街道に松苗2300本を植えたのが始まりだとされています。現在五本松にある松並木は明治18年(1885)頃補植したものだそうで、松並木は約800mくらい続いています。芭蕉らは矢吹に泊まったが、どこに泊ったかはわかりません。
2012年07月23日 矢吹 -久来石 -笠石 -須賀川 矢吹から10.4Km/深川から338.5Km) 
矢吹駅前通りの交差点を越え、福島銀行のとなりにある豪邸は、慶応元年(1865年)創業の造り酒屋「大木代吉本店」です。そこから更に100m位進むと左手に遠藤精肉店が現れるが、その手前の広場の奥がかつては本陣だった佐久間家です。矢吹を発って、久来石(きゅうらいし)をすぎると笠石の宿場を通って行く。このあたりを鏡石または「かげ沼」ともいい、沼が多かった。その低湿地には古来から蜃気楼現象がまま起きていたことが伝わっています。芭蕉はそのことに興味があったらしいが見ることはかなわなかったようです。国道の標識に従い進んでみると沼らしきものは、ありましたが歌枕に詠われた影沼は現存していないそうです。須賀川に入り芭蕉と曾良は元禄2年4月22日から8日間、この地にあった相楽等躬(さがらとうきゅう)宅に滞在しました。芭蕉らは、郡山に向かう途中に名勝・石河の滝に向かいましたが、私は順路を考えて先に石川の滝(現在の乙字ヶ滝)に行きました。国道118号線を右に曲がりながら進むと乙字ヶ滝への案内標識が見えてきます。芭蕉がこの滝を訪れた時は折からの五月雨で阿武隈川は増水していたようです。「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」の句を詠んでいます。近くには瀧見不動堂や芭蕉と曾良の石像が建っています。須賀川宿内に入ると「軒の栗庭園」という小さな公園があり隣接して可伸庵跡もあります。片隅に東屋を設けて小さな坪庭が造られて風情があります。そこには芭蕉が詠んだ「世の人の見つけぬ花や軒の栗」の句碑があります。相楽等躬とは本名を相楽伊左衛門といい、問屋をしていたので商いで度々江戸に出ており、俳諧を通して知り合った仲と記されています。可伸庵跡から市役所通りに出てまっすぐに行くと市役所があり、その敷地内に拝見させてもらった芭蕉記念館(無料)があります。市役所前の案内板に従い芭蕉ゆかりの相楽等躬の墓のある長松院、神炊館(おたきや)神社や十念寺を訪れました。十念寺の境内には、芭蕉が須賀川での連歌の会で詠んだ、「風流の初(はじめ)やおくの田植え歌」の歌碑が建っています。
造り酒屋「大木代吉本店」 本陣跡の佐久間家
国道の「かげ沼」の標識 沼らしきもの
石川の滝(現在の乙字ヶ滝) 瀧見不動堂
芭蕉と曾良の石像 五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」の句碑
「軒の栗庭園」と隣接した可伸庵跡 「世の人の見つけぬ花や軒の栗」の句碑
芭蕉記念館 相楽等躬の墓のある長松院
相楽等躬の墓 神炊館(おたきや)神社参道
十念寺 「風流の初(はじめ)やおくの田植え歌」の句碑
2011年11月14日 那須 -漆塚 -黒田原 -芦野 -白坂 (那須から35.9Km/深川から294.1Km) 
芭蕉は、湯本に2泊してから旧暦4月20日に出立しました。一軒茶屋から左の漆塚(那須町寺子)を経て黒田原を通って芦野に至る道です。曾良日記によると朝霧が立つ中を五里の山道に難儀しながら芦野へ向かいました。この道の両側には鬱蒼とした森が今も続き、やがて道は東北自動車道の下をくぐり、JR東北線の黒田原駅の西の踏切をこえて大平を経て芦野宿に入ります。芦野から白坂までは奥州街道を歩きましたので芦野宿については奥州道中記の芦野宿の項を参照してください。宿内に昔の面影はあまり感じられませんが家々には往時の屋号や常夜燈が立っています。短い宿場町を出ると国道294号線沿いに無料休憩所の遊行庵が見えます。この裏手に、時宗の宗祖一遍上人(遊行上人)が旅の途中、遊行上人が使っていた柳の杖が根付いて柳になったとの伝説が残る場所で、芭蕉が傾倒する西行も訪れた遊行柳がありますので芭蕉の感激もひとしおだったと思います。田んぼの中の道を進むと那須湯泉神社参道脇の左手の玉垣に囲まれたのが「遊行柳」で、その傍らに芭蕉の「田一枚植て立去る柳かな」の句碑があります。対面の蛯フ木の脇には西行の歌碑と、蕪村の句碑もあります。遊行柳から峰岸の集落を過ぎ板屋に入り板屋の一里塚を後にして先に進むと旧道は再び国道294号線に吸収されます。坂道を上ると栃木県と福島県の県境です、かつての下野と陸奥の國境です、この国境をはさんで2社があり「境の明神」と呼ばれています。手前の栃木県側が玉津島明神、福島側の住吉神社は奥に宮があり狭いが立派な作りですが東日本大震災の影響で石灯篭、外柵や鳥居が倒れたりしていました。境内に「風流のはじめや奥の田うへ歌」の芭蕉句碑をはじめ多くの句碑があります。二つの明神の中間には県境の標識、崖の上には領界石があります。また、福島側の右手の崖の上には白河二所之関跡碑があります。坂を下ると左手に大木があり「衣がえの清水」の標識が立っています。弘法大師がここの清水で衣を濯いで着替えたとの伝説があり、芭蕉もここで休憩したという解説もあります。その先、右に行く旗宿道の別れ道まで芭蕉は、遊行柳を見たあと、ここまでは奥州道中をたどり、ここから右に折れて更に6.5Km先にある旗宿にある白河の関へ向かいました。イヤハヤ芭蕉さんの健脚ぶりには驚かされますが、私はここまでで今日はおしまいです。
東陽寺の山門 田んぼの道を進む那須湯泉神社参道
遊行柳 芭蕉の「田一枚植て・・」句碑
西行の歌碑「道の辺に清水流るる柳かげ・・・」 蕪村の句碑「柳散清水涸石処々」
柵が崩れた栃木県側の玉津島明神 鳥居の桟が落ちた福島側の住吉神社
「風流のはじめや奥の田うへ歌」の芭蕉句碑 境の明神碑
白河二所之関跡碑 衣がえの清水
2011年11月15日 白坂 -旗宿(白河の関跡) (白坂から6.5Km/深川から300.6Km) 
白坂駅から国道294号線に出て、境の明神方面に戻って少し行くと白河の関への案内標識がありますので山道を進み県道76号線沿いに進む旗宿(はたじゅく)へ着きます。ここで一泊した芭蕉ら二人は、翌日、旧暦4月21日、宿の主人に場所を尋ね、かつて白河の関があった場所を訪れます。歌枕で有名なこの関も平安後期には廃止されていたのを白河藩主・松平定信が寛政12年(1800)に「古關碑」を建て、この地を関所跡としました。白河関の跡には現在、白河神社が建っており道路から少し奥まって「史跡 白河関跡」の大きな石標と白河神社の狛犬が立っています。境内には古い和歌碑や加藤楸邨・碑文の「おくのほそ道白河の関文学碑」もあります。社殿では御札風の、「於くのほそ道詳譜」が\100で販売されていました、内容は白河の関までの「奥の細道」、曾良日記原文、行程略図ですので芭蕉ファンには、おもしろい内容です。隣接した関の森公園の一角に関所や周辺の建物などが再現されており、公園の広場に芭蕉と曽良のブロンズ像が卯の花の植栽の横に建っています。芭蕉の「奥の細道」の目的の第一は奥州へ足を踏み入れる、この“白河の関”を越えることでした。ここでの芭蕉の句はありませんがブロンズ像の台座に芭蕉と曽良の句が刻まれています。「 風流の初やおくの田植うた 芭蕉」と「 卯の花をかざしに関の晴着かな  曽良」です。   
「史跡 白河関跡」の大きな石標と白河神社の狛犬 古關碑
加藤楸邨・碑文の「おくのほそ道白河の関文学碑」 御札風の、「於くのほそ道詳譜」
関の森公園に再現された関所や周辺の建物 芭蕉と曽良のブロンズ像
2011年11月15日 旗宿 -関山 -白河 (旗宿から11.8Km/深川から312.4Km
旗宿を出て県道76号線を白河市街方面に進み、しばらくすると左側に桜の樹と「桜霊碑」が建っている所が「庄司(しょうじ)戻し」です。ここは治承4年(1180)、源義経が兄の挙兵を知って平泉から鎌倉に向かう途中、佐藤庄司基治がわが子、継信と忠信を、ここまで見送った場所です。やがて左前方に見えてくる小高い山が芭蕉らが登った満願寺のある関山ですが、寺は山火事で焼失したのと地元の方の話では登るのに片道40-50分かかるそうなので連日の疲れもあるので無理しない事にしました。そのまま76号線を進んで、享和元年(1801年)に松平定信により造園された日本最古の公園だという南湖(なんこ)公園に出ました。白河の町の中心に入る手前で白河市歴史民族資料館前の御斎所街道と232号線の交差点の先にある大谷菓子屋の横の小さな三角地帯にある連歌師・宗祇ゆかりの「宗祇もどし」の地に寄りました。ここには、いくつかの碑が集っていて道標には「右たなくら(棚倉) 左いしかハ(石川)」とあります。芭蕉句碑は読めませんが、説明板には「早苗にも我色黒き日数哉」と書いてありました。ここを直進して奥州街道(国道294号線)に再会です、ここから先はこの奥州街道を歩くことになります。今回の紀行はひとまずここまでで終わりです。駅に戻る途中で白河小峰城に寄りました、この城は1868年の戊辰戦争で城郭は失われましたが平成3年に復元した物ですが、ここも震災の影響で石垣が崩れて復旧工事中で立入禁止の状態でした。
「庄司(しょうじ)戻し」と桜霊碑 日本最古の公園・南湖(なんこ)公園
南湖神社 「宗祇もどし」の地
「宗祇もどし」の芭蕉句碑「早苗にも我色黒き日数哉」 白河小峰城
2011年8月30日 黒羽 -雲巌寺 往復 (黒羽から片道12.4Km/深川から226.5Km)
芭蕉は黒羽滞在中の最初の旧暦4月5日に、禅宗の日本四大道場(筑前の聖徳寺、越前の永平寺、紀州の興福寺に並んで)のひとつで、深川での知り合いの仏頂和尚が住んでいた庵跡のある雲巌寺を訪れました。私も芭蕉とは順序が異なりますが今日は雲巌寺を参詣して帰途に着く予定です。雲巌寺は、2007年11月に坂東三十三観音巡りで八溝山日輪寺を訪れる途中に初めて来ましたが、紅葉の美しい禅寺で普段は非常に静かな寺です。山門の正面にある朱塗のそり橋を渡り、石段を登ると山門があり、釈迦堂、獅子王殿が正面に一直線上に並んだ代表的な伽藍配置です。ここには芭蕉が詠んだ「木啄も庵はやぶらず夏木立」の句碑が山門左手にあります。仏頂和尚の山居跡は本堂の裏にあるようですが、立入禁止で近づくことはできません。帰りは同じ道なので太田原市営バスに乗り雲厳寺から旧黒羽町役場まで約30分程楽をさせていただき帰路に着きました。
おくの細道道標 路傍の石仏群
雲巌寺・山門 「木啄も庵は・・・」の句碑
釈迦堂 獅子王殿
2011年8月08日 鹿沼 -文挟 -板橋 -今市 -日光 鹿沼から28.1Km/深川から146.8Km) 
鹿沼の次の文挟(ふばさみ)宿の手前の富岡を過ぎると日光壬生道杉並木が始まります。これは武州川越城主、松平正綱、信綱親子が寛永二年(1625)から二十数年をかけ紀州熊野から取り寄せた杉の苗を植えたものです。文挟(ふばさみ)宿入口には延命地蔵尊が鎮座しています。道は今市の手前の追分地蔵尊の先でで日光道中と合流します。今市の瀧尾神社の先から再び杉並木に入ります。 芭蕉らは東照宮への参詣の後、この日は門前町上鉢石(かみはついし)の五左衛門という旅籠に宿泊していますが、場所は不明です。東照宮を賛美した「あらたふと青葉若葉の日の光」の句碑は東照宮宝物館の入口にあります。翌日には、裏見の滝を見学し「暫時(しばらく)は滝に篭(こも)や夏(げ)の初(はじめ)」と詠みました。私が訪れた時は豪雨の後で裏見の滝の駐車場から滝に通じる遊歩道は進入禁止でしたので滝全体を見ることは出来ませんでしたが、この句碑は安良沢(あらさわ)小学校校舎前にあります。その近くの大谷(だいや)川に臨む大日堂跡にも「あらたふと・・・」の句碑があります。滝見の帰りには弘法大師が書いたとされる「憾満(かんまん)」の梵字が刻まれた含満ヶ淵(がんまんがふち)へも訪れています。今は大日橋を越えて遊歩道で簡単に行けます。
杉並木 文挟(ふばさみ)の延命地蔵尊
追分地蔵尊 東照宮
裏見の滝(遊歩道入口から) 「暫時(しばらく)は滝に・・・」の句碑
大日堂跡の「あらたふと・・・」の句碑 大日堂跡
含満ヶ淵 含満ヶ淵
2011年8月28日 今市 -大渡 -玉生 -矢板 -大田原 (今市から41.1Km/深川から191.9Km) 
多少涼しくなりましたので再びスタートです。日光からの芭蕉の歩いた道は、はっきりしないのと、今夜の宿泊を太田原に予定していますので少しでも距離を短縮するために、彼とは若干異なりますが今市から国道121号線の会津西街道、大谷向から国道461号線の日光北街道に入り芹沼の集落に入ります。芹沼浅間神社の厄払い大草鞋に旅の安全祈願をして先に進むと大渡の集落に入り、少し先の大渡橋で鬼怒川を越えると塩谷町に入ると地名は「船場」。この大渡橋の手前に「船場亭」という茅葺屋根のレストランがあり「鮎の塩焼き」の幟が遠くからよくみえます。川には隣接して鮎のヤナ場もあり風情ある情景を醸し出しています。芭蕉が玉生(たまにゅう)で宿泊したのは名主(庄屋)玉生氏の屋敷でした。芭蕉一宿の跡の案内があったので美容院横の路地に入ると、行き止まりの荒れた小広場の左の藪の中に「芭蕉一宿之跡」と刻まれた石碑がありましたが、たまたま裏に出ていた美容院の御主人が本物の碑は右側の荒れたヤブに囲まれた屋敷跡の中にある事を教えてくれました。屋敷跡に入って見ると、庭先に曽良随行日記の抜粋や謂れが刻まれた「奥の細道 芭蕉翁の遺跡」の碑が在りましたが、どちらも比較的新しい碑でした、、。芭蕉は一泊の後、玉生の宿を立って余瀬(黒羽)へ向かいます。途中の倉掛峠はかつては難所だったらしいが、広い国道で今は難なく越えてしまいます。幸岡の十字路を過ぎ 東北自動車道の高架をくぐると、前方には矢板の町が広がりを見せてきます。矢板の本町交差点横には旧材木問屋の矢板家住宅がどんと構えています。矢板の宿場があったという上町の通りを歩いてみるが米屋など数軒が昔風の店構えを残しているだけです。扇町の矢板中央高校手前に小さな朽ちかけた稲荷神社があって、その境内に由来はわかりませんが寛政3年(1791)の古い「原中や物にもつかす啼く雲雀」の芭蕉句碑があります。矢板本町付近の道路標識によると大田原まであと13Kmです。芭蕉らは道も整備されていない那須野原を行くのに、近くにいた農夫に頼んで馬を借りた時に、後を小さな子供が二人追ってきて、その一人に名を聞くと「かさね」と言いました。あまりにも名前が可愛いかったので、思わず曽良が「かさねとは八重撫子の名なるべし」と一句したためました。この曽良の句碑が「かさね橋」近くの沢観音寺の庫裏の裏庭にあるそうですが、この時は失念して「かさね橋」もバイパスしてしまい残念!!。この先はひたすら日光北街道を進み太田原に入ります。神明町交差点が、右からきた奥州街道の旧道との合流地点です。直進し国道400号線と合流する「金燈籠(かなどうろう)」交差点の左角に、この金属製灯籠がありました。やっと大田原に到着。ああ〜疲れました!!
後日談:見落とした矢板の沢観音と「かさね橋」を見に訪づれた時に、矢板の知人から長峰公園(長峰墓苑)の裏手の坂道を登った所に残る芭蕉の歩いた日光北街道(旧道)を案内してもらいながら歩いている途中に、街道沿いの自宅脇に芭蕉と曾良像を自作された方にお会いしました。この方は旧道を歩く方には必ず声を掛けて芭蕉や旧道の説明をして下さるようです。その後、沢観音寺で芭蕉句碑と「かさね橋」を見てきました。
芹沼浅間神社の厄払い大草鞋 船場亭
船場亭と鮎のヤナ場 玉生宿
玉生「芭蕉一宿之跡」の碑 「奥の細道 芭蕉翁の遺跡」の碑
矢板家住宅 原中や物に・・・・」の句碑
日光北街道(旧道)入口の案内板 自作の芭蕉と曾良像
沢観音寺の「かさねとは・・・」の句碑 「金燈籠」交差点の金属製の灯籠
2011年8月07日 小山 -惣社 -壬生 -楡木 -鹿沼 (小山から37.4Km/深川から118.7Km) 
日光道中歩きで小山から少し先の、喜沢の追分まで歩きましたが、奥の細道紀行では、ここで日光道中と分かれて壬生通り(日光西街道)を飯塚方向に進みます。芭蕉らが本来の日光道中から外れたのは、距離が6km程短くなる他に、「室の八島」が下野(栃木)を代表する歌枕だったからでしょう。、「室の八島」は惣社町にある大神(おおみわ)神社のことです。飯塚を過ぎて思川を大光寺橋で渡り「関東ふれあいの道」道標に従って進むと大神神社参道に入ります。境内の林の中の、こんもりした島に高名な神社のミニ屋代が八社祀られています。また八島の入口には「糸遊(ゆう)に結びつけたる煙哉(けふりかな)」の句碑があります。本殿の左にある裏参道を出て、壬生を経て楡木の入口で日光例幣使街道と合流し北上します.。源義経ファンである芭蕉は、途中の壬生町上稲葉の交差点先右側のセブンイレブン横の水田の中にある金売り吉次の墓を訪れています。鹿沼では石橋町の足利銀行の信号で左に折れると東武日光線のガードがあります。芭蕉が宿泊したと伝えられる曹洞禅寺・光太寺は、このガード先に見える小高い山の中腹にあります。本堂の左側の小高く盛られた塚上に「芭蕉居士 嵐雪居士」と彫られた墓碑が建っています。この塚は、芭蕉の死後、寺に残された芭蕉の破れた編笠を埋めて供養した「笠塚」といわれています。その先の鹿沼郵便局の裏にある今宮神社には「君やてふ我や荘氏(ぞうじ)の夢心」の句碑もあり、鹿沼は蔵造りの家が多く残る町です。
大神(おおみわ)神社 大神(おおみわ)神社の八島
八島「糸遊(ゆう)に結び・・・」句碑 壬生・松本脇本陣門
壬生・石崎家長屋門 金売り吉次の墓
「右中仙道・左江戸道」追分道標 鹿沼・光太寺
光太寺の「笠塚」 今宮神社
2011年6月10日 粕壁 -杉戸 -幸手 -栗橋     (粕壁から21.1Km/深川から59.1Km) 
2011年6月19日 栗橋 -古河 -野木 -間々田 -小山 (栗橋から22.2Km/深川から81.3Km) 
粕壁を出て、新町橋で大落古(おおおとしふる)利根川を渡ると史蹟小渕一里塚跡碑があります。その先のY字路には「左日光道」と刻まれた追分道標に従い進むと国道4号線に合流します。街道沿いにある小渕観音院の楼門(仁王門)は元禄2年(1689)の建立で、境内には「ものいへば唇寒し秋の風」の芭蕉句碑があります。これは、「人の短をいふ事なかれ己が長をとく事なかれ」という座右の銘に添えられている句で、人の短所を言ったあとは、むなしい気分になることから転じて、よけいなことを言うと、そのために災いを招くという教訓です。栗橋にある利根川の関所は曾良の「旅日記」には「手形モ断りモイラズ」とあるように僧形の男子は簡単に通行手形のチェックも無く通行出来たようです。厳しかったのは「入り鉄砲、出女」のようでした。利根川を越えた先の中田宿の光了寺には文化14年(1817)に建てた「いかめしき音やあられのひのき笠」の句碑があります。途中の野木宿の法音寺には安永9年(1780)に建てた「道のべのむくげは馬に喰われけり」の句碑があります。二句ともに「野ざらし紀行」に向かった時に創られたものですが、特に「道のべの・・・」句は東海道中の難所、小夜の中山峠の馬上で創られ、その当時、評判になったそうです。芭蕉らは小山の一つ手前の間々田に二泊目の宿を取りましたが、宿泊場所は不明です。
小渕観音院の仁王門 小渕観音院「ものいへば・・」句碑
中田宿の光了寺 光了寺「いかめしき音や・・・」句碑
野木宿の法音寺 法音寺「道のべのむくげは・・・」句碑
2011年6月10日08:15 越谷 - 粕壁(春日部) (越谷から11.1Km/深川から38.0Km) 
前回の続きを越谷駅前から始めます。門弟・河合曾良の日記によると旧暦三月二十七日に粕壁(春日部)の東陽寺に泊まったと記されています。このお寺の山門脇には新しい物ですが「伝芭蕉宿泊の寺」と記された標柱が建てられています。また境内には日記の抜粋で、「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」と刻まれた碑があります。千住まで船旅とは言え一日で9里(約36Km)の歩行は芭蕉さん一行はけっこう健脚な方だったようです。そう言う私も今日は越谷から栗橋まで32.2Kmを歩きました。
東陽寺の山門 「伝芭蕉宿泊の寺」碑
「廿七日夜 カスカベ・・・・」碑 史蹟小渕一里塚跡碑
2011年6月04日14:30 草加 - 越谷 (草加から7.0Km/深川から26.9Km) 
千住を出発した芭蕉は日光街道を進み、初泊まり第一日目の宿を草加の地名が印象深いので創作的に草加としましたが、門弟・河合曾良の日記では粕壁(春日部)と記されています。河合曾良は長野の上諏訪生まれの元伊勢・長島藩士で医術の心得もあり、几帳面に旅日記をつけていました。草加の「おせん公園」には彼の銅像が、その先の望楼が見える札場河岸公園は綾瀬川船運の船着場があった所で芭蕉の草加の碑「その日やうやう早加といふ宿にたどり着きにけり」や銅像などがあります。道は綾瀬川沿いの往時には千本松原(草加松原)と呼ばれた松並木の遊歩道になります。日本の道100選に選ばれた約1.5km程続く道で矢立橋や百台橋等と芭蕉の句にちなんだ太鼓橋の跨道橋が架かっています。
日光街道道標 門弟・河合曾良の像
札場河岸公園の芭蕉像 千本松原(草加松原)
「月日は百代の・・・・」碑 「その日やうやう草加・・・」碑
2011年6月04日11:00 千住 - 草加 (千住から8.7Km/深川から19.9Km) 
松尾芭蕉は門弟曾良とともに深川から船でさかのぼり千住大橋あたりの橋戸河岸で船を降り、ここで見送りの人々と別れを惜しみ、旅路の一歩を踏み出しました。橋のたもとの大橋公園には奥の細道、矢立初の碑があります。ここから橋を渡って南に少し戻ると延歴15年(795)創建の素盞雄(すさのお)神社があります。ここの境内にある子育てイチョウの脇には文政3年(1820)建立の「千じゅと云所にて船をあがれば、・・・」で始まり「行春(ゆくはる)や鳥啼(とりなき)魚の目は泪(なみだ)」で結ぶ「旅立ちの句碑」がありましたが、200年近い風雪に耐えた傷みが激しく平成7年の御鎮座1200年祭に際して復刻した芭蕉句碑があります。足立市場の入口には「芭蕉旅たちの像」があり、宿場内の千住宿歴史プチテラス前にも「鮎の子の白魚(しらうお)送る別哉(わかれかな)」句碑がありますが、これは奥の細道には採択されませんでした。
千住の橋戸河岸 大橋公園、奥の細道の碑
奥の細道、矢立初の碑 素盞雄(すさのお)神社の子育てイチョウ
素盞雄神社の庭園 素盞雄神社の「行春や鳥啼・・・」の句碑
「芭蕉旅たちの像」 千住宿歴史プチテラス前の「鮎の子の白魚・・・」句碑
2012年9月07日 新庄 -本合海 -古口 -清川 (新庄から28.6Km/深川から887.6Km) 
芭蕉の歩いた順序とは異なりますが、最初に本日の目的である芭蕉も乗った最上川下りの為に乗船場のある古口に新庄発8:11の陸羽西線で向かい8:30に到着。ここには新庄藩の船番所が置かれていたので、今の乗船場も船番所を模した建物です。定期船は9:40の始発からほぼ1時間毎に出航しますが、始発に乗ります。出航まで時間が少しありますりますので船番所跡や売店の見学などをしてから乗船(乗船料・片道\1970)です。芭蕉らは、もっと新庄寄りの本合海の乗船場から舟上の人となり約24kmの船旅をしました。この船運は中世から開け、平泉に落ちる義経一行も船を使っていますし、義経ファンの芭蕉ですから、当時は最上川沿いには道も無かったので船下りは当然の交通手段でした。船下りは45名乗りの船外機付きの川舟に11名の乗客で草薙の下船場までの約12km、1時間の船旅は、周辺の山々を仰ぎ見ながら青葉の美しい雄大な最上峡の景観を楽しみ、船頭さんの解説や舟歌を聞きながらの、のんびりしたものでした。「五月雨を集めて早し最上川」の名句は、大石田の高野一栄宅での句「五月雨を集めて涼し最上川」を推敲したものと言われています。また「仙人堂岸に臨みて立つ」と芭蕉が記した、平泉に下る義経主従がここに立ち寄ったという義経ゆかりの仙人堂は中ほどの右岸に、石の鳥居と小さなお堂が建っています。歌枕でもある落差120mの「白糸の滝」は生い茂る木々に隠れて全体を見ることが出来ませんでした。この滝の少し先に、草薙の下船所があります。芭蕉はここから先の約5km下った清川で下船していますが、現在の船下りコースはここまでですので船を下ります。ここからの交通の便は悪くバスで近くの高屋駅か乗船した古口に戻るしかないようですが、私は、ひとり清川へと約4kmの道を歩きます。清川は往時、最上川の水駅として栄え、この地に清川関所がありました。関所跡は平成21年に廃校となった清川小学校の裏手になり「芭蕉上陸の地」碑と芭蕉像、加藤楸?筆の「五月雨を・・・」の句碑が最上川に面した小学校の敷地の一角に建っています。私は12:16清川発の陸羽西線に乗り芭蕉乗船の地である本合海大橋近くの「史跡芭蕉乗船の地」跡にもどり、源義経も芭蕉とは逆コースで川を上り、伏拝したと伝えられる矢向(やむき)神社等を見学しました。芭蕉は、清川に上陸した後、狩川を通って羽黒に向かいました。私は、今回の1泊2日の旅は、ここまでで新庄から山形新幹線で帰宅です。
芭蕉乗船の地である本合海の芭蕉・曾良像 「五月雨をあつめて・・・」の句碑
本合海の乗船地点 矢向(やむき)神社鳥居と、八向楯(やむきたて)の絶景
戸沢藩船番所を模した乗船案内所 船下りの船内
最上川芭蕉ライン舟下り船 最上峡
最上峡 NHKの「おしん」の撮影現場になった河原
経ゆかりの仙人堂 歌枕でもある落差120mの「白糸の滝」
清川への途中風景、稲田(手前)と蕎麦畑 全長229kmの最上川もあと27.8kmで日本海へ
清川の「芭蕉上陸の地」碑と芭蕉像、句碑 芭蕉ラインと呼ばれる陸羽西線「奥の細道」号
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2011年6月03日10:35 深川 - 千住 (深川から11.2Km) 
出立つの前に最初に訪れたのは、深川の芭蕉庵跡と言われている小さな芭蕉稲荷、すぐ近くの隅田川と小名木川の合流地点には芭蕉庵史跡展望庭園があり芭蕉像も置いてあります。ここから隅田川沿いに少し北上すると江東区芭蕉記念館があります。入口には旅立ちの句碑「草の戸も住み替る代ぞひなの家」や庭園の築山には、芭蕉庵を模したほこらと「ふる池や蛙飛こむ水の音」の句碑もあります。小名木川にかかる万年橋を渡り清洲橋通り沿いにある臨川寺へ向かいます。ここの本堂前には「芭蕉由来の碑」があります。芭蕉はこの寺の仏頂禅師と親交があつく、禅師が修業した栃木県・黒羽の雲願寺にある禅師の庵跡を寄道して訪れています。南隣には紀伊国屋文左衛門の屋敷跡で、その後岩崎弥太郎の別邸だった清澄庭園があります。清澄通りを南に進み仙台堀川に架かる海辺橋を渡ると右手に、芭蕉が旅立ちに際し芭蕉庵を売った後、過ごした門人の別荘であった採茶庵(さいとあん)跡があります。ここには杖を手に、出発しようとする芭蕉像があります。芭蕉は、ここから仙台堀川に浮かぶ船に乗り千住に向かい日光街道を北上しましたが、私は陸路を歩いて日光街道の出発地点の日本橋に向かいまして長〜い旅を始めます。
芭蕉稲荷 芭蕉庵史跡展望庭園
芭蕉庵史跡展望庭園の芭蕉像 江東区芭蕉記念館
「草の戸も住み替る・・・」句碑 芭蕉庵を模したほこら
「ほこら」の中の芭蕉像 「ふる池や蛙・・・」句碑
臨川寺「芭蕉由来の碑」と「墨直しの碑」 清澄庭園
2012年9月06日 大石田 -猿羽根峠 -舟形 -新庄 (大石田から22.5Km/深川から859.0Km) 
早朝に家を出て山形新幹線つばさ123号で大石田駅に10:34着。 前回の続きを、ここ大石田の最上川に架かる大橋から始めます。大橋付近の堤防は「大石田特殊堤防」と呼ばれる石積みの上に白壁の塀をめぐらさせて、舟運時代の趣を思い起こさせてくれる粋な堤防です。西部街道(県道305号線)を進み名木沢で羽州街道(13号線)に合流します。芭蕉らは、この辺から「七十七曲がり」と呼ばれた難所の猿羽根峠(さばねとうげ)を越えて新庄に入りますが、その道筋は現在では確認できませんが羽州街道の舟形トンネルを抜けた所の横に、猿羽根神社の石の鳥居が立っている道を戻る様に登って「さばね山公園」行くと頂上付近に残された峠の旧道に、「史跡羽州街道 猿羽根峠」の標識が、そして、その近くには一里塚跡もあります。頂上には猿羽根地蔵堂があり、手前には峠から眼下に見た最上川から着想した「風の香りも南に近し最上川」の句碑も立っています。再び、もと来た道を引き返し、国道に出て新庄に向かいます。その折りに、途中の鳥越八幡神社、鳥越の一里塚の先にある氷室清水(別名、柳の清水)で「水のおく氷室尋ねる柳かな」の句を詠んでいます。この句は、新庄の富豪渋谷風流宅を訪ね二泊した際の挨拶句になりました。また渋谷本家の風流の兄の渋谷重信宅では「風の香も南に近し最上川」の句を残しています。風流宅跡は商店街の森金物店前に、本家の渋谷重信宅跡は斜め向かいの山形銀行新庄支店前に標柱だけが建っています。新庄市民プラザ前にも「風の香りも・・・」の句碑があります。今日は新庄泊りです。
最上川の「大石田特殊堤防」(河原側) 最上川の「大石田特殊堤防」(土手側)
舟形トンネルを抜けた所の猿羽根峠へ入口 「史跡羽州街道 猿羽根峠」の標識
一里塚跡 「風の香りも南に近し最上川」の句碑
峠頂上から眼下の景色 頂上の猿羽根地蔵堂
鳥越八幡神社 鳥越の一里塚
氷室清水(別名、柳の清水)と芭蕉句碑 渋谷風流宅跡
渋谷重信宅跡 新庄市民プラザ前の「風の香りも・・・」の句碑
2012年9月18日 仙台 -岩切 -多賀城 -塩竃 仙台から21.7Km/深川から506.2Km
仙台見物を楽しんだ芭蕉らは翌日(5月8日)宿を出て東へ向かい塩竃街道の出発点である原町に入ります。街道は県道8号仙台松島線に合流し比丘尼坂を越えて七北田川に架かる今市橋を渡ると、正面に東光寺があります。そこから道なりに西に進むと右に入る細道があり、そこが「奥の細道」とよばれた道ですが昔の面影はまったく残っていません。東光寺山門入口には「おくの細道」と刻んだ大きな石碑が立つています。かっては、この付近の台ヶ原では笠や蓑の材料に使われていた菅(すが)が栽培されていて、ここの菅は有名で「十符の菅(とふのすげ)」として歌枕にもとりあげられていました。東光寺の少し先から塩竈街道の旧道を進んでゆくと、やがて道の脇に「多賀城跡」の標識が見えてきます。街道のすぐ右手脇に「壷の碑(つぼのいしぶみ)」として歌枕にもなっている多賀城碑がある。当時は露天でしたが、現在は小さな御堂に収められています。多賀城(政庁)跡は街道から少し左手に入ったところにあり、周囲には多賀城神社や陸奥総社宮、歌枕の。「浮島」もあります。芭蕉は一旦、塩竃の宿にチェックインしてから周辺の歌枕めぐりをします「野田の玉川」は塩竈街道を横切って砂押川に注いでいますが、コンクリート護岸に囲まれた細流でかつて歌枕の面影はありません、南に進み昔、安部貞任が恋人と待ち合わせた歌枕の「おもわく橋」を越えると旧道は川と離れて多賀城駅前に出ます。砂押川を鎮守橋で渡ると「末の松山」のある末松山宝国寺です。ここから少し南に下ると「沖の石」、ともに百人一首に詠まれている歌枕です。宿は仙台で世話になった北野屋加右衛門の紹介で塩竃神社の裏参道付近にあった法蓮寺門前の冶兵衛の旅籠でした。現在は参道登り口に芭蕉止宿の地碑の説明板があります。
東光寺山門入口の「おくの細道」碑 壷の碑(つぼのいしぶみ)の御堂
壷の碑(つぼのいしぶみ 多賀城跡
多賀城跡 多賀城神社
陸奥総社宮 多賀城廃寺跡
野田の玉川 現在の「おもわく橋」
末の松山 「沖の石」
塩竃神社の裏参道入口 芭蕉止宿の地碑の説明板
2012年9月15日 福島 -瀬上 -佐場野 -飯坂 (福島から20.4Km/深川から404.6Km) 
前回の続きを福島駅前東口広場に立つ芭蕉と曾良の像(これは白河の関、関の森公園の芭蕉・曾良像のミニ・レプリカです)の前から再開します。芭蕉は元禄2年(1689)5月1日に福島に着き一泊し、翌日には歌枕の信夫文知摺(しのぶもちずり)石を訪ねています。信夫(しのぶ)山という福島のシンボルとなっている標高272mの山があり、その頂上には長さ12m、幅1.4m、重さ2tもあるという「日本一の大わらじ」が奉納されている羽黒山神社がありますので芭蕉には関係ありませんが寄道してきました。国道4号線岩谷下交差点にある「文知摺観音」の標識に従い、そこを右折して文知摺橋で阿武隈川をわたると突当たりの小山のふもとに文知摺観音(拝観料400円)があります。境内に入ると門の前に芭蕉像が建てられています。百人一首で有名な信夫文知摺石がここにあります。
かってこの地が忍摺(しのぶずり)と呼ばれる、綾形石の自然の石紋や綾形の模様の表面に忍草など、さまざまな草を置き、その上に布を覆いかけて平らな石で摺る版画のような方法で葉や茎をすりこんで緑色に染める方法で、まだら模様のある絹地「しのぶもちずり絹」の産地として都人に絶賛され、摺石はそのために用いた物でした。ところが、芭蕉が訪ねた頃には、その技法は既に途絶えていたらしく、目にしたものは谷に突き落とされ模様のついた表が下を向いた石でした。「さもあるべきことにや」と落胆した芭蕉は、田で早苗を植える乙女の手つきに、しのぶ摺の手つきを重ねて、その心を「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」の句にしました。文字摺観音の前から前畑方面への道を北へ進み「月輪渡し」で芭蕉らは阿武隈川を越えましたが、今は月の輪大橋で川を渡り奥州街道・瀬上宿で県道153号線が左に分かれてゆく通称米沢道と呼ばれた道をまっすぐに進みます。芭蕉は源義経の大ファンだったようで、義経の足跡を一生懸命追っかけています。又、義経に劣らず、平泉の藤原秀衛に仕える、その忠臣佐藤親子にも熱い想いをいだいていたので佐藤一族が菩提寺としている医王寺を訪れ「笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)」と詠んでいます。句碑は寛政12年(1800年)10月に建てられたもので右側に新しい句碑もあります。芭蕉はこの後、佐藤庄司基冶の居館・大鳥城跡に立ち寄ってから飯坂の温泉街に入りました。温泉街の中ほどに鯖湖(さばこ)神社いう小さな神社があり、鳥居の脇に「飯坂温泉発祥の地」の碑が建っています。神社の裏手に鯖湖湯という板壁の古い共同風呂があります。歴史的には、松山の道後温泉の「坊ちゃんの湯」よりも歴史は古いですが、今の建物は平成5年に改築され新しくなりました。近くには江戸時代から続く国登録有形文化財の立派な土蔵造りの「なかむらや旅館」があります。鯖湖神社前の広場には足湯「あ〜しあわせの湯」や武家の堀切邸もあります。新十網橋の先に「俳聖松尾芭蕉ゆかりの地」の碑のある川に下る細い道の階段をおりると「芭蕉の碑」に「其夜飯坂にとまる・・・・」の一節が刻まれていますが、ここはもともと「滝の湯」と言う共同浴場があった場所で、解説板によると長らく芭蕉と曾良が入浴した跡地とされてきましたが研究が進み、入浴したのは「滝の湯」ではなく鯖湖湯あるいは当座湯の見解が有力であるそうです。この川に沿って右に行くと飯坂温泉駅前に着き、広場には芭蕉の銅像がたっています。
福島駅前東口広場に立つ芭蕉と曾良の像 「日本一の大わらじ」が奉納されている羽黒山神社
文知摺観音の芭蕉像 「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」の句碑
信夫文知摺(しのぶもちずり)石 文知摺観音多宝塔
文知摺観音堂 阿武隈川に架かる月の輪大橋
笈も太刀も五月にかざれ帋幟の句碑 医王寺薬師堂脇に佐藤夫妻、兄弟の墓がある
継信・忠信兄弟の墓 大鳥城跡
大鳥城跡からみた飯坂温泉街 鯖湖(さばこ)神社
鯖湖(さばこ)神社と「飯坂温泉発祥の地」の碑 鯖湖湯
土蔵造りの「なかむらや旅館」 足湯「あ〜しあわせの湯」
「俳聖松尾芭蕉ゆかりの地」碑 飯坂温泉駅広場の芭蕉像
出展:大垣市観光協会パンフレット
採茶庵(さいとあん)跡の、出発しようとする芭蕉像
芭蕉庵史跡展望庭園の芭蕉像
和風旅館
2012年7月28日 立石寺 -楯岡 -本飯田 -大石田 (立石寺から43.2Km/深川から836.5Km) 
芭蕉らは5月28日山寺・立石寺から羽州街道を北上して前日と同じ道を土生田で左折して佐竹道を通り大石田にの高野一栄宅に着き2泊しています。一栄は本名高野平右衛門で尾花沢の清風と交流のあった舟問屋です。ここでは大石田の名主・高桑川水や高野一栄に乞われて「五月雨をあつめて涼し最上川」を発句とする歌仙を興行しました。高野一栄宅跡には、この歌仙碑があります。翌日は二人に誘われ対岸にある600余年の法灯を伝える向川寺に参詣しています。一栄の墓のある西光寺には山門に仁王像が立っていますが、この顔の赤鬼風のユーモラスさに思わず和まされました。ここ西光寺にも明和6年(1769)に建てられた「五月雨をあつめて・・・」の句碑がガラスで覆われ大切に保存されていますが、今は昭和50年に建てられた芭蕉句碑と地元の土屋只狂を中心とする俳諧の結社名で、「暁花園社中」の優れた俳人・田中李兮の天明5年(1785)の句碑、土屋只狂の晩年の句で、只狂が没した寛政元年(1789)に暁花園社中が陰刻したものが並んで建っています。町の南東の乗舩寺(じょうせんじ)には高桑川水の墓が、その近くには最上川に架かる大橋があります。翌日は月が改まり6月となり芭蕉らは新庄に向かいます。私は、今回はここまでで帰宅します。
高野一栄宅跡の歌仙碑 向川寺
西光寺の仁王門 西光寺の仁王さん
西光寺・本堂 西光寺の「五月雨をあつめて・・・」の句碑
左から李兮の句碑、芭蕉の句碑(新碑)、只狂の碑 乗舩寺
2012年7月27日 尾花沢 -楯岡 -天童 -立石寺 (尾花沢から29.5Km/深川から793.3Km) 
尾花沢では、梅雨本番でスッキリしない天候が続きましたが5月27日は天候がよく、芭蕉らは勧められて予定に無かった山寺・立石寺に向かいます。清風の好意で馬に乗り羽州街道を南下します。私も同じく羽州街道(県道120号線)を下り途中の天童公園や旧東村山郡役所資料館などに寄りながら進みました。山寺への道は、当時紅花が一面に咲き誇り、「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」と「行く末は誰が肌ふれん紅の花」の名句を残しています。資料館の横が念仏堂跡で、ここに「行く末は誰が・・・」の句碑があります。右折して北目道に入り少し行くと古い道標がありますので、そのまま進み国道13号線の手前にある芭蕉も休んだと伝えられる休石(やすみいし)に寄りました。国道13号線を越えて旧山寺街道を進むと石倉には加藤楸?筆の芭蕉句碑「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」があります。立石寺は、一般に山寺と呼ばれ貞観2年(860年)に天台宗の僧、慈覚大師円仁により開基されています。山寺は登山口正面の比叡山延暦寺に倣ったという根本中堂から始まります。すぐ横には嘉永6年(1853年)建立の「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」の句碑、その先に芭蕉と曾良の像が顕彰碑を挟んで立っています。山門から先は奥の院への参道で約800段余りの階段が続きますが入山料(¥300)が必要です。250段程登った所には「蝉塚」がありますが文字は風化してほとんど読めませんが、もちろん、これも「閑(しずか)さや・・・」です。仁王門を経て奥の院大仏殿に到着します。舞台造りの五大堂からは眼下の眺望が楽しめます。約2時間の見物でしたが、芭蕉らも到着してその日の内に山内を拝観し宿坊に泊まりました。
天童公園の将棋のモニュメント 旧東村山郡役所資料館
念仏堂跡の「行く末は誰が肌ふれん紅の花」の芭蕉句碑 北目の古い道標
休石(やすみいし)と寶地蔵 石倉の「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」句碑
山寺の登山口正面 根本中堂
「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」の句碑 芭蕉と曾良の像
「涼しさを我宿にしてねまる也」の芭蕉句碑 納経堂(左)と開山堂
奥の院 五大堂からの眺め
2012年7月27日 堺田 -笹森 -関谷 -尾花沢 (堺田から28.3Km/深川から763.8Km) 
5月17日に芭蕉らは荷物もちを兼ねた屈強な案内人を雇い、いよいよ奥羽山脈を越えます。しかし現在、封人の家から山刀伐峠(なたぎりとうげ)入口までの昔の道はほとんど不明です。明神橋で国道47号線と別れて赤倉温泉へ入っていきます。山刀伐峠は標高470m、昔は山賊なども出没したのでしょうか、芭蕉は「今日こそ必ずあやふきめにもあふべき日なれと」決死の覚悟で峠越えをしますが、今は県道の山刀伐峠トンネルの入口には歴史の道の標識があり山頂まで道が整備されています。かっては山刀伐二十七曲がりと呼ばれた難所ですが旧県道は車で通行できます。頂上には「子持ち杉」と「子寶地蔵」があり、その背後には加藤楸?筆の奥の細道文学碑もあります。峠から旧道を下り県道28号線と合流した後、県道を口留番所のあった関谷を過ぎると谷は徐々に開け、尾花沢へ向かいます。奥の細道で栃木県黒羽に次いで長期滞在した尾花沢では、旧知の紅花の大規模な買継問屋である豪商の鈴木清風と養泉寺に併せてで5月17日から26日までの10泊しました。その清風邸跡に隣接して芭蕉・清風歴史資料館があり、内部も公開しています(入館料¥200)。ここでは封人の家からあつみ温泉までの山形県内全域をカバーした「おくのほそ道歩くマップ5部冊」を頂き、その後の紀行に大変役立ちました。もう一ヶ所の養泉寺に芭蕉らは7泊過ごしました。これは気兼ねなく長旅の疲れを癒してもらうという清風のはからいによるものでした。境内の覆堂の中には丸い自然石の「涼しさを我宿にしてねまる也」の芭蕉句碑があり、芭蕉にちなんで「涼し塚」と言われます。清風の墓は、彼が再建した念通寺にありますが、特別の墓ではなく骨堂に合葬したもので彼の人柄が偲ばれます。
赤倉温泉 山刀伐峠(なたぎりとうげ)越えの歴史の道・道標
頂上の「子持ち杉」と「子寶地蔵」 加藤加藤楸?筆の奥の細道文学碑
県道28号線との合流地点 関谷の口留番所跡
芭蕉・清風歴史資料館 芭蕉・清風歴史資料館内部
養泉寺 養泉寺の「涼し塚」には芭蕉句碑があります。
「涼しさを我宿にしてねまる也」の芭蕉句碑 清風の墓がある念通寺
2012年7月27日 岩出山 - 鳴子 - 尿前の関 - 堺田 (岩出山から31.1Km/深川から735.5Km) 
芭蕉らは翌15日に、小雨の中を岩出山を出て江合川に沿って池月をへて、途中にある小黒崎(おぐろざき)、美豆(みづ)の小島の二つの歌枕の地に寄りましたが、私は失念して小黒崎を忘れてしまいました。案内板に従い47号線を左に入る細道があり道なりにたどっていくと江合川の川原に「美豆の小島」と言う川中にある岩島のその上に生えている松の風情がひとしおであると愛でられた歌枕があります。更に47号線を進み日本こけし館を過ぎて奥の細道道標に従い右折して下っていくと尿前(しとまえ)です。関所を模して復元した門と柵が見えてきます。この門を入ると小さな公園になっており、奥に芭蕉の像や文学碑が立っています。門を挟んで反対側には明和5年(1768年)の古い芭蕉句碑「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと」が建っており、その奥に小さな祠があります。その先すぐに旧街道の入口があり「出羽街道中山越」の標識と説明板が立っています。このあたりの旧出羽街道は芭蕉当時の雰囲気が最も残っている道ですが、バイクでは無理なので諦めて国道にむかいます。小深沢や大深沢の谷を越える出羽街道中山越の最大の難所について芭蕉も曽良もほとんど記録に残していません。関所でいじめられ、何回もの険しい上り下りで心身ともに疲労困憊し、かなり疲れていたようです。国道に出て暫く行くと宮城と山形の県境を越えた所が堺田(さかいだ)で右手に代々の庄屋の旧有路(ありじ)家住宅、通称「封人(ほうじん)の家」といわれる建物が残っています。母屋は江戸時代初期の建物と推定され、まさしく芭蕉が泊まった家です。芭蕉が泊まった家がそのまま残っているのは、「奥の細道」の行程でここだけだそうです。入館料¥250で内部は一般公開されています。中は人馬が一つ屋根で暮らす造りになっており馬具なども展示されています。「蚤虱(のみしらみ)馬の・・・」句碑も建物の左手にあります。芭蕉らは翌日が一日雨で、ここに二連泊しました。
鳴子のこけし像寺 、美豆(みづ)の小島の説明版
美豆(みづ)の小島 尿前(しとまえ)の関、関所を模して復元した門と柵
芭蕉の旅姿像 奥の細道文学碑
芭蕉句碑「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと」 大深沢の谷
「封人(ほうじん)の家」(旧有路(ありじ)家住宅) 「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと」の芭蕉句碑
2012年7月26日 一関 - 岩ヶ崎 - 真坂 - 岩出山 (一関から45.4Km/深川から704.4Km) 
芭蕉は平泉に多くの感慨を抱いて5月14日に一関を後にして岩ヶ崎、金成、迫を通っていく願成寺を基点とする「はさま街道」(上街道)を行きますが、芭蕉らが実際にどこを通ったのかは不明な点が多いです。国道342号線(一関街道)を仙台方向に少し戻り台町の旧道に右斜めに入る細道(車両進入禁止でしたので、その先で右折)を進み国道4号線、東北自動車道をくぐり一関カントリーの入口前の道を進み吉目木坂の標識と数基の石塔をこえると、再び宮城県に戻りさらに進むと小さな川が流れており、橋の脇に「芭蕉行脚の道 赤児大橋」の標識が立っています。この先から県道182号線(松山街道)に出ると金成町教育委員会の「芭蕉行脚の道」の説明版があります。道は岩ヶ崎高校の前を通って県道17号となり島巡橋で二迫川を渡ります。栗原市一迫の龍雲寺には、伊達騒動で有名な正岡の墓があります。街道は堂の沢から天王寺一里塚まで、県道17号の北方に旧道が断続的に残っていて、旧岩出山町(大崎市)はこれらの旧道(陸奥上街道)を昭和53年(1978)から4年にわたり「歴史の道」として整備・保存事業を行なったそうです。しばらく行き千本松長根入口の案内板に従い石畳を上がっていくと、杉のように真直ぐに伸びた姿勢のよい見事な赤松並木が現れます。この道は源頼朝も通ったという古道だそうです。芭蕉らは上街道の終点天王寺追分に出て、ここから小黒崎・美豆の小島に寄ろうと鳴子方面に歩をすすめましたが日が暮れて引き返し、岩出山に泊まることにし一般旅人の旅籠と定められていた仲町交差点北東角の交番あたりの石崎屋に元禄2年(1689)5月14日に一泊しました。街中のJR有備館駅前には藩校の有備館が残っていて、木立を縫って回遊が出来る庭園があります。
願成寺 金成町教育委員会の「芭蕉行脚の道」の説明版
龍雲寺、伊達騒動で有名な正岡の墓があります 陸奥上街道の案内板
千本松長根入口の案内板 千本松長根赤松並木
仲町交差点の芭蕉像 藩校の有備館
2012年9月19日 松島 -高木 -小野 -矢本 -石巻 (松島から29.6Km/深川から518.0Km
松島から石巻に至る石巻街道(金華山道)は、仙台〜塩釜〜松島〜石巻を経て金華山大金寺に至る参詣道でした。現在、この芭蕉の歩いた石巻街道はほとんど国道45号線と重なっていて歩くにはあまり面白いとはいえない道です。しかし並行する海岸沿いの道は、東日本大震災の爪あと、瓦礫、行き交うダンプの撒き散らす砂埃で大変な有様なので45号線を進みます。JR仙石線も高城町から先は運休でバスでの代替輸送の状態です。この日は強風注意予報が出ていまして鳴瀬川に架かる鳴瀬大橋を渡るときは突風に吹かれて往生しました。小野から次の宿場矢本をへて石巻に向かいます。石巻は江戸時代、南部藩、伊達藩、一関藩、八戸藩の米の積出港として旧北上川の河口に開けた港町で石巻から江戸まで千石船が米を運んだそうです。河口をみおろす小高い丘は、鎌倉・室町時代の葛西氏が城を構えた石巻城址で、現在は日和山公園となっています。 山頂には鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)のほか、神社の境内の松の木の根本にに延享5年(1748)3月建立の「雲折々人を休める月見かな」の芭蕉の句碑があります。公園内には奥の細道ゆかりの地として芭蕉と曾良の像が建っていて、その台座には奥の細道の道程と石巻の段が描かれています。公園の展望台から眺めると旧北上川川の中瀬にドーム型の建物「石ノ森漫画館」が見えます。この中瀬の手前は東日本大震災の津波で建物がさらわれて空き地になっています。漫画館の左手の緑地が住吉公園で、芭蕉らが参詣した住吉の社と呼ばれた大島神社は左手奥に有ります。赤い橋が架かった小さな島は御島(おしま)で、その北の端にある小さな岩が、水を渦巻く様子から石巻の地名の由来になったという「巻石」です。ここが歌枕の「袖の渡り」で石碑が立っています。 義経が奥州下向の際、船賃のお金が無く代わりに立派な小袖の片袖をちぎって渡した事からその名がついたと言われています。袖の渡りを見た後、芭蕉らは宿に入りました。宿泊した場所は現在石巻グランド・ホテルになっている敷地にあった「四兵へ」宅でした。写真の「新田町」の石碑の側面に一泊した旨の記載が有ります。
日和山 鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)
「雲折々人を休める月見かな」の芭蕉の句碑 芭蕉と曾良の像
像の台座には奥の細道の道程と石巻の段 公園の展望台から眺めると旧北上川川の中瀬
御島(おしま) 御島の先端の小さな岩(松の枝の下)が「巻石」
「袖の渡り」の石碑 新田町の石碑
2012年7月25日 登米 - 一関 - 平泉 (登米から43.2Km/深川から655.1Km) 
友人と会う約束がありましたので、塩竃から登米経由で平泉に直行しましたので、日程が塩竃-登米間より先になりました。
一関街道(342号線)で登米大橋を渡ると登米(とよま)の町ですが、行政上の登米町の属する登米市は「とめ」と読みます。芭蕉はこの町で一宿しています。橋を渡った右手の土手の上に「芭蕉翁一宿之跡」の碑が建っています。曾良は旅日記で、「宿を貸してくれる家がないので、検断(村役人)の庄左衛門宅に頼んで泊めてもらった」ということを記しています。当時の登米(とよま)は、伊達一門二万石の城下町として北上川を利用した舟運の拠点として栄え、明治維新後、一時は水沢県庁が置かれ、多くの武家屋敷や蔵造りの商家がのこる観光の町になっています。5月12日に登米(とよま)を出た後、芭蕉らは北上川沿いの一関街道を平泉に向かって進みます。「曾良旅日記」によれば、この日は曇りだったが、途中から合羽も透すような豪雨になり涌津から馬に乗りますが「三リ、皆山坂也」とありますので山道を大変な思いをして越えたのでしょう。私は金沢から三叉路を左にとって陸羽街道に出て旧有壁宿本陣の前を進みました。一関に入り旧沼田家武家屋敷の横にある案内板に従い進むと地酒の「世嬉の一」酒蔵資料館の先の磐井川に架かる磐井橋のたもとに芭蕉二夜庵跡の碑が、駅前交差点の東脇に「芭蕉の辻」と「日本の道百選“おくのほそ道”」の記念碑が設置されています。二人にとって登米も一関も単に必要に迫られて宿泊した宿場で、心は平泉を向いていたようです。翌朝13日、天気も回復したので平泉へ日帰り旅行に出かけていきました
登米大橋 「芭蕉翁一宿之跡」の碑
旧登米警察署の警察資料館 天保4年創業の味噌醤油店の蔵の資料館
旧水沢県庁記念館 武家屋敷
旧有壁宿本陣 旧沼田家武家屋敷
「世嬉の一」酒蔵資料館 芭蕉二夜庵跡の碑
奥の細道曾良旅日記抄 「芭蕉の辻」
2012年7月24日、9月18日 仙台市内見物 (白石から51.0Km/深川から511.2Km) 
7月は友人と会う約束がありましたので、福島から仙台に直行しました。従って福島-仙台間の紀行より先に書きましたが、9月に再訪した時の事も加筆しています。
仙台は伊達藩62万石の城下町です。芭蕉らは5月4日に仙台入りして、知合いの紹介状を持って宿を当てにしていた二三の人脈にあたりましたが、断わられたり留守中であったりして、結局ダメでしたので国分町の大崎庄左衛門の旅籠に四泊しました。おかげで一日ゆっくり休んで疲れを取り、翌6日には宿を取った国分町の旅籠近くに住む当地の俳人・北野屋加右衛門(かえもん)と知り合いまして、彼の案内で仙台見物をします。町の中心である「芭蕉の辻(*)」を西に進み大橋を渡って青葉城跡を通り伊達家の氏神を祀っている亀岡八幡宮に訪れています。
7日には伊達家の幕府への忠誠心を表す為に造営した東照宮、そして榴岡(つつじがおか)天満宮、陸奥国分寺跡(薬師堂)等を訪れました。現在の榴岡公園やそれに隣接する宮城野総合運動場のあたりは古来、萩の名所として名高い宮城野の中心部でした。かつての都人にとって憧れの歌枕の地は、現在「宮城野」という地名を残すのみで昔の面影はまったくありません。榴岡天満宮の境内に芭蕉の句碑が2つ建っています。芭蕉が「おくのほそ道」の旅で金沢で詠んだ「あかあかと日はつれなくも秋の風」と「花咲て七日鶴見の麓かな 」句です。そこから南東の若林区木ノ下にある国分寺跡に向かいます。陸奥国分寺は奈良時代に創建されたが、頼朝の奥州征伐のさいに焼失し慶長12年(1607)伊達政宗が、この国分寺跡に薬師堂を創建しました。
道を隔てた准胝観音堂脇に芭蕉が仙台で詠んだ「あやめ草足に結ん草鞋の緒」の句碑が建っています。この句は加右衛門が、わざわざ蝮や毒虫が嫌う紺色(藍染)の緒をつけた草鞋を二足、餞別として芭蕉らに贈りました。風流人とは思っていたがここに至ってこんな贈り物をよこすとは、本当に思ったとおりの風流人と感激し、加右衛門に贈った蓑と草鞋を埋めた記念碑が新寺4丁目の妙心院にある蓑塚です。また私が宿泊したホテルの近くの本町2丁目の「錦町公園」の南側にある滝澤神社の鳥居の右側に「梅月碑」と呼ばれる芭蕉句碑もありました。
(*)芭蕉の辻とは、安田生命仙台ビルの前に建ってる辻碑の説明板によれば、かつて近くに制札場があったので「札の辻」が正式な名前ですが、なぜ「芭蕉の辻」と呼ばれるようになったかは、はっきりとはわからないそうです。いずれにしろ奥の細道とは関係無いということです。関係は無いついでに訪れた、国宝大崎八幡神社と伊達政宗廟の瑞鳳殿は仙台での見ごたえのある建物です。
芭蕉の辻 亀岡八幡宮
東照宮 榴岡(つつじがおか)天満宮
「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句碑 「花咲て七日鶴見の麓かな 」の句碑
木ノ下薬師堂の仁王門 陸奥国分寺跡(木ノ下薬師堂)
木ノ下薬師堂の鐘楼 あやめ草足に結ん草鞋の緒」の句碑
妙心院の山門 妙心院の蓑塚
滝澤神社 滝澤神社の芭蕉句碑「梅月碑」
国宝の大崎八幡神社 伊達政宗廟の瑞鳳殿
2012年9月17日 白石 -岩沼 -笠島 -長町 -仙台 (白石から51.0Km/深川から484.5Km) 
最初に街の中心部の丘の上に建つ白石城に寄ります。幕府は一国一城と定めていましたが、仙台伊達藩には白石城の保有を認めていました。城は明治維新後解体されましたが、平成7年に天守閣、大手門などが再築されました。しかし東日本大震災の爪痕がまだ残っており修復工事中でした。白石城を下りて城の外堀にもあたる沢端川沿いの道は「武家屋敷通り」で「片倉家中(小関家)武家屋敷」が残っています。やがて道は白石川を渡ると陸羽街道(国道4号線)は、この川に沿う形で東北に進み韮神橋を渡り国道4号線を横断すると、山裾に観音像と石碑群が現れます。芭蕉一行がこの韮神山の下を通り抜けていったことから、芭蕉を崇敬する大河原の俳人・村井江三が建てた「鶯の笠おとしたる椿かな」の句碑がありますが、句はこの場所と関係なく、伊賀上野で詠まれたものです。船岡駅を過ぎ白石川の橋を進むと「一目千本桜」といわれている桜並木が対岸に見えてきます。岩沼には京都の伏見、常陸の笠間と並んで日本の三稲荷ともいわれた竹駒神社(竹駒稲荷)があり、門前町として栄えていました。竹駒神社から北西に200m程行った二木2町目の歩道脇に「二木の松」が道路側に傾いてのびています。根本が一つで幹が二本に分かれた松で、歌枕「武隈の松」として有名な松です。芭蕉はこれををぜひ見たいと思っており「桜より松は二木を三月越し」と一句詠みました。この句碑は竹駒神社の鳥居をくぐって直ぐにと、「二木の松」の裏手の公園内にあります。交通の要衝である岩沼は大きな宿場として栄えた町でした。岩沼宿を後にしてやがて川内沢川という小川を一の橋で越えますが、その橋のたもとの左手南側に道祖神路と刻まれた大きな石碑とその右手に小さな道標が現れる。道祖神路は三角の石碑でその一面に芭蕉の句、「笠島はいづこ皐月のぬかり道」が刻まれています。この碑は笠島塚または芭蕉塚と言われていたもので安政3年(1856年)建立されました。芭蕉は、敬愛する西行も訪れた平安時代に赴任途中の笠島で亡くなった藤原実方の墓を訪ねようとしたが雨で道がぬかり、陽も暮れてきたので断腸の思いで諦めたことをこの句で現しています。芭蕉の残念な思いの場所にも寄って来ました。最初に藤原実方が神社の前を下馬せずに通り過ぎたら落馬してしまい、これが原因で死亡した笠島の道祖神社。さらに北に1km程先にある藤原実方の墓、西行が訪れて「朽ちもせぬその名ばかりを留置きて 枯野の薄形見にぞ見る」と弔いの和歌を詠んだ事で「形見のすすき」と呼ばれる葉が細く繊毛が少ないススキや草鞋塚と呼ばれる仙台の俳人、松洞馬年の「笠嶋はあすの草鞋のぬき処」の句碑があります。
ここから名取駅前に出て陸羽街道を進むと道はやがて仙台市に入り、名取川を越える。JRの長町駅を過ぎると沿道はビルの建ち並ぶ市街地の様相です。さらに進み広瀬川をこえると仙台市街です。芭蕉らは強行軍で白石を出て5月4日は国分町・大崎庄左衛門宅(旅籠)に宿をとりました。この国分町は、今も昔も変わらない仙台一の繁華街です。8日に多賀城に向かうまで、仙台では4泊5日を過ごしています。
白石城天守閣 片倉家中(小関家)武家屋敷
「鶯の笠おとしたる椿かな」の句碑 竹駒神社本殿
竹駒神社の「桜より松は二木を三月越し」の句碑 歌枕「武隈の松」として有名な二木の松
道祖神路と「笠島はいづこ皐月のぬかり道」の句碑 笠島の道祖神社
芭蕉句碑とおくの細道文学碑 「形見のすすき」と「笠嶋はあすの草鞋のぬき処」の句碑
2012年07月23日 須賀川 -石川滝 -小作田 -郡山 (須賀川から25.7Km/深川から364.2Km) 
芭蕉らは、等躬が用意してくれた馬に乗り名勝・石河の滝に向かいましたが、私は先に見物を終えていますので、阿武隈川の右岸にそって北上して、小作田を経て、山中、大善寺を参詣して金谷の金山橋で阿武隈川を渡ります。橋を渡って少し行くと新幹線のガードをくぐると、そのすぐ先の県道355号線が旧陸羽街道です。この後、小原田を経て、郡山宿に入りましたが当時の宿は農家が兼業で営む旅籠のようで、宿の汚さには閉口したようですが、今は大きな立派な街です。
阿武隈川 大善寺
金谷の金山橋 郡山駅前
2011年11月11日 余瀬(黒羽) -鍋掛 -堀越 -高久 (余瀬から16.0Km/深川から242.5Km) 
芭蕉は旧暦4月16日に、浄法寺図書(桃雪)が用立てた馬で黒羽から奥州街道(旧奥羽街道)に出た所の野間まで乗馬の旅をし、道中、馬子の求めに応じて「野を横に・・・」の句を書き与えたりしています。その後、越堀宿の出口手前から左に切れて那須街道を行き、桃雪の紹介で高久の名主・覚左衛門宅に2泊しました。芭蕉の旅は各地の弟子回りの様な旅で皆さんのサポートを受けていますので羨ましい限りです・・・・・。 私の場合は前回の続きを再び黒羽に来て玉藻稲荷神社(正式には那須篠玉藻稲荷神社)から始めました。ここには黒羽での歌仙の発句「秣(まぐさ)負う人を枝折(しおり)の夏野哉」の句碑や三浦介義明が「九尾の狐」を討ち取った伝説の鑑ケ池が鳥居の横にあります。
那須篠玉藻稲荷神の参道入口 「秣(まぐさ)負う人・・・」碑
2011年11月11日 高久 -松子 -那須(湯元) (高久から15.7Km/深川から258.2Km 
芭蕉等は陸羽街道沿いの高久の名主・覚左衛門宅での、2泊のもてなしの礼に「落くるやたかくの宿の郭公(ほととぎす)」に曾良の付句「木の間をのぞく短夜の雨」を俳句懐紙に書き記して主人に渡した。高久家北側にある丘の中には覚左衛門の孫の青楓が1754年に建てた芭蕉庵桃青君碑(別名:杜鵑の墓)が竹林の籔にあります。また同じ句碑が国道4号線沿いの高久家菩提寺である高福寺の参道正面の木の植え込みの中の灯篭の横にもあります。芭蕉らは東北自動車道を過ぎた松子まで馬で送ってもらい湯本の温泉宿・和泉屋五左衛門方ヘ着きました。現在、この道の両側はは観光客目当ての美術館・御土産物やレストラン等々で目を覆いたくなる程に無秩序開発されています。芭蕉が着いたのは4月18日(陽暦6月5日)夕方でした。翌日、芭蕉は昼過ぎから宿の主人の案内で那須温泉(ゆぜん)神社に参詣した。この神社には那須与一が扇の的を射抜いたときに使い残した矢などが神社の宝物となっており、芭蕉はこれを拝観している。その後、殺生石や湯壷を見て回った。殺生石に程近い温泉神社にて次の句が詠まれています。「湯をむすぶ 誓ひも同じ 石清水」 ただしこれは推敲の段階で削られボツに。奥の細道の足跡を巡ると、ボツになった句の碑も結構見かけます。殺生石に行く途中、現在でも硫化水素ガスが時折自噴していますので硫黄の匂いがします。芭蕉がここで詠んだ句、「石の香や夏草赤く露あつし」の句碑が殺生石から少し下ったところに建てられています。この辺りには、相当数の地蔵が手を合わせて拝んでいる姿の千体地蔵や湯の花採取場などもあり、遊歩道が設けられて一巡できるようになっています。
芭蕉翁塚 「杜鵑の墓」と呼ばれる芭蕉句碑
高福寺・写真の手前の大きな灯篭の横に句碑  高福寺の芭蕉句碑
芭蕉宿泊地 那須温泉(ゆぜん)神社
「湯をむすぶ・・・」の句碑 殺生石
「石の香や・・・」の句碑 千体地蔵
2011年8月29日 太田原 -黒羽 -余瀬 (太田原から9.8Km/深川から201.7Km)  
今日は、ゆっくりと黒羽・余瀬見物の予定で黒羽街道を進むと、道の駅「那須与一の郷」に那須与一伝承館と那須与一像が街道沿いに見えてきます。那須与一が源平・屋島の戦で、扇の的を射るとき「南無八幡大菩薩、・・・」と心に念じて願いを果たしたと伝えられる那須神社(正式には那須総社金丸八幡宮那須神社)は道の駅の裏側になります。東日本大震災の為か石灯篭などが倒れたままの状態でした。やがて黒羽町に入り、さらに進むと大豆田T字路となり、国道294号線と合流します。黒羽街道(国道461号線)は少し先で右に曲がり、那珂川を越えて黒羽町の中心部へ入って行きます。黒羽では二人の門弟が芭蕉らを待っていました。黒羽藩城代家老・浄法寺図書高勝(俳号を桃雪)、その弟翠桃と名乗る兄弟で芭蕉は旧暦4月3日からの黒羽での13泊をすべてこの兄弟宅に宿し、兄・桃雪のもとで8泊、弟・翠桃宅に5泊しました。13泊は奥の細道の中では最長で、この黒羽滞在中に門弟や支援者のサポートにより周辺の名所旧跡を数々訪れています。浄法寺家の墓所がある大雄寺(だいおうじ)の近くには太田原市の「芭蕉と黒羽」の案内板に芭蕉句碑の場所等の詳しい説明があります。大雄寺の先からの「芭蕉の道」沿いには芭蕉の句碑、桃雪邸跡や芭蕉の館などもあります。桃雪邸跡には「山も庭もうごき入るや夏座敷」の芭蕉句碑が、碑文は加藤楸邨筆です。常念寺には「野を横に馬牽(ひ)きむけよほとゝぎす」、隣の明王寺には「今日も又朝日を拝む石の上」などと歌仙を行い多くの句を黒羽で残しています。旧暦4月9日には余瀬の修験光明寺を訪れています。ここの行者堂跡には高足駄を履いた役行者(えんのぎょうじゃ)の像が祭られていたので、彼の健脚にあやかって旅の無事を祈願した時の一句「夏山に足駄(あしだ)を拝むかどでかな」の碑が立っています。その先の余瀬の翠桃邸のすぐ近くの西教寺には、曽良が那須野原で馬を借りた時に思わず詠んだ「かさねとは八重撫子の名なるべし」の句碑もあります。私は歩く人ですが、この町は、芭蕉ファンにとっては垂涎の地だと思います。
那須与一像 那須総社金丸八幡宮那須神社
芭蕉の里・黒羽ふるさと財団 那珂川に架かる那珂橋
大雄寺(だいおうじ) 芭蕉の道の「行春や・・・」句碑
芭蕉の道の「田や麦やや・・・」句碑 旧浄法寺(桃雪)邸跡
桃雪邸跡の「山も庭も・・・」句碑 桃雪邸跡の連句碑
芭蕉の館前の馬上像 芭蕉の館・曽良「かさねとは・・」の句碑
常念寺「野を横に・・・」句碑 明王寺「今日も又・・・」句碑
修験光明寺(廃寺)跡 西教寺・曽良「かさねとは・・」の句碑

 松尾芭蕉は江戸・深川に開いた芭蕉庵を天和2年(1682)の駒込大円寺からの大火で焼失し、失意のなかで弟子を頼って甲州都留・谷村に一時移り住みました。翌年の天和3年(1683)5月には江戸に戻り芭蕉庵を再建してましたが、6月に母親が亡くなり、再び人生の無常を感じ、俳諧をたんなる情景描写から精神的な芸術に高めていきました。一周忌の墓参をかねて貞享元年(1684)8月に弟子と旅に出ます。9月に故郷の伊賀上野に帰り、大和、吉野、山城、美濃、尾張などを回り木曽、甲州を通り貞享2年(1685)4月に江戸に戻ってきました。この旅を「野ざらし紀行」と言います。貞享4年(1687)8月には月見と鹿島詣の旅に、10月には「笈の子文(おいのこぶみ)」の旅に、翌年の元禄元年(1688)3月には吉野行脚、8月には「更科紀行」の旅へと、まるで何かに取りつかれたように旅を続けました。 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」 (日一日と過ぎていく日々(即ち人生)も、考えてみれば旅のようなものだ)、旅と言えば杜甫、李白などの詩人、西行などの歌人も諸国行脚を重ねながら詩心を高めていき、そして旅の中で亡くなった事にあこがれて元禄2年(1689)3月には、尊崇する西行の五百年忌を期に、歌に読まれた諸国の名所、いわゆる歌枕の地を訪ねる長途の旅に弟子の河合曾良(そら)と共に出ました。これが「おくの細道」です。芭蕉は、この時46歳、江戸期の男性の平均寿命が50歳前と言われた頃ですので決死の覚悟で155日間の旅をし、五年後に「おくの細道」を完成させ、その年の冬に亡くなりました。

 江戸・深川から大垣までの行程は通説では600里(約2400Km)のと言われていますが、「曾良旅日記」に基づく行程表によると総行程は476里12町46間2尺(約1900km)と記されています(出典:岩波ジュニア新書「おくのほそ道の旅」)。おそらくこの差は、道中での寄道(例えば日光裏見滝)や長く滞在した時に周辺の名所旧跡(雲厳寺など)を見て歩いた距離の扱いの違いではないかと思います。また途中の行程の一部は日光街道奥州街道に重複する道です。「おくの細道」は多少の創作の入った紀行文学ですので、旅行記としては弟子の曾良の「曾良旅日記」も参考にして、松尾芭蕉が歩んだ歌枕の旅の路上追体験を楽しみながら、「奥の細道むすびの地」である大垣をめざします。

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