2011年8月06日12:00 大沢 - 今市 (大沢から7.9Km/日本橋から134.0Km) ニ十
日光杉並木に沿って大沢宿入口から続く街道は下森友のバス停の先の交差点で再び国道と合流します。承安5年(1175)開基の来迎寺を過ぎて、しばらく歩くと、山道のように、陽も差し込まない、うっそうとした杉に覆われた並木道の街道が続きます。さらに進むと七本桜の一里塚があります。巨大杉で人が休める程の大きな空洞があるため並木ホテルとも呼ばれています。小倉町交差点手前が日光杉並木街道の出口で、大きな追分地蔵が鎮座しています。この追分で日光街道と例幣使街道が合流します。今市は慶応4年(1868)の戊辰戦争で宿並は焼失してしまいました。報徳ニ宮神社は幕命で日光神領の開拓に来て、ここで亡くなった二宮尊徳を祀っています。町中に入ると今市宿「市縁ひろば」という昔の「今村7軒」と言っていた小さな集落の今市宿を再現したイベント広場で情報を入手して進むと瀧尾神社の先から再び杉並木に入ります。
来迎寺 日光街道・例幣使街道の追分地蔵
報徳ニ宮神社 瀧尾神社
2011年6月10日11:15 粕壁(春日部) - 杉戸粕壁から6.2Km/日本橋から41.7Km五次
老舗の田村本家の豪奢な蔵作りの建物の前に「西南いわつき、北日光、東江戸」道標があるところが宿の中心です。宿内には土蔵造りの商家も数軒残っています。新町橋で大落古利根川を渡ると史蹟小渕一里塚跡碑があります。その先のY字路には「左日光道」と刻まれた追分道標に従い進むと国道4号線に合流します。杉戸町に入ると北緯36度の地球儀が国道脇にあり、ここの緯度を示しています。同じ緯度にはラスベガス、グランドキャニオン、ナッシュビル、ジプラルタル等が在ることに今更ながら驚かされます(勉強不足かな?)。街道沿いの九品寺には天明4年(1784)建立の堤根の道標があります。三本木の一里塚跡を過ぎると杉戸の宿が始まります。
田村本家 史蹟小渕一里塚跡碑
追分道標 北緯36度の地球儀
堤根の道標 途中の旧家
2011年6月10日08:15 越谷 - 粕壁(春日部)越谷から11.1Km/日本橋から35.5Km四次
前回の続きを越谷駅前から始めます。本町が宿の中心で、「塗師屋」と呼ばれた小泉市右衛門宅や古い民家が残っています。街道から寄道をして慶長9年(1604)に徳川家康が鷹狩用に建てた「越谷御殿」跡と建長元年(1249)の銘が刻まれた板碑も、ついでに見てきました。元荒川を越えてすぐのパン屋が本陣跡ですが現在は何もありません。北越谷駅を過ぎ東武線の高架下を進むと幕府の鴨場を受け継いだ宮内庁埼玉鴨場があり、政府高官や外国大使を招いての晩餐会が催されますが一般国民は立入禁止です。税金を払っていますので見学くらいは、、、、、、、一ノ割駅手前に日本橋から8番目の備後一里塚跡があります。東武野田線のガードをくぐると、やっと粕壁宿の入口です。日光道中でこの区間が最長でしたので、やれやれです。
「塗師屋」小泉市右衛門宅 古い民家
「越谷御殿」跡 建長元年(1249)の板碑
宮内庁埼玉鴨場 備後一里塚跡
和風旅館
2011年8月06日14:15 今市 - 日光鉢石 今市から7.9Km/日本橋から141.9Km)ニ十一
瀧尾神社の交差点から旧道に入ると右側に 水車や古民家などを配した「杉並木公園」が整備されています。その先の瀬川の一里塚は日本橋から34里目で日光街道最後の一里塚です。石畳の道に入ると七本の杉根幹が密着して一株となった杉を伐採された痕である七本杉伐採痕、戊辰戦争で官軍の放った砲弾跡が残る砲弾打込杉や、大きな石の釣鐘が地面に置いてある野口薬師堂を過ぎると道は119号線に合流します。左にJR日光線、右に東武日光線に挟まれる街道沿いには街道随一と言われる巨大杉の並木太郎、そして根本が銀杏の様に広がっている銀杏杉が続き、その先には明治天皇七里小休所跡碑があります。筋違橋を渡ると明治の頃、杉並木を愛した一人の外国人がこの石を石屋に座りやすく削ってもらい毎日ここで並木を鑑賞したと言われる異人石があります。JR日光線のガードをくぐり杉並木が終ると、ここが最後の宿、鉢石(はついし)宿の入口で、かっての木戸跡であったそうです。ここから神橋までは真っ直ぐな道で、門前町としてみやげ物店や観光客で賑わっています。竜蔵寺の裏手の稲荷神社の境内には、西行戻り石と呼ばれる大石があります。御幸町の西の外れ、「そば処 魚要」となっている所は、入江本陣跡。入江家は「御宮御菓子屋、本陣兼帯」といわれ日光御用達のお菓子屋であったそうです。宿の名前のいわれとなった鉢石は、その先日本生命の隣、案内標識がある所を少し入った場所にあります。やがて日光金谷ホテルの大きな建物が見え始め、天海大僧正の銅像が聳え立ち、日光橋を渡たり左の石段を登って行くと、かって国道拡幅で切る切らぬの大論争を起こしたという有名な太郎杉が生き永らえて大枝を国道に伸ばしています。街道最終地点は大谷川に架かる赤い神橋で終りです。途中で夕立にあったりもしましたが、延べ5日間で約142kmの行程を歩き終える事ができました。
杉並木 野口薬師堂
巨大杉の並木太郎 明治天皇七里小休所跡
異人石 西行戻り石
鉢石(はついし) 太郎杉
神橋
  入口に戻る
2011年8月06日07:05 宇都宮 - 徳次郎 (宇都宮から9.3Km/日本橋から116.7Km)十八
今回始めての宿泊旅ですので早朝から歩く事が出来ます。清住町から長岡街道入口を通り過ぎて左側に薬師堂を見ながら宮原上戸祭町交差点を過ぎると桜並木の街道になり、上戸祭一里塚跡を過ぎると、桜から杉並木に変わっていきます。やがて左手に将軍の日光社参の時に休息所となった光明寺があります。山門は竜宮城風で2階に梵鐘が乗っています。東北自動車道手前に高谷林の一里塚があります。高架をくぐると右側の塚の上に煉瓦作りの不思議な形の第六号接合井があります。大正4年(1915)に今市浄水場から上戸祭に水を送るのに送水管に掛かる水圧を調整した施設で国の登録文化財(土木遺産)です。下徳次郎バス停になり、宿に入ります。その先の山王団地入口の所の交差点の植え込みの中に大谷道の道標 が置かれおり、左に行く道が大谷観音に通じています。気温が上がってきましたが杉並木の木陰は自然の涼しさで快適です。
薬師堂 上戸祭一里塚跡
光明寺の山門 高谷林の一里塚
第六号接合井 大谷道の道標
2011年8月05日15:15 雀宮 - 宇都宮 雀宮から8.0Km/日本橋から107.4Km) 十七
雀宮の本陣跡碑は大和田胃腸科の駐車場前に、脇本陣は駅前交差点の所に白壁の塀と黒門など昔の面影を十分に残しています。雀宮神社は、宿の名前の由来になったほどの神社ですが規模は小さいです。神社の直ぐ先に東京からの100kmポストがあり、やっと2/3歩いた事になります。東北線の線路に一番近づいた地点が一里交差点、ここが江曽島の一里塚跡ですが今は何もありません。西原交差点から国道4号線は右に曲がり日光街道はJR日光線を越えます。不動前交差点で左折すると、不動堂からすぐ先に、東武鉄道宇都宮線のガードがあります。ここには宇都宮宿の木戸があった所ですので、この辺から宇都宮宿が始まります。ガードをくぐると、蒲生君平勅旌(ちょくせい)碑があります。旌という字はあまり知られていませんが、「人の善行を賞して、広く世上に表し示す事」という意味があります。仙台の林子平・上州の高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」と言われた熱狂的な尊王論者です。明治天皇の勅命で宿入口に作られました。高山彦九郎の像は京都三条大橋詰にあります。伝馬町交差点が奥州街道との追分地点です。日光街道は北に進みます。途中の延命院の門前には「蒲生君平先生少年時代修学の寺」と刻まれた石碑があります、また境内には享保年間(1716-35)の建立で、宇都宮市最古の木造建築物の一つである地蔵堂があります。桂林寺は宇都宮満綱の開基で蒲生君平の墓もあります。清住町には古い蔵作りの家屋も残っており、この辺で宇都宮宿が終わります。私も今日は宇都宮泊まりです。
雀宮本陣跡碑 脇本陣の門
蒲生君平勅旌(ちょくせい)碑 伝馬町交差点
延命院の地蔵堂 桂林寺
2011年8月05日13:45 石橋 - 雀宮 (石橋から6.4Km/日本橋から99.4Km) 十六
宿の入口左側に、創建が天平宝宇3年(759)という愛宕神社があります。石橋駅前交差点が宿の中心地ですが脇本陣・本陣跡にも往時を思い出させる様なものは残っていません。むしろメルヘンチックな石橋駅が気になるくらいです。その先の開雲寺の土壁は城郭形式で銃眼や矢狭間と言う防御用の穴が開いています。これは将軍の日光社参の時に境内に休憩用の御殿が設けられ、その警備のためのものです。街道の右手に鞘堂(さやどう)地蔵があります。天授6年(1380)の小山・宇都宮合戦の折、戦死した兵の鞘を集めて埋め、そこにお堂を建てて地蔵を安置したのでこの名がついたようです。安塚街道入口交差点を過ぎると雀宮宿です。
開雲寺の土壁 鞘堂(さやどう)地蔵
2011年8月05日10:00 小山 - 新田 (小山から5.1Km/日本橋から83.9Km) 十三
前回からの続きを小山駅に降りて、須賀神社から歩き始めます。中央町へ入る左手に脇本跡があり、明治天皇行在所跡碑が立ち、立派な玄関が残っています。旧道沿いの市役所の駐車場内に「小山評定跡」碑があります。慶長5年(1600)7月、徳川家康は、会津の上杉景勝を討つべく小山に到着しました。この時に石田三成が家康打倒の兵をあげたことを知り翌25日、この地において軍議が開かれました。これが「小山評定」といわれるものです・・・ と書かれています。その先に日枝神社の石標があり国道4号を横切って続く草深い道を50mほど分け入ったところに樹齢400年以上、高さ30mを超すという3本の巨大なケヤキが現存しています。神社の先に喜沢交差点が見えます。ここが分かれ道の追分で左に行くのが壬生道です、芭蕉は壬生道を進み「奥の細道」を書いています。追分には石碑が置かれ天明5年(1785)建立の「左壬生道、右宇都宮道」の道標や日清日露日支出征馬碑があります。日光道中は直進です。左側にある鬱蒼としたヤブの中に喜沢の一里塚があると言われていましたので探しましたが見つからず、そのまま国道4号線と合流し新田宿に入ります。
須賀神社 須賀神社
脇本陣跡 「小山評定跡」碑
日枝神社の石標 喜沢追分の道標
2011年6月19日14:15 間々田 - 小山 (間々田から6.4Km/日本橋から78.8Km) 十二次
間々田宿は日光街道の真中に位置し思川の乙女河岸を控え大いに賑わった宿です。また街道を外れての寄道ですが奈良時代に下野薬師寺の建立に当たり瓦を供給した乙女不動原瓦窯跡に寄りました。窯跡、灰を捨てた場所、粘土採掘場所などが発掘されています。その北側には朱色の山門が見える泉龍寺乙女不動尊があります。街道に戻り消防署の少し先に日光街道の中間地点(日本橋から18里)を示すために榎を植えた場所があります。最初は中間の「間の榎」だったのがいつの間にか「逢の榎」になり、ついに縁結びの榎になってしまったそうです。足利小山信金の向かいが問屋場跡、その先に本陣跡で説明板があります。千駄塚交差点を越すと千駄塚古墳跡がありますが、現在はこの上に浅間神社を祭っています。粟宮南交差点の先に長屋門を構えた清酒「若盛」の西堀酒造がありますが試飲はパスして進みます。50号線高架下をくぐると小山宿です。小山駅に15:45着ですが、その先は約8km先の小金井駅なので、あまりにも暑いので今日はここまでで終りです。
乙女不動原瓦窯跡 泉龍寺乙女不動尊
日光街道中間地点「逢の榎」 千駄塚古墳跡
西堀酒造の長屋門 旧家の長屋門
2011年8月05日12:00 小金井 - 石橋 小金井から5.9Km/日本橋から93.0Km) 十五
小金井に入ると街道の正面には対で残っている小金井一里塚が見えてきます、江戸から数えて22番目の一里塚で、国の史跡に指定されています。宿の中程、左にはいると入り口に布袋様の石像が鎮座している慈願寺があります。ここは将軍の日光社参の時に休憩所として利用された寺の一つです。隣には注連縄の掛かる鳥居の金井神社があります。小金井宿本陣跡の大越家の門や本陣の対面には蔵作りの旧呉服屋の建物が宿場の趣を残していますが、東日本大震災の影響でしょうか呉服屋の蔵は取り壊し寸前の状態になっていました。自治医大駅前の通りを左にはいると旧道が国道に並行して残っていますが、弓削道鏡が左遷されたという下野薬師寺跡が、東北線の東方2kmの所にありますので寄道をきめて右折してJR自治医大駅構内を越えて行きました。龍興寺(下野薬師寺別院)には日本三戒壇(東大寺、筑紫観世音寺、下野薬師寺)を開いた鑑真の弟子たちが師の遺徳を偲び建立したといわれている供養塔があります。龍興寺の北には薬師寺跡があり、一塔三堂形式の配置で南門、中門、塔、講堂が一直線に並び回廊の一部が復元されています。寄道から街道に戻り下石橋北交差点で日光西街道(352号線)を越えると石橋宿です。
小金井一里塚 慈願寺
金井神社 小金井宿本陣跡の門
龍興寺(下野薬師寺別院) 下野薬師寺跡
2011年6月19日08:15 栗橋 - 中田 (栗橋から1.4Km/日本橋から58.0Km) 八
梅雨の晴れ間を見つけての日光道中歩きも3回目です。幸手と栗橋宿の中間には旧小右衛門村の一里塚があり、新幹線高架の下をくぐりり、旧道を進むと宿の入口には会津藩士が大切な書状をなくし責任を感じて、ここで切腹しようとしたら狐の化身が現れて死を思いとどませ、書状が届けられたと言う伝説のある会津見送り稲荷神社があります。栗橋駅前には源義経の寵愛を受けた静御前の墓があります。義経を追って平泉に行く途中、義経討死の報を聞きこの地で亡くなったと伝えられています。栗橋宿は利根川の渡し場として賑わい、関東平野北辺に対する警備上の地として東海道の箱根、中仙道の碓氷と並んで関所が設けられた重要な地でした。道の突き当たりは八坂神社。村の鎮守として祀られ、鯉の狛犬(?)が置かれていておもしろいです。坂東太郎の異名を持つ利根川は警備の都合上で橋は架けられず渡し船でしたが、今は歩いて渡れます。川の中間点が(武蔵)埼玉と(下総)茨城の国境です。川を越えた対岸が中田宿です。
会津見送り稲荷神社 静御前の墓
栗橋関所跡碑 鯉の狛犬の八坂神社
2011年6月10日14:50 幸手 - 栗橋 (幸手から8.2Km/日本橋から56.6Km) 七次
幸手宿は、日光御成道と日光道中が合流し、筑波道が分岐する地点の宿場町として賑わい、また舟運が隆盛期を迎 えて権現堂河岸には回船問屋などが立ち並び繁盛したそうです。宿入口の神明神社には珍しい元灯篭の台座が置いてあり、漢字の「不」の字のような記号が彫られています。几号水準点と言い、明治になり東京・塩竃間の高低測量(水準測量)が開始され、この測量で用いられた標石とのことで、各地の神社の灯篭や鳥居等に残存しているそうですが初めて見ました。2008年5月30日に日本の土地の高さの基準となっている水準原点が測量の日の記念行事として年に一度だけ一般公開されましたので国会議事堂前にある旧陸軍参謀本部陸地測量部(国交省国土地理院の前身)の跡地に建つ建物で見学した事を思い出しました。話が横道にそれましたが、幸手駅入口交差点の角には明治天皇行在所の碑が、その前には醤油の製造販売を行っていた岸本家を再建した家屋あります。幸手本陣・知久家跡は、現在のうなぎ店「義語屋」のある所です。荒宿交差点の角に幸手一里塚跡の看板があります。街道は北上して行きますが、ここは有名な天正4年(1576)に築造されたといわれている権現堂堤を歩くことにするので北東方向へ進みます。堤にはソメイヨシノが植樹され、現在では関東有数の桜の名所で有名になっているそうです。また堤修復工事のために人柱となった巡礼親子の供養碑もあります。堤の終わりの行幸橋の手前には明治天皇行幸記念碑があり、その前の国道4号線上には東京から50Kmの標識があります。道は行幸橋を渡ると直ぐに旧道に入り北上すると筑波道追分道標の左日光道に従い進みます。街道は国道下の旧道を歩き続けて栗原に入ります。17:15に栗橋駅着で本日は終了です。
神明神社の几号水準点 明治天皇行在所の碑
醤油問屋の岸本家 巡礼親子の供養碑
明治天皇行幸記念碑 筑波道追分道標
2011年6月04日08:10 日本橋 - 千住 (日本橋から8.7Km) 一次
起点の日本橋を出発して北に向かいます。本町通りから小伝馬町を抜けて江戸三縁史跡がある十恩公園に行きます。ここは石町(こくちょう)時の鐘(宝永時鐘)跡、伝馬町牢屋敷跡と吉田松陰終焉の地です。松蔭はここに投獄され、向かいの大安寺境内にあった処刑場で斬首されました。道は横山町の繊維問屋街を経て神田川を浅草橋でわたると、かっては花柳界で有名だった柳橋です。享和元年(1801)創業の「駒形どぜう」の前を過ぎ、駒形堂の先には浅草寺雷門(正しくは風雷神門)が見えます。人込の多い仲見世通りを避けてスカイツリーを見ながら隅田川沿いに進んで商売繁盛・夫婦和合にご利益のある待乳山(まつちやま)の聖天さまに寄ります。ここには安藤広重の絵にも描かれた江戸時代の築地塀が25間(45.5m)も残っています。その先の今戸神社は労咳で25歳で亡くなった新撰組沖田総司の終焉の地です。道筋の山谷地区の簡易旅館街の先に泪橋があり、この先の小塚原刑場への別れをした所ですが今は橋も川もありません、交差点に地名が残っているだけです。小塚原刑場跡の延命寺には刑死者を弔う為に寛保元年(1741)に建立された首切り地蔵がありますが、今年の3月11日の東日本大震災で腕が折れてしまい現在は修復の為に分解されて胴体が台座から下ろされていました。その少し先の回向院には鼠小僧次郎吉や幕末の志士、吉田松蔭、橋本左内や頼三樹三郎の墓や、また解体新書ができるきっかけとなった杉田玄白らの「腑分け」が行われた観臓記念碑もあります。ここからの通りは刑場にちなんでなのでしょうか骨(こつ)通りと呼ばれています。このコツ通りが国道4号線に合流する所に延歴15年(795)創建の素盞雄(すさのお)神社があります。今日は、たまたま神社の夏祭りで賑わっていました。この先で千住大橋を渡り千住宿に入ります。
大安寺のに処刑場跡 吉田松陰終焉の地碑
どじょう料理の駒形どぜう 浅草寺雷門
待乳山(まつちやま)聖天 江戸時代の築地塀
今戸神社沖田総司の終焉の地 延命寺にある小塚原の首切り地蔵
回向院にある吉田松蔭の墓 杉田玄白らの観臓記念碑
素盞雄(すさのお)神社 素盞雄(すさのお)神社神楽殿
2011年6月04日14:30 草加 - 越谷 (草加から7.0Km/日本橋から24.4Km) 三次
草加駅前を過ぎた所に、新道を開いて慶長12年(1606)に草加宿を新設した大川図所の墓がある東福寺があります。道が国道4号線と合流した角の「おせん公園」には草加煎餅発祥の地碑があります。話としては、茶屋を営むおせん婆さんが売れ残りの団子を平に延ばして醤油を付けて焼いたのが草加煎餅の起こりと言われていますが、、、橋を越えると望楼が見える札場河岸公園です。ここは綾瀬川船運の船着場があった所で芭蕉にちなむ句碑などがあります。道は綾瀬川沿いの往時には千本松原(草加松原)と呼ばれた松並木の遊歩道になります。日本の道100選に選ばれた約1.5km程続く道で矢立橋や百台橋などの太鼓橋の跨道橋が架かっています。蒲生大橋で綾瀬川を渡ると大ケヤキの蒲生一里塚や藤助河岸があります。旧道が49号線に合流する脇に天文3年(1534)創建の清蔵院があります。山門の彫刻は左甚五郎の作と伝えられていますが、ここは参詣人以外立ち入り禁止なので入りにくいお寺です。JR南越谷駅を過ぎて瓦曽根ロータリーには里程標があり、東京雷門五里、浦和三里半などと刻まれています。越谷駅に16:55に到着です。今日は気温も高かったので、ここで終わり帰路につきます。
東福寺 草加煎餅発祥の地碑
札場河岸公園の常夜燈 千本松原(草加松原)の矢立橋
藤助河岸にある藤助酒造 清蔵院の山門
2011年6月04日11:00 千住 - 草加 (千住から8.7Km/日本橋から17.4Km) 二次
千住大橋は隅田川最初の橋で文禄3年(1594)に掛けられました。現在の橋は昭和2年(1927)製の総アーチ型で当時の最新の橋でした。江戸時代の俳人、松尾芭蕉は門弟曾良とともに深川から船でさかのぼり千住大橋あたりで降りて「奥の細道」へ旅立ちました。旧道は宿の中心で賑やかな商店街の宿場町通りに入り、途中の千住本町公園には高札場の説明板があります。その先には江戸時代から続く絵馬屋の吉田家や商家の横山家、槍かけだんごの「かどや」等がありますが個人宅なので外観を見るだけです。千住新橋で荒川を越えますが、以前は荒川放水路と呼ばれた人工河川です。旧道を進むと耳の病に効くと言われる石不動尊があります。東武伊勢崎線梅島駅のガード下をくぐり先に行くと安隠寺の題目塔の所に将軍家御成橋・御成道松並木跡碑があります。この辺には将軍家の鷹狩場があった所なので、しばし来られたのでしょう。道をしばらく直進し東武・谷塚駅を過ぎ吉町5丁目交差点角に火あぶり地蔵があります。これは奉公中の娘が母危篤の知らせに、主人に帰宅の願いを出したが許されず、火事になれば帰宅できると思い誤り放火した罪で火あぶりの刑になり、哀れんだ村人が建立したと伝えられる涙の物語です。ここを過ぎると草加宿の入口です。
千住大橋 宿場町通り
千住本町公園の高札場 絵馬屋の吉田家
将軍家御成橋跡碑 火あぶり地蔵火あぶり地蔵
2011年6月19日08:55 中田 - 古河 (中田から4.7Km/日本橋から62.7Km) 九
利根川橋を渡り右に曲がると中田関所跡があります。将軍が日光参詣の時には船橋が架けられ、川に60〜70艘の船を並べて、その上に板と菰をかけ土砂を敷いたもので、近隣住民を動員して造り、参詣が終われば元に戻したのですから、壮大な無駄使いだったようです。宿場は明治以後の利根川改修工事による移転後の町並みなので残っていませんが、街道の両側には神社仏閣が多くあります。光了寺は利根川の改修で移される前は栗橋にあり、静御前が帰依した寺としても有名で、静御前が後白河上皇から賜った蛙螟龍(あまりりゅう)の舞衣などがありますが、もちろん見せてもらえません。先で東北本線を中田踏切で渡ると古河市茶屋新田。将軍徳川秀忠が日光参詣の折ここに仮設の茶屋を設けたのが、茶屋の地名の由来で、広くきれいな道路が整備され両側には植えたばかりの松並木があります。単調な道を東北本線に沿って北上すると古河第二高校の南側の校庭隅に古河の一里塚跡があります。この先数百mで右へ折れ古河宿へ入ります。
中田宿案内板 古河の一里塚

 江戸時代の主要五街道のうち東海道中仙道甲州道中を歩き終えましたので、いよいよ北帰行(?)の旅です。東日本大震災もありましたので何が出来る訳ではありませんが東北への想いが強いです。日光街道(正式には日光道中)から続けて奥州街道へと足を延ばす事を計画していますが、まずは日光街道からです。日本橋から鉢石の日光東照宮入口の神橋までの21宿、36里3町2間(141.6km)の行程です。日光に行く道は日光街道、日光御成(おなり)街道日光例幣使(れいへいし)街道の三つがありますが、、、

 日光街道は徳川家康霊廟を久能山から日光東照宮に移し(1617年)祀ったことから、将軍家の参詣道として、日本橋から途中の宇都宮までの区間には、もともと古道奥州道がありましたが、宇都宮から先を開通させ日光東照宮へ至る街道として整備確立したので日光街道と称されるようになりました。
 実際には徳川幕府の将軍家が日光参詣する折には、江戸城大手門から出発して本郷追分から日光御成道を通るのが通例であり、幸手宿までの区間は日光街道は使われておらず、また小山宿以北は日光街道だけでなく、日光例幣使街道を経て日光へ至る経路も併せて用いられたようです。
 一方、日光例幣使(れいへいし)と称される朝廷からの使者(勅使)が毎年、日光東照宮の例大祭(4月17日)に金幣(きんぺい)を奉納するために京都からやって来ます。このときの往路となった道が例幣使街道です。日光例幣使の一行は、50人ほどの行列を組んで4月1日に京都を出発し、中山道を通って倉賀野宿(群馬県高崎市)に至ります。倉賀野からが例幣使街道です。例幣使街道は太田、栃木などの宿場を経て楡木(栃木県鹿沼市)に至り、今市で日光街道に合流します。楡木(にれき)から先は壬生街道(日光西街道)に合流して日光坊中へ至りますので、楡木、今市間は正確には壬生街道ですが、一般に例幣使街道と呼ばれてきました。例幣使街道は往路に用いられ、復路は日光街道、東海道が利用されました。日光例幣使は、1647年から1867年まで日光に派遣されました。

まあー解説が長くなりましたが、、、、北帰行(?)の旅を歩き始めました。

2011年8月06日09:00 徳次郎 - 大沢 (徳次郎から9.4Km/日本橋から126.1Km) 十九
徳次郎の由来はともかく行政的には(とくじろ)、宿名としては(とくじら)と読むそうです。冨屋小学校の先に薬師堂があり反対側に徳次郎城跡に行く道があります。徳次郎交差点が宿の中心で、付近には大谷石造りの土蔵が残っています。交差点を左に曲がり右斜めに旧道らしき道を行くと、痣(あざ)地蔵堂があり、その先消防署の裏を回った所にある石標に従い 畑の道に入り込んで行くと、奈良時代に建立されたという、小さいけれど古い由緒を持つ神明神社が建っています。交差点に戻り街道を進むと右手に大きな鳥居の智賀都(ちかつ)神社が見えます。鳥居の後ろの2本のケヤキは、樹齢700年という大木です。すぐ先の道路の真ん中に「徳次郎六本杉」があり往時の杉並木を再現したものです。杉並木を進み、右手の石那田の一里塚を越え田川大橋を渡ると気持ちのいい杉並木が続きます。3個の丸い石があって、そのいずれかを持ち上げて軽く感じれば願いが叶うといわれている「うらない地蔵」があります。先の新渡神社の前を過ぎると街道は日光市に入り、山口交差点の先で旧道は、国道と分かれて右側を行きます。 ここからは往時の杉並木が約700m続きます。徳川家康のために武州川越城主、松平正綱・信綱親子が寛永二年(1625)から二十数年の歳月をかけて紀州熊野から取り寄せた杉の苗を植林し東照宮に寄進したもので日光街道(16.52km)、例幣使街道(13.17km)、会津西街道(5.72km) の3街道を合わせた全長35.41Kmの両側に約13,000本の杉が続く世界一長い並木道でギネスブックにも登録されています。杉並木の途中にある並木寄進碑はこの功績を讃えたものです。ほかに日光神橋の前、今市市の大桑、文挟にも建てられています。街道はこの先、大沢の交差点で、国道119号線と合流します。南東に分かれて進む道は鹿沼道。この地点が大沢宿入口です。
痣(あざ)地蔵堂 神明神社
智賀都(ちかつ)神社 徳次郎六本杉
うらない地蔵 並木寄進碑
2011年8月05日11:15 新田 - 小金井 (新田から3.2Km/日本橋から87.1Km) 十四
新田宿は小山市羽川の国道4号沿いにあり、特徴的なことは何もない町です。近くに羽川薬師堂がある程度ですので足早に通り過ぎました。
2011年6月19日12:40 野木 - 間々田 (野木から6.9Km/日本橋から72.4Km) 十一次
古河宿で寄道してゆっくりし過ぎたので今日の予定の小金井宿まで行けるか心配になりましたが、急ぐ旅でもないので行ける所まで行く事にしました。野木の交差点の先には野木神社があり、明治時代には乃木希典が姓と同じ読みであることから特別な神社と考えて何度か参拝し、陣羽織などを奉納したそうです。この先の街道脇にはには野木宿の説明板や道標などがあります。野木町役場交差点の先には将軍御休所跡の友沼八幡神社があります。将軍の日光参詣の行程は岩槻、古河、宇都宮に各1泊する3泊4日が恒例となっていて、それとともに昼食・休憩の宿や寺社なども決まっていました。友沼八幡神社は古河城を出発して最初に休憩した場所でありました。小山市に入ると若宮八幡宮があり、境内に宝永6年(1709)鋳造の大日如来像があります。かっては野ざらしだったので「濡れ仏」と呼ばれていましたが現在は屋根付きです。乙女交差点を過ぎると間々田駅です。
野木神社 友沼八幡神社
2011年6月19日10:15 古河 - 野木 (古河から2.8Km/日本橋から65.5Km) 十
古河宿に入るとすぐに古河城御茶屋口跡があり、古河城主土井利勝が三代将軍徳川家光の参詣の際に茶屋を置いてもてなしたと記されています。茶屋口から寄道して進むと古河歴史博物館、古河藩家老・鷹見泉石記念館や古河城関連の多くの史跡があります。小さめですが奈良、鎌倉と共に日本三大長谷観音の一つと宣伝されている長谷寺もありました。脇道から街道に戻る途中には作家の永井路子旧宅がありましたが、土蔵造りの江戸末期の建物は今回の東日本大震災の影響で屋根に被害がありシートで覆われていました。その先には大正9年築の3階建の石倉を改修した篆刻美術館がありましたが、甲州道中の勝沼宿には明治の3階建て土蔵があった事を思い出しました。街道に戻り高札場跡碑や本陣跡碑を過ぎて、その先を左に曲がり落合家具センターの横にあった文久元年(1861)建立の常夜燈を兼ねた日光道中標を探したが、ありませんので近所の方に聞くと数年前に撤去されたとの事で残念でした。往時は旅籠が軒を連ね賑わった、よこまち柳通りを進むと五代目古河藩主・土井利益の生母の墓がある本成寺を過ぎると茨城・栃木の県境を越えて野木町に入ります。
古河城御茶屋口跡碑 長谷寺
永井路子旧宅 篆刻美術館
本陣跡碑 よこまち柳通りの町並
2011年6月10日13:00 杉戸 - 幸手 (杉戸から6.7Km/日本橋から48.4Km) 六次
宿には文政5年(1822)創業の清酒「杉戸宿」の関口酒造があります。その先の「本陣跡地前」と言うズバリその名の交差点が宿の中心で中央三井信託銀行前に明治14年(1881)の東北巡幸の際に休息した記念の明治天皇御休所址碑があります。街道沿いの愛宕神社前交差点を過ぎると道は大きく右にまがり、宝生院があります。永禄3年(1561)の建立で幸手城主・一色氏の菩提寺です。この寺は明治5年(1873)の学制では杉戸学校にもなりました。比較的新しい「奥の細道関東三十三ヶ所十五番霊場」の碑が建っていました。杉戸高野台駅近くの茨島には日本橋から数えて11番目の一里塚があります。東武日光線の踏切を越えて上高野小学校の先で道が突き当たり左から来る日光御成道と合流します。再び東武日光線の踏切を越えたら幸手宿の中心です。
街道沿いの旧家 宝生院
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